なぜムスリム社会はISを「破門」しないのか?

数々の暴虐な振る舞いで国際社会を震撼させてきたIS。なぜムスリム社会は「彼らはムスリムではない」と宣言し、「破門」しないのか、と考える向きもあるだろう。なぜISはムスリムと認められるのか? その理路を、『イスラーム思想を読みとく』著者、松山洋平氏にお話を伺った。(聞き手・構成 / 芹沢一也) 

 

 

「ムスリムであること」とは? 

 

――「酒を飲んだ人に向かって『そんなことをするなんておまえはムスリムではない』と言ったり、考えたりすること」は禁じられている、という説明がとても意外でした。

 

それは「ムスリムである」ことの条件が「イスラームで求められる規範を(100%)実践している」ことだという認識があるからですね。そうした認識をもつのは、たとえば、「ヴィーガンであること」=「肉を食べない人であること」と似た感覚で、「ムスリムである」ことの意味を捉えているからです。

 

しかし、「ヴィーガンであること」と「ムスリムであること」は、「〇〇である」の形がまったく異なります。

 

たしかに、「私はヴィーガンです」と言いながら、好んで毛皮のコートを着て肉をガツガツ食べていたら、それは矛盾でしょう。宗教についてもそれと同じように捉えて、「実践してなんぼ」、つまり、宗教は「“やる” もの」だという感覚を持つ人が日本にはいます。日本語には、「宗教を“やる”」という表現もありますね。

 

「修行」とは言わないまでも、なんらかの実践を通して、「何か」を得る。そのための手段の一つとして宗教を捉える人は少なくありません。その「何か」は、健康、商売繁盛、「心の平安」、人それぞれでしょうけど、そういう、何かを得るために採用する「術」として宗教に向き合う人が日本には少なくないと私は思っています。

 

 

――イスラームをそうした「術」としてみるから誤解が生まれるということですか?

 

そういう場合が少なくありません。そういう人は、様々な宗教を「術の体系」として理解しようとします。そうすると、イスラームに目を向けた時に、「なぜ豚肉を食べないのか?」「なぜ酒を飲まないのか?」といった質問を連発することになります。「その“術”をとおして、何を達成しようとしているのか?」という疑問を持つのです。

 

「術の体系」として宗教を見る人は、ムスリム=「豚を食べない」「酒を飲まない」などのイスラームのきまりごとを実践する人だと思っていますので、「酒を飲み、豚を食べる人」=「ムスリムではない」と考えてしまいがちです。

 

しかし、イスラームは「信条の体系」としての側面が重視される宗教です。イスラームの世界観を受け入れ、信じることが、ムスリムであることの条件となります。酒を飲んでも豚を食べても、心でイスラームを信じ、それを禁止された行為だと心で信じていれば、ムスリムであることに違いはありません。

 

反対に、イスラームの行為のきまりごとを100%実践したとしても、心で信じていなければ、その人はムスリムではないわけです。

 

 

なぜISは「破門」されないのか?

 

――話が大きく飛びますが、そうすると、ISが「ムスリムではない」と破門されたりしないのも、同じ理由からなんですか?

 

実際には、「彼らはムスリムではない」と言っている人はいます。しかし、日本で期待されるほどその数は多くありません。拙著では、ISを批判しつつも彼らをムスリムと認める言論に焦点をあてて、そういった立場の理路に迫りました。

 

この問題については、2つポイントがあります。

 

第一のポイントは、そもそも、ムスリムにはどこかに「登録」されたり「入団」したりしてなるわけではないので、「破門」という概念が無いということです。イスラームには、唯一の正統説を決定したり、信徒を登録して管理するような、「総本山」「教会」のような教団組織は存在しません。ですから、「破門」も無いわけです。

 

第二のポイントは、「罪を犯しても、それによってその人の信仰が否定されることはない」というイスラームの教義です。

 

イスラームの考え方では、人間は忘れっぽい生き物で、ついつい神の恩恵を忘れて悪いことをしてしまう存在とされます。それでも、くじけずに何度でも悔い改めなさい、というのがクルアーンの教えです。悪行を犯したら「失格」ということにはなりません。

 

ムスリムであっても、四六時中、イスラームの規範の通りに思考し、行動しているわけではありません。これは、よく考えれば(あるいは、とくに何も考えなくても)あたり前のことだと思うのですが、「イスラーム」という普段接することのない宗教の話になると、その「あたり前」が通用しなくなってしまう日本人が少なくないと感じます。

 

 

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――たしかにそうですが、やはりISについては簡単には納得できません。ISにかぎらず、ボコハラム、アル・カーイダなどといった集団は「ジハード主義」と呼ばれます。ご著書によると「ジハード主義」は「サラフ主義」から派生しているとのことですが、そこから教えていただけますか。

 

私が書いたことは、「サラフ主義からジハード主義が生まれた」という時系列的なことではなくて、「サラフ主義」の中の一部の人たちが、ISやアル・カーイダのような、宗教的な正当化根拠を持ち出して物理的暴力を行使する、昨今の「ジハード主義」と呼ばれる潮流だ、ということです。

 

「サラフ主義」の「サラフ」という言葉は、「先達」という意味を持ちます。具体的には、「イスラーム初期の時代を生きた正しいムスリムたち」を指します。サラフ主義者は、「伝統的なイスラームの教説の中には、真のイスラームとは関係のない “まがいもの” が混ざっている。この “まがいもの” を排除し、サラフの時代のイスラームに帰るべきである」という立場を指します。

 

詳しくは拙著を読んでいただきたいのですが、サラフ主義の説く教説の多くは、イブン・ハンバル法学派の中に存在する、ある一つの潮流に依拠しています。そしてこの潮流の中から、「イスラーム法を施行しない統治者は武力で討伐すべし」という教説を導き出すことができます。この教説に依拠して、現代のムスリム諸国の為政者に対して「ジハード」と称して武力行使を行なう立場を、「ジハード主義」と呼びます。

 

サラフ主義が拠って立つ思想潮流の中に、ジハード主義の根拠となる教説が含まれる、という構図です。

 

 

不正な為政者の「タクフィール」

 

――となると、いわゆる「過激派」と「穏健派」を分かつのは、「不正な為政者への反逆」の是非ということですか?

 

「不正な為政者への反逆」の是非が両者を分かつのではなくて、両者の間に存在するいくつもの見解の相違のひとつとして、「不正な為政者への反逆」の是非の問題がある、ということになります。

 

いわゆる「過激派」のムスリムは、イスラーム法を施行せず、ムスリムの国民を拷問するような「不正な為政者」のことを背教者とみなし、ジハードの対象と考えています。

 

一方「穏健派」は、統治者がムスリムである以上、あるいは、統治者を失脚させようとすると内戦等を誘引して多数の犠牲者を出すことが危惧される場合は、彼が「不正な為政者」であっても反逆してはならない、という立場をとります。

 

 

――両者は互いにどう見ているのですか?

 

これはもう、両陣営に色々な立場の組織・人がいますから、一概には言えません。

 

傾向としては、「穏健派」は、「過激派」を「叛徒(反逆者)」、「盗賊」などとみなし、犯罪者として批判しています。「過激派」の方は、「穏健派」の、とくに政府に肩入れするような人たちのことを「背教者」とみなすことが少なくありません。

 

 

――それが「タクフィール」と呼ばれる行為ですか?

 

そうです。タクフィールとは、特定の人物――多くの場合、ムスリムであるはずの人――や集団を、「不信仰者」(カーフィル)であると判断することを言います。

 

イスラームでは、タクフィールはできうる限り避けるべきものとされます。なぜなら、同胞であるムスリムの信仰を否定し、ムスリムではないと考える事は、大きな罪だからです。ですから、「どう考えてもムスリムとは言えない」という明らかな証拠が揃わない限り、滅多なことではタクフィールはなされません。

 

しかし、「過激派」は早急なタクフィールを行なうことが多く、このことは「穏健派」から大いに批判される点のひとつです。

 

ただし、「過激派」の諸集団の中にもタクフィールについて方針の違いがあります。ISなどは、「不正な為政者」とその取り巻きだけではなく、自分たちと敵対する者全般や、シーア派などの非スンナ派の諸派をタクフィールする傾向があります。

 

一方、アル・カーイダは、タクフィールの対象を政治家や軍部、治安機関の人間等に限定しています。シーア派などの非スンナ派の宗派のことは基本的にタクフィールしません。ISと異なり、アル・カーイダはタクフィールについては非常に抑制的だと言うことができます。【次ページにつづく】

 

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