2014.02.07

なにを壊され、なにを奪われ、なにを背負わされたのか

『人間なき復興』著者・市村高志氏インタビュー

情報 #東日本大震災#新刊インタビュー#人間なき復興

福島第一原発事故から3年が経とうとし、今もなお10万人以上が避難生活を続けている。今、原発避難をめぐり何が起こっているのか。社会学者と被災当事者の21時間にも及ぶ議論を基に、『人間なき復興』(明石書店)が昨年11月に上梓された。今回は、共著者の一人で、被災当事者である市村高志氏に話を伺った。(聞き手・構成/山本菜々子)

帰りたいけど帰れない

―― 市村さんは震災以前どのような生活をされていたのでしょうか。

震災が来るまで、私は福島県富岡町でパソコンの修理や業務システムの構築、生損保の保険代理店などの仕事をしていました。震災当時、中学生の子どもが2人と小学生が1人。私の年老いた母とも同居して6人家族で暮らしていました。3月11日はちょうど長女の中学校の卒業式でした。地震が起きた時は帰宅途中で、ちょうど買い物に立ちよった店の駐車場にいました。

そして、私達は訳も分からず「着の身着のまま」避難しました。私達だけではなく大半の住民が一週間や、長くても1カ月程度で帰れるものだと思っていたんです。だから、こんなに何年も帰れなくなるとは思ってもみませんでした。

―― この本は住民の方の「帰りたい」「帰りたくない」という複雑な思いを無視して帰還政策がすすめられていることに疑問を投げかけていましたね。

被災した当初は、とにかく多くの住民が「富岡に帰りたい」と思っていました。ですが、第一原子力発電所の一号機と三号機が爆発し、放射能汚染の状況も明らかになってきました。するとだんだん「富岡に帰りたいけど」と「けど」がつくようになってきます。

早いところで震災の年の6月頃から一時帰宅がはじまります。そこで、大半の住民が「帰るのは無理だろう」と感じはじめました。家が地震でガタガタになっていて、割れた茶碗が散乱していても片づけられない。放射能物質が入ってくるからと窓も開けられない。その状態でどうやってここに帰ればいいんだと感じましたね。

だんだんと「帰りたい」「帰りたいけど」「帰れねぇんだ」という風になっていった。ですが、テレビや新聞などでは、「帰りたい」という方々の涙ながらの声が報道されました。それが画になると言われればそうなのかもしれません。

私の母も「帰りたいなぁ。でも、帰れないな」とよく言うんです。そして、福島に戻る人をみて「やっぱり、みんな帰るんだなぁ」と言うんです。「帰りたい」のか「帰りたくない」のかどっちなんだよと、ぼくは思うんですが、その感情はすごくよく分かるんです。

放射能の問題だけではなく、道路も整備されていない、働くところもない、家の修理もしないといけない。様々な要因が重なっていて、何よりも事故を起こした発電所の状況が不確定である事。当事者としてみれば「帰りたいけど、帰れねぇ」となってしまう。

私と同じく避難をして、津波で家が流されてしまった方がいました。彼は「おめぇらは良いよな、家も土地もある」と言って、なかなかぼく達と話してくれなかったんです。その人は全部流されてしまったから、写真一枚しかなかった。

でも、少しづつ話すようになり、一年ほど経って、その方が別の場所に引越しをする時に、「おめぇらは可哀そうだな」と言われたんです。「俺たちは何にもないから、次にいくしかないけど、おめぇらは家も土地もあるもんな」と言われたんですよ。その言葉がすごく私の心の中に残っています。もし、全部家がなくなっていたら「帰らない」という判断がしやすかったのかもしれない。でも、それとは違う様な気がしています。

―― 単純に「帰りたい」という言葉だけで語りきれる問題ではないんですね。

しかし、現在はこういった複雑な「帰りたいけど、帰れない」という気持ちがおざなりになっています。当初の「帰りたい」という声だけが取り上げられ、帰還政策として進められようとしている。帰るか帰らないかという二者択一を一方的につきつけられる可能性があるんです。

この本の著者の一人である、山下さんと話していて分かったのは「避難」を解消するためには、「元の場所に帰る」ということが前提だということです。法学的にはそういうイメージになっているらしい。それは、放射能汚染を想定していない制度です。

今、政府は「除染」をするから、帰ることが可能になると言っています。しかし、本当に安全なのか? と感じてしまいます。誰の責任でここに住んでいて大丈夫だと言っているのか。「大丈夫」と言われても、避難した時の恐怖感は忘れられません。放射能は目に見えないからこそ、より恐怖を感じてしまいます。

私達だって帰りたいです。放射能のない地域に帰りたいんです。でも、放射能を完全に無くす方法は確立されていませんから、そんな願いが叶わないことは、なんとなく感じています。でも、他の人から「もう帰れないでしょ」という言い方されると、お前に言われたくないという反発も出て来る。そういうジレンマもあります。

「帰りたいんでしょ」という言葉も、「帰れないでしょ」という言葉も、どっちもしっくりこないんです。その「違和感」を上手く言葉で伝えられない。どう言っていいのか分からないから、怒りになってしまう。「そんなこと言うんだったらおめぇらが住んでみろ」と。でも、それは本心ではないというか、気持ちを上手く表現できないからそう言ってしまうんですよね。

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遠きにありて

―― この本は、山下祐介さん・佐藤彰彦さんの社会学者お二人と、市村さんとで議論しているのを基につくられていますよね。市村さんは被災当事者の方の声を代弁する役割をしていると思うのですが、3人での話合いの中で発見などはありましたか。

私は、被災後「とみおか子ども未来ネットワーク」という団体の代表をつとめ、何度もタウンミーティングを行ってきました。この本で出ている事例は、ぼく個人の見解というよりも、タウンミーティングで話し合われたことと言ってもいいかもしれません。震災から1年2年経った当時のぐじゃぐじゃとした住民たちの気持ちが詰まっているんです。

はじめ山下さんが「話を聞かせて欲しい」と来た時、私達はとっても怒っていました。とにかく、混乱していて怒り以外の表現方法がよく分かりませんでした。ですので、山下さんには「あんた達何しに来たんだ」って厳しい言葉を投げかける時もありました。

でも、言葉にするうちにこのもやもやとした違和感が整理されていきました。編集され本になることで、より明確になっていった。話をするまではふわふわしているものをつかむような気持ちだったんですが、今はもう少し具体的なものをつかめるようになってきました。これからは、次はどうしたらいいのかという話をしたいと考えています。

市村高志氏
市村高志氏

―― 本の中で印象的だったのは、失ったのは「ふるさと」ではなく「人生」だという言葉です。

私達は福島が「ふるさと」なのではなく、「ふるさと」になってしまったんです。強制的に「ふるさと」にされてしまったと言えます。室生犀星の詩に「ふるさとは/遠きにありて/思ふもの」という一節がありますよね。それをすごく実感したんです。

タウンミーティングで、「富岡ってどういうところだったか」という話をよくします。でも、震災以前はそんな話していなかったんです。急に話がしたくなるのは富岡が「ふるさと」になってしまったからなのかもしれません。震災が起こる前は、「町のいいところはどこですか」と言われても、自分達がどういう町に住んでいるのか分からないから答えられなかった。でも、「ふるさと」になってはじめて自分の地域のことを考えて、その良さを捜すようになるんです。

今まではとにかく、町があることが当たり前でした。みんなで公民館に集ったりして、そこに行ったら仲のいい友達がいたり、成人式にとりあえずあそこに行けばいいかなとかそういう感覚で。あまりにも当たり前だったので、失ってみてその大きさに驚いています。やっぱり人間は一人では生きていけないんです。震災前は、自分の力だけで生活している気持ちになっていました。震災で分かったんですよね。それまで考えたことなかったんです。

それまで当たり前だったことが、どんどんなくなってしまう。それを私は「人生」がなくなったと思いました。自分が思い描いていた人生設計が、自分の要因や身内の要因でもなく、他者の要因で、切られてしまう。何を壊されて、何を奪われて、何を背負わされたのかよく分からない。その一番手っ取り早い表現が「人生」だったんです。

そこから、新しい人生を生みだそうとする時間というのは、人によってそれぞれに違いますが、とてもエネルギーが必要なことは確かです。でも、みんな動かないと不安なんです。がむしゃらになって動いていれば忘れられます。でも、忘れているだけであって「被災者」というレッテルが貼られたら、一生涯取れる事がないのです。

中学・高校生ぐらいの子ども達は「自分達のことを被災者と言って欲しくない」という声がすごく多いんです。彼らが差別を受けていたり、いじめを受けているわけでもないんですが、なぜかみんな言いますね。うちの子どもも、福島から来たことをあまり周囲に言いたがりません。一度話をした時に、「あの放射能のとこね」と言われてしまった。それからもう言うのをやめてしまったんです。

「富岡町出身だ」と胸をはって言えない。こんな不幸なことはないとおもいます。自分にどこか嘘をつき続けなきゃならない。自分の子にそうやって生きていけと言いたくないですよね。

私達は仲間内で、「富岡の出身であることを胸を張って言いたい」という話をするんです。でも、だんだん富岡のアイデンティティも薄れてくるんじゃないかと感じています。アイデンティティって生活をしていく中で生まれてくるものだと思うんです。

通っていた小学校だったり周囲の風景だったり。東京だって、建物はどんどん変わっていくかもしれませんが、なんとなくの町並みは残っていたりするじゃないですか。それが根こそぎなくなってしまったわけです。もし、震災当時2歳くらいだった子どもは、富岡ではなく、避難先にアイデンティティを持ちます。そうなってくると、富岡という地域は消滅してしまうんじゃないかと危機感を感じています。

「なじょすっぺなぁ」

福島県富岡町
福島県富岡町

実は、原発のことも事故が起こるまで真剣に考えたことはありませんでした。悔しいですが、ずっと安全だと思って生活していました。町に原発があることは当たり前だったんです。

よく、「散々恩恵をもらってきたから文句なんて言えないだろう」と言われます。でも、その「恩恵」ってなんだろうと思うんです。今、私達は土地に戻れないし、行くだけで健康被害があるかもしれない。確かに賠償はされますが、元の生活が戻ってくることはありません。

大きな企業があって地域が経済的に成り立っているような場所は日本各地にもあるはずです。それと同じように東京電力が福島にもありました。しかし、原発という話になると「なんでこんな危険なものを誘致したんだ」という話に変わってしまいます。

いま、除染作業で発生した廃棄物を補完する中間貯蔵施設を、事故を起こした原発付近に建てようという声が出ています。なんだか「一度汚れたんだからここにおいてしまえ」という感覚が伝わってきます。押しつけられた側からすれば、こんなにも理不尽なことがまかり通るんだと思いますね。永久的なものではなく、30年以内に福島県外で処分場を捜すという話ですが、本当にそうなるのか疑問です。自分のふるさとが「汚物を置いていいんだ」と思われている。それはすごく辛いことです。

なんか、福島の話って辛いんですよ。原発のニュースを聞く度に、にっちもさっちも行かなくなっているのではと胸が痛い。自分の「ふるさと」に向き合って考えるのは、精神的に大変なことです。だから断ち切ってしまいたいという気持ちも分かります。誰だって夢のある明るい話がしたいですから。

一方で、原発の問題が忘れられてしまう恐怖もあります。過去の過ちをなかったことにして進んでしまったなら、結局なんにも改善されないままになってしまう感覚がぼくの中にあるんです。でも、声を上げても聞く人がいなかったらただ「騒いでいる」と思われてしまう。でも、言わなきゃいいのかと言われると、基本的に民主主義って声を発しなければ合意していることになるルールですからね。

私は、町のパソコン屋だったんで、今まで地域だとか、民主主義だとかそんなこと深く考えたことがなかったんです。仕事をして家族を養っていくので精いっぱいでした。住民のほとんどがそうだったと思います。でも、震災や事故が起きて、自分たちの目の前に大きくて複雑な問題が立ちはだかった。どうしても、考えざるを得なくなったんです。

福島のことを考えていると、とてつもなく複雑で数えきれないほどのピースがあるパズルを組み合わせているような気持ちになります。原発の問題はありとあらゆる問題が関わっています。今回の事故で、今まで様々な要因で組み合わされていたはずのピースが、一瞬でバラバラになってしまった。どことどこを組み合わせれば元に戻るのか、必死で考えて、良さそうな組み合わせが見つかったと思ったら、放射能に一度汚染されたらなかなか元に戻らないことが分かってしまった。だから、持ったピースをどこに置いたらいいのか分からない状態なんです。

今は、「なじょすっぺなぁ(どうしよう)」という言葉しか出て来ません。でも、時間はどんどん過ぎていきます。避難先での生活がありますから、福島のことばかりをみているわけにもいきません。でも、前ばっかり向いてるわけにもいきません。「ふるさと」の現実と向き合わなければいけない。バランス良くやっていくことがこれからの課題ですね。

プロフィール

市村高志NPO法人とみおか子ども未来ネットワーク理事長

1970年生まれ。3.11の震災と原発事故により福島県富岡町から東京都に避難している。現在は「NPO法人とみおか子ども未来ネットワーク」の理事長。震災時は富岡町立富岡第二小学校PTA会長をしていた。論考に「私たちに何があったのか」(青土社『現代思想』2013年3月号)「いま親として、大人としてすべきこと」(福村出版、子育てと支援と心理臨床Vol.6)など。

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