2013.08.30

共鳴する「どうせ」で、いのちの選別を行わないために

『死の自己決定権のゆくえ:尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』児玉真美氏インタビュー

情報 #尊厳死#新刊インタビュー#死の自己決定権のゆくえ

尊厳死が合法化された国々では、いまなにが起きているのだろう。世界で並列して進行している「死の自己決定権」と「『無益な治療』論」とは? 世界は、時代は、どこへ向かおうとしているのか。2013年8月に出版された『死の自己決定権のゆくえ』(大月書店)著者・児玉真美さんへのメールインタビュー。(聞き手・構成/金子昂)

いつの間にか世界がコワい場所になっていた

―― 最初に、児玉さんが「尊厳死」についてお調べになられるようになったきっかけをお聞かせください。

実は、何らかの問題意識から「海外の安楽死や自殺幇助を調べよう」と思い、調べ始めた、というようなことではなかったんです。きっかけは、やっぱりアシュリー事件との出会でした。米国シアトルの病院が重症重複障害児(当時6歳)から子宮と乳房を摘出し、ホルモン大量投与で身長の伸びを抑制した、という事件です。2007年の初頭に世界中で大きな倫理論争になり、わたしの娘がアシュリーとほぼ同じ障害像だということもあって、たちまち取り憑かれてしまいました。

米国にもこの事件に取り憑かれた障害当事者のブロガーがいるんですけど、そのウイリアム・ピースという人がこの前、「自分はアシュリー事件と出会ったことで自殺幇助の問題を考えるようになった」とブログに書いていたんですよ。「おぉ、おんなじだ!」と思わず手を打ちました。

“アシュリー療法”というのは前例のない医療適用なので、その論争では既存の議論が援用されてくるのですが、子どもや自分で決めることのできない人の医療については誰に決定権があるかとか、親や法定代理人の決定権の範囲はどこまで認められるかといった、医療における意思決定の問題がそこに出てくるんです。利益と害の比較考量や、身体の統合性・不可侵性(インテグリティ)、尊厳なども論点でした。そういうのは、これまで医療の差し控えと中止の問題で議論されてきた論点なんだな、ということが、論争を追いかけていると、なんとなく分かってくる。

たとえば、ピーター・シンガーは重い障害のある新生児の救命医療をするかしないかの決定権が親に認められている、ということを根拠に“アシュリー療法”を親が選択することを擁護しますし、障害当事者らは”アシュリー療法”の正当化論は2005年に重症の認知障害のある女性から栄養と水分が引き上げられたシャイボ事件と同じだと批判しました。

それで、ときどきそういう主張の背景にある生命倫理学の議論をちょっと覗きにいってみる。そうすると、そこには「治療をせず死ぬに任せることが本人の最善の利益であるかどうか」みたいな話がゴロゴロしているわけです。「うわぁ、こんな議論があったのかぁ」と、それまで何も知らなかったわたしはビックリ。

しかもそれが「これこれがこれこれである場合に、仮にこれこれがこれこれであったとしても、これこれはこれこれである以上、それはこれこれがこれこれを選択することが認められてはならないという根拠にはならない」みたいにして繰り出されてくるんですよ(笑)。こんなの日本語でも5回読んだって意味わかんない(笑)。頭がクラクラしました。そんなふうにして、医療の差し控えと中止を巡る生命倫理学の議論には、わりと早い段階で目が向いたように思います。わかっているかどうかはまた別問題ですけど。

現実の世界でも、当時、障害のある子どもの慈悲殺事件があいついでいました。そのたびにネットに出てくる擁護や賛同のコメントには「重い障害があることはそれ自体が苦・悲惨でしかない」「そういう生は生きるに値しない」という前提があるみたいに感じられたんですけど、でも、そうしたステレオタイプはわたし自身が重い障害のある娘と暮らしてきた実感とはかけ離れていて、違和感がありました。

それから、アシュリー事件の舞台となったワシントン州ではその頃、医師による自殺幇助合法化に向けた大々的なキャンペーンが行われていました。そこでもまた「重い障害のある状態で生きるくらいなら、死んだ方がマシ」「要介護状態になるくらいなら」といった声が出てくる。しかも、合法化に向けた動きはワシントン州だけじゃなかった。ルクセンブルクでも起きていたし、英国でも合法化議論が吹き荒れていました。

そういう報道には、スイスの自殺ツーリズムが頻繁に登場するし、安楽死や自殺幇助がすでに合法化された国や州の情報も当然くっついてくる。目に付いたニュースを読んでみては、世界ではこんなことが起こっていたのか、知らなかった、いつの間に世界はこんなにコワい場所になっていたんだろう……と、呆然とつぶやく。その繰り返しで。

だから、「安楽死や自殺幇助について調べよう」と最初から問題意識を持って調べ始めたというよりも、アシュリー事件と出会って、そこにあった議論や論点を追いかけていくうちに、おのずと慈悲殺や安楽死、医師による自殺幇助の議論へと関心が広がっていった、ということだったと思います。

120658

なぜ日本では、英語圏で取り上げられている問題が議論されないの?

―― 本書はどのような経緯でご執筆にいたったのでしょうか?

最初にネットで英語ニュースを読み始めた頃というのは何も知らないわけですから、一つ一つの情報の断片はジグソー・パズルのピースみたいなものなんですね。最初はそこに脈絡なんかないんだけど、いくつも集まってくるうちにこちらも知識が多少はできて、そこに脈絡や流れが見えてきたりする。それが時間をかけて少しずつ整理されていって、ピースが互いにはまるべき場所にはまっていくと、全体としていつの間にか一つの「大きな絵」が描かれていく。『死の自己決定権のゆくえ』は、そんなふうにしてブログで6年間やってきたことを通じて見えてきた「世界で起こっていること」の「大きな絵」を、自分に見えるままに描いてみようと試みたものです。

もともとインターネットでニュースを読みながら「世界はいつの間にこんなコワい場所に……」と絶句するたびに、日本ではどうしてこれらの事件や議論が報道されないんだろう、という疑問がありました。英語圏では一般の新聞が取り上げて大論争となるような問題も、日本ではあまり詳しく広くは知らされず、ほとんど国民的な議論にならない。それでも国民的な合意ができているかのような空気だけはなんとなく醸し出されていく。ヘンだなぁ、と感じていました。

それで日本で脳死・臓器移植法改正議論があった時に、『介護保険情報』の連載(09年11月)で「『国際水準の移植医療』ですでに起こっていること」というタイトルの記事を書きました。安楽死と自殺幇助の周辺で起きていることについては、『現代思想』(2012年6月)と、シノドス(2012年10月)で書かせてもらいました(「安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること」)。でも、どこかに、それらは「大きな絵」の一部でしかない、という感じはあったんです。

そしたら、『現代思想』とシノドスの論考を読んでくださった『重い障害を生きるということ』(岩波新書)の著者、高谷清先生が「書ききれていないものを1冊の本にまとめてはどうですか」と言ってくださって、大月書店さんを紹介してくださったんです。高谷先生は重症心身障害児者の医療にずっと携わってこられた医師で、パーソン論の広がりを強く懸念しておられます。

「パーソン論」というのは、わたしの素人理解では「誰かが人格であると認められるためには、単に生物学上のヒトであるだけでは不十分で、一定の知的能力がなければならないとする考え方」のことで、わたしはアシュリー事件と出会ったことで初めてパーソン論というものの存在を知ったのですが、高谷先生は以前から発言しておられて、そのパーソン論への懸念つながりで出会いをいただきました。

わたしたちが本当に考えなくてはいけない問題

―― 尊厳死の是非と尊厳死法制化の是非は異なる議論とあります。社会が法によって尊厳死を認めた場合、どのようなことが起こると思いますか?

尊厳死の是非と尊厳死法制化の是非とは別の議論だというのは、わたしは初め、日本の尊厳死議論について、どなたかが書かれているのをどこかで読んで、「なるほど~」とは思ったものの、実際はあまりピンときていなかったんです。

ちょっと分かり始めた気がしたのは、去年12月のベルギーでの安楽死事件が報じられた時でした。ろう者の40代の双子が近く目まで見えなくなることが分かって、絶望して安楽死を希望し、医師が病院で致死薬を注射して安楽死させた、という事件です。終末期ではないし、耐え難い苦痛があったわけでもない。そういう障害者の安楽死に対して、論争になりました。

その論争をネットで読んでいて、どこかちょっと違うんじゃないか、と違和感があったんですね。最初は分からなかったんですけどネチネチと考えていくうちに、多くの人がこの双子の行動の是非を云々してしまっている、ということに気づきました。この2人が「死にたい」と感じたこと、「死ぬ」という決断をしたことを巡って、その良し悪しやそれに対する賛否が論じられてしまっている。あちこちでヘレン・ケラーが持ち出されてもいました。

でも、わたしたちが考えないといけないのは、この双子の絶望の是非でも、2人の決断の是非でもなく、そうした個々の人の苦しみや絶望に対して、医師が致死薬の注射によって応じる手段を社会が用意していることの是非の方じゃないのか、と思ったんです。この問題を議論する時には、そこのところをきっちり区別しておかないといけないんじゃないか、と。この時に初めて、尊厳死と尊厳死の法制化は別の問題だといわれていることの意味が腑に落ち始めました。

それから最近とても考えさせられているのは、ワシントン州シアトルの権威ある癌センターに「尊厳死プログラム」ができているという事実です。ここで言われている「尊厳死」は医師による自殺幇助のことなので、日本の「尊厳死」とはまた違うんですけども。

その自殺幇助プログラムが成功していると報告する論文が4月に発表されました。でも、法律に定められた要件を満たした個人が所定の手続きを経て、法律に定められた方法で致死薬を手に入れることができるということと、権威ある癌センターに、希望すれば手続きの一切を担当アドボケイトがついて手配してくれるシステムが出来上がっているということとの間には、やはり見過ごせない距離があるんじゃないか、という気がするんです。

ワシントン州で医師による自殺幇助が合法化された本来の理念というのは、どんなに手を尽くしても痛み苦しみを取りきれない例外的な患者さんのための最後の手段というようなものだったはずだと思うんですね。だけど、それが自殺幇助プログラムとして癌センターのシステムの中に位置づけられるなら、医師による自殺幇助が例外的な患者のための最後の救済手段であることを超えて、一般的な癌医療における緩和ケアの選択肢に組み込まれていくということにならないでしょうか。そのプログラムは法に反してはいないかもしれないけれど、そこで行われることは時間経過とともに法の理念とは異質なものになりはしないでしょうか。

尊厳死という言葉が意味するもの自体が各国やその言葉を使う人によって違いますし、もちろん各国の事情や文化や歴史もそれぞれに違いますから、この本で紹介したようなことが、尊厳死が法制化されたら日本でもそのまま起こりますよ、と言うつもりはありません。ただ、この6年間「死の自己決定権」議論の周辺のことをざっと眺めてきて、個々の事例とか現象として何が起こるか、ということももちろんなんだけれど、もっと見えにくいところで変質していくものがあるんじゃないか、本当に恐ろしいのはそっちの方なんじゃないのか、という疑問を感じているのは事実です。

―― すでに法制化された国では、実際にどういった事例や現象が起きているのか、児玉さんがいままでにお調べになったものから、印象的な事例やお思いになったことをお話いただけないでしょうか?

印象的な事例を問われると、やっぱり最初の頃に知った事件が強烈な印象を残していますね。

去年シノドスで書かせていただいたように、事故で全身麻痺になって2級市民として生きたくないといってスイスの自殺ツーリズムを利用して死んだ23歳のラグビー選手の事件、末期がんの妻を失っては生きていけないと健康な夫が妻と一緒にスイスで幇助自殺した著名指揮者夫妻の事件、それから14年間寝たきりだった慢性疲労症候群の娘の血管に母親が砕いたモルヒネを注射して死なせたにもかかわらず、その母親が賛美され事実上の無罪放免となったギルダーデール事件などが、やはりインパクトが大きかったです。

それから、さっきお話したベルギーのろう者の双子の安楽死事件。そういえば、これ、いずれも、いわゆる「終末期で耐え難い苦痛のある人」ではない、障害があるというだけの人に自殺幇助や安楽死が行われた事例ですね。

どこの国の議論でも、こんなふうに、もともとの理念と実際に行われていることの間にズレがあるんじゃないか、新たな事件が起こり議論が繰り返されるたびに、それまであったズレがいつのまにか容認されていったり、さらにズレが拡がったりしてはいないか、と引っかかるところがあります。

海外の自殺幇助と安楽死の事例というのは、いま挙げた以外にも本当に沢山あるのですが、ある段階から、本当に懸念すべきことは一つ一つの事例で何が起こっているかということよりもむしろ、それらの事例が起こるにつれて社会の側、人々の意識の中で何かが変わっていくことなんじゃないか、と考えるようになりました。

「『無益な治療』論」の「無益」とは?

―― 第2章において、英語圏ではいま、医療サイドに治療を拒否する権利を認める動きがあるとお書きになられていました。その背景にある「無益な治療」論はどういったものなのか、そして児玉さんのお考えをお聞かせください。

はい。日本では「無益な治療」論というのは多くの人には馴染みがないので、この本ではどうしても「尊厳死」ばかりがクローズアップされてしまうのではないかと懸念しているんですけど、それはわたしの本意ではなくて、むしろこの本でわたしが一番力をこめて書いたのも、読んでくださる方々に一番知ってもらいたいのも、第2章の「無益な治療」論とその周辺で起こっていることなんです。

脳死や植物状態とされた人の回復事例や、そういう人の意識の有無を巡る議論も含めて、第2章の議論は、この6年間でわたしが一番長く深く考え続けてきた問題です。わたし自身がずっと抱えてきた言葉で言えば、「アシュリーやウチの子のような重症障害児者は、本当に『どうせ何も分からない人』でしかないか?」という問いです。6年間ずっとブログでそのことを考え続けてきて、今回やっと、ちょっとまとまった言葉にできたかな、という気がしています。

日本では「無益な治療」論という名前の議論は耳慣れませんし、医療や生命倫理学の外で議論になることもないようですが、だからといって、それが日本の医療現場に「無益な治療」論と同質のものが存在しないことを意味するわけではない、とも思います。

素人のわたしが考える、バカバカしいほど極端な「無益」の例でいうと、歯が痛いといっている人に目薬は差さないですよね。もうちょっとマシな例だと、のども赤くないし熱もない軽い風邪引きの人が「抗生剤を出してください」と言っても、風邪のウイルスには効きません、といって出さないお医者さんが多いかもしれない。

「無益な治療」論というのは、もともとはそんなふうに、患者に利益がないことがあきらかな治療はしないのが当たり前だし、しなくてもよい、ということだったんだろうと思うんです。わたしは研究者ではないので、学術的な議論の詳細は分かりませんけど。ところが、その「無益な治療」論が、いま重症障害のある人の治療を一方的に差し控えたり中止するための根拠として使われつつあるわけです。

米国テキサス州には「無益な治療」法と通称される法律があって、病院の倫理委員会が無益だと判断した医療は、患者に通告し、転院先を探す10日間猶予の後に、患者や家族の意向にかかわらず一方的に中止することが認められています。法律がないところでも「無益な治療」論は医療現場に浸透しつつあって、米国、カナダを中心に、そうした一方的な治療停止に抗おうと家族が訴訟を起こすケースが増えてきています。英国では、一方的な蘇生無用指定や高齢者への機械的な終末期プロトコルの適用といった、また別の形での「無益な治療」論が広がりつつあります。

そして、ここでもまた「死の自己決定権」議論と同じように、事件が起こり議論が繰り返されるたびに、少しずつ「何をもって無益とするのか」というスタンダードが変質・変容し、対象者が拡大していくように見えるんです。コスト論もどんどん露骨になっていますし。

第1章で書いている「死の自己決定権」の議論というのは患者本人に決定権があるという主張なのですが、第2章の「無益な治療」論とはその逆に、医療の差し控えまたは中止を一方的に決定する権限を医療サイドに認めようとする議論なわけなんですね。そうなると両者の間には相反があるはずなんですけど、それを言う人はほとんどいないし、そのことがとても見えにくくなってしまっている。

「死の自己決定権」の議論と同時に、もう一方ではこうした「無益な治療」論が広がっていくことの意味、そこにさらに移植医療とのつながりまで見え隠れすることの意味とはいったい何なのか。それを考えるのは、それぞれの議論を考えること以上に、実は大事なことなんじゃないでしょうか。

「どうせ」が広がった先にはどんな世界が?

―― 本書のキーワードの一つは「どうせ」ではないかと思いました。「どうせ〇〇だから」という気持ちが、あらゆる場面で働いてしまっている。この「どうせ」の呼応は、どのようなことを引き起こしうるのでしょうか?

ありがとうございます。まさに、その通りなので、分かっていただいて嬉しいです。

アシュリー事件の論争で起こったのは実はこの「どうせ」の共鳴・共有だったのではないか、とわたしは考えていて、そのことをあれからずっと考え続けてきました。「どうせ」という意識が人々の間で呼応し共有されていく時、実際の議論では言われていないことが暗黙のうちに了解・承認されていくように思います。

「死の自己決定権」や「無益な治療」論の議論で、対象者のスタンダードが少しずつ拡大していく現象にも、この「どうせ」が関わっているとわたしは考えているんですけど、終末期の人に限定されたはずの議論に植物状態や寝たきりの人が混じりこんできても、別におかしいとは感じない人が少なくない。その論理の不整合に気づかないのは、混じりこませる人の意識の中にある「どうせ」に、それを聞く人の中にある「どうせ」が呼応しているから、おかしいとは感じないんじゃないでしょうか。感じない人が増えるにつれて、「どうせ」の共有はさらに広がっていく。そうすると、理や言葉や思いを尽くした議論は空転し始め、「どうせ」が呼応する空気が勢いで押し流していく、ということが起こるような気がするんです。

でも、そんなふうに「どうせ」の共鳴・共有が暗黙のうちに広がっていった先にある世界というのは、どういう場所になっていくんでしょう。そういうことがすごく気になります。

「どうせ」に加担せず「無関心」で患者を見捨てない医療を

―― わたしたちが今後、尊厳死について考えるとき、どんな姿勢と視点が必要とされているのでしょうか?

「どうせ」の先にあるキーワードは「無関心」だと思うんですね。「どうせ○○な人だから」の先には、「だから、他の人と同じように考えたり扱ったりしなくてもいい」と、スタンダードを下げ、関心を引っ込める意識が待っているんじゃないでしょうか。

第3章で、障害のある人々がさまざまな医療現場に潜む「どうせ」によって、障害のない人なら当たり前にしてもらえる医療を受けられず、どんなに苦しんでいるか、時に命まで落としているか、わたしたち親子の体験と、英国と米国の報告書の内容を紹介しています。英国の報告書のタイトルは『無関心による死』です。この報告書が出た07年から、この問題とわたしたち親子の個人的な体験とを重ねてずっと考えてきて、問題の本質は、この「どうせ」とその先に続く「無関心」なんじゃないか、と考えるようになりました。

これはもうこの本を書き終えた後のことなんですけど、先日、米国の障害者団体「ノット・デッド・イエット(まだ死んでいない)」のCEOのダイアン・コールマンさんが、「障害者はたいてい終末期ではないが、終末期の人はたいてい障害者だ」と言っていて、なるほど~と思いました。なるほど、「どうせ障害者」という意識で医療のスタンダードを勝手に下げ、関心を引っ込める文化のようなものが医療に潜んでいるとしたら、障害者である終末期の人が同じ「どうせ」とその先に続く「無関心」を向けられるのも、その延長線上で自然に起こることなんだな、と納得したんです。

「どうせ障害者だから」「どうせ終末期だから」「だから丁寧なアセスメントやケアなんかしなくてもよい」という無関心の形もあると思うのですが、そういう無関心はまた、目の前の人が生きてそこにある現実の姿にも目を向けなくなる無関心、そして、人が一人、その人固有の1回こっきりの人生を生きて死んでいくということの中にある、簡単に言葉や論理だけでは掬いきれない複雑で微妙な思いに目を向けたり、丁寧に感じ取ろうとしない無関心でもあるんじゃないでしょうか。いったん「植物状態」と診断すると意識は「ない」と決めつけて探ろうともしなくなる無関心や、いったんドナー候補と認定すると救命よりも臓器の方を優先して省みないような無関心も、そこに繋がっているでしょう。

日本の尊厳死法制化の議論では「何が何でもあらゆる手を尽くして延命」か、それとも「一切の延命をせずに死なせる」のかといった、単純な二項対立の構図が描かれてしまいがちですけど、わたしたち患者の本当の願いというのは、本当にそのどちらかでしかないのでしょうか。わたしたちの本当の願いというのは、本当はそのどちらでもなくて、むしろ、そのどちらでもない、その両者の間のところに、きっぱり白黒つかない悩ましさや重苦しさを引き受けつつ「踏みとどまってほしい」ということではないでしょうか。そうして個々のケースの個別性の中で目の前の固有の患者や家族に寄り添い続けながら、固有の小さな判断を粘り強く丁寧に繰り返してほしい。それこそが、わたしたち患者の本当の願いなんじゃないかと思うんです。

それは「どうせ」に加担せず「無関心」で患者を見捨てない医療。過剰でもなく不足でもない、ほどの良い医療と、そのための繊細な配慮と判断。そして、それは、本当は終末期医療にではなく医療そのものに患者が望んでいることじゃないかと思うんです。だって、ごく単純に、それまでの医療でどんな人にも自己決定権やそれに準ずる手続が十分に保証され尊重されて、そうした権利の行使が患者にも家族にもなじみのあるものになっているというならともかく、終末期医療のところでだけ、しかも「医療を拒否する」「さっさと死ぬ」という方向でばかり自己決定が強調・尊重されるというのも、ヘンじゃないですか?

そういうことを考えてみると、終末期医療だけをそれまでの医療と切り離して云々し、尊厳死の拙速な法制化を議論するよりも、もっと手前のところに、まだまだ知るべきこと、考えてみるべきことがいっぱいあるんじゃないか、という気がしてくるんです。

今回この本に書いたことを、わたしはほんの6年前には何一つ知りませんでした。知るにつれ、ものすごく揺さぶられ、衝撃を受けたし、知ってから考えると、いろんなものが知らずに考えていた時とは別の見え方をする、という体験を重ねてきました。それなら、まずは、わたしが知ってきたものを知ってもらうことにも意味はあるかもしれない。そう思って書いた本です。

日本の尊厳死法制化を論じようという意図で書いたわけではないです。尊厳死法制化も含めて様々な問題を考える時に、その問題をそれまでよりもちょっと大きな景色の中に置いてみてはどうでしょう、という提案のようなもの、と言ったら、わたしの気持ちに一番近いかもしれません。もちろん、その「大きな景色」がこの本でなければならないわけではないし、わたしがこの本で描いてみた「大きな絵」は、わたしに見えている絵でしかないわけですけど、今の世界がどういう場所になろうとしているのか、今の時代がどういうところに向かっていこうとしているのか、考えてみるための一つの材料として読んでいただければ、と思います。

(2013年8月25日から29日 メールインタビューにて)

サムネイル「Life」Rachel Sarai

http://www.flickr.com/photos/sarairachel/7772677476/

プロフィール

児玉真美ライター

1956年生まれ。京都大学文学部卒。カンザス大学教育学部でマスター・オブ・アーツ取得。2006年7月より月刊「介護保険情報」に「世界の介護と医療の情報を読む」を連載中。2007年5月よりブログ「Ashley事件から生命倫理を考える」を開設。著書に『私は私らしい障害児の親でいい』(ぶどう社・1998)、『アシュリー事件~メディカルコントロールと新・優生思想の時代』(生活書院・2011)、『新版 海のいる風景』(生活書院・2012)。「現代思想」2012年6月号「『ポスト・ヒポクラテス医療』が向かう先~カトリーナ“安楽死”事件・“死の自己決定権”・“無益な治療”論に“時代の力動”を探る」。

この執筆者の記事