2017.08.10

今、「部活がつらい」という声を出せるようになってきた――過熱する部活動から子ども・先生を救うには?

『ブラック部活動』著者、内田良氏インタビュー 

情報 #新刊インタビュー#ブラック部活

部活動問題の火付け役として議論を牽引し、各種メディアでも精力的に発言を続ける内田良氏の著書『ブラック部活動』(東洋館出版社)が発売された。

近年、部活動の過熱が続き、生徒の長時間活動の問題、教師のボランティアでの「全員顧問強制」など、部活動が大きな問題になっているという。部活動問題の課題はどこにあり、議論の高まりの背景には何があるのか。大会数の増加や吹奏楽部問題という話題から、SNSでの声を研究に取り入れる意味、さらには研究の姿勢について、内田良氏にお話を伺った。 (聞き手・東洋館出版社編集部/構成・櫻井拓) 

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「強制」への違和感

――今回の書籍はずばり、「部活動問題」についてのものですが、内田先生ご自身は何部だったのですか? 

中学では卓球部でした。私はもともと物事を強制されるのがすごく嫌いでして。当時、部活動からそういう空気を感じ取っていたので、私の中学校で極力ゆるい雰囲気だった卓球部を選びました。そうして入部したのですが、夏休みの頃には、参加しなくなりましたね。

――いわゆる「幽霊部員」ですね。 

そうです。高校は、部活動に入らなくていい学校だったので、最初から入りませんでした。その代わりに、何人かの親友と学校の周りを走るという、「勝手に走る部」をやっていました。

みんなが部活動の練習をしているときに3、4人集まって、学校の周りを2、3km走っていました。2周目まではジョギングのような調子で、少し喋りながら走って、最後の1周だけ本気で走る。そういう活動でした。あれは楽しかったですね。 

部活動問題に注目した経緯  

―― 一方で、内田先生が「ブラック部活動」と呼ぶ現状は、そういう楽しさからほど遠いものになってしまっている面があります。もともとは組み体操や柔道の事故、体罰、自殺などの「学校リスク」を専門にされてきた先生が、どのような経緯で近年、部活動問題に注目されたのでしょうか?  

私の研究の原点は、人々の苦しみに向き合うことにあります。大学院生の頃は、家庭における児童虐待が研究テーマで、その後、学校生活における子どもの苦しみのことを研究していました。その中で、子どもが学校で命を落としている原因が気になり、調べてみたら、柔道事故が浮かび上がってきた。

柔道事故によって、30年間で約120人の子どもが亡くなっているという事実を知った。それから徐々にスポーツにおける事故やハラスメントに関心が広がっていき、最終的には、学校で行なわれるスポーツの主要な部分を占める部活動に、主眼が移っていったのです。 

部活動中の事故やハラスメントでは、基本的には子どもは被害者で、先生は加害者だとみなされます。ところが、問題がその枠組みで論じられるだけだと、先生や学校が聞く耳を持たなくなる。先生も学校も、加害者として責められるばかりですからね。

「子どもの命を守る」ために私は先生方に直接働きかけたいのですが、先生方に「内田は自分達のことを加害者だと言っている」と思われてしまっては、私の話を聞いてもらえないし、結果として、子どもの安全を確保することができない。 

だからこそ、現場の先生に理解してもらう必要があると考え、部活動における教師の苦しみに言及しはじめたのです。教員たちからは、以前から「部活動が苦しい」という声を聞いていましたし、実際に統計資料を探ってみると、たくさん問題点が浮かび上がってきた。そういう経緯で、気が付けば部活動問題に取り組んでいました。  

ここ数年の議論の高まり

――つい最近まで、部活動の指導は教員の当然の義務であると思い込む先生は多かったと思います。部活動問題に関するここ数年の急激な声の高まりを、どのように捉えられていますか? 

私が子どもの苦しみのことをメインに研究していた頃に、様々な事故や部活動のことを調べていくなかで、この問題の火付け役といえる真由子さんのブログに行き当たりました。その当時、部活動問題について明確に情報発信していたのは、真由子さんくらいしかいなかったのではないでしょうか。

その真由子さんが、2014年12月に、Twitterを始めたのですよ。私の中で、「ついに真由子さんが動いた!」という感覚があった。これは大きい動きだ、私も盛り上げないといけない、と思いました。それで2014年12月の年末から翌年の年始にかけて、Yahoo! ニュースに、部活動問題に関する記事を2、3本書いたのです。

――その後2015年12月に、部活問題対策プロジェクトが動き出し、さらに2017年3月からは、部活改革ネットワークが始動します。複数の署名活動の影響など、これらの団体の活動の効果は本当に大きいものです。

匿名の先生たちの集まりである「部活問題対策プロジェクト」は、改革の必要性を、ウェブ署名という方法で、積極的に世論にはたらきかけていますよね。取材対応もたくさんこなしています。プロジェクトはけっして教員の負担のみに着目しているわけではありません。先生と生徒の両者の負担を減らすべきという主張は、重要な戦略だと思います。そして、2017年4月に、同じく匿名の先生方によって設立された「部活改革ネットワーク」は、現在約70名で構成されていて、Twitterのグループチャットの機能を使って全国の教員をつなぎ、情報や戦略を共有しています(Twitterアカウントは、@net_teachers_jp)。さらには、教員の働き方について、さまざまな立場にいる人たちの声を集めた「教働コラムズ」というウェブサイトも、いま注目を集めています。とくに、拙著『ブラック部活動』第4章で言及した「部活未亡人」の声からは、教員本人だけが苦しんでいるわけではないということが、強烈に伝わってきます。

大会が多すぎるから過熱が止まらない

――部活動の多忙化の理由の一つに、大会の数がそもそも多い、という指摘があります。

私が部活動問題をテーマに講演すると、「大会数が増えている気がしてならない」といわれることが多いのです。実際にとある地域の、先生が年間で何日大会に参加したかというデータを見てみました。すると、先生の大会参加日数は、10年ぐらいの間に、少しずつ増えてきています。どうやら、以前より大会の数自体が増えているのではないかと推測されます。

その理由ですが、中体連、高体連の大会以外に、地域や民間の大会があり、さらに最近では、先生たちのプライベートなネットワークによって5校や6校で行なわれる大会もあるようです。

――その分先生達の引率や練習の時間も増えますし、生徒の活動も過熱することになりますね。

実は20年前にも、文部省(当時)から、中学校の部活動は週に2日は休みなさい、高校は週に1日は休みなさいというガイドラインが出ています。でもそれが守られているどころか、さらには過熱しているのが現状です。

それぐらい、部活動がいったん「勝つ」ことを目的に動きはじめてしまうと、そこから抜け出るのは難しい。自分の学校が練習を休んでいる間に他の学校が練習していると思うと、疑心暗鬼もあり、結局練習してしまうんです。

――だからこそ、本書でご提案されている「ゆとり部活動」へと転換するためには、大会数を減らすことが大前提にならざるをえないわけですね。   

そう、それはすごく大事だと思います。全国大会をやめて地区大会だけにする、開催回数も年1回にとどめるなど、歯止めをかける仕組みが必要です。部活動は、生涯スポーツ、生涯文化活動の視点に立って、将来にわたって継続可能なものにする。その一方で、アスリートとしてトップレベルを追及したい生徒は、部活動ではなく民間のクラブチームに行けばよいのです。実際に今日、たとえば水泳や卓球、体操などオリンピックのメダリストは民間で育っています。 

苦しみが「見える化」していない吹奏楽部

――今回の本で、苦しみが見えにくい部活として挙げられているのが、吹奏楽部です。その実態の研究は今後の課題とされていますが、研究の現状についてお話しいただけますか。 

私の元には、部活動で苦しんでいる様々な当事者からの、苦しみの声が届いてきています。その中でもいちばん多いのが、吹奏楽関係です。吹奏楽経験者、あるいは子どもが苦しんでいるという親、あと吹奏楽部の顧問、そして顧問の親、など多岐にわたります。

その声は、基本的に吹奏楽部が部活を「やりすぎ」だというものです。そのなかには当然、ハラスメントや人間関係のトラブルなども含まれてくる。

ところが、では吹奏楽部の実態を調べようと思ってデータを探してみると、運動部と比べてまったくといっていいほどデータがない。データがないので、実態がわからないわけです。

――なぜ、運動部と違いデータがないのでしょうか?

一つは、部活動についてのこれまでの議論が、全部運動部を中心に行なわれてきたからです。もう一つは、文科省や中体連、高体連、スポーツ庁など、様々な関連組織が行なっている調査や新たな施策も、同じ理由で運動部ばかりが対象になっていたからです。

吹奏楽部はどの学校でも大きい部であることが多いのに、先生や子どもの苦しみが「見える化」していない。これは危ない状況だと思います。 

――吹奏楽は、練習が長期間しやすいという問題もありますね。 

演奏も大きな集団で行ないますし、一人ミスをすると全体を乱す。そう考えてくると、吹奏楽固有の問題というのはたくさんあって、そういう特徴を、いくつか取り上げて議論していかないといけないでしょうね。 

他方で付け加えておくと、吹奏楽部は地域で演奏したり、学校でも多くの行事で演奏したりしますよね。そう考えると、教育的な意義や貢献という面で非常に優れている活動だと思います。

――たとえば商店街で演奏するとか、地域の人達の前で演奏する機会が多いというのは、おっしゃるようにいい側面ですよね。

地域の商店街やショッピングモールで、中学校の吹奏楽部が演奏している姿、見かけますよね。それを聴いている私達も「一生懸命演奏しているな、いいなあ」と思う。むしろそういう活動を充実させてほしいと思いますね。【次ページにづく】

職員室は無法地帯の無風状態

――本書ではSNSを中心として、部活が苦しいという生徒や顧問の声、あるいは子どもが本当に苦しがっているという保護者の声を多く引用しています。ところが、学校側から出てくる声は、依然として、「部活は素晴らしい」「部活は教育効果がある」というポジティブなものが中心です。この乖離は、いったいどうして生じるのでしょうか。

この前とある記者さんが、教育委員会に部活動問題について取材に行ったそうなんです。「部活動が問題になっていますが、現場の声はどうですか?」と訊いたら、「いえ、うちの地域の教員は、みんな部活に熱心に取り組んでいます。嫌だなんていう声はまったくあがってきていません」と平然と答えられたと。これこそが、現在教員を支配している文化であり声です。

そういうポジティブな声ばかりが学校を支配しているのです。私が聞く限り、まだ「ブラック部活動」という見方は学校には響いていないようです。部活動顧問というサービス残業が、9割の学校で全教員に強制されるという無法地帯となっているのに、職員室は未だに無風です。SNSなどであがってくるのとはまったく逆の声なんですね。

――「苦しい」という声が見えてこないのは、そういう声が学校の中で抑圧されているからにすぎないわけですね。

私の調査研究や啓発活動はいつも、私のもとに届く苦しみの声とともに進んでいきます。柔道事故や組み体操の事故を取り上げた頃から、しばしば「内田は現場を知らない」と批判されてきました。だとするとこの声はいったい誰の声なのか。幽霊でしょうか(笑)。部活動の当事者の教員は、その声を学校現場で発せないからこそ、私に、あるいはSNSで言うわけですよ。それはそれでまたリアルな、本当の声なんです。

――SNSの声というのは、偏りがありうるとはいえ、絞り出された、リアルな声ですよね。本書でも随所に登場する、SNSであげられた声を拾うという方法論は非常に印象的です。

これまでは学校の先生の声を聞きたければ、研究者や記者は、教育委員会にお願いをして、学校に連絡が行き、校長が優秀な教員をピックアップして、そこでようやく声を聞くことができるというプロセスでした。幾重ものフィルターを通した手続きの中では、「部活動なんてやりたくない」などという声はまず拾えるわけがない。

ところがSNSを通じて、今まで研究者や記者がアプローチできなかった声が、ダイレクトに入ってくるようになった。パソコンの前に座っているだけで、次々と悩みのメッセージが、メールやTwitter、Facebookなどいろんな形で届きます。その意味では、SNSを通じて、今までのフィールドワーク以上に、リアルな声が拾える可能性を感じています。ただし、研究面でいうならば、方法論的に検討すべき課題はまだ多いですが。

展望にはエビデンスがない。だが今、語らないといけない。

――本書では、部活動の今後について一章を設けて描いています。こういう「展望」の部分は、内田先生がこれまであえて語らなかった側面だと思います。今回そこに踏み込んでいただいた理由を、あらためてお聞かせいただけますか。 

私がずっと取り組んできたのは、基本はエビデンス、つまり数字を使った研究です。加えて今回の本では、数字に加えて人々の声も取り入れながら、数字が持っている意味をより浮かび上がらせるというアプローチを採りました。 

けれども本書の第9章「未来展望図」には、根拠となる数字も声も何もありません。自分の中で思い描くしかない。そんなことは研究者のやることなのか、あるいは私にできることなのかと自問しています。だから今まで執筆した記事では、未来の展望のことはほとんど書きませんでした。

ところが、世の中の議論では、誰も展望図を描いていないのです。描いていたとしても、あまりにも目先のことしか見ていないように思えました。 

たとえば、現在は部活動の外部指導者を導入する議論があります。現状の肥大化した部活動で、先生が疲弊している。そして、先生はその競技の素人であることも多く、子どもが専門的指導を受けられない。その二つの問題を解決するために、外部指導者を入れようということになる。これは目の前の利益だけを考えれば、すごく合理的です。

ところが、外部指導者が入ってきて実際は何が起きるかというと、先生の代わりに、外部指導者が子どもを全国大会に向けて一生懸命トレーニングするのです。その意味では部活動の過熱ぶりは変わらない。人的資源が追加投入されて、先生の負担が減ったとしても、子どもの過重な部活動という問題は、解決するどころかさらに過熱しかねません。詳しくは本書にまとめたとおりですが、子どもの「自主的・自発的な活動」である部活動に求められるのは、そういった「競争の論理」ではないはずなのです。

さらにいうと、外部指導者が経験や知識をたくさんもっていたとしても、スポーツであればトレーニングの安全面の専門知識を有しているとは限りません。そもそも地域の「野球好きのおじさん」のような人が入ってくるだけという可能性だってあります。だとすると、子どもの負担軽減にはつながらないでしょう。

だから本書では大胆に制度設計を提出して、議論のたたき台にしてほしいという思いで、あえて未来展望図を書きました。 

――議論を引き出すために、本来禁欲的に守っている領域から、あえてこの本では一歩踏み出していただいたということですね。 

はい。その点では、部活動を丸ごと外部に委譲する可能性に言及したことも、自分としては思い切った提言です。部活動を外部に任せる、社会体育化するという議論は昔からあります。でもこの試みは、様々な地域で失敗しています。それはたとえば、外部に指導を任せられる人がいないために、結局は先生がそのまま指導に就かざるをえないことなどが理由です。

ただしその議論には、現状に至るまで巨大化した部活動のボリュームを維持することが前提になっています。でも、たとえば活動時間を半分にまで減らせば、単純化すると、人的資源は半分で済みます。今までの失敗をしっかりと踏まえたうえで、きちんと新しい制度設計をして、部活動を小さい枠にすればいい。

部活動が過熱しているのであれば、たとえば活動量を縮小して、週に3日程度にすればいい。そうすれば、全員が顧問を強制されるという現状も解消できるし、逆に部活の顧問を積極的にやりたい先生は、二つか三つの部活を受け持てばいいのですよ。スリム化すれば、予算面も含めて外部化のハードルも下がります。

本書の座談会でも議論があったとおり、今の部活動の状況だと、中学や高校の部活動で「燃え尽き」てしまい、競技や活動を辞めてしまう子どもが少なくありません。そうではなく、週に数日、ゆるくできる部活動を楽しめる方が、大学・そしてそれ以降も続く、生涯スポーツ・文化活動の視点からも有意義だと思いますよ。

職員室を動かすために、社会を動かす

――学校現場の先生方からは、「本書をぜひ職場に置きたいけれども、敬遠されるかもしれない」という懸念の声も聞こえてきます。それほどまでに、今まで守ってきた部活動という学校文化を変えたくない力が強いことを感じます。そういう状況で、苦しみを感じている人達がいる現場を変えるために、どういう道筋の戦略を思い描いていらっしゃいますか?

私が柔道事故や組み体操など、様々な問題に関わってきて感じるのは、本丸を一気に変えようとしても無理だということです。というのも、中枢にいるのは、現状の部活動が大好きな人達ですから、議論どころではないですよ。

だからまずは、外堀から攻めていくことです。その結果実際に、柔道も組み体操も変わりましたから。今回もそうですけれども、まずマスコミのみなさんに問題提起をしてもらう。そうすると今度は、学校の中で問題意識を持っている人達が、世論を背景に少し声を出せるようになるわけです。そうこうしているうちに少しずつ、本丸も変わっていくのかなと思います。それが、私が一貫して意識して行っていることですね。

――本丸を一気に変えるのは難しいからこそ、そういう戦略を採られているわけですね。

本丸を一気に変えるなどということは、まったく考えていません。本書の出版も、そして今日の取材も、賛同者を増やすための情報発信の一環です(笑)。

002

金髪は受け手に自ら考えてもらうための戦略である

――話題は変わるのですが、内田先生のような大学の先生が金髪にされているのは、非常に異色だと思います。その金髪の理由をお聞きかせいただけますか。 

いくつか理由はあるんですけど、いちばん重要な理由をお話しします。私はいつも講演会などで聴衆に、「世の中のルールってどこにあると思いますか?」と問いかけています。実際に訊いてみると、いくつか答えがあって、「自分の頭の中、心の中」とか、「法律の中」とか、「家庭の中」とか、みなさん様々な答えを持っている。 

その問いに対して、私が研究している社会学という学問が用意している答えの一つは、「人と人との相互作用の中にある」というものです。

たとえばいま、私たちは普通の姿勢で向かい合って話していますよね。この瞬間というのは、お互いの姿勢や態度に対して無意識に「OK」のサインを出しています。もし一人が背中を向けて座っていれば、私たちは気持ちが落ち着かず、きっと「何かあったのですか?」とその人に問いかけるでしょう。つまりその人に「NO」と言うわけです。そういう相互のやり取りによって、場のルールは確認されていく。

――相手との関係性から、相互に判断してサインを出し合っている、と。

私は執筆や講演で、自分の考えを伝えるとき、名古屋大学という旧帝国大学の准教授という肩書きを背負います。しかも私の売りは、今まで教育学が使ってこなかった「エビデンス」つまり客観的で科学的な証拠を用いて、さらには今まで誰も聞けなかった生々しい声も扱います。

それはまさに鬼に金棒状態というか、何本金棒を持っているのだという状態です。そこでふつうに黒髪でお話をしたら、聴衆は無意識に「OK」のサインを出して、「その通りです」とただ頷くだけになってしまうでしょう。

でも、そこで話している人間が金髪であれば「こんな奴の話を聴いてたまるか」という「NO」の要素が出てくる。それに対して私は、様々なエビデンスや声に基づいてお話をする。そうすると、聴いている人は、「聴いてたまるか」と思いながらも、でも「何かわかる気がする、たしかにそうかもなあ、う~ん」と考える。そうやって考えて聞いたり読んだりしてもらいたいのです。このとき、文部科学省が30年間ずっと追い求めてきた「自ら考える力」というのが育つんです。

誰かが言ったことを、深く考えもせず受け入れていくというのは、部活動がずっと維持されてきているプロセスと一緒です。「部活はいいものだよね」と無意識に「OK」のサインを出して、それ以上は考えない。大学でも、講演会場でも、どんな場であれ、私は自ら学び、考える力のある人を育てたいんです。

――そのために金髪にされているんですね。

さらに言うと、黒髪は学校あるいは権威の象徴だと思っています。黒髪こそが正しいし、茶髪の生徒はおかしい。そこでもし金髪の私が何か言ったときに、「お前は金髪だから話を聞かない」という態度をとることは、はたして教育なのか、というメッセージを私は一貫して訴えたい。どんなに正しいことを言ったとしても、髪の色だけでその説明が否定されるのだとしたら、この社会に未来はありません。

相手がどんな人間であれ、同じように相手の話を聞くというのが、私はアカデミズムのいちばん大事なところだと考えています。相手の髪の色がどうだとか、出身がどこで、性別が何で、何歳かということは問わずに、今この話題について一緒に議論をしましょう、という態度を維持することは大学の使命であり、そういう空気をもっと作りたいと思っています。 

本当は研究をやりたい。でも…… 

――内田先生は、日本教育社会学会などの機関誌に研究者として論文を発表される一方で、Yahoo! ニュースなどの様々な媒体で情報発信を行なっています。研究者として情報発信をしていく意義や、そういった立ち位置について、最後にお話をお聞かせください。 

本当のことを言うと、社会への情報発信よりも、アカデミックな研究をしたいんですよ。子どもや先生の苦しみを扱うにしても、もっと緻密にデータを扱ったり、声も丁寧に聴いたりしたい。よりアカデミックな手法を使い、社会学的な目線で、深く切り込んで「これだ!」という知的興奮に出会いたいのです。

一方で、本書やメディアの記事で私が用いている手法はシンプルなものです。柔道事故で30年間で120人が亡くなったとか、運動部顧問のうち競技未経験者が半分であるとか、そういった主張は、専門性の高いデータ分析とはいいがたい。本当は研究者として、もっと手の込んだ理論と分析によって、若い力のある院生や大学教員と競いたいという思いがあります。

他方で、シンプルに問題を社会に訴えることで、社会が実際に変わっていくんですよね。例えば柔道事故についていうと、それまでは毎年3、4人亡くなっていたのに、問題を訴えた途端に、2012年から2014年まで3年連続で、死亡事故が0件になりました。それを目の当たりにすると、自分の知的興奮なんて後回しになってしまうんですよね。

私は人々の苦しみにもともと関心があるから、自分の発信によって「救われた」と現実に人に言われると、そっちを優先したくなりますよ。もはや社会への情報発信は、私にとって使命だと思っています。

プロフィール

内田良教育社会学

名古屋大学大学院教育発達科学研究科准教授。スポーツ事故、組み体操事故、「体罰」、教員の部活動負担や長時間労働などの「学校リスク」について広く情報発信している。ヤフーオーサーアワード2015受賞。著書に『ブラック部活動』(東洋館出版社)、『教育という病』(光文社新書)、『柔道事故』(河出書房新社)、『「児童虐待」へのまなざし』(世界思想社、日本教育社会学会奨賞受賞)、編著に『教師のブラック残業』(学陽書房)ほか多数。

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