2018.03.13

戦後民主主義とその敗北――いまだ終わらない「戦後」と向き合うために

『丸山眞男の敗北』著者、伊東祐吏氏インタビュー

情報 #新刊インタビュー#「新しいリベラル」を構想するために

戦後日本を代表する政治学者として名を轟かせ、今も多くの人に読み継がれている丸山眞男。しかし、丸山と戦後民主主義は、すでに高度経済成長に敗北していた。はたして、いま丸山を読む意味はあるのか? 『丸山眞男の敗北』の著者、伊東祐吏氏にお話を伺った。(聞き手・構成 / 芹沢一也)

丸山眞男と戦後民主主義

――本日は『丸山眞男の敗北』という刺激的なタイトルの本を出された伊東祐吏氏にお話をお伺いします。丸山といえば論者によってさまざまな像があります。伊東先生にとって丸山とはどのような人物ですか?

丸山は内部に狂気を抱えた人だと思います。

一般的には、理知的で厳格な学者というイメージですよね。戦後民主主義を代表する知識人ですから。もちろん、丸山が本当はそういう人ではなかったと言うつもりはありません。もともと、「自由」「平等」といった理念にすごく感激しちゃう性格ですし。

ただ、私が丸山を研究するなかで見えてきたのは、狂気を抱えた本性の丸山が、理性的な丸山を必死に操縦するイメージでした。鉄人28号をあやつる少年や、ガンダムに乗って戦うアムロのような姿が思い浮かびます。

――「狂気」、ですか? 一般的な丸山像とは対極にあるものですね。

狂気というのは、たとえば、戦前の右翼やファシズムのように、大義に心酔した者が漂わせる、ムンムンした熱気や情熱のことです。一触即発状態で、なにかの拍子でいつ暴発するか分からない。丸山の内部にあるのも、それです。

しかし、丸山は彼らと違って、それを爆発させるようなマネはしません。原油をただ燃やすのではなく、ガソリンに精製して、それで車を動かすように、狂気を民主主義を駆動させるエネルギーとするのです。

だから、丸山の右翼やファシズムに対する感情は、同族嫌悪とまでは言いませんが、「オレはこれだけ必死にコントロールしているのに、お前たちはいったい何なんだ」という想いがあったはずです。

――なるほど、丸山の言動の奥底には、コントロールされてはいるけれど、狂気としかいいようのない熱情があったと。

そうです。そして、丸山は自分の中の狂気との戦いで、血まみれになっている。私は、その実態と一般的なイメージとのギャップに驚きました。キリスト教の教会に荘厳なイメージを抱いている日本人が、よく実際にヨーロッパの教会に入ってみて、血まみれのイエス像にギョッとするような感じでしょうか。

そうした丸山の姿に、周囲の人たちの一部も、気づいていたようです。たとえば、鶴見俊輔も丸山の狂気を指摘していますし、丸山自身も、自分が嫌いなワーグナーの音楽に感じられる狂気や熱気が自分の中に存在している、とメモに書きつけています。

――そんな丸山が、狂気と形容しうるほどの熱情をもって追求した戦後民主主義とは何だったのでしょうか?

戦後民主主義については、衰退する時期から見たほうが分かりやすいと思います。

戦後民主主義という言葉は、一九六〇年前後に生まれました。ちょうど、終戦直後からの民主主義運動が下火になった時期です。要するに、かつて盛んだった民主主義的な思想やムーブメントが、後から振り返るかたちで「戦後民主主義」と名づけられました。

衰退の要因は、経済成長です。一九五〇年代後半から日本の経済は上向き、一九六四年の東京オリンピックに湧き、高度経済成長へと突入していきます。でも、人々の関心が経済や私生活に向かうと、当然ながら、政治や思想なんてどうでもよくなる。

だから、裏を返せば、「戦後民主主義」というのは、終戦直後の貧しい経済状況と戦争の傷跡がなまなましく残るなかで、人々が本気で世の中を変え、民主主義国家として出直すんだという情熱を伴った思想だと言うことができると思います。

――たんなる制度としての民主主義ではなく、戦争による焼け跡のなかで、新しい日本を立ち上げるという理念に裏打ちされた思想だったわけですね。

そうです。そもそもデモクラシーとは、人民が政治に参加することですから、選挙がおこなわれていれば、民主政は保たれていると言えます。しかし丸山眞男は、民主主義は「理念と運動と制度との三位一体」だと言いました。つまり、制度だけじゃなく、人々が高い理念をもち、運動を起こさないとダメだ、と。そして、理念と運動が伴っていたのが、終戦直後の戦後民主主義だったのです。

――そうしたなか、丸山は「デモクラシーとナショナリズムの結合」を唱えました。

デモクラシーとナショナリズムをいかに結びつけるかは、日本に限らず、西洋以外のすべての後発近代国家が直面する課題です。

たとえばフランス革命では、民衆が民主主義革命をおこし、国民国家をつくりました。デモクラシーのパワーが、そのままナショナリズムに直結しています。一方、日本のような後進国は、指導者たちが西洋に学んで近代国家をつくりました。そのため、国民の「下から」の力よりも、国家の「上から」の力が強く、国民には自分が国家をつくりあげているという意識が育ちにくい。福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」という主張や、自由民権運動は、いずれも国民と国家のあり方の変革を志したものです。

――福沢は「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」と言いましたが、国家を内発的に支える国民を、外から作り出さなくてはならなかったわけですね。

そう。戦後の丸山も、この困難な課題の前に立たされます。丸山には、戦後日本がどうあるべきか、具体的な青写真があったわけではありません。とはいえ、抽象的なことばかり考えていたのでもない。

彼が目指したのは、国民と国家のどちらかが強くなりすぎることなく、バランスよく両輪として駆動することでした。そして、国民のエネルギーを、世界における日本の役割に結びつけるべく、国際情勢や社会状況に応じて、それぞれ具体策を検討しました。

たとえば、一九五〇年代に日本が独立を回復する時期には、国民の「平和を守りとおす強い決意」をもとに、冷戦で米ソのどちらにも肩入れしない「中立」を目指すべきだと訴えています。原則にもとづき、状況に応じて具体策を考えるのが、丸山のやり方です。

ただし、丸山は決して認めないでしょうが、どうしても言っておかなければならないことがあります。それは、戦争と戦後民主主義の関係です。全国民が有無を言わずに追随した現象は、この二つしかありません。

両者は正反対のものに見えますが、同じ役者が別の芝居を演じたものと考えたほうがいい。思想の額面は真逆でも、ムーブメントの性質としては同じで、戦後民主主義は戦争協力の延長であり反動だ、と考えて間違いありません。

――戦争への動員から民主主義への動員へと位相が変わっただけ、という側面があるのはたしかに否めないですよね。そうは言っても、一丸となって民主主義を打ち立てるんだ、という熱気がその分強くあった。

福沢諭吉と「相対の哲学」

――丸山の哲学についてお話を伺いたいと思います。先ほど福沢諭吉の話がでましたが、丸山にとって福沢はつねに特権的な言論人でした。丸山は福沢から何を読みとったのでしょうか?

丸山と福沢は、時代は違えど、どちらも「開国」の時代を生きた思想家でした。幕末・明治維新と同じく、西洋の近代思想や文化が一気に流入し、国家体制の改革や思想の大転換をせまられたのが、敗戦直後の日本です。丸山は、戦後を「第二の開国」と呼んでいます。「開国」を生きる先達として、福沢はいいお手本だったのです。

また、丸山にとって重要なのが、福沢の「哲学」でした。「哲学」とは、要するに、福沢という人間の行動や思想を決定する原理原則のことです。

福沢は、超有名人のわりに、意外と分かりにくい人だと思います。幕末には、攘夷論が沸騰するなかで、「江戸中を開国論に口説き落とす」と啖呵をきりますが、明治になると「徳川時代のほうがよかった」、「幕臣としての忠義が大事だ」などと言い、一筋縄ではいかない。

そんな福沢の多面性を、丸山はうまく利用します。たとえば、戦時中に福沢が国家主義者として利用されると、丸山は福沢がもつそれとは反対の面を強調して、ギリギリの抵抗を試みました。

――福沢の自由主義によって、国家主義に対抗したんですね。

そう。さらに、丸山は福沢の「哲学」に法則性を見出します。バラバラで気まぐれに見える福沢の発言は、じつは、時流と対決しつつ、反対側の真実を見せることで、人々の考え方をほぐし、物事の価値を相対化させるものだという。いわば、「相対の哲学」です。

私は、この哲学は、福沢の哲学というより、丸山自身の哲学だと思います。丸山は自分の哲学を、福沢を通して読みとったのです。

ただ、戦中・戦後の動乱の時代に丸山を支えた「相対の哲学」も、一九六〇年代以降の豊かな世の中では、うまく機能しませんでした。国家権力という巨大な敵と戦い慣れたせいか、政治的無関心という得体の知れない敵に対して、丸山はやる気を失い、どうすることもできません。

――敵がはっきりしなくなっていくなかで、実際、丸山はスランプに陥っていく。

はい。それ以降も、丸山は「戦後民主主義を守れ」と言いつづけますが、それは時流と戦っているのではなく、時流に飲み込まれるなかでの捨てゼリフだと思います。

私は、丸山のように、経済成長を果たした豊かな戦後日本を否定する気にはなりません。それこそ、戦争に負けた国民がリアルに求めたものでしたし、戦後日本の「あるべき姿」ですよ。

それに、丸山が理想とする戦後民主主義の思想が、高度経済成長期に風化してしまったのは、必然だと思います。思想に限らず、人々が本当に真剣なのは、お腹が空いて困っているときだけですから。

だから、逆に言うと、日本がまた困難に陥り、衣食住に困ったときには、必ず思想に身が入るので、なにも心配はいりません。私は、思想の内実や本気度よりも、たとえ不純で不誠実でも、豊かでお腹いっぱいの世の中のほうがいいと思いますけどね。

戦後民主主義の「虚妄」に賭ける

――そんななか、丸山は「大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」に賭ける」という有名な言葉を吐きます。

この印象的なフレーズは、一九六四年に刊行された『現代政治の思想と行動』(増補版)のあとがきとして、印刷所でとっさに書き加えられました。

先ほどお話ししたように、一九五〇年代後半に日本国内の政治や経済が安定すると、政治的無関心が社会に蔓延し、戦後民主主義は下火になります。政府を批判して民主主義や平和を求める運動がなくなるわけではありませんが、あくまで局地的・間欠泉的です。

一九六〇年の安保闘争では、民衆が国会に押し寄せて死者も出ましたが、そんなデモの様子を、仕事中のサラリーマンはビルの窓から「バカなことしてやがる」と見下ろしていました。さらに、安保闘争が終わると、所得倍増計画のもとで、国民はますます経済に没頭していきます。

――高度経済成長のなか、多くの国民は公共的な関心をすっかり失って、私生活に没入していったんですね。

ただし、戦後民主主義の衰退に反して、それをめぐる言論は盛んでした。安保闘争により、革新派内の対立や、保守と革新の議論がかえって活発化したからです。そんななか、経済学者の大熊信行が「戦後民主主義は虚妄だ」と述べた。それに対して、丸山は強く反発し、逆手をとって、「戦後民主主義の虚妄に賭ける」と応じました。

丸山の言葉は、文字どおり、戦後民主主義の意義を決して否定せず、その姿勢を貫いていく覚悟を示したものです。しかし私は、丸山が大熊に真摯に向き合ったとは思いません。大熊は、丸山が安保闘争で戦後民主主義を守るべく「八・一五にもどれ」と訴えたのに対し、軍事占領下に民主主義が確立したように言うのは虚妄だと指摘したんです。大日本帝国の実在なんか求めてないし、現状への危機感も丸山と共通しています。

私にとって、大熊は忘れられない思想家です。終戦後、誰もが被害者ぶって、自分が戦争をした当事者であることをごまかすなかで、大熊はそれを認めた数少ない人物のひとりでした。しかも、大熊は丸山に敬意を抱いています。二人のすれ違いは、当人のみならず、戦後日本にとって不幸なことでした。

また、丸山のこの発言は、彼が思考の柔軟性や批評性を失い、時代にとり残されることを決定づけたと私は思います。戦後民主主義の形骸化を受け入れて、「時代は変わった。今までの丸山眞男は捨てて、一から考え直す」って言えばよかったんですよ。

戦後思想には欠陥がある

――ご著書では、丸山に代表される戦後思想には「欠陥」があると書かれていますね。

戦後思想には、保守とリベラルに共通する「欠陥」があると私は思います。

根底にあるのは、日本がアメリカの属国状態にあり、半独立を余儀なくされているという事実です。さらに言えば、日本はその状態を脱することよりも、豊かさや戦わないことを優先し、属国の位置を自らの決断で選択してきました。

しかし、それを認めてしまうと、民主主義の理念も、国家主権も、愛国の精神も、語ることはできません。自らがその理念や精神を裏切ってきた張本人なわけですから。こうして、右派も左派も、自分に都合の悪い事実を無視して思想形成をしたことが、戦後思想の最大の欠陥です。

丸山の場合で言えば、アメリカにがっつり占領されている最中に、民主主義や主体性を手中のもののごとく語り、その時期を戦後民主主義の全盛期とするのですから、ツッコミが入らないほうがおかしいでしょう。「戦後民主主義は虚妄だ」という大熊信行の批判は、当然です。それでも丸山は民主主義の理念を掲げ続けました。

――そうした欠陥から、どのような問題が生ずるのでしょうか?

こうした状況から生まれる悪弊が二つあります。ひとつは、属国状態の苦しさから、現実逃避や虚勢のために、民主主義の理念や、愛国の精神を、金科玉条としてやたらとふりかざすことです。もうひとつは、その結果として自己暗示にかかり、アメリカとの実際の力関係や実力差を見誤ることです。

これらの欠陥は、現在の論者にも受け継がれています。しかも、かつては単なる虚勢でしたが、いまは、アメリカと対等なのが当然だと信じ、安っぽい正義感から不平等性や密約を暴き、煽ったり憤ったりしてみせるので、危なっかしくてしょうがない。

まるで、日本は成熟した大人の国から、純粋で思慮のないこどもの国に逆戻りしたかのようです。そのうえ、いつの世も、こうした言説を批判する者には、非国民や反民主主義のレッテルが貼られるので、誰もとめられません。

――そうだとすると、伊東先生は、「いま」丸山を読む意味はどこにあるとお考えですか?

ご質問からズレますが、私はあえて、いま丸山を読む必要はない、と言いたいですね。

どの思想もその時代の空気の中に入れてみないと、なかなか正しく理解できないものですが、敗戦直後と現在では、時代がまるで違います。丸山の思想は、貧しく困難な時代のなかで、民主主義を自分たちでつくっていこうとするものでした。

しかし、いまの日本は、かつてないほど、物質も権利も保障も満たされているのに、なおかつ不自由や不平等を訴え、解決してもらおうとする時代です。人々は、民主主義の「作り手」から「お客様」へとすっかり変わってしまった。そんな世の中では、丸山の思想は、クレーマーのお説教やアピールに都合よく使われるのがオチでしょう。

私は現在の日本の国民と国家の関係を、丸山だったらどう言うかな、と夢想することがあります。後年の凝り固まった丸山はともかく、往年の丸山なら、いまのリベラルのようなことは言わず、国家に要求してばかりで独立心のない国民を一喝すると思うんですけどね。

――ただ、日本でもアンダークラスと呼びうる層が出現してきています。

もちろん、シングルマザー家庭など、行政の手当てが必要な層はいます。ただ、いまの世の中は不満だらけですが、その大半は本当に困った者の不満ではなく、嫉妬や羨望に近いのではないでしょうか。貧困・格差・弱者のアピールもよく目にしますが、それは金持ちとくらべての格差であり、ぜいたくできないという意味での貧困です。

これらの不満は、自己正当化のために「悪者」をつくりあげます。政治家・官僚・巨大企業などがその標的となってマスコミに叩かれ、ストレス発散のための半沢直樹のようなドラマが人気になったりする。明らかな自家中毒なのですが、それに気づかない。とても危ない傾向だと思います。

私が思い起こすのは、同じように社会の不満が燃えあがった、大正・昭和初期の時代です。やがてその不満は、純粋高潔な軍人への支持となり、最終的に国を滅ぼしました。私は、いまの世の中の不満も、私たちをどこか誤った方向に導くだろうと思っています。

――処方箋はありますか?

この“火消し”はなかなか困難ですが、まずは私たちの足元を見つめ直す努力が必要です。その際、丸山の思想に頼るのは、時代が違いすぎるので、お勧めできません。いまの時代を代表する団塊の世代の思想も、火に油をそそぐのでダメです。

たとえば、団塊世代の村上春樹は、「卵と壁」の比喩を使い、つねに壁につぶされる卵の側に立ちたいと述べますが、いま必要なのは、きちんと自分の立場で物事を考えることでしょう。少なくとも、私は弱者ぶらずに、壁の側に立ちたい。また、そのことが皆さんにも求められていると思います。

ただし、私は、丸山の思想的営為が無意味だったと言うつもりは、まったくありません。

丸山が生きた時代も、現在の私たちが生きている時代も、同じ「戦後」です。戦後は、たんに“戦争のあと”という意味ではなく、アメリカの強い影響下にある体制のことですから、それが変わらない限り、戦後は終わりません。

丸山はその「戦後」という問題と格闘し、どう生きるべきかを考えた、第一世代の第一人者と言えるでしょう。したがって、後続の私たちが「戦後」を考え、過去から未来へとそのバトンを受け渡すうえで、丸山の思想は避けて通れません。丸山の戦いぶりは、つねに私たちの指標なのです。

プロフィール

伊東祐吏日本思想史

1974年生まれ。思想史家、文芸評論家。専門は日本思想史。著書に『丸山眞男の敗北』(講談社選書メチエ)、『無学問のすすめ』(ちくま新書)、『戦後論――日本人に戦争をした「当事者意識」はあるのか』(平凡社)、『「大菩薩峠」を都新聞で読む』(論創社)など。

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