なぜわれわれは「新しい能力」を強迫的に追い求めるのか?

――とはいえ、「新しい能力」論は国際的な潮流でもあります。OECDの国際学力調査PISAのコンセプトである「キー・コンピテンシー」の核心は「考える力」で、「異質な集団で交流する」「相互作用的に道具を用いる」「自立的に活動する」というまさに「新しい能力」といわれるものです。

 

OECDのキー・コンピテンシーは、能力の評価が社会的文脈によって変わってくるという、ごく当たり前のことを前提として考えると、とても問題のある議論です。なぜなら、これは、そもそもの発想が真逆で、世界中のどこの誰にでも共通するような基礎的能力を括りだそうとするものだからです。

 

もちろん、そうした能力がまったくないわけではありません。しかし、そうした「みんなに必要になるような新しい能力」を取り出そうとする試みはたくさんありますが、それらはたいていの場合、失敗していると思います。社会は多様であり、そのなかにいる人々もじつに多様な環境に置かれています。そのようななかで、みんなに共通するものを取り出そうとすると、それはもうみんなが知っている当たり前の能力ぐらいしか残らないからです。

 

たとえば、人とコミュケーションすることは大事だよね、とか、最低限の読み書き算はできたほうがいいよね、とか、自分から学ぶ姿勢が大事だよね、といった陳腐なお題目を並べざるをえないのです。ところが、そのままそれを言ってしまうと「新しい能力」を唱えたことになりませんので、キャッチコピーのように「〇〇力」などと言い換えて宣伝をし始める。だいたいそんなパターンになっています。

 

 

――OECDも同じだと?

 

はい。キー・コンピテンシーも、わたしには同じように見えます。たとえば、最初の「異質な集団で交流する」というのも、中身を分解すると「他者とうまく関わること」「協力すること」「紛争を処理し、解決すること」だとされていますが、どう思われますか? 従来から言われていた、ごく常識的なことが書かれているだけではないでしょうか。わたしに言わせれば、昔から言われていることをさも「新しい」かのように位置づける不思議な議論です。

 

もしOECDという権威ある機関が言っているのでなかったら、これほどまでに参照されることはなかったのではないか。こんな議論にお付き合いするのはほどほどにすべきではないか。そんな気さえするのです。

 

 

――職場ではどのような人が能力ある人だと思われているかを示す調査データがあるとのことですね。

 

はい。2013年にわたしが代表者となって全国調査(教育・社会階層・社会移動全国調査、ESSM2013)を実施しました。その調査で、30才から64才までの有職者の方々に、「今の職場で、あなたは、どのような人が「能力のある人」だと思いますか」と尋ね、こちらで用意した11の選択肢について複数回答で○をつけてもらいました。

 

具体的には、「専門的な知識がある」「頭が良い」「体力・運動神経がある」「手先が器用だ」「芸術的感性が豊かだ」「うまくコミュニケーションできる」…等々といった項目を用意しました。

 

この調査項目を入れた意図のひとつは、人々が「能力がある」と考える基準が職業によって多様に分かれていることを確認し、それがどのような分布を示すのかを検討することでした。実際に結果を集計してみますと、たしかに能力の基準は職業によって多様です。また、あたりまえのことなのですが、頭脳労働的な職では「頭が良い」などの反応率が高く、アートの要素のある仕事では「手先が器用」とか「芸術的感性」の項目の反応率が高くなることが確認できました。

 

しかし、それ以上に重要な発見は、どんな職業でも多くの人が反応してしまうような項目があることでした。その代表例が「うまくコミュニケーションできる」という項目だったのです。この項目には全有職者のじつに72.3%が自分の職場であてはまると答えたのです。

 

新しい職種でも、伝統的な職種でも、コミュニケーション能力が評価されるのだとすれば、これは新しい能力なのではなくて、もともとほとんどの職業に必要な基礎的・汎用的な能力、悪い言い方をすれば陳腐な能力にすぎないのではないか。そんなことがこのデータから推察されました。

 

 

――となると、そもそもなぜ「新しい能力」などという発想が出てくるのか? ここで重要になるのが、冒頭で出てきた「メリトクラシーの再帰性」というコンセプトですね。

 

わたしたちはしばしば能力を簡単に測れるものと考えて、「これからは能力主義の時代だ」とか「能力主義管理の徹底を」などといったりするわけですが、能力というものは実際には簡単には測れないものです。ですので、能力主義といっても、「学歴」の場合のように、わたしたちはとりあえず暫定的に能力の有無を判断する仕組みを作って、なんとか社会を回していっている面があります。

 

それゆえに、まさに学歴主義が戦後日本社会においてしばしば批判されてきたように、あらゆる能力主義体制は、「ほんとうにそれでよいのか?」と、つねに反省的に問い直される性質を持つことになります。言い方を変えると、メリトクラシーにはもともとそれ自身を問い直してしまうような性質が初めからビルトインされている、そのようにいうことができるかと思います。

 

この性質のことをわたしは「メリトクラシーの再帰性」と呼んでいます。これは、従来のメリトクラシーないし能力主義の議論においては、まったく概念化されていませんし、そうした指摘自体を見たこともありません。

 

 

――「能力」という目に見えないものを測定しているために、その正当性がつねに疑問に付されるわけですね。

 

はい。このことを踏まえて、わたしたちの社会のなかでの能力をめぐる議論のあり方を見てみると、わたしには次のようにみえてきます。

 

わたしたちの社会が徐々に能力主義社会を完成させつつあるとか、新しい能力主義の時代に向かいつつあるというよりは、むしろ、能力主義を標榜しつつもつねに完成しない状態である能力主義に対して、ある種の不安といら立ちのようなものを恒常的に抱え込んでいるのではないか、と。

 

いろいろなご意見はあるとは思いますが、わたしは後者のような理解の仕方のほうが、現代社会が突き当たっている難しい状況をうまく表現できているのではないかと考えています。なお、この議論は、イギリスの理論社会学者、アンソニー・ギデンズの理論を下敷きにしています。ギデンズの理論と拙著の関係は第4章で述べていますが、やや専門的になりますので、そこは興味のある方だけ読んでいただければよいかもしれません。

 

 

――そう言われると、現在は「新しい能力」を強迫的に追い求めているように思えます。

 

「新しい能力」を求め続けようとする心理は、「メリトクラシーの再帰性」が非常に高まった状態だと考えることができます。つまり、ある種の能力主義的な社会体制が、自らを激しく問いなおし続けてしまう状態です。

 

ではなぜ、現代社会において「メリトクラシーの再帰性」が高まってしまうのでしょうか。そのことを理解するには、過去においてなぜ「メリトクラシーの再帰性」が今よりも抑えられていたのかを考える必要があります。なぜなら、「メリトクラシーの再帰性」は、原理的にいつの時代にもあるはずのものだからです。

 

じつは、前近代社会では、能力主義はないわけでありませんでしたが、それを強固に抑制している要因がありました。伝統や身分制度です。たとえば、江戸時代では、藩主の息子に能力がなかったとしても、藩主の座を父親から譲り受けるということもあったことでしょう。しかし、それは伝統や身分制度によって当然視されているため、能力主義の観点からの批判はかなり抑制されていたと考えることができます。

 

近代化して以降は、能力主義が地位配分原理の前面に出てくるので、前近代ほど再帰性を抑制することは難しくなりますが、そこで大きな役割を果たしたのが、さきほど述べた「学歴」でした。まだ教育の普及度も低く、また教育以外に近代的な知識・技術を習得するルートが希少だった時代には、高学歴者を「能力のあるもの」として処遇することに、現代ほど批判的な視線が送られるわけではなかったといえます。

 

 

――なるほど。となると、学歴が大衆化してしまうと、抑制が効かなくなってしまいますね。

 

そう。教育機会が拡大して高学歴社会となり、また情報通信技術の発達に伴って学校以外のルートからもさまざまな情報が得られるようになるにしたがって、高学歴者の威光は低下していくことになります。「あいつは大学を出ているけど、たいしたことはないね」などと、多くの人がいえる環境ができ上がっていきます。1960年代以降に学歴社会批判が日本で目立って出てくるようになるといわれているのは、そうした事態を指しているわけです。

 

このような状況のなかで、わたしたち現代人は、何が正しい能力評価のあり方なのかをめぐって煩悶し、自分自身に対しても、また社会にとっても〈能力不安〉を感じるようになります。こうした不安から、わたしたちは藁をもすがる思いで、未来に対応した「新しい能力」を次々と唱え続けることになっていくのです。

 

これは、ある種の中毒のようなもので、そうしていないと不安なのですが、それを繰り返したところで当の不安心理は根治しないという点で、アルコールや薬物の中毒にも似てやっかいなものです。わたしは、こうした「新しい能力」を求め続けざるをえないことそのものが、わたしたちの現代社会が抱える一種の慢性疾患なのだと思うのです。

 

暴走する能力主義 (ちくま新書)

暴走する能力主義 (ちくま新書)書籍

作者中村 高康

発行筑摩書房

発売日2018年6月6日

カテゴリー新書

ページ数242

ISBN4480071512

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