2017.11.22

なぜムスリム社会はISを「破門」しないのか?

『イスラーム思想を読みとく』著者、松山洋平氏インタビュー

情報 #IS#新刊インタビュー#イスラーム思想を読みとく

数々の暴虐な振る舞いで国際社会を震撼させてきたIS。なぜムスリム社会は「彼らはムスリムではない」と宣言し、「破門」しないのか、と考える向きもあるだろう。なぜISはムスリムと認められるのか? その理路を、『イスラーム思想を読みとく』著者、松山洋平氏にお話を伺った。(聞き手・構成 / 芹沢一也) 

「ムスリムであること」とは? 

――「酒を飲んだ人に向かって『そんなことをするなんておまえはムスリムではない』と言ったり、考えたりすること」は禁じられている、という説明がとても意外でした。

それは「ムスリムである」ことの条件が「イスラームで求められる規範を(100%)実践している」ことだという認識があるからですね。そうした認識をもつのは、たとえば、「ヴィーガンであること」=「肉を食べない人であること」と似た感覚で、「ムスリムである」ことの意味を捉えているからです。

しかし、「ヴィーガンであること」と「ムスリムであること」は、「〇〇である」の形がまったく異なります。

たしかに、「私はヴィーガンです」と言いながら、好んで毛皮のコートを着て肉をガツガツ食べていたら、それは矛盾でしょう。宗教についてもそれと同じように捉えて、「実践してなんぼ」、つまり、宗教は「“やる” もの」だという感覚を持つ人が日本にはいます。日本語には、「宗教を“やる”」という表現もありますね。

「修行」とは言わないまでも、なんらかの実践を通して、「何か」を得る。そのための手段の一つとして宗教を捉える人は少なくありません。その「何か」は、健康、商売繁盛、「心の平安」、人それぞれでしょうけど、そういう、何かを得るために採用する「術」として宗教に向き合う人が日本には少なくないと私は思っています。

――イスラームをそうした「術」としてみるから誤解が生まれるということですか?

そういう場合が少なくありません。そういう人は、様々な宗教を「術の体系」として理解しようとします。そうすると、イスラームに目を向けた時に、「なぜ豚肉を食べないのか?」「なぜ酒を飲まないのか?」といった質問を連発することになります。「その“術”をとおして、何を達成しようとしているのか?」という疑問を持つのです。

「術の体系」として宗教を見る人は、ムスリム=「豚を食べない」「酒を飲まない」などのイスラームのきまりごとを実践する人だと思っていますので、「酒を飲み、豚を食べる人」=「ムスリムではない」と考えてしまいがちです。

しかし、イスラームは「信条の体系」としての側面が重視される宗教です。イスラームの世界観を受け入れ、信じることが、ムスリムであることの条件となります。酒を飲んでも豚を食べても、心でイスラームを信じ、それを禁止された行為だと心で信じていれば、ムスリムであることに違いはありません。

反対に、イスラームの行為のきまりごとを100%実践したとしても、心で信じていなければ、その人はムスリムではないわけです。

なぜISは「破門」されないのか?

――話が大きく飛びますが、そうすると、ISが「ムスリムではない」と破門されたりしないのも、同じ理由からなんですか?

実際には、「彼らはムスリムではない」と言っている人はいます。しかし、日本で期待されるほどその数は多くありません。拙著では、ISを批判しつつも彼らをムスリムと認める言論に焦点をあてて、そういった立場の理路に迫りました。

この問題については、2つポイントがあります。

第一のポイントは、そもそも、ムスリムにはどこかに「登録」されたり「入団」したりしてなるわけではないので、「破門」という概念が無いということです。イスラームには、唯一の正統説を決定したり、信徒を登録して管理するような、「総本山」「教会」のような教団組織は存在しません。ですから、「破門」も無いわけです。

第二のポイントは、「罪を犯しても、それによってその人の信仰が否定されることはない」というイスラームの教義です。

イスラームの考え方では、人間は忘れっぽい生き物で、ついつい神の恩恵を忘れて悪いことをしてしまう存在とされます。それでも、くじけずに何度でも悔い改めなさい、というのがクルアーンの教えです。悪行を犯したら「失格」ということにはなりません。

ムスリムであっても、四六時中、イスラームの規範の通りに思考し、行動しているわけではありません。これは、よく考えれば(あるいは、とくに何も考えなくても)あたり前のことだと思うのですが、「イスラーム」という普段接することのない宗教の話になると、その「あたり前」が通用しなくなってしまう日本人が少なくないと感じます。

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――たしかにそうですが、やはりISについては簡単には納得できません。ISにかぎらず、ボコハラム、アル・カーイダなどといった集団は「ジハード主義」と呼ばれます。ご著書によると「ジハード主義」は「サラフ主義」から派生しているとのことですが、そこから教えていただけますか。

私が書いたことは、「サラフ主義からジハード主義が生まれた」という時系列的なことではなくて、「サラフ主義」の中の一部の人たちが、ISやアル・カーイダのような、宗教的な正当化根拠を持ち出して物理的暴力を行使する、昨今の「ジハード主義」と呼ばれる潮流だ、ということです。

「サラフ主義」の「サラフ」という言葉は、「先達」という意味を持ちます。具体的には、「イスラーム初期の時代を生きた正しいムスリムたち」を指します。サラフ主義者は、「伝統的なイスラームの教説の中には、真のイスラームとは関係のない “まがいもの” が混ざっている。この “まがいもの” を排除し、サラフの時代のイスラームに帰るべきである」という立場を指します。

詳しくは拙著を読んでいただきたいのですが、サラフ主義の説く教説の多くは、イブン・ハンバル法学派の中に存在する、ある一つの潮流に依拠しています。そしてこの潮流の中から、「イスラーム法を施行しない統治者は武力で討伐すべし」という教説を導き出すことができます。この教説に依拠して、現代のムスリム諸国の為政者に対して「ジハード」と称して武力行使を行なう立場を、「ジハード主義」と呼びます。

サラフ主義が拠って立つ思想潮流の中に、ジハード主義の根拠となる教説が含まれる、という構図です。

不正な為政者の「タクフィール」

――となると、いわゆる「過激派」と「穏健派」を分かつのは、「不正な為政者への反逆」の是非ということですか?

「不正な為政者への反逆」の是非が両者を分かつのではなくて、両者の間に存在するいくつもの見解の相違のひとつとして、「不正な為政者への反逆」の是非の問題がある、ということになります。

いわゆる「過激派」のムスリムは、イスラーム法を施行せず、ムスリムの国民を拷問するような「不正な為政者」のことを背教者とみなし、ジハードの対象と考えています。

一方「穏健派」は、統治者がムスリムである以上、あるいは、統治者を失脚させようとすると内戦等を誘引して多数の犠牲者を出すことが危惧される場合は、彼が「不正な為政者」であっても反逆してはならない、という立場をとります。

――両者は互いにどう見ているのですか?

これはもう、両陣営に色々な立場の組織・人がいますから、一概には言えません。

傾向としては、「穏健派」は、「過激派」を「叛徒(反逆者)」、「盗賊」などとみなし、犯罪者として批判しています。「過激派」の方は、「穏健派」の、とくに政府に肩入れするような人たちのことを「背教者」とみなすことが少なくありません。

――それが「タクフィール」と呼ばれる行為ですか?

そうです。タクフィールとは、特定の人物――多くの場合、ムスリムであるはずの人――や集団を、「不信仰者」(カーフィル)であると判断することを言います。

イスラームでは、タクフィールはできうる限り避けるべきものとされます。なぜなら、同胞であるムスリムの信仰を否定し、ムスリムではないと考える事は、大きな罪だからです。ですから、「どう考えてもムスリムとは言えない」という明らかな証拠が揃わない限り、滅多なことではタクフィールはなされません。

しかし、「過激派」は早急なタクフィールを行なうことが多く、このことは「穏健派」から大いに批判される点のひとつです。

ただし、「過激派」の諸集団の中にもタクフィールについて方針の違いがあります。ISなどは、「不正な為政者」とその取り巻きだけではなく、自分たちと敵対する者全般や、シーア派などの非スンナ派の諸派をタクフィールする傾向があります。

一方、アル・カーイダは、タクフィールの対象を政治家や軍部、治安機関の人間等に限定しています。シーア派などの非スンナ派の宗派のことは基本的にタクフィールしません。ISと異なり、アル・カーイダはタクフィールについては非常に抑制的だと言うことができます。

ジハードは自衛のための防衛的な概念?

――イスラームでは戦闘において、相手方の「戦闘員」以外の人間に物理的攻撃を加えることは許されないとのことですが、それではなぜ、一般市民や女性・子供を対象としたテロが許されるのでしょうか?

大前提ですが、ほとんどのムスリムは、「テロ」が「許される」とは考えていません。欧米で「テロ」事件が発生するたびに、その事件が起きた国のムスリムや、他国のムスリムが、そうした「テロ」を非難する声を上げています。

しかし、いわゆる「過激派」の一部は、そうした「テロ」を計画したり、あるいは、欧米諸国で欧米人のムスリムが起こす「テロ」を事後的に承認したりしています。

非常に多くの場合――特に近年のローンウルフ型の「テロ」の場合――は、「テロ」を行なう実行犯がイスラーム法の知識を持たず、何も考えずに殺傷している、という例がほとんどです。

一方、9.11のような、事前に計画された規模の大きい攻撃の場合は、コラテラル・ダメージとして許容される、という立場を「過激派」はとります。つまり、女性をとくに対象にしているわけではないが、「侵略者」であるアメリカ合衆国等を攻撃するにあたり、女性などが巻き添え被害にあっても止むを得ない、という考え方です(戦闘員と一般市民の区別については、長くなりますので拙著を読んでいただけるとありがたいです)。

なお、コラテラル・ダメージで死人が出るのが許されるというのは、なにもムスリムの「過激派」だけの考えではなく、アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国も普通に抱いている考え方ですね。

――他方で、「イスラームは本来は暴力的な宗教ではない」「ジハードとは自衛のための防衛的な概念であり、イスラームでは本来的に防衛戦争しか許されてない」という説明をよく耳にします。この「防衛ジハード」はレトリックだとのことですが。

「レトリックである」というのは、「虚偽である」ということを意味しません。護教の一環として、そういう新しい「説明の仕方」を発達させた、ということです。

ジハードは、イスラームのために「奮闘努力」することを意味します。その一つの形として、敵対する異教徒との物理的戦闘があります。この理解については、昔と今で大きな解釈の変化があるわけではありません。

ただし、「先制攻撃が許されるのか」「許されないとすれば、前近代において、ムスリムが先制攻撃とも解釈できる戦争を行なってきたことはどう理解すべきなのか」という点について、議論があります。

今日「防衛ジハード」論を採用する論者は、(物理的な戦闘の形をとる)ジハードを「ムスリムや、ムスリムの郷土を侵略者から防衛するためにのみ行われる自衛戦争」と定義し、先制攻撃は許容されない、という立場を取ります。そして、前近代にムスリムが行っていた先制攻撃を、「先制的自衛」――つまり、それなしには自衛ができないために行なわれた先制攻撃――であったと理解しています。

多元化する宗教的言論市場

――「ジハード」についも、正しいひとつの解釈はないということでしょうか。ここでも、イスラームには「唯一の正統説」を決定する権威はない、という先ほどの話に戻ります。さらに現在では、宗教的な言論市場の多元化がいっそう進んでいるようですね。

はい。社会が近代化する中で、それまで正統な宗教的教説を発信する権限をほぼ独占的に有していた主体(キリスト教で言えば「教会」、イスラームで言えば「ウラマー」)がその独占的権威を失い、彼ら以外の人たちが、様々な形で宗教的言論を発信するようになりました。ひとことで言えば、宗教的言論を発信する主体が多元化したということです。

もちろん、この見方に異論をはさむことは難しくありませんが、近現代の宗教の状況を説明する一つの有効な視角だと私は思っています。

こうした状況下では、各々の一般信徒は、キリスト教で言えば教会、イスラームで言えば公的に権威を認められたウラマーの教説に黙って従うのではなく、さまざまな主体が発信する数多くの言論から、どれが「正統」であるのかを自分で選ばなければならない場面に出くわすことが多くなります。

仮に、自分自身で「これこそ正統である」と思える言説を構築できたとしても、自分以外の信徒がそれと同じ言説を正統と捉えているとは限りません。つまり、何が「正統」であるかを、他者と認識を共有できる客観的な形で把握することが難しくなってきているということです。

ISのような組織に参画する個人が大量に出てきたリ、ヨーロッパなどの遠方にいる信徒がその主張に共鳴するということが起こりやすくなっている背景には、近現代に宗教全般が経験しているこのような変化があります。

――しかし、イスラームについてはそうした状況はつづかずに、ふたたび「公式モデル」の強化に傾倒していく可能性が強いと推測されていますね。

さまざまな局面にその兆候を見出すことができます。

たとえば、ムスリム諸国では、政府が宗教界を操作・監視する目的で、ファトワー(教義回答)を布告する権限や効力を制限することがあります。政府が宗教教育の制度や内容を規制するのは、ムスリム諸国全般で共通の傾向です。そうやって言論の統制を図っているわけです。

また、拙著の中でも触れましたが、近年では、ウラマーがイスラーム法などの解釈をする際に、「集団による解釈」を重視する傾向があります。つまり、ウラマー個々人がばらばらに答えを出してさまざまな見解を提出するのではなく、複数のウラマーが集まって合議をし、「統一見解」を布告するということです。

また、「過激派」の潮流に与しない現代の一般のムスリムは、「平和な、真のイスラーム」をリプリゼントするにあたって、やはり伝統的なウラマー頼みであり、現代的な新しいイスラーム解釈を紡ぎ出そうとする方向には動いていません。

非ムスリム諸国からしても、昨今の情勢においては、ムスリムの思想や行動様式が統一されていた方が監視もしやすいですし、対話の糸口もつかみやすくなります。現状では、この流れにはメリットの方が大きいと言えます。

今後しばらくは、解釈の多元化の広まりが収縮していくと、私は思います。

この仮定がある程度の正しさを持つとすれば、今後、現代イスラームの思想的論争は、ウラマーのあいだに存在する諸潮流の伝統的な対立構造の中で展開してく可能性が高いと言えます。拙著『イスラーム思想を読みとく』では、そういった類の現代イスラームの争点・対立構造を考えるために必要なひとつのツールを提供できたと思っています。

プロフィール

松山洋平イスラーム思想史

名古屋外国語大学外国語学部講師。1984年静岡県生まれ。東京外国語大学外国語学部(アラビア語専攻)卒業、同大学大学院総合国際学研究科博士後期課程修了。博士(学術)。専門はイスラーム思想史、イスラーム神学。著書に『イスラーム神学』(作品社、2016年)、『イスラーム思想を読みとく』(筑摩書房、2017年)など。

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