共鳴する「どうせ」で、いのちの選別を行わないために

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「どうせ」が広がった先にはどんな世界が?

 

―― 本書のキーワードの一つは「どうせ」ではないかと思いました。「どうせ〇〇だから」という気持ちが、あらゆる場面で働いてしまっている。この「どうせ」の呼応は、どのようなことを引き起こしうるのでしょうか?

 

ありがとうございます。まさに、その通りなので、分かっていただいて嬉しいです。

 

アシュリー事件の論争で起こったのは実はこの「どうせ」の共鳴・共有だったのではないか、とわたしは考えていて、そのことをあれからずっと考え続けてきました。「どうせ」という意識が人々の間で呼応し共有されていく時、実際の議論では言われていないことが暗黙のうちに了解・承認されていくように思います。

 

「死の自己決定権」や「無益な治療」論の議論で、対象者のスタンダードが少しずつ拡大していく現象にも、この「どうせ」が関わっているとわたしは考えているんですけど、終末期の人に限定されたはずの議論に植物状態や寝たきりの人が混じりこんできても、別におかしいとは感じない人が少なくない。その論理の不整合に気づかないのは、混じりこませる人の意識の中にある「どうせ」に、それを聞く人の中にある「どうせ」が呼応しているから、おかしいとは感じないんじゃないでしょうか。感じない人が増えるにつれて、「どうせ」の共有はさらに広がっていく。そうすると、理や言葉や思いを尽くした議論は空転し始め、「どうせ」が呼応する空気が勢いで押し流していく、ということが起こるような気がするんです。

 

でも、そんなふうに「どうせ」の共鳴・共有が暗黙のうちに広がっていった先にある世界というのは、どういう場所になっていくんでしょう。そういうことがすごく気になります。

 

 

「どうせ」に加担せず「無関心」で患者を見捨てない医療を

 

―― わたしたちが今後、尊厳死について考えるとき、どんな姿勢と視点が必要とされているのでしょうか?

 

「どうせ」の先にあるキーワードは「無関心」だと思うんですね。「どうせ○○な人だから」の先には、「だから、他の人と同じように考えたり扱ったりしなくてもいい」と、スタンダードを下げ、関心を引っ込める意識が待っているんじゃないでしょうか。

 

第3章で、障害のある人々がさまざまな医療現場に潜む「どうせ」によって、障害のない人なら当たり前にしてもらえる医療を受けられず、どんなに苦しんでいるか、時に命まで落としているか、わたしたち親子の体験と、英国と米国の報告書の内容を紹介しています。英国の報告書のタイトルは『無関心による死』です。この報告書が出た07年から、この問題とわたしたち親子の個人的な体験とを重ねてずっと考えてきて、問題の本質は、この「どうせ」とその先に続く「無関心」なんじゃないか、と考えるようになりました。

 

これはもうこの本を書き終えた後のことなんですけど、先日、米国の障害者団体「ノット・デッド・イエット(まだ死んでいない)」のCEOのダイアン・コールマンさんが、「障害者はたいてい終末期ではないが、終末期の人はたいてい障害者だ」と言っていて、なるほど~と思いました。なるほど、「どうせ障害者」という意識で医療のスタンダードを勝手に下げ、関心を引っ込める文化のようなものが医療に潜んでいるとしたら、障害者である終末期の人が同じ「どうせ」とその先に続く「無関心」を向けられるのも、その延長線上で自然に起こることなんだな、と納得したんです。

 

「どうせ障害者だから」「どうせ終末期だから」「だから丁寧なアセスメントやケアなんかしなくてもよい」という無関心の形もあると思うのですが、そういう無関心はまた、目の前の人が生きてそこにある現実の姿にも目を向けなくなる無関心、そして、人が一人、その人固有の1回こっきりの人生を生きて死んでいくということの中にある、簡単に言葉や論理だけでは掬いきれない複雑で微妙な思いに目を向けたり、丁寧に感じ取ろうとしない無関心でもあるんじゃないでしょうか。いったん「植物状態」と診断すると意識は「ない」と決めつけて探ろうともしなくなる無関心や、いったんドナー候補と認定すると救命よりも臓器の方を優先して省みないような無関心も、そこに繋がっているでしょう。

 

日本の尊厳死法制化の議論では「何が何でもあらゆる手を尽くして延命」か、それとも「一切の延命をせずに死なせる」のかといった、単純な二項対立の構図が描かれてしまいがちですけど、わたしたち患者の本当の願いというのは、本当にそのどちらかでしかないのでしょうか。わたしたちの本当の願いというのは、本当はそのどちらでもなくて、むしろ、そのどちらでもない、その両者の間のところに、きっぱり白黒つかない悩ましさや重苦しさを引き受けつつ「踏みとどまってほしい」ということではないでしょうか。そうして個々のケースの個別性の中で目の前の固有の患者や家族に寄り添い続けながら、固有の小さな判断を粘り強く丁寧に繰り返してほしい。それこそが、わたしたち患者の本当の願いなんじゃないかと思うんです。

 

それは「どうせ」に加担せず「無関心」で患者を見捨てない医療。過剰でもなく不足でもない、ほどの良い医療と、そのための繊細な配慮と判断。そして、それは、本当は終末期医療にではなく医療そのものに患者が望んでいることじゃないかと思うんです。だって、ごく単純に、それまでの医療でどんな人にも自己決定権やそれに準ずる手続が十分に保証され尊重されて、そうした権利の行使が患者にも家族にもなじみのあるものになっているというならともかく、終末期医療のところでだけ、しかも「医療を拒否する」「さっさと死ぬ」という方向でばかり自己決定が強調・尊重されるというのも、ヘンじゃないですか?

 

そういうことを考えてみると、終末期医療だけをそれまでの医療と切り離して云々し、尊厳死の拙速な法制化を議論するよりも、もっと手前のところに、まだまだ知るべきこと、考えてみるべきことがいっぱいあるんじゃないか、という気がしてくるんです。

 

今回この本に書いたことを、わたしはほんの6年前には何一つ知りませんでした。知るにつれ、ものすごく揺さぶられ、衝撃を受けたし、知ってから考えると、いろんなものが知らずに考えていた時とは別の見え方をする、という体験を重ねてきました。それなら、まずは、わたしが知ってきたものを知ってもらうことにも意味はあるかもしれない。そう思って書いた本です。

 

日本の尊厳死法制化を論じようという意図で書いたわけではないです。尊厳死法制化も含めて様々な問題を考える時に、その問題をそれまでよりもちょっと大きな景色の中に置いてみてはどうでしょう、という提案のようなもの、と言ったら、わたしの気持ちに一番近いかもしれません。もちろん、その「大きな景色」がこの本でなければならないわけではないし、わたしがこの本で描いてみた「大きな絵」は、わたしに見えている絵でしかないわけですけど、今の世界がどういう場所になろうとしているのか、今の時代がどういうところに向かっていこうとしているのか、考えてみるための一つの材料として読んでいただければ、と思います。

 

(2013年8月25日から29日 メールインタビューにて)

 

サムネイル「Life」Rachel Sarai

http://www.flickr.com/photos/sarairachel/7772677476/

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.267 

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