共鳴する「どうせ」で、いのちの選別を行わないために

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わたしたちが本当に考えなくてはいけない問題

 

―― 尊厳死の是非と尊厳死法制化の是非は異なる議論とあります。社会が法によって尊厳死を認めた場合、どのようなことが起こると思いますか?

 

尊厳死の是非と尊厳死法制化の是非とは別の議論だというのは、わたしは初め、日本の尊厳死議論について、どなたかが書かれているのをどこかで読んで、「なるほど~」とは思ったものの、実際はあまりピンときていなかったんです。

 

ちょっと分かり始めた気がしたのは、去年12月のベルギーでの安楽死事件が報じられた時でした。ろう者の40代の双子が近く目まで見えなくなることが分かって、絶望して安楽死を希望し、医師が病院で致死薬を注射して安楽死させた、という事件です。終末期ではないし、耐え難い苦痛があったわけでもない。そういう障害者の安楽死に対して、論争になりました。

 

その論争をネットで読んでいて、どこかちょっと違うんじゃないか、と違和感があったんですね。最初は分からなかったんですけどネチネチと考えていくうちに、多くの人がこの双子の行動の是非を云々してしまっている、ということに気づきました。この2人が「死にたい」と感じたこと、「死ぬ」という決断をしたことを巡って、その良し悪しやそれに対する賛否が論じられてしまっている。あちこちでヘレン・ケラーが持ち出されてもいました。

 

でも、わたしたちが考えないといけないのは、この双子の絶望の是非でも、2人の決断の是非でもなく、そうした個々の人の苦しみや絶望に対して、医師が致死薬の注射によって応じる手段を社会が用意していることの是非の方じゃないのか、と思ったんです。この問題を議論する時には、そこのところをきっちり区別しておかないといけないんじゃないか、と。この時に初めて、尊厳死と尊厳死の法制化は別の問題だといわれていることの意味が腑に落ち始めました。

 

それから最近とても考えさせられているのは、ワシントン州シアトルの権威ある癌センターに「尊厳死プログラム」ができているという事実です。ここで言われている「尊厳死」は医師による自殺幇助のことなので、日本の「尊厳死」とはまた違うんですけども。

 

その自殺幇助プログラムが成功していると報告する論文が4月に発表されました。でも、法律に定められた要件を満たした個人が所定の手続きを経て、法律に定められた方法で致死薬を手に入れることができるということと、権威ある癌センターに、希望すれば手続きの一切を担当アドボケイトがついて手配してくれるシステムが出来上がっているということとの間には、やはり見過ごせない距離があるんじゃないか、という気がするんです。

 

ワシントン州で医師による自殺幇助が合法化された本来の理念というのは、どんなに手を尽くしても痛み苦しみを取りきれない例外的な患者さんのための最後の手段というようなものだったはずだと思うんですね。だけど、それが自殺幇助プログラムとして癌センターのシステムの中に位置づけられるなら、医師による自殺幇助が例外的な患者のための最後の救済手段であることを超えて、一般的な癌医療における緩和ケアの選択肢に組み込まれていくということにならないでしょうか。そのプログラムは法に反してはいないかもしれないけれど、そこで行われることは時間経過とともに法の理念とは異質なものになりはしないでしょうか。

 

尊厳死という言葉が意味するもの自体が各国やその言葉を使う人によって違いますし、もちろん各国の事情や文化や歴史もそれぞれに違いますから、この本で紹介したようなことが、尊厳死が法制化されたら日本でもそのまま起こりますよ、と言うつもりはありません。ただ、この6年間「死の自己決定権」議論の周辺のことをざっと眺めてきて、個々の事例とか現象として何が起こるか、ということももちろんなんだけれど、もっと見えにくいところで変質していくものがあるんじゃないか、本当に恐ろしいのはそっちの方なんじゃないのか、という疑問を感じているのは事実です。

 

 

―― すでに法制化された国では、実際にどういった事例や現象が起きているのか、児玉さんがいままでにお調べになったものから、印象的な事例やお思いになったことをお話いただけないでしょうか?

 

印象的な事例を問われると、やっぱり最初の頃に知った事件が強烈な印象を残していますね。

 

去年シノドスで書かせていただいたように、事故で全身麻痺になって2級市民として生きたくないといってスイスの自殺ツーリズムを利用して死んだ23歳のラグビー選手の事件、末期がんの妻を失っては生きていけないと健康な夫が妻と一緒にスイスで幇助自殺した著名指揮者夫妻の事件、それから14年間寝たきりだった慢性疲労症候群の娘の血管に母親が砕いたモルヒネを注射して死なせたにもかかわらず、その母親が賛美され事実上の無罪放免となったギルダーデール事件などが、やはりインパクトが大きかったです。

 

それから、さっきお話したベルギーのろう者の双子の安楽死事件。そういえば、これ、いずれも、いわゆる「終末期で耐え難い苦痛のある人」ではない、障害があるというだけの人に自殺幇助や安楽死が行われた事例ですね。

 

どこの国の議論でも、こんなふうに、もともとの理念と実際に行われていることの間にズレがあるんじゃないか、新たな事件が起こり議論が繰り返されるたびに、それまであったズレがいつのまにか容認されていったり、さらにズレが拡がったりしてはいないか、と引っかかるところがあります。

 

海外の自殺幇助と安楽死の事例というのは、いま挙げた以外にも本当に沢山あるのですが、ある段階から、本当に懸念すべきことは一つ一つの事例で何が起こっているかということよりもむしろ、それらの事例が起こるにつれて社会の側、人々の意識の中で何かが変わっていくことなんじゃないか、と考えるようになりました。

 

 

「『無益な治療』論」の「無益」とは?

 

―― 第2章において、英語圏ではいま、医療サイドに治療を拒否する権利を認める動きがあるとお書きになられていました。その背景にある「無益な治療」論はどういったものなのか、そして児玉さんのお考えをお聞かせください。

 

はい。日本では「無益な治療」論というのは多くの人には馴染みがないので、この本ではどうしても「尊厳死」ばかりがクローズアップされてしまうのではないかと懸念しているんですけど、それはわたしの本意ではなくて、むしろこの本でわたしが一番力をこめて書いたのも、読んでくださる方々に一番知ってもらいたいのも、第2章の「無益な治療」論とその周辺で起こっていることなんです。

 

脳死や植物状態とされた人の回復事例や、そういう人の意識の有無を巡る議論も含めて、第2章の議論は、この6年間でわたしが一番長く深く考え続けてきた問題です。わたし自身がずっと抱えてきた言葉で言えば、「アシュリーやウチの子のような重症障害児者は、本当に『どうせ何も分からない人』でしかないか?」という問いです。6年間ずっとブログでそのことを考え続けてきて、今回やっと、ちょっとまとまった言葉にできたかな、という気がしています。

 

日本では「無益な治療」論という名前の議論は耳慣れませんし、医療や生命倫理学の外で議論になることもないようですが、だからといって、それが日本の医療現場に「無益な治療」論と同質のものが存在しないことを意味するわけではない、とも思います。

 

素人のわたしが考える、バカバカしいほど極端な「無益」の例でいうと、歯が痛いといっている人に目薬は差さないですよね。もうちょっとマシな例だと、のども赤くないし熱もない軽い風邪引きの人が「抗生剤を出してください」と言っても、風邪のウイルスには効きません、といって出さないお医者さんが多いかもしれない。

 

「無益な治療」論というのは、もともとはそんなふうに、患者に利益がないことがあきらかな治療はしないのが当たり前だし、しなくてもよい、ということだったんだろうと思うんです。わたしは研究者ではないので、学術的な議論の詳細は分かりませんけど。ところが、その「無益な治療」論が、いま重症障害のある人の治療を一方的に差し控えたり中止するための根拠として使われつつあるわけです。

 

米国テキサス州には「無益な治療」法と通称される法律があって、病院の倫理委員会が無益だと判断した医療は、患者に通告し、転院先を探す10日間猶予の後に、患者や家族の意向にかかわらず一方的に中止することが認められています。法律がないところでも「無益な治療」論は医療現場に浸透しつつあって、米国、カナダを中心に、そうした一方的な治療停止に抗おうと家族が訴訟を起こすケースが増えてきています。英国では、一方的な蘇生無用指定や高齢者への機械的な終末期プロトコルの適用といった、また別の形での「無益な治療」論が広がりつつあります。

 

そして、ここでもまた「死の自己決定権」議論と同じように、事件が起こり議論が繰り返されるたびに、少しずつ「何をもって無益とするのか」というスタンダードが変質・変容し、対象者が拡大していくように見えるんです。コスト論もどんどん露骨になっていますし。

 

第1章で書いている「死の自己決定権」の議論というのは患者本人に決定権があるという主張なのですが、第2章の「無益な治療」論とはその逆に、医療の差し控えまたは中止を一方的に決定する権限を医療サイドに認めようとする議論なわけなんですね。そうなると両者の間には相反があるはずなんですけど、それを言う人はほとんどいないし、そのことがとても見えにくくなってしまっている。

 

「死の自己決定権」の議論と同時に、もう一方ではこうした「無益な治療」論が広がっていくことの意味、そこにさらに移植医療とのつながりまで見え隠れすることの意味とはいったい何なのか。それを考えるのは、それぞれの議論を考えること以上に、実は大事なことなんじゃないでしょうか。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.267 

・堅田香緒里「ベーシック・インカムとジェンダー」
・有馬斉「安楽死と尊厳死」

・山本章子「誤解だらけの日米地位協定」
・桜井啓太「こうすれば日本の貧困対策はよくなる――貧困を測定して公表する」
・福原正人「ウォルツァー政治理論の全体像――価値多元論を手がかりとして」
・鈴木崇弘「自民党シンクタンク史(11)――シンクタンク人生から思うこと」
・杉原里美「掃除で、美しい日本人の心を育てる?」