なぜムスリム社会はISを「破門」しないのか?

ジハードは自衛のための防衛的な概念?

 

――イスラームでは戦闘において、相手方の「戦闘員」以外の人間に物理的攻撃を加えることは許されないとのことですが、それではなぜ、一般市民や女性・子供を対象としたテロが許されるのでしょうか?

 

大前提ですが、ほとんどのムスリムは、「テロ」が「許される」とは考えていません。欧米で「テロ」事件が発生するたびに、その事件が起きた国のムスリムや、他国のムスリムが、そうした「テロ」を非難する声を上げています。

 

しかし、いわゆる「過激派」の一部は、そうした「テロ」を計画したり、あるいは、欧米諸国で欧米人のムスリムが起こす「テロ」を事後的に承認したりしています。

 

非常に多くの場合――特に近年のローンウルフ型の「テロ」の場合――は、「テロ」を行なう実行犯がイスラーム法の知識を持たず、何も考えずに殺傷している、という例がほとんどです。

 

一方、9.11のような、事前に計画された規模の大きい攻撃の場合は、コラテラル・ダメージとして許容される、という立場を「過激派」はとります。つまり、女性をとくに対象にしているわけではないが、「侵略者」であるアメリカ合衆国等を攻撃するにあたり、女性などが巻き添え被害にあっても止むを得ない、という考え方です(戦闘員と一般市民の区別については、長くなりますので拙著を読んでいただけるとありがたいです)。

 

なお、コラテラル・ダメージで死人が出るのが許されるというのは、なにもムスリムの「過激派」だけの考えではなく、アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国も普通に抱いている考え方ですね。

 

 

――他方で、「イスラームは本来は暴力的な宗教ではない」「ジハードとは自衛のための防衛的な概念であり、イスラームでは本来的に防衛戦争しか許されてない」という説明をよく耳にします。この「防衛ジハード」はレトリックだとのことですが。

 

「レトリックである」というのは、「虚偽である」ということを意味しません。護教の一環として、そういう新しい「説明の仕方」を発達させた、ということです。

 

ジハードは、イスラームのために「奮闘努力」することを意味します。その一つの形として、敵対する異教徒との物理的戦闘があります。この理解については、昔と今で大きな解釈の変化があるわけではありません。

 

ただし、「先制攻撃が許されるのか」「許されないとすれば、前近代において、ムスリムが先制攻撃とも解釈できる戦争を行なってきたことはどう理解すべきなのか」という点について、議論があります。

 

今日「防衛ジハード」論を採用する論者は、(物理的な戦闘の形をとる)ジハードを「ムスリムや、ムスリムの郷土を侵略者から防衛するためにのみ行われる自衛戦争」と定義し、先制攻撃は許容されない、という立場を取ります。そして、前近代にムスリムが行っていた先制攻撃を、「先制的自衛」――つまり、それなしには自衛ができないために行なわれた先制攻撃――であったと理解しています。

 

 

多元化する宗教的言論市場

 

――「ジハード」についも、正しいひとつの解釈はないということでしょうか。ここでも、イスラームには「唯一の正統説」を決定する権威はない、という先ほどの話に戻ります。さらに現在では、宗教的な言論市場の多元化がいっそう進んでいるようですね。

 

はい。社会が近代化する中で、それまで正統な宗教的教説を発信する権限をほぼ独占的に有していた主体(キリスト教で言えば「教会」、イスラームで言えば「ウラマー」)がその独占的権威を失い、彼ら以外の人たちが、様々な形で宗教的言論を発信するようになりました。ひとことで言えば、宗教的言論を発信する主体が多元化したということです。

 

もちろん、この見方に異論をはさむことは難しくありませんが、近現代の宗教の状況を説明する一つの有効な視角だと私は思っています。

 

こうした状況下では、各々の一般信徒は、キリスト教で言えば教会、イスラームで言えば公的に権威を認められたウラマーの教説に黙って従うのではなく、さまざまな主体が発信する数多くの言論から、どれが「正統」であるのかを自分で選ばなければならない場面に出くわすことが多くなります。

 

仮に、自分自身で「これこそ正統である」と思える言説を構築できたとしても、自分以外の信徒がそれと同じ言説を正統と捉えているとは限りません。つまり、何が「正統」であるかを、他者と認識を共有できる客観的な形で把握することが難しくなってきているということです。

 

ISのような組織に参画する個人が大量に出てきたリ、ヨーロッパなどの遠方にいる信徒がその主張に共鳴するということが起こりやすくなっている背景には、近現代に宗教全般が経験しているこのような変化があります。

 

 

――しかし、イスラームについてはそうした状況はつづかずに、ふたたび「公式モデル」の強化に傾倒していく可能性が強いと推測されていますね。

 

さまざまな局面にその兆候を見出すことができます。

 

たとえば、ムスリム諸国では、政府が宗教界を操作・監視する目的で、ファトワー(教義回答)を布告する権限や効力を制限することがあります。政府が宗教教育の制度や内容を規制するのは、ムスリム諸国全般で共通の傾向です。そうやって言論の統制を図っているわけです。

 

また、拙著の中でも触れましたが、近年では、ウラマーがイスラーム法などの解釈をする際に、「集団による解釈」を重視する傾向があります。つまり、ウラマー個々人がばらばらに答えを出してさまざまな見解を提出するのではなく、複数のウラマーが集まって合議をし、「統一見解」を布告するということです。

 

また、「過激派」の潮流に与しない現代の一般のムスリムは、「平和な、真のイスラーム」をリプリゼントするにあたって、やはり伝統的なウラマー頼みであり、現代的な新しいイスラーム解釈を紡ぎ出そうとする方向には動いていません。

 

非ムスリム諸国からしても、昨今の情勢においては、ムスリムの思想や行動様式が統一されていた方が監視もしやすいですし、対話の糸口もつかみやすくなります。現状では、この流れにはメリットの方が大きいと言えます。

 

今後しばらくは、解釈の多元化の広まりが収縮していくと、私は思います。

 

この仮定がある程度の正しさを持つとすれば、今後、現代イスラームの思想的論争は、ウラマーのあいだに存在する諸潮流の伝統的な対立構造の中で展開してく可能性が高いと言えます。拙著『イスラーム思想を読みとく』では、そういった類の現代イスラームの争点・対立構造を考えるために必要なひとつのツールを提供できたと思っています。

 

 

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

シノドスの運営について

 

シノドスは日本の言論をよりよくすることを目指し、共感してくださるみなさまのご支援で運営されています。コンテンツをより充実させるために、みなさまのご協力が必要です。ぜひシノドスのサポーターをご検討ください。

⇒ https://camp-fire.jp/projects/view/14015

98_main_pc (1)

 

 セミナー参加者募集中!「対話/ダイアローグから見た精神医学」植村太郎(12月16日16時~18時)

 

 

無題

 

vol.233 公正な社会を切り開く 

 

・ジェームズ・ミニー氏、鈴木啓美氏インタビュー「もっと楽しいお買い物を目指して――フェアトレードの魅力」

・【「民主」と「自由」――リベラルの再生へ向けて――】古川江里子「大正デモクラシーと吉野作造 ―大日本帝国憲法下での民主主義的政治の試みが現代に問うもの」

・【知の巨人たち】重田園江「ミシェル・フーコー――なぜ『絶望系』なのに読んでしまうのか」

・阪井裕一郎「学びなおしの5冊 <家族>」

 

vol.232 芸術にいざなう 

 

・吉澤弥生氏インタビュー「人をつなぐ芸術――その社会的評価を再考する」

・【現代演劇 Q&A】長瀬千雅(解説)「時代を捕まえるダイナミクス――現代演劇事始め」

・【今月のポジ出し!】橋本努「タックス・ヘイブン改革 香港やシンガポールにも圧力を」

・増田穂「『知見』が有効活用されるために」

 

1 2
シノドス国際社会動向研究所

vol.233 特集:公正な社会を切り開く

・ジェームズ・ミニー氏、鈴木啓美氏インタビュー「もっと楽しいお買い物を目指して――フェアトレードの魅力」

・【「民主」と「自由」――リベラルの再生へ向けて――】古川江里子「大正デモクラシーと吉野作造 ―大日本帝国憲法下での民主主義的政治の試みが現代に問うもの」

・【知の巨人たち】重田園江「ミシェル・フーコー――なぜ『絶望系』なのに読んでしまうのか」

・阪井裕一郎「学びなおしの5冊 <家族>」