生活保護の現実はどうなっているんだろう――最後のセーフティーネット・生活保護の意味

気がつかないうちに困窮していた生活

 

―― そうした経験が生活保護への連載に繋がっていったのでしょうか?

 

ところが、紆余曲折がありまして、生活保護について書き始めたのは、そのさらに10年以上後なんです。

 

2000年に会社員をやめた直後は、ICT技術媒体を中心に活動していたんですが、数年のうちに、媒体が急激に減少しました。インターネットの普及による影響です。ICT技術媒体の読者の多くは、早い時期からのインターネットユーザですから、紙媒体からインターネットに流れていくことを止められませんでした。背景には、20年前から続いている、出版業界の構造不況もあります。それで、仕事が減ってきた上に、単価も安くなっていったんです。

 

収入減少は、社会人向け技術教育や専門学校などの非常勤講師業などで補っていたのですが、2005年末ごろから下肢を中心に運動が不自由になってしまって、そういった仕事を続けるのも、新規に受けるのも困難になりました。その上に、車椅子などの補装具の費用を、自分で支払う必要があったわけで、負担は何倍にも増えてしまいました。

 

しばらくは少ない貯金を減らしながら生活を送っていたのですが、あまりにも手元のお金が心もとなくなってしまったので、2006年の夏、杉並区の社会福祉協議会に融資の申し込みに行ったんです。

 

ただ当時の私は、社会保障については、それほど詳しくなかったんですよ。社会福祉協議会と福祉事務所の区別がつかないほどでした。そのときも、誤って福祉事務所に行ってしまったんです。すると、窓口のワーカーの方が丁寧に話を聞いてくださって、「すぐに生活保護を申請してください。権利なんですから使ってください」と。パンフレットと申請書を、その場で渡していただきました。私は、目の前の問題の数々に対処するだけで手一杯で、自分がそこまで困窮していることに気づいていなかったんですよ……(笑)。

 

 

もう、生活保護について書くしかない

 

―― そのワーカーさんは、いわゆる水際作戦でみられるようなことはしなかったんですね。

 

はい、本当に親切な対応を受けて。いまでも感謝しています。この本にも書いていますが、決して、すべてのワーカーさんが不親切なわけではありません。水際作戦を余儀なくされるとしても、平気でやっているとは限りません。

 

そのワーカーさんは、その場で、私が受給できる生活扶助の金額を計算してくれました。それは、当時の私にとっては、本当に魅力的な金額でした。その金額を見て、私は「最後にこの制度があるんだったら、もうちょっとだけ頑張ってみよう」と思いました。そして、もともとの専門だった半導体分野の研究で学位を取るため、大学院の博士課程に進学することを決めました。当時の博士課程では、貧弱でしたが経済的支援が用意されはじめていましたから、それをフル活用して学位を取得し、さらに、学位を活かして定職に就きたいと思ったんです。研究職は難しいとしても、研究の周辺の仕事だったら可能性はあったでしょう。問題は、進学までの生活費をどうするかでした。生活保護を受給すると、大学院への進学はできなくなりますから。その直後に、新規に創刊された雑誌の編集者からお声がけをいただいたので、何とかなりましたけれど。

 

ただ、結局、大学院はほとんど、何も出来ないまま辞めてしまいました。というのも、また話が長くなってしまうのですが、2007年4月、大学院に合格してから大学の障害学生支援室に相談に行ったところ「障害者手帳を持ってきてください」と言われまして。私は2005年の終わりから2007年の前半まで、運動障害があるけれども、障害者手帳は取得しておらず、障害者福祉は受けていないという状態にあったのですが、そこでようやく「障害者手帳を取らなくては」と思ったわけです。。

 

そのときまで障害者手帳を取得していなかったことには理由があります。私の障害は、いまだに原因がわかっていません。現在、原因疾患不明の状態で障害者手帳を新規に取得することは、ほとんど不可能です。私の下肢が不自由になった頃も容易ではありませんでした。障害者手帳が必要な状況ではあったのですが、何人もの医師に、「これでは診断書は書けません」と言われてしまっていたんです。

 

しかし、幸運なめぐりあわせで、私と同じように、車椅子に乗って職業生活を継続している障害者の方が、ご自分の主治医を紹介してくださったんです。

いまお話したように、原因疾患が明確でない状態での手帳の取得は、2007年当時も容易ではありませんでした。でも、「医師による総合的判断」による手帳取得が、まだ可能だったんです。その医師の方が東京都とやりとりして下さった結果、「スムーズに」とは行きませんでしたが障害者手帳を取得でき、ヘルパー派遣(介護給付)の申請もできるようになりました。

 

ただ、最初の介護事業所、次の介護事業所では、ヘルパーさんから嫌がらせや虐待を受けて。耐えかねて事業所に申し入れをしたら、その週からヘルパーさんが来なくなってしまったり。「もう派遣しません」という連絡すらありませんでした。あわてて他の事業所にお願いするのですが、10か所に電話して、相談に乗ってくれるのは5カ所、派遣を検討してくれるのは3か所、実際に派遣できるヘルパーがいるのは1カ所という感じです。結局、3回事業所を変えて。その度に、大変な手間をかけて、フラストレーションを味わうわけです。

 

介護給付の時間数も、最初は15時間/月で、全然足りていませんでした。4年間かけて、杉並区と何回も粘り強く交渉し、現在の約50時間/月まで増やしてもらいました。その間、仕事も細々とですが続けていましたから、大学院で研究をする余裕は、もうまったくなく、何も出来ずに退学することになったんです。専門の研究はほとんどできず、勉強も進まず。障害者福祉に関連する知識と経験ばかりが、不本意に増えていって。

 

私は、心から研究したかったんです。そのためには、まず生存・生活の基盤を整備しなくてはならない。そのためには、障害者福祉に詳しくならざるを得ない。障害者福祉に向かいあっている間は、専門の研究ができない。専門の勉強にも使えるはずの時間を、泣く泣く、障害者福祉の勉強に回さざるを得ない。毎日のように、そういう選択を迫られるわけですが、そのたびに悲しかったです。「ああ、こうやって、障害者は自分の望む道での向上や成長を阻まれていくんだなあ」と。

 

 

―― 本当にいろいろなことがあったんですね。

 

そうなんです。それから「半導体分野の研究の周辺で食べていけないなら、いったい何ができるだろう」と試行錯誤しているうちに、不本意に詳しくなってしまった社会保障の問題に行きついたんですね。

 

でも、「自分が障害者だから社会保障をやっているんだ」と見られるのは嫌だ、という思いがありましたし、自分の中にも、「科学技術から追い出されて社会保障をやることにしようとしてるんじゃないか」という感じ方があって、なかなか、踏み切れなかったんです。

 

でもグダグダしているうちに、2011年3月、東日本大震災が起きてしまいました。そして、その後は、そんなことは言ってはいられなくなりました。この本のまえがきにも書いたように、震災以降、障害者の友達からたくさん相談を受けました。被災地とはいえない東京のような場所にも、厳しい状況に追い込まれた障害者がたくさんいることも知っていました。それに、震災後1、2か月すれば収まると思っていた相談は、時間が経っても収まらなかったんです。

 

なぜだろうと気になって調べてみたら、その頃から「社会保障ケチケチ作戦」が、とくに生活保護を利用している方々に対しての締めつけめいたことが始まっていたんですね。「もう、これはやるしかないかなあ」と思いまして。それで、最初にお話したように、ダイヤモンド・オンラインさんに企画を持っていったんです。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.276 

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