2019.03.14

「実践の楽観主義」をもって、社会に風穴を開けていく

『「当たり前」をひっくり返す』著者、竹端寛氏インタビュー

情報 #新刊インタビュー

いまの日本社会で「別の可能性」を想像することはきわめて困難だ。それは「当たり前」だとされていることを疑えなくなっているからではないか? 過去にそうした問いを掲げた三人の先人たちがいた。イタリア人のフランコ・バザーリア、スウェーデン人のベンクト・ニィリエ、そしてブラジル人のパウロ・フレイレ。『「当たり前」をひっくり返す』の著者、竹端寛氏に、いまなぜこの三人が重要なのかをお聞きした。(聞き手・構成 / 芹沢一也)

――最初に本書を執筆しようと考えた動機から教えていただけますか。

物事を根源からちゃんと考えてみたい、と思ったからです。

常識とされていることが、何かおかしい、違う、と思っても、「みんなそう言っているから」「世間ではそうなっているから」とスルーしてしまうことって、ありますよね。とくに、自分にあまり関係のないことなら、なおさら。でも、僕はこうやってスルーしているうちに、その「おかしい何か」が「所与の前提」になっていくプロセスを眺めていて、その抑圧性や暴力性が気になったのです。そして、その抑圧性や暴力性が、今の日本社会の生きづらさや閉塞感の根源にあるのではないか、と思うようになりました。

そう思ったときに、本書の三人の主人公のことが頭に浮かびました。この三人は、抑圧や暴力にさらされる側に立ち、世の中の常識を徹底的に疑い、そうではない別の可能性、別の現実を作り上げた、優れた思想家であり実践家です。そんな三人の生き様を交錯させることで、今の日本社会の閉塞感やしんどさを乗り越えるヒントが得られるのではないか。そう思って、書き続けてきました。

――おっしゃるように、いまの日本社会では「別の可能性」を想像するのがきわめて困難ですよね。「三人の主人公」について簡単にご紹介いただけますか。

一人目は、イタリア人のフランコ・バザーリア(1924-1980)です。精神科医の彼は、1960年代から精神病院長として病棟の開放化を進め、1970年代に入るとトリエステの精神病院を閉鎖し、その後イタリア全土の精神病院閉鎖を定めた「180号法」の立役者でもあります。トリエステは、精神病院なしで地域精神医療を展開するモデル都市として、今でも世界中から見学者が訪れる場所となっています。

二人目は、スウェーデン人のベンクト・ニィリエ(1924-2006)です。彼はスウェーデンの知的障害者親の会のオンブズマンとして、知的障害者の入所施設改革に力を入れる中で、入所施設というアブノーマルな環境を変えるべきだとして、1969年に「ノーマライゼーションの原理」を提唱し、世界中の障害者入所施設解体の原動力になった人物です。スウェーデンでは2003年に実際に入所施設はゼロとなりました。

三人目は、ブラジル人のパウロ・フレイレ(1921-1997)です。教育学者として識字教育に関わっていた彼は、知識を暗記型で詰め込むだけの「銀行型教育」の抑圧性や暴力性に気づき、教育を受ける側の主体性を尊重する「問題解決型教育」の必要性を訴え、1968年に『被抑圧者の教育学』を執筆。世界中の教育・思想界に大きな影響を与えました。

――三人についてもっと詳しく教えてください。まずバザーリア。彼は精神医療の何を問い直そうとしたのでしょうか? 

彼が問い直そうとしたのは、狂気や精神病院そのものでした。狂気を、「普通の人とかけ離れた異常な言動をしていて、他者の注意やコントロールも効かない状態」と捉え、であるならば、「自分を傷つけ他人に害を与える可能性のある人を、社会から強制的に隔離するのもやむを得ない」という視点に立って精神病院が作られ、自由の剥奪も「必要悪」として社会的に認識されてきました。

一方、バザーリアは精神病院長になってすぐ、患者も医療者も自由に話し合える対話集会(アッセンブレア)をスタートさせます。彼はこの対話の場を通して、狂ったように⾒える⾔動の背景に、「⽣きる苦悩」が最⼤化した状態があることを、患者たちから教わります。その中で、彼は「病気」ではなく「生きる苦悩」をこそ支援すべきであり、「生きる苦悩」を最小化するためには、精神病院での隔離や拘束には意味がないことに気付きました。

すると、彼自身も信じてきた従来の精神医療の体系そのものへの根本的な問いも出てきます。縛ること、閉じ込めること、薬漬けにすること。これらは、患者の行動を沈静化させることには役立つかもしれませんが、患者自身が暴れる・異常な言動をするに至る「生きる苦悩」を鎮めることには役立ちません。ならば、精神病棟の中に閉じ込めるのではなく、地域での暮らしを取り戻すのを支える中で、患者と対話する中で、精神医療としてできること、患者にとって意味や価値のある支援を一から模索しようとし始めました。

その中で、彼は医療者の持つ特権性をも問い直す営みをしていきました。白衣や閉鎖病棟の鍵が医療者の権威として機能し、支配や抑圧的な関係性を生みやすいので、白衣や鍵なしで、患者との対等な関係性を目指した医療への転換をスタートさせたのです。

――そうしてイタリアでは精神病院が解体されていったんですね。

はい、ただ注意しなければならないのは、たんに精神病院が解体されるだけではだめなのです。

「脱・施設化(de-institutionalization)」という概念があります。これは精神病院や入所施設などを閉じて、地域生活支援に切り替えていく、という風に、一般には理解されています。しかしながら、脱施設化の後の受け皿として期待されたグループホームの現場において、収容人数は100名定員から10名程度になり、場所は山奥から街中の住宅地に変わったとしても、グループホーム内での「きまり」が多かったり、職員が強圧的・支配的であったり、という形で「ミニ施設化」している現状が、21世紀の日本でも見られます。つまりは、施設を脱しても、「施設の論理」を脱しきることができていないのです。

一方、バザーリアが大切にしたのは、支援関係において「支配・管理・抑圧」をどう取り除くか、という観点でした。これは、精神病院に限らず、少人数で大人数を管理支配する「収容所」的な「施設の論理」をどう否定するか、ということです。その意味で、バザーリアの取り組んで来たことは、たんに巨大施設をなくすという「脱・施設化」ではなく、管理や支配をどう脱するか、という「脱・収容所化」と捉えた方がよいと思っています。

これは、バザーリアに限ったことではありません。1970年代にバザーリアが活躍し、弟子たちも育ったイタリアのトリエステでは、地域精神保健において「支配・管理・抑圧」をどう取り除くか、が今でもすごく大切にされています。世界中から見学や実習生を受け入れているだけでなく、自分たちが今の時代に「収容所の看守」にならず、自由を大切にした治療や関係性構築をどのように維持し続けられるか、を考え合う国際会議も年に一度、開いています。

また、フィンランドの西ラップランド、ケロプダス病院でスタートしたオープンダイアローグは、バザーリアとは別のかたちで、「支配・管理・抑圧」を取り除く対話を中心にした精神医療の新しい形です。トリエステでも大きな話題になりましたが、「僕たちがやってきたことと同じだ」と評価されています。このあたりのことは、本書の第三章や第八章で取り上げています。

――ご著書を読んでいて、「施設という化け物」というニィリエの表現がとても印象的でした。この言葉に込められたニィリエの「思想」を教えていただけますか。

バザーリアは精神科医、フレイレは教育学者という、その分野のスペシャリストですが、ニィリエは二人とは違う経歴の持ち主です。

彼はエール大学やソルボンヌ大学で文学研究に打ち込んでいたのですが、学者の世界からドロップアウトして、生活の糧を得るために、ハンガリー動乱後の難民収容所の社会福祉専門官として赴任しました。その現場では、難民のさまざまな訴えに耳を傾け、収容所の課題を解決する仕事に従事していました。

その後、1960年代から知的障害者親の会のオンブズマンとして、さまざまな知的障害者の入所施設を訪れたときに、彼は以前見た難民収容所と構造が同じである、ということに気づきました。何もすることがなく、生きる希望もなく、ただ収容されているだけであることが、対象者の自尊心や尊厳をどれだけ傷つけるか、ということに気づいたのです。

当時の知的障害者福祉領域の専門家にとっては、入所施設をより人間的なものにすることが、目標とされていました。しかし、専門家ではないニィリエにとっては、いくら入所施設を人間的なものにしたところで、「施設の論理」が温存され、そこに入っている人の「当たり前の暮らし」が奪われていたら、それは表面的な変化にすぎない、と考えるようになりました。

その後、ニィリエはアメリカにも招かれ、アメリカの入所施設を沢山見て廻るのですが、スウェーデンより非人間的な施設で、100人の知的障害者をただただ収容している施設を目の当たりにします。そして、アメリカの知的障害者の親たちは、スウェーデンのような「人間的な施設」にするにはどうすればよいか? をニィリエに問いました。彼の出した結論は、「施設という化け物」を閉じない限り、「人間的な施設」であっても、管理や抑圧、支配関係は温存すると気づいたのです。

――ニィリエにとっても問題だったのは「施設の論理」だったんですね。彼は「ノーマライゼーション」という概念を提唱しましたが、この言葉でニィリエが考えていたことは何だったのでしょうか?

ニィリエが主張したかったことは、きわめてシンプルです。

当時の知的障害者の暮らしは、あまりにも「アブノーマル」だったのです。毎日、他者に決められた日課で生活し、週末の余暇活動もないか、職員が引率してみんなで同じ場所に行くだけ、でした。

自分の行きたい所に旅行に出かけたり、好きなスポーツをしたり、いろいろなお祝いをすることもありませんでした。つまり、同年代の他の人と同じような人生経験ができなかったのです。自己決定や自己選択は知的障害ゆえに尊重されず、結婚や子育てなんて夢のまた夢、でした。経済的にも自立することはできず、住む場所や学校なども分離され、普通の人の施設に比べたら劣ったものだったのです。

そんなさまざまなアブノーマルをひっくり返さなければならない。これがニィリエの主張でした。彼は8つの簡単な原理で提示します。その当時のごく普通の人の1日、1週間、1年、一生涯の生活と、知的障害者の生活を比較した上で、「当たり前の暮らし(=ノーマライゼーション)」が保障されなければならない、と訴えました。

そのためには、結婚や子育ても含めた自己決定や自己選択の権利が保障されるだけでなく、所得保障や、住まいや学校教育をノーマルなものにしなければならない、と主張したのでした。つまり、知的障害者にノーマルな環境を提供するために、社会こそ変わらなければならない、と提起したのです。

――なるほど、「ノーマライゼーション」というのは、だいぶ誤解されてしまったんですね。

そうです。「ノーマル」という日常語を使ったがゆえに、さまざまな誤解にその後、遭遇します。ニィリエ自身は、知的障害者本人ではなく、社会環境をノーマルなものに変えなければならない、と一貫して主張し続けています。しかし、障害者がアブノーマルな存在だ、と思う人々は、彼ら彼女らをノーマルな存在に変えなければならない、と、自分たちの以前からの価値観を押しつけ続けてきました。

また、ノーマルの語源が「規範(norm)」であることもあって、一般人の規範に障害者を近づけなければならない、とも誤解されてきました。ニィリエはそんなことを一度も言っていないにも関わらず、です。残念ながら少なからぬ人々が、「健常者社会ではなく障害者が変わるべきだ」という自分の思い込みや先入観にもとづいて、それに当てはめるように「ノーマライゼーション」の考え方をねじ曲げてきた、とも言えるでしょう。

――次にフレイレについて教えてください。「対話こそが変革の行動の『本質』なのである」という言葉がとても印象に残りました。

対話の反対って、何でしょうか? それは「集合的モノローグ」だと、僕は考えています。みんなで集まっているのに、お互いが自分の主張をぶつけ合うだけで、相手の話を聴こうとしない。あるいは、互いが様子を見合って、遠慮し合って、表面的な会話や事務連絡だけをして、本質的な話を避けようとする。

または、上の立場の人が指示・命令するのを、ただ一方的に拝聴・忖度している。それらは、集まって話されているのに、その中身は独り言レベルの、相手の魂に届かないやりとり。大概の「会議」がつまらないのも、こういう「集合的なモノローグ」に陥っているから、という可能性はないでしょうか?

フレイレは、そのようなモノローグのことを「反―対話」と名づけています。そこでは、抑圧者は被抑圧者を客体化し、抑圧された現実が維持されるように、相手との関係を固定化しようとしています。一方、本当に対話がなされるとき、それは一方的な関係性にはなりません。あなたと私の、どちらかが一方的に話す人で、もう一方は黙って聞くだけの人、では対話にはなりません。お互いが相手の事を尊重し、お互いが自らの想いや主観を言葉に出し、それを受け止め合う中で相互変容していく経験こそが、フレイレの捉えた対話でした。

彼がそれに気づかされたのは、ブラジルの小作農との「対話」からでした。「子どもに手を上げるのは良くない」と「教えて」いたフレイレの話を聴いた後、聴衆の一人が「先生はぼくがどんなところに住んでいるか、ご存じですか?」と訊ねたのです。そこから、彼は聴衆たちがどんなに惨めで苦しい生活をしているのか、フレイレの説教は理解できるが、暮らしは厳しくてどうしようもないのだ、という告白を聴くことになります。

この経験の中から、彼は「民衆に語りかける」のではなく、「民衆との語りあい」に変えていかなければならない、と気づきます。つまり、他人を変える前に自分自身が変わるところから、彼は対話をスタートさせたのです。これこそが「変革の行動の『本質』」なのだと、僕は感じています。

――冒頭で「銀行型教育」と「問題解決型教育」という言葉が出てきましたが、竹端さんもご自身の授業でもいろいろな気づきをされているようですね。

はい。フレイレの「対話」と「変革」の精神を理解できるようになると、自らの実践も変わらざるを得なくなります。

団塊ジュニア世代で受験勉強も過酷だった僕にとって、暗記や詰め込みは得意ではないけれど、「受験勉強を勝ち抜くためには必要不可欠だ」という常識を疑うこともできず、「どうせ」「しかたない」とイヤイヤ・諦めて受け入れていました。

一方で、大学教員になった後、フレイレの言う対話に基づく社会変革の話を授業でも取り入れようとするとき、僕自身が教壇から一方的にそれを話して理解してもらおうとすると、その授業スタンス自体が「銀行型教育」であり、対話を通じてお互いに考え合うなかで問題を解決していこうとする「問題解決型教育」の本質とは真逆になることに気づかされたのです。

――「問題解決型教育」について、「銀行型教育」的に説明する、というのは大きな矛盾ですよね。

そうです。これは、フレイレの概念についてだけではありません。僕自身が、大学だけでなく、福祉現場の現任者向けの研修講師をする機会も多いのですが、そこで多くの人に変容を求める内容を話していました。しかし、その変容を求める僕自身の講演のあり方が、モノローグ的な一方通行の講義であれば、「言っていることとやっていることが逆」になるのです。

そのため、ある時期から僕自身も、自らの「どうせ」「しかたない」と向き合いはじめました。授業や研修という場において、銀行型教育以外の別のやり方で、受講者同士の、受講者と僕と間での、共に考え合う対話をなるべく取り入れた問題解決型のアプローチへと切り替えたのです。

そして、その場でマイクを受講者に向けて、話し合った内容についての意見を伺うことも取り入れました。パワーポイントの内容を流暢に「再生」するのではなく、まさに即興的なやりとりなので、何が飛び出してくるかわかりません。でも、「いま・ここ」の場で出された意見をもとにして共に考え合いたい、と、他人を変える前に自らの講義・講演スタイルを変えてみました。

すると、興味深い現実が生じ始めました。「僕が話す時間を減らせば減らすほど、受講者の満足度が上がる」のです(笑)。これは、ある意味当然です。僕が一方的に説得するのではなく、受講者が話し合うなかで納得するプロセスを、会場全体で創り上げていくのですから、理解できる内容も増え、満足度も上がるのです。こんな事も、フレイレから僕は学ばせてもらっています。

――三人は「実践の楽観主義」を実践したと書かれています。

これはバザーリアが敬愛したイタリアの思想家、グラムシの言葉で、『バザーリア講演録 自由こそ治療だ!』(岩波書店)のなかでも引用されています。そして、僕は三人こそ「実践の楽観主義」の闘志であり、闘いを挑んだのが「理性の悲観主義」だったと感じています。

「理性の悲観主義」とは「これ以上はやりようがない」という現状肯定主義です。それは、新しい可能性を模索するのとは対極の、「できない100の理由」を考える発想とも通底しています。

「精神病の人は狂っているから精神病院に入れるしかない」「知的障害者は普通の暮らしができないのだから、施設でルールに従った暮らしをするしかない」「貧しい小作人は自分で考えられないのだから、字も暗記して覚えるしかない」・・・こういった考え方は、三人が活躍した半世紀前の「常識」でした。そして、その常識に対して「これ以上はやりようがない」と肯定するのが、「理性の悲観主義」だったのです。

一方、三人は「できる一つの方法論」を模索しようとしました。抑圧や支配される側の視点に立って、「病気ではなく、生きる苦悩を地域でどう支えられるか?」「知的障害者にとってノーマルな環境をどう提供するか?」「被抑圧者が自らを解放するような学び合いをどう実現できるか?」といった、その当時は無理と決めつけられていたことを可能にするための問いを産み出しました。

実践に影響を及ぼす優れた理論とは、これまで考えつかなかった「問い」を提出することだと、僕は思っています。バザーリア、ニィリエ、フレイレの三人に共通するのは、これまで「どうせ」「しかたない」と思われていた現状を変革するために、本質的な問いを口にし、それを実現するための方法論を徹底的に模索していったことでした。これこそ、「実践の楽観主義」の特徴だと思っています。

――バザーリア、ニィリエ、フレイレ、この三人の言葉と思想を、いま日本において振り返ることの意味はどこにあるとお考えですか。

日本社会の閉塞感や生きづらさを打ち破るヒントが、三人の言葉と思想の中に隠されていると僕は確信しています。

三人は、現場の「声なき声」を拾い上げる所から活動をスタートさせて、それらの声が求める課題をつかみ取り、「できる一つの方法論」を模索する中で、結果的に「施設は必要悪だ」「こういう人は自分で考えられるはずがない」といった偏見や先入観をもひっくり返すことに成功してきました。人々の社会認識や常識をひっくり返し、これまでの制度や政策をもひっくり返す。そういうことを可能にしてきた人物でした。

そんな三人の生き様や語りを交錯させた物語を書き上げる中で、書き手である僕の中からもさまざまな声が沸き起こってきました。三人が語った内容を無理に僕の枠組みとしてまとめた、というのではなく、三人の多様な声と僕が対話を重ねながら、ポリフォニー(多声音楽)として紡ぎ上がっていったのが本書です。

この本は、半世紀前の「エライの人」の「過去の話」ではありません。それよりも、僕たちがこれからの社会を創り上げていく上で、先人はどんな工夫をしながら社会に風穴を開けていったのだろう、という視点で読んで頂けると嬉しいなぁ、と思います。

さらに言えば、読んでいるあなたの中で、三人や僕との対話が始まってほしいなぁ、とも。書かれていることすべてに同意や納得はされないかもしれませんし、その必要もありません。読みながら感じた違和感や疑問、あるいは独自の視点などが、あなたの中で豊かなポリフォニー(多声音楽)として響き渡ることができれば、日々の閉塞感に風穴を開ける第一歩になるのではないか。そんなことを夢想しています。

プロフィール

竹端寛障害者福祉政策 / 福祉社会学

兵庫県立大学環境人間学部准教授。専門は福祉社会学、社会福祉学。大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科講師・准教授・教授を経て、2018年より現職。元内閣府障がい者制度改革推進会議総合福祉部会構成員。著書に『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』(青灯社、2012年)、『権利擁護が支援を変える-セルフアドボカシーから虐待防止まで』(現代書館、2013年)、『「当たり前」をひっくり返すーバザーリア・ニィリエ・フレイレが奏でた「革命」』(現代書館、2018年)など。

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