2013.09.27

自己表現は人を<癒す>のか? ―― 「大変な社会」を生きるために

『生きていく絵 アートが人を<癒す>とき』著者・荒井裕樹さんインタビュー

情報 #生きていく絵#新刊インタビュー#造形教室

人は自己表現しながら生きている。それでは、人は自己表現しなければ生きていけないのか? 自己表現は人にとってどれだけの意味があるのか。精神科病院・平川病院のなかで営まれている<造形教室>では、「心の病」を抱えたひとびとが、アートを通じた自己表現によって自らを<癒し>、自らを支えている。『生きていく絵』(亜紀書房)は、文学研究者の荒井裕樹氏が<造形教室>への取材を通じて考えた自己表現の意味や可能性を考えまとめた本だ。自己表現は人を〈癒す〉ことができるのか、そして社会にとってどんな意味があるのか、お話を伺った(聞き手・構成/金子昂)

さりげなく、やわらかな空気が流れる場所

―― 最初に、『生きていく絵』はどんな本なのかお話ください。

簡単に説明すると、東京都内の精神科病院・平川病院のなかで活動している〈造形教室〉を取材した本です。心を病む人たちのアートを通じた自己表現にはどのような意味や可能性があるのかを考えました。

―― その〈造形教室〉ではどんなことが行われているのですか?

心を病む人たちのアートと聞くと、多くの人は「アートセラピー」とか「作業療法」といったものを思い浮かべると思います。でも、そこの〈造形教室〉は、それらとはちょっと違う独特の試みがなされているんですね。

普通、「アートセラピー」や「作業療法」というのは、治療やリハビリを目的として行われます。そのため、精神科医・臨床心理士・作業療法士といった資格をもつ医療者が、患者さんたちの活動を指導したり、サポートしたり、場合によっては管理したりしています。

でも、この本でとりあげた〈造形教室〉には、そういった医療者がいないんですね。もちろんまったく無関係というわけではないのですが、適度な距離感を保っている。それで基本的には、この場を居場所に選んだ人たちが自由な時間にやってきて、それぞれが自分のペースで自由に絵を描いている。医療施設のなかにこういった場があるというのは、実はとても珍しいことなんです。

いままで何度も「本の舞台になっている〈造形教室〉ってどんなところですか?」っていう質問をいただいてきたのですが、答えるのがすごく難しいんですよね……編集を担当してくれた柳瀬さんも一緒に行ったことがあるのですが……。

柳瀬 時間の流れが独特でした。みなさん淡々と作業をされていて、どんどんと作品ができあがっていく人もいれば、ひとつの作品に何年もの時間をかけている人もいる。学校や職場で共同作業をするときは、漠然とみんなで同じ時間の流れのなかで働いていると思っている人がほとんどなのではないかと思いますが、〈造形教室〉ではひとりひとりがそれぞれの時間のなかで絵を描いているように映りました。

荒井 ぼくがなぜ〈造形教室〉に通ったかというと、そこの空気感がいいなぁと思ったからです。さりげなく、やわらかな空気が流れている。精神科病院のなかですから、みなさん何らかの「心の病」をもっています。大変な境遇のなかを生きのびてきた人も多いし、いま現在もつらく苦しい生活を強いられている人もいる。〈造形教室〉はそういった人たちを「支援」したり「サポート」する場所ではなく、なんとなく「一緒にいる」場所だといえるかもしれません。さりげなく、やわらかな気持ちで一緒にいることが、人を励まし、支えることができる。それがとても不思議でした。

OL_生きていく絵_カバー

人生の肯定的な意味を掘り下げる

―― 本書の中に、造形教室は「治す」ではなく<癒す>を目的としていると書いていました。どういうことなのかお話いただけますか?

病気になったら誰でも「治す」ことを考えますよね。「治す」というのは、医療者が患者に薬を処方したり、外科的な処置をしたりして、病気の原因や症状を取り除くことです。それはそれで必要なことだというのをお断りしたうえで付け加えると、「心の病」を「治す」というのは少し話が複雑になるんです。

「心の病が治る」というと、幻覚や妄想がなくなったり、抑うつ感が改善したり、といった状態をイメージすると思います。いまは精神薬も発達していますから、そういった症状を抑えながら社会生活をおくっている人もたくさんいます。でも、だからといって「心の病が治った」とは言い切れない部分があるんですね。

あたり前のことですが、「心を病む人」というのは、自分で勝手に苦しんでいるわけではないんです。家族や職場や学校といった生活の根幹に関わる人間関係に、自分の力ではどうすることもできない問題を抱えている場合が多い。そういった人間関係で生じる負の圧力が、弱い立場に置かれている人や、優しい気づかいをしなければならない役割を押し付けられている人に集中していて、それが個人の身体を通じて噴出していると考えたくなることがあります。そうすると、投薬や入院といった医療的な処置で症状を抑えることができたとしても、あいかわらず当人を取り巻く環境が生きにくいものだったとしたら、それは果たして「治った」と言い切っていいのか、判断が難しいですよね。

それから、「治す」というと、「悪い部分を除去する」というイメージがありますよね。内科的な疾患だと「悪い部分」というのは分かりやすんですけど、「心の病」の場合は難しい。「心」って漠然としていてよくわからない。でも「自分という存在の根幹に関わるもの」っていうイメージです。そうすると、「心の病を治す」という場合、自分のなかに「取り去るべき悪い部分」があるということになり、多かれ少なかれ自己否定の意味合いが含まれてしまいます。

「心の病」をもつ人たちには、ずっと人から否定され続けてきて、もうこれ以上否定しようがないというくらいの自己否定感を抱えている人が多い。だとしたら、「治す」ために自分を否定するということになってしまったら元も子もない。

〈造形教室〉の人たちのいう〈癒す〉というのは、「治す」とは違うようです。過酷な環境を生きなければならない人が、時々、痛いところを手でさすって温めてみたり、苦しい時に「苦しい」と口にしてほっと一息ついてみたり、というイメージですね。痛いし苦しいんだけれど、そんななかでも「生きている」という事実をひとまずは肯定しよう。そういったことを、アートという形で実践している人たちです。

〈癒し〉というのは、現場の実践からしぼり出された「生きていく知恵」みたいなものですね。病気が治らなくても、苦しい状況にあっても、症状が残っていても、その人の人生の肯定的な意味を掘り下げていくための実践です。医療や福祉が支えきれない部分を自分たちで何とかしようとする試みでもあります。

そもそも、ある限られた条件に合致した人でなければ自分を肯定できない、というのも変な話です。以前シノドスにも書いたことですが、その「条件」みたいなもののハードルが、この数年で高くなってきているように思います(生き延びるための「障害」――「できないこと」を許さない社会)。こんな時代を生きていかなきゃいけない私たちは、自分のことを肯定的に捉えられる価値観を少しでも多く持っていた方がいいんじゃないかと思うんです。少なくとも、自分を否定せずに済むような価値観のやわらかさは持っていたい。

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「作品の意味を語るにふさわしい言葉を探す」

―― 荒井さんはもともと文学研究者ですが、最近は障害や病気の問題などにずいぶん深くコミットした文章を書かれていますね。

ここ数年間、〈造形教室〉のような面白いことをやっている団体や、NPOに関わるひとたちの話を聞いています。だいたい小規模なところで、みんなフトコロは寒いんですが意気込みは熱くておもしろい。そういった現場でしぼり出された「生きていく知恵」は、本当に貴重です。

ただ、そういった人たちって、みんなプレイング・マネージャーなんですね。たとえば貧困問題に取り組んでいる人は、現場に出て相談を受けたり、炊き出しをしたり、役所に行って交渉したり、寄付を集めたり、街頭PRにいったりしている。日々の実践の中でたくさんの「生きていく知恵」を培っているのに、それらを社会に発信している余裕がまったくない。みんな息切れしながら、現場を走り回っています。

だとしたら、誰かがその人たちの知恵を発信するお手伝いをしてもいいんじゃないか、と思うんです。以前、日本の障害者運動の思想史について考えていましたけど、その仕事を通じて感じたのは、日本の障害者運動には現場で生みだされた哲学を分かりやすく社会に発信する語り手(ストーリーテラー)のような役割の人が存在しなかった、という点です。

こういった問題って、うまく発信しないと「特別な人たちが、特別な人たちに対してやっている、特別なこと」として受けとめられてしまって、同じ社会の「地続き」の問題として考えてもらえないんですね。だから、この本も「発信」という形で〈造形教室〉のお手伝いのようなことがしたかったんです。

あとは単純に、〈造形教室〉の営みについて、ぼく自身が言葉にしてみたいという衝動に駆られたというのもあります。文学畑の人間として、言葉を通じてこの人たちに関わりたいと思ったんです。うまく言葉にできているかどうかは読んでいただいた方に判断してもらうしかありません。

本木健『韜晦』油彩、130.3×162㎝、1999年
本木健『韜晦』油彩、130.3×162㎝、1999年

―― この本は文体が印象的でした。「です・ます体」で、とても読みやすく親しみやすい文章でした。学術書を書かれてきた荒井さんとしては、なにか心境の変化のようなものがあったのですか?

そうなんです。この本はあえて「学術書」「研究書」という枠組みを外すようにして書きました。実はそこが一番苦労したんです。〈造形教室〉に通ううちに、「この人たちについて書くとしたら、学術論文の文体では書けないな」と感じていました。

というのは、〈造形教室〉の人たちの絵や言葉を「解釈」したり「分析」したりしたくなかったんです。人間関係のなかで弱い立場に置かれている人というのは、強い立場の人から心中を勝手に解釈されたり、人生を都合よく意味づけられてきたりしているわけです。心を病む人や、障害を持つ人というのは、特にそういう傾向があると思います。

「解釈」という形でもなく、「分析」という形でもなく、他者の作品や人生の意味について語ることはできるのか。ぼくには一つの挑戦でした。なので、この本は〈造形教室〉の人たちと一緒に「作品の意味を語るにふさわしい言葉を探す」ことからはじめました。本当に「言葉さがし」という感じでしたね。結果的に、このような少し不思議な文体になりました。

生きていくために「創造的に信じる」

―― 精神科病院のなかのアート活動というと、なんだか「孤独」「孤高」といったイメージがあります。でも、この本を読むと、〈造形教室〉の人たちは作品を誰かに見せることを大切にしているように読み取れます。絵は、表現すること自体に意味があるのでしょうか? それとも展示したりして、誰かに見てもらうことが必要なのでしょうか?

端的にお答えすると、やはり絵は誰かに見てもらった方がいいんだと思います。見てもらわなければ意味がないとは思いませんが、見てもらうことの意味はきっとあると思います。

〈造形教室〉の人たちからは、「表現」というのは発信者と受信者のあいだに成り立つということを学びました。絵って、物理的に突き詰めれば紙と顔料の層ですよね。それが〈癒し〉に通じるような大切な「表現」になるかどうかは、描く側の問題であると同時に、見る側の問題でもあるんです。そこにはきっと、かけがえのない何かが込められているんだと、お互いに信じられるかどうかが大切なんです。

この本では、「自己表現は人を〈癒す〉ことができるのか」という問いを冒頭で行っています。この問いは「表現」する側だけの問題ではなく、受け手の側が、その表現に尊厳を見出すような想像力と感受性を備えているだろうかという問いかけでもあるんです。

「尊厳」って手に持てないものだし、レントゲンにもMRIにも映りません。みんなが尊重をすればあるものだし、しなければないようなものです。言ってみれば、想像力と感受性の問題なんです。「測る」ことも「量る」ことも「計る」できないけれど、それでもきっと「在る」ものを描いて人びとに問いかけること。それがアートの力だと思っています。

―― 本のなかの「想像力と感受性を社会資源に」という一節が印象的でした。この点について、もう少し詳しくお聞かせください。

「想像力と感受性を社会資源に」って思わず書いてしまいました(笑)。何だか感傷的な夢物語のようですが、でも、ぼくは結構本気で考えています。

たとえば、まだまだ不十分ですけど、生きづらさを抱えている人たちを支援する制度は少しずつ整いつつありますよね。でも、制度が整うことで逆に新たな生きづらさが出てきてしまうこともあるんです。

認定NPO法人フローレンスの駒崎弘樹さんは、病児保育制度を充実させようとがんばってらっしゃいます。ぼくもいま育児の真最中なので、こういった活動をしてくれる人がいることは本当にありがたい。ただ、病児保育の制度が整うことで「病気の子どもも預けられるんでしょ? だったら仕事来なさいよ」と言われてしまう可能性が出てきますよね。実際、これに近いことはすでに言われています。でも病気の子どもを預けることって、心理的な負担はとっても大きいんです。びっくりするくらい大きい。とてもじゃないけれど、そんなこと簡単に言わないでほしい。

誤解のないように断っておくと、ぼくは駒崎さんという方を信用しています。駒崎さんの文章には、社会全体の働き方に関する意識を変えなければならないという主旨の注釈が必ず付いていて、制度の先の問題も見据えています。合理的に理解できるし、心情的に納得もできる、いい文章を書かれる方だと思います。

制度が整うことで生きやすくなる。でも逆に、制度が整うことで生きにくさを覚えることもある。制度は、それを必要とする人に対する想像力と感受性が一体となって、はじめてうまく機能するんじゃないでしょうか。ただ、そういった想像力と感受性を社会全体で培っていくことは、制度そのものを作るより難しいかもしれません。

尊厳とか、想像力と感受性とか、ぼくの身の丈に合わない壮大な話になってしまいました。この本一冊で、そういったものが社会に根付くなんて思っていません。でも、そういったものを信じて書き続け、発信し続けることが大事なのだと思うんですね。

なんだか、大海の水をスプーンで汲み出そうとするくらい果てしない話です。スプーンでいくら海水をすくっても、合理的に考えれば海の水は減りなどしません。でも、海の水はスプーン一杯分だけは減ったのだと、創造的に信じることはできます。人が生きていくためには、ときにはそういった「創造的に信じる」ような感性が必要なんです。

アートは「きっと、あるといいもの」

―― 「こんなに社会が大変なときに、アートって何かの役に立つのですか」という質問を幾度となく投げかけられたとお書きになっていました。あえてお聞きしたいのですが、アートって何かの役に立つのでしょうか?

何度聞かれても、お答えするのが難しい質問ですね(笑)。

たしかに、アートは「大変な社会」を直接的には変えられないと思います。たとえ変えられたとしても、ものすごく時間がかかる。そんな時間を待っていられない人には、それは「役に立たない」と同じことだと思います。でもアートは、そんな「大変な社会」を生きていくことに力を貸してくれるかもしれません。

ぼくはアートについて、崇高なものだと楽観もしなければ、何の役に立たないと絶望もしません。「きっと、あるといいもの」くらいに考えればよいのだと思います。でも、人はときとして、ぎりぎりのところでそれに支えられることがあるんです。その事実を、この本では伝えたかったんです。

作家の重松清さんが、思い悩んでいる子どもが今日という日を眠れるために小説を書く、という旨のお話をされていて、いい言葉だなぁと思いました(『どんとこい、貧困!』〈イースト・プレス〉での湯浅誠さんとの対談)。だから私も、この本が何らかのかたちで「いま痛い人」に届いて、その人が一瞬でもほっと一息つけるようなきっかけになればいいなと思っています。

それにしても、この本で取材に協力してくださった方には、もしかしたらいい迷惑だったかもしれません。大切なのは、その人たちが静かに絵を描ける環境を守ることですから。ぼく自身もこれを書いていいのかどうか、ずいぶん迷いました。でも、どうしても言葉にしたかった。ご理解・ご協力くださった方々には本当に感謝しています。

東日本大震災のあと、いままでなんとなく「これが自分の仕事だ」と思っていた人たちが、「本当にこれでいいのか」と考えるようになったと思います。ジャーナリストの佐藤慧さんの『ファインダー越しの3.11』(原書房)という本が好きなのですが、佐藤さんはこの本で、悲惨な状況を前にしてシャッターを切るのが本当に正しいことなのだろうかと戸惑いながら、それでも自分にはこれしかできないのだから、できることから始めようと書いているんですね。たしかに、人はできることを、できる範囲でやるしかない。戸惑ったり、立ちすくんだりしながら、でもやるしかない。

江中裕子『拘束』コラージュ、162×130.3㎝、2004年
江中裕子『拘束』コラージュ、162×130.3㎝、2004年

―― 最後に読者の皆さんに一言いただけますか?

「アート」って聞くと、「専門的な知識がないと分からないんじゃないか」とか、「特別な人がやる特別なことなんじゃないか」と思ってしまう人がいるかもしれません。でも、そんな風に身構えず、軽い気持ちでこの本を手に取ってください。

「心の病」についても、「特別な人たちの、特別な話」では決してありません。さっきも言いましたけど、この本では、これらの問題について「地続き」のものとして考えてもらえるように書いたつもりです。

この本では〈造形教室〉の方の作品を図版として使用させてもらいました。これらの作品は本当に素晴らしいと思います。まずは、図版だけでも眺めてもらえたら嬉しいですね。

(2013年9月18日 渋谷にて)

プロフィール

荒井裕樹日本近現代文学 / 障害者文化論

2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科特任研究員を経て、現在は二松学舎大学文学部専任講師。東京精神科病院協会「心のアート展」実行委員会特別委員。専門は障害者文化論。著書『障害と文学』(現代書館)、『隔離の文学』(書肆アルス)、『生きていく絵』(亜紀書房)。

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