2016.02.26

未来へ向けて選ぶべき戯曲はどれだ!?――第60回岸田戯曲賞をめぐって

山崎健太(演劇研究・批評)×落雅季子(劇評家/BricolaQ)

文化 #岸田國士戯曲賞

去る1月、第60回岸田國士戯曲賞(白水社主催)の候補作8作品が発表されました。若手劇作家の奨励と育成を目的とし、新人の登竜門とされることから「演劇界の芥川賞」とも呼ばれる岸田戯曲賞。ならば、芥川賞のように賞のゆくえを予想し、作品についてあれこれ語ってもいいではないか!ということで、若手劇評家による岸田賞対談をお届けします。8つの戯曲と向き合うのは、演劇研究・批評の山崎健太さんと、劇評家で演劇賞の審査員も務める落雅季子さん。受賞作の予想もします。選考会および受賞作の発表は2月29日です。

岸田國士戯曲賞(岸田賞)とはどんな賞ですか?

山崎 よく「演劇界の芥川賞」と呼ばれますが、大きくはズレていないと思います。

落 演劇の賞としては、読売演劇大賞や菊田一夫演劇賞のような大きなものから、私も審査員を務める「CoRich舞台芸術まつり!」のような小劇場を対象としたものまでいくつかありますが、たとえば読売演劇大賞には俳優部門や演出家部門などがあるのに対して、岸田賞は「戯曲」を対象とする賞なんですね。

山崎 芥川賞と似ているのは「新人賞」だというところですね。しかし、あらためて過去の受賞者を見ると、総じてその後も活躍しているよね。

落 演劇の初心者にとっては、岸田賞をとった劇作家をまず見に行くのがおすすめですね。

山崎 作家の経歴を勘案して「そろそろあげておこう」みたいなところは、まったくないとは言わないけど、芥川賞ほどはないと思います。選考の際に、作品そのものに対する評価にウエイトが置かれていて、特にここ最近はその傾向が強い。

落 それはやはり、選考委員たちの、演劇というジャンルそのもの、戯曲というジャンルそのものに対する心意気が強いからだと思うんですよね。

選考委員はどんな人?

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《選考委員》

岩松了、岡田利規、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、野田秀樹、平田オリザ、宮沢章夫(50音順)(白水社サイトより)

落 今年から、松尾スズキさんと松田正隆さんが抜けて、平田オリザさんが選考委員に入りました。

山崎 過去10年分の選評を読み直してきたんだけど、今の選考委員は、「読める」だけでなく、自らの読みを言葉として表に出すことにも長けている、批評的な能力にも優れた人が多い。どんなタイプの戯曲にも対応できる柔軟な人たちだと思う。そういう前提があったうえで、たとえば岡田利規さんは、自らが上演至上主義だからこそ、逆に戯曲に与える賞であることの意義を強く意識している。

落 たとえば58回(2014年)は飴屋法水さんの『ブルーシート』が受賞したんですが、あれはいわきの高校生たちとつくるということが大きな意味を持っている作品でした(注)。作品がよくなければノミネートされることはないので、すぐれた作品であることは間違いないと思うけど、そういう作品に戯曲の賞をあげるのはどうなのか。という問題提起をした回でしたね。そういうふうに岸田賞は、演劇と戯曲の定義を問い直す、1年に1回の大きな機会だと思います。

(注)福島県立いわき総合高校の演劇コースを選択している生徒たちと共同作業をし、同校のグラウンドで二日間上演された。

落 もうひとつ芥川賞との大きな違いは、(同時発表される)「直木賞がない」ということです。岸田賞に相当するエンタメ戯曲の新人賞がないので、すべて同じ土俵で評価される。だからこそのごった煮感があって、評価が割れるということはあると思います。

山崎 『ブルーシート』の翌年が『トロワグロ』(山内ケンジ、城山羊の会主宰)だったんですが、この二つの作品はタイプが全然違う。大震災と真摯に向き合った『ブルーシート』に対して、『トロワグロ』はすごくよくできた下ネタブラックコメディ。じゃあ単に直木賞的なエンタメ作品かと言うと、日本語表現の特徴をうまく使ってセリフが書かれていたりして、そういう意味では芥川賞の要素も入っている。

今年のノミネート作品

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白水社サイトより)

落 ひとつずつ見ていきましょうか。

山崎 今回、個の対談のために候補作の戯曲はひと通り読んだけど、上演は全作品見ているわけではないんだよね。二人とも、神里雄大『+51 アビアシオン,サンボルハ』、タニノクロウ『地獄谷温泉 無明ノ宿』、山本健介『30光年先のガールズエンド』、三浦直之『ハンサムな大悟』は見ている。

落 そうですね。過去の作品も含めて一度も見たことがないのは、柳沼昭徳さん。烏丸ストロークロックという劇団を主宰していて、京都を中心に活動している人です。

山崎 じゃあ、見たものからいきますか。

山本健介『30光年先のガールズエンド』

あらすじ:18歳の女子高生 4 人組ガールズバンド・ワンドエイトとその12年後、30歳になった彼女たち。スタジオでメンバーの一人を待つ彼女たちとそこに居合わせた人々とのやり取りは未来を思い描く過去と過去を振り返る未来をシームレスに行き来する。描き出されるのはそれぞれが立つ「現在」の姿だ。(山崎)

山本健介:1983年生まれ。埼玉県春日部市出身。早稲田大学第二文学部卒。The end of company ジエン社 主宰、劇作家、演出家。

落 山本健介さんの作品の特徴は「同時多発会話」です。セリフが重なる。台本もずれがわかるように、視覚的に書かれていますね。

山崎 同時多発会話と言えば平田オリザの青年団ですが、青年団の同時多発会話が自然さを作り出すことに一役買っているのに対して、山本さんのジエン社では、別々のところに属しているはずのものが舞台上で同時に起きることによって何か別の効果を生み出す、ということが行われます。それも、3カ所4カ所で同時にしゃべっていたりとか、属する時空間も複数だとか、誰がどこで何をしゃべっているのかわからなくなるぐらいのことが舞台上で起きる。

落 部屋の中と、町の雑踏での会話が、同時に起きたりする。

山崎 しかも、混線して聞こえるように調整しているところがある。こっちのセリフの頭が、こっちのセリフのお尻とつながったりとか。そうすることによって本当だったら会話をしてない人たちが会話をしているように見えたり。

落 時間と空間の使い方が巧みですよね。

山崎 今回の『30光年のガールズエンド』では、シチュエーションが音楽スタジオに限定されていて、時も現在と過去の2種類しかないので、いつもに比べて非常に整理されています。

落 だけど、18歳という「過去」から30歳という「未来」を振り返るようなねじれを持っている。でも、そのねじれを逆にストレートに描いているとも言えるのかな。

山崎 12年を挟んだ二つの時間を行ったり来たりするんだけど、18歳の時点で出会う大人からの「そんなことやっててもどうにもならないよ」という上から目線と、18歳の女の子たちが30歳になって大人としての自分から過去の自分を見る視線、二重になっているんですよね。18歳の彼女たちも30歳の自分を思い描いたりする。そういう視線の多重化が構造としてうまい。それぞれに「現在」の自分を見つめて、どう生きるかということを真剣に問うている。

落 あと、砂川という音楽スタジオの経営者がいて、彼は18歳の女の子たちをドヤ顔して見下さない大人。そういう2種類の大人の対比も見えますね。

山崎 一方で、ドヤ顔している大人にももの悲しさや苦さみたいなものがある。だから、人生というか、人間の複雑さから逃げてないなと思うんです。

落 タイトルもロマンティックでキャッチーで、いいよね。

山崎 18歳と30歳だから本当は「12光年先」じゃないかとも思うんだけど(笑)。初演時から12年前というと震災前になるわけで、過去に向ける目線という意味ではここに書かれている以上の射程も含んでいると思う。前からジエン社を見ている人は、山本さんの最も尖った作品とは思わないかもしれないけど、いいところがわかりやすいかたちでまとまっていることは間違いないと思います。

落 私もそう思います。私の2015年のベスト5(http://d.hatena.ne.jp/bricolaq/20151231/p1)に入れたぐらい、すばらしい作品でした。

神里雄大『+51 アビアシオン,サンボルハ』

あらすじ:ペルー移民の祖父母を持つ、神里雄大のルーツをめぐる旅をもとにした作品。大正時代の演劇人・佐野碩や、ペルーに移民向けの施設をつくった実業家・神内良一など様々な人物が登場し、幻惑的な雰囲気を醸す。タイトルは、ペルーの国番号と、神里の祖母の家がリマのサンボルハ地区アビアシオン通りにあることに由来する。(落)

  

神里雄大:1982年生まれ。ペルー共和国リマ市出身。早稲田大学第一文学部卒。岡崎藝術座 主宰、作家、演出家。

落 この作品の特徴は登場人物たちの長い独白の台詞が続くということですね。

山崎 神里さんは一つ前の『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』でも岸田賞の候補になっているんだけど、そのあたりからモノローグ主体のつくりになったよね。前からその傾向はあったけど、よりいっそう過激になった。

落 『〜ブラックコーヒー』のあたりから、一人称の長台詞において、語りかける対象を要請してくる感じが強まってきてます。なので、観客とのダイアローグだとも言えるんですよね。こちらの首ねっこをつかんで話しかけてくるような……。それが『〜アビアシオン』で強く認知され、最新作の『イスラ!イスラ!イスラ!』でさらに強まった。

山崎 強まりすぎて、それだけになってしまった(笑)。『イスラ!〜』は役名も何もなくなって、最初から最後までモノローグの作品。

落 『アビアシオン〜』に話を戻すと、神里さんは、おじいさまおばあさまがペルー移民なんですね。ご両親は日本で出会われて結婚したんですが、お父さんの仕事の都合で神里さんはペルーのリマで生まれた。今もペルーにお住まいのおばあさまに会いに行ったり、おじいさまのルーツである沖縄をめぐったり、という体験が反映されています。相当取材している。

山崎 この作品がうまいのは、自伝的ではあるんだけど、演出家・佐野碩と実業家・神内良一という二人の人物を引っ張りこむことによってさらに射程を広げているところ。

落 体験は神里さんの個人的なものだけど、それは戯曲の言葉を走らせる装置にすぎなくて、彼じゃないと演出できないわけじゃない。私は、他の人が翻案して上演するのを一度見てみたいです。

山崎 『イスラ!〜』は特にそう。戯曲から少し離れるけど、岡崎藝術座の舞台を見ると、俳優の謎の存在感だけが印象として残るみたいなことが往々にして起こる。

落 極彩色の油絵みたいな舞台だよね。

山崎 異様な迫力がある。上演からは特に感じるし、戯曲だけ読んでもやっぱり言葉だけで存在感が際立ってる。言葉だけでこの存在感というのはやっぱりすごいと思う。

落 岡崎藝術座の作品に「共感」を見いだすことは難しい。「うんうん、わかる」と言いたい人にはたぶん面白くないです(苦笑)。でも、知らないものを圧倒的に見せてもらえる感じがあって、「自分に見えているものだけを世界だと思うなよ!」みたいな強烈なメッセージをいつも浴びる。その経験は私にとってはすごく重要なものですね。

山崎 使われてる言葉自体が強烈。

落 比喩とか、言葉の選び方が独特ですよね。

山崎 まったく意味がわからないわけではないんだけど、引っかかるところがあちこちにある。

落 たとえば、116ページ(新潮2015年6月号)の上の段、「演劇を通じ、乳首を出した社会を見つめ」とか。

山崎 ごめん、そこは本当に意味がわからないわ(笑)。

落 あと、最後に主人公が劇場に見に行く芝居のタイトルが強烈。『人類皆右傾化(男根主義)』っていうやつ(笑)。そうかと思えば、会話でいきなり「そうかいそうかい創価学会」とか言い出す。こんなにグローバルな題材なのにギャグが完全に日本語依存っていうね。

山崎 自分に対しても茶々を入れるようなところがあるんだと思うんだよね。神里さんの「本気かどうかわからない感じ」というのは、けっこう大事だと思う。『アビアシオン〜』では特に、演劇をやっている人自体を相対化するような、ちょっと虚仮にするような言葉も出てきて、どこまで本気で言っているのかわからない。政治的なイシューも確実に主題を構成してるんだけど、真正面からメッセージをぶつけるような作りには絶対にならない。

落 演劇というもの自体が政治的であるということを実践している。

山崎 それをするためにギャグが必要になってくるということだと思う。本気かどうかわからないということは、本気かどうかを考えさせられるということだから。さっき「わからないわけではない」と言ったけど、作品全体としては「なんだったのかわからない」というような印象が、やっぱり残るよね。

落 だけど面白い。「わからないのに面白い」って最強!

三浦直之『ハンサムな大悟』

あらすじ:生まれた時に父を失った大悟は、父の眠る地面に触れることで愛を感じる少年だった。恋を繰り返す博愛的なママ、成長をともにする同級生たち、そしてふしぎな手を持つ大悟に惹かれたたくさんの女の子の姿を通して、愛するものに触れることの優しさとせつなさを描く、大悟の一代記。(落)

三浦直之:1987年生まれ。宮城県出身。日本大学藝術学部演劇学科中退。ロロ主宰、劇作家、演出家。

山崎 『ハンサムな大悟』の上演はすごく面白かった。

落 面白かったですね。

山崎 でも、戯曲を読んでみて思ったのは、かなり構えとして大きい作品ではあるんだけど、前半がちょっときついかなと。「大悟」はロロの篠崎大悟という俳優から来てて、実際に篠崎大悟が演じてる。でも、創作はそこからスタートしたのかもしれないけど、作品としては、篠崎大悟という個人を超えた普遍性を獲得している。しているはずなんだけど、この書き方だと閉じた作品に見えちゃう可能性があると思うんだよね。

落 でも、「大悟」的なピュアネスを持ったハンサムさの人でないとこれはできないと思う。

山崎 演じる人の問題というよりは戯曲の内容の問題で、三浦さんが在学していた日本大学芸術学部が出てきたり、制作の前説が戯曲に組み込まれてたりして、それが内輪ネタのように見えてしまうのは損だと思う。

落 でもグルーヴ感のある戯曲だなと思います。俳優が声に出して演技をするということを前提としている書き方。

山崎 そこも含めて上演としては魅力的だったんだけど、戯曲として読むと悪ふざけめいたやりとりが延々続くだけのようにも読めてしまうんだよね。戯曲賞としては、戯曲だけで見たときに弱い部分がある作品というのはどうしても不利になる。この作品は、「大悟」を通じて人の一生を描いていながら、それを超えた部分を描いているのがいいと思うんですよ。それが効いているのは、後半、すごい勢いで時間が加速していくところ。子どもが生まれたと思ったらあっという間に育って孫が生まれて妻は死んでしまう。

落 たたみかけるように。

山崎 ラストはたぶん大悟自身も死んでいる。

落 土に還っていく。

山崎 大地に包み込まれるようなイメージははじめからあるんだけど、それがラストで土に還っていく。上演だと地面が鏡になってる。鏡の効果で空と大地が反転することによって、「大地に還る」ことと「死んで星になる」ということが一緒になるようなイメージもあって、すごくイメージが広がる。上演ではそこがすごくよかった。ちょっと鳥肌がたつぐらい。

落 舞台上を覆っていた布が、ふわーっと浮き上がっていくのもよかったね。

山崎 それまで出会って死んでいった者たちと再会したり、生と死が循環していくイメージが随所に仕掛けられているんだけど、戯曲として読んでみると、あまり効果的ではないところもあるんじゃないかなと思った。特に前半は「やりたかったからやりました」というように見えるところが多すぎるんじゃないかな。

もうひとつ気になったのは語り。あれは古川日出男の影響かなと思ったんだけど、この戯曲は終盤まで「大悟は〜」という語りの数珠つなぎで場面が構成されてて、大悟が人生ですれ違う人たちがそれぞれの視点で大悟を語ることで時間的にも空間的にも広がりが出てる。で、最後は大悟自身の語りになるんだけど、ここでなぜ大悟が語り出すのかってところにもう一つ説得力がないんだよね。作品の構成としてはもちろん大悟自身の語りで終わるしかないんだけど。

落 でも確実にこれは一皮むけた作品だよね。私は上演台本買って帰って、翌日読み返してまた泣きましたよ。

山崎 三浦さんは、書こうと思えばもっと「巧く」書けるんだけど、劇団でやるときは「メンバーとやりたいことをやる」のを優先させているんだと思う。それでいいと思うし、上演はすばらしかった。でも戯曲としてはやはりこれはやりたい放題すぎるよ、というのが俺の意見です。

落 でも、いつか確実に岸田賞を獲る作家のひとりだと思います。5月にロロの新作があるので、これからにも期待してます。

タニノクロウ『地獄谷温泉 無明ノ宿』

あらすじ:北陸の温泉地の外れ、名もない湯治宿を訪れる人形師の親子。仕事の依頼を受けやってきたはずが宿の人間はいないという。バスは明朝までなく、親子は宿に留まることに。小人症の老いた父と闇を感じさせる中年の息子、そして異形の人形芝居。親子に当てられた逗留客たちの欲望が蠢きだす。(山崎)

タニノクロウ:1976年生まれ。富山県出身。昭和大学医学部卒。庭劇団ペニノ主宰。

落 次は庭劇団ペニノの『地獄谷温泉 無明ノ宿』にいきましょうか。

山崎 これも批評するのが難しい……。

落 そうですね。二人とも上演を見てしまっているので余計にそうなのかもしれませんが、「すばらしい作品でした」とまず言っておきましょうか。

山崎 真っ先に気になったのは、戯曲自体は独立して読めるんだけど、演じる俳優と切り離せないというか、俳優の裸が舞台上に提示されるということが極めて重要な作品だということです。

落 人形遣いは「小人症の老人」と台本に書かれていて、この役はコメディアン、手品師でもある俳優のマメ山田さんが演じました。

山崎 □字ックの日高ボブ美さんや劇団唐組の辻孝彦さんら、いろんな種類の体がバン!と舞台上にいるということが大きな意味を持つから、一度上演を見てしまっていると切り離すのが難しい。三助も、あの俳優さん(飯田一期)ありきじゃないかという気持ちもある。本当に、いろんな種類の体を用意しました、という感じはかなり強くあった。

落 たしかに、他の人がこの戯曲を使って上演する未来があまり想像できませんよね。4面の舞台美術も、ペニノ以外で再現するのは相当に困難のはず。

山崎 内容的にもわからない部分が多い。舞台は北陸の湯治宿で、戯曲の冒頭に「北陸新幹線の開業により消失した多くの生命に。」と書かれている。つまり、北陸新幹線の開通によって湯治宿がなくなってしまう直前に時間が設定されている。

この戯曲の中で何が起きているかというと、東京から人形師の親子がきて一晩を過ごすことで、北陸の鄙びた湯治宿にいる人たちに生命の畏れみたいなものを起こさせる。小人症の老人を見て三助が鼻血を出したり、欲情したりする。

最初はそういう嗜好を持っているのかなと思ったんだけど、よくよく読んでみると、その人形師親子の惨めたらしさを見ることによって、逗留客の中の生命みたいなものが呼び起こされる、ということが起きている。

落 そうだね。自分の中にうごめく生命力に、いったん気づかされてしまったらもう前の自分には戻れないじゃないですか。だから、そういう自分の欲望や生命力を知ることが幸せなのかそうでないのか……ということなのかなと思います。

山崎 でもその親子が東京からきているということをどう捉えればいいのかわからなくて。東京こそが惨めたらしいものだというふうに解釈することはできると思うんだけど。

落 私は東京からきたことより、主人公が異形の父親に人生を捧げる姿というか、学校にも行かせてもらえず抑圧されていることのほうが重要だと思ったかな。

山崎 単に田舎の宿で起きたことですという話ではなくて、東京との関係というのは下敷きにされていると思うんだよね。「年老いた体」は疲弊した地方と重ね合わせられるように思えるけど、でも親子は東京から来てる。しかも息子の体の方が「もっとむごい」と言われたりもする。すっきりと整理できるものではないと思うんだけれども。

落 深い余韻の残る作品ですね。

山崎 一方で見世物であることを絶対にやめないのがペニノのすごいところ。舞台が回り舞台になっていて、それをみんなでのぞきこむような構造になっている。

落 さまざまな体を持つ俳優さんを脱がせて、お風呂に入れてしまうわけですが、露悪的な感じがない。俳優さんたちの体それぞれに、生きてきた時間の堆積を感じました。年老いた体も女性の体もやせた体も太った体も、フラットに、染み入るように見えるんですね。そういう効果をつくるという意味で、こんなにすばらしい「脱ぐ芝居」は見たことがないです。

また、観客が凝視するように、巧みにつくられている。たとえば小人症の人や変な歩き方をする人が町中にいたら、見るのが申し訳ないような気がするじゃないですか。だけどペニノは、後ろめたさよりも快楽が上回る。倫理的なストッパーをはずされてしまう。

山崎 ナレーションもそれを助けている。おばあちゃんがやさしく、どうぞ見てくださいと語りかけてくる。

落 日本むかしばなしの市原悦子のような。

山崎 観ている観客の多くが東京近郊の人間だということもおそらく計算に入れられている。山奥の見捨てられたような温泉に強く視線を引きつける、強い欲望を持って見ることを観客にうながすというところが、やはりうまいですよね。

古川健『ライン(国境)の向こう』

あらすじ:敗戦により日本国(南日本)と日本人民共和国(北日本)とに分割された日本。南北の境に住む高梨・村上の両家は、祖父母が切り開いた土地が国境によって分断されて以降も、互いに行き来しながら助け合って暮らしてきた。しかし1950年、北日本軍の南進により「日本戦争」が開戦。両家の関係もまた不穏さを滲ませはじめる。(山崎)

古川健:1978年生まれ。東京都出身。駒澤大学文学部卒。劇団チョコレートケーキ 劇作家。

山崎 ナレーションと言えば、『ライン(国境)の向こう』が気になったんだけど。

落 私も……。

山崎 でもこの作品の場合、あまり成功していると思えないんだよね。すごく説明的で、これがないと話が進まないから言わせているんだなというのが透けて見える。村上家の長男で北日本軍からの脱走兵である義男がナレーションを担うということは統一されているんだけど、なぜ義男がナレーションをしているのかは疑問。義男の昔語りになっているのに、どうしてそういう視点で作品がつくられているのかは、最後までわからなかった。

落 軍隊から脱走してきて、戦争という状況に客観的に疑問を持っている人間だからかな、ということぐらいはかろうじて解釈できるけど。

山崎 でも、義男は脱走兵だから隠れているわけじゃない。自分がいない場面の状況説明をしているわけではないので、隠れているからダメかというとそうでもないけど、ナレーターとして適切かと言われるとそうは思えない。なぜ義男がナレーターとして選ばれたのか、しばらく考えたけど理由がわからなかった。

落 ナレーションの質自体も疑問だな。話をすべてナレーションで説明してしまってて、演劇の力を使いこなせているとは言えない。セリフも予定調和的に思えます。朝鮮半島のかわりに分断された南北日本で戦争が起こるという物語ですが、その設定から予想できる展開を一切逸脱しない。

山崎 南日本側に住む高梨家と北日本側に住む村上家というふたつの家族が登場するんだけど、家族の中の女性を交換するようなかたちで結婚してるから、両家の間、つまり南北の間で均衡がとれてしまっている。このバランスが崩れないかぎり動きが生じる余地がない。戦争で引き裂かれる家族とその絆、みたいなものを描きたかったんだろうけど、そもそも全然引き裂かれてないからね。家族揃ってほとんど同じ条件なわけだから個々人の葛藤なんてものも生まれようがない。

落 だから、「アカだ」「資本主義だ」とお互いののしり合うんですが、どうも他人事に聞こえちゃうんですよね。お父さんが二人とも善良なお百姓さんだし。

山崎 南日軍、北日軍の兵士を含めて、全員いい人。

落 「いい人しか出てこない芝居」のいちばんつらいところは、見る側の倫理観に頼るところなんですよ。見る側の善意を前提とする芝居って、とても窮屈なの。

山崎 最後、「取り敢えず、俺らは目の前のことから片付けるんだ」というセリフがありますよね。この人たちにとって戦争は基本的に遠いものでしかなくて、結局最後に、自分たちは悪くないと言ってるようなもの。その無関心こそ、今もっとも遠ざけるべきものだと俺は思う。

落 仮に、政治的なイシューを扱っているからという理由でこの作品を批判しちゃいけないと感じている人がいたら、それこそ自己検閲です。そのことと、作品を良くないと言うことは別。

山崎 戦争反対のお題目を掲げながら、無意識のうちに戦争に加担してしまうような心性しか描いていないという意味では無自覚な悪だとさえ言えるのでは?

落 自分自身の価値観を脅かされることがなく、客席で安心していられる作品になっているのが、とても残念でした。

根本宗子『夏果て幸せの果て』

あらすじ:シンガーソングライターの大森靖子が出演するということでも話題になった作品。上下二つに分割された舞台の下半分では連絡がとれない彼氏の帰りを待ちながら自室で妄想を展開する大森の姿が、上半分では大森のバイト先であるコンビニのバックヤードでの出来事が描かれる。(山崎)

根本宗子:1989年生まれ。東京都出身。東洋英和女学院高等部卒。月刊「根本宗子」主宰、劇作家、演出家、俳優。

落 次は、「ねもしゅー」こと根本宗子『夏果て幸せの果て』。「夏果て」という楽曲をモチーフに、歌手の大森靖子とコラボレーションした作品ですね。

山崎 まず、書かれていることから整理すると、俺には、ダメダメな人間がウダウダした挙句にダメな自分をなぜか肯定するという芝居にしか見えなかった。

落 主人公は彼氏のことを好き好き言う前に、どうして自分はその彼氏のことが好きなのか、よく考えたほうがいい!

山崎 恋愛相談室始まった(笑)。

落 たちの悪い執着でしょう! 執着と好きの区別もついてないのに、好きということだけを過剰に描いてもしょうがない!

山崎 でもダメダメな女を書くという意味では執着のほうが効果的ではあるよ。

落 そうだけど、そこから何か生まれる? 自意識のゆがみとか逸脱じゃなくて、自意識そのものにとどまってしまっていると思う。

山崎 根本宗子が演じる大森靖子1と、大森靖子自身が演じる大森靖子2の、ダブル大森靖子で始まるんだけど、そういう場合、片方は客観的な自分、つまりツッコミ役という構造が考えられるわけだけど、なぜかそうはならなくて、しかも途中で大森靖子1は根本宗子でしたってことになって、結局どんどん自意識の方に回収されてく。

「せっかくの芸劇の舞台をこんなお前の変な妄想に使っちゃって」って台詞も出てきて、最終的にダメな芝居をやってる自分も含めて私は私を肯定する!みたいな話になっていく。コンビニのパートに出てくるのも全部ダメな私の分身。上がコンビニのバックヤードで下が大森靖子の部屋というふうに分かれているんだけど、上下二層にする意味もわからない。たとえばペニノだと、下が深層心理みたいな感じで意図があるんだけど。そもそもコンビニのパートが戯曲の長さを担保するためにしか機能してない。だって何も起きないんだから。

落 ダメな奥さんが旦那さんに褒めてもらうためにエアコンを直すという、いちおうドラマはあるよ。

山崎 でも結局全部同じ話じゃん。そういうことがやりたいんだろうとは思うけど。メタなつくりにはなっているけど、メタが批評的に機能していない。

落 これじゃメタシアターとは言えないよね。ダメなところが可愛いとか、応援したいとか、アイドル文化的な芝居だということはわかります。でも、演劇を使ってそれに乗っかるだけでいいの!? とやっぱり私は言いたい。

山崎 ねもしゅー、役者としてはけっこううまいんですよ。

落 俳優としては、華もある人なので私も好き。彼女にとって、演劇でないとダメ! という切実さがたぶんあることも理解できるんですけど、その「演劇」っていったい何なのかを、もう少し突き詰めて考えないと続かないんじゃないかという老婆心です……。

ペヤンヌマキ『お母さんが一緒』

あらすじ:東京で働くバリキャリの長女・弥生(37)、容姿は良いがやや思慮に欠ける奔放な次女・愛美(35)、地元で堅実に親孝行をめざす三女・清美(29)。すべてにネガティブな毒母の血を三者三様に引いた姉妹が、還暦を迎えた母親の誕生日に温泉旅行を計画した。そんな中、清美が母親に紹介するために、旅行に婚約者を連れてきたことが判明し……。(落)

ペヤンヌマキ:1976年生まれ。長崎県出身。早稲田大学第一文学部卒。ブス会* 主宰、脚本家、演出家。

山崎 女の中に男がひとりという構成はペヤンヌマキ『お母さんが一緒』もそうですね。

落 ペヤンヌマキさんは今回が2度目の岸田賞ノミネートですね。

山崎 うまいですよね。次は見に行ってみようと思った。三姉妹と三女の婚約者が出てくるんだけど、舞台上には出てこないお母さんの影を描き出すことにひとつ大きなねらいがある。

落 お母さんを出さないことによって、見ている人たち自身の親のことを思わせることも意図していると思います。そのねらいはわかったうえで、読むのがきつかった。というのは、内容がよくある「母親dis」にとどまってしまっているし、三姉妹の女性像の造形になんら新しいものを感じなかったからです。だから、うちのお母さんとかお姉ちゃんもこうだよな、イヤだなって、溜飲を下げる以外に楽しみ方がわからなかった。

山崎 ねらいの達成度は高いと思うんだけど、そもそものねらいをどう評価するか。

落 女性たちの鬱屈を開示して終わってしまっている。スケッチが細密であっても、そこからの跳躍がないと思う。

山崎 三姉妹それぞれが全然違うように見えて、物語が進むと「みんなお母さんとそっくり」だということが露わになってしまう瞬間が訪れる。しかもあんなにいがみあっていたのに最後はけろっとしてお母さんのほうに行ってしまう。三姉妹とお母さんがひとつの群体生物みたいに見えてきて、それは面白いなと思った。しぶとい生命力みたいなものは感じましたね。

落 三女が内緒で婚約者を連れてきている部分にも、舞台上でコソコソ隠れたり観客を笑わせる演劇的な仕掛けがあって面白い。

山崎 類型的ではあるかもしれないけど、それぞれのキャラクターとやりとりをきっちり書いてる。見たらきっといやーな気分にはなれる。

落 でも、母から娘への影響に終始していて、物語が小さくなりすぎたんじゃないかな。

山崎 テーマとしては卑近かもしれないけど、それだけで評価できないとは俺は言えないな。

落 私はブス会はけっこう拝見してまして、たとえば『女のみち』はAVの撮影現場が舞台だったのね。決してうまくいっているわけではないひとりひとりのAV女優の生き方が肯定的に描かれていて、勇気を得られるような強さがあったんです。

山崎 そういう作品があるのなら、この作品では受賞してほしくないという気分になるのはわかる。

落 露悪的な女たちの話にひとつ救いがあるとすれば、三女が結婚しようとしている男が底抜けに能天気なキャラクターなので、彼女たちの両親のような行き詰まる関係にはならない未来が示唆されているところでしょうか。

山崎 なるほど。俺が思ったのは、唯一の男性であるタカヒロがバカっぽいけど「生物としてのオスを感じさせる存在」として描かれていて、女性視点のポルノみたいだなということ。欲望の対象としてのギリシャ彫刻みたいな体の男。実際演じた俳優もイケメンだったようだし。ただ、終わり方がよくわからなかった。まるで動物たちがタカヒロに集まってくるかのように動物の鳴き声が響いて、光の額縁に包まれて「宗教画のように」タカヒロが消えて行くじゃない。

落 明らかに三人とは違う血が入ろうとしているわけだから、希望のエンディングだと思う。

山崎 男女反転した聖女のイメージか。やっぱりねらいをどう評価するかということに集約されるかな。

柳沼昭徳『新・内山』

あらすじ:市役所の税務課に務める内山。彼には市役所の後輩・相原さんという恋人がいる。関係が冷えきった妻とは離婚間近。祖母の死をきっかけに、家族のほころびが次々と表面化していく。借金や近親相姦といった人間の深い業に重ねるように、第二次世界大戦での空襲や東日本大震災など、さまざまな喪失のイメージが描かれる。(落)

柳沼昭徳:1976年生まれ。京都府京都市出身。近畿大学文芸学部芸術学科演劇・芸能専攻中退。烏丸ストロークロック 主宰、劇作家、演出家。

落 私は、いちばん読むのが難しかったのが『新・内山』でした。

山崎 これが最も評価に困りますね。

落 柳沼さんは烏丸ストロークロックという劇団を主宰して京都で活動しているんですが、この作品は劇団ではなく、京都芸術センターの「演劇計画II —戯曲創作—」という企画で制作されたものです。

山崎 「悪い芝居」の山崎彬さんも参加していた。

落 そう、二人で二幕ものの悲劇を競作する(注)。

(注)http://www.kac.or.jp/events/16407/

山崎 戯曲は、1幕が「旧・内山」、2幕が「新・内山」という構成になっています。

落 当然「新しい内山とは何か」を考えることになりますよね。主人公の内山は、「ああ」とか「あー…」というセリフに象徴されるように、肯定も否定もできない男です。言葉を持っていない。

山崎 言葉を持っていないというより、決断の問題だよね。意志が薄いんじゃないかと俺は思った。じゃあ、何をきっかけに「決断できる内山」に変わるのかというのが、1幕2場⑤の「潮目」で書かれるわけですが。

落 その決断の方向性が、判断が難しい。

山崎 会社の同僚と花見に行って、そこに賑やかな中国人観光客のグループがいる。同僚の若い女性3人が中国人を揶揄するような会話をして、内山の不倫相手である相原さんに「静かにしろと言ってこい」みたいなことを言うんですね。電子辞書をひいて「シンアンジン、シンアンジン」(静かにしろ)とふざける。相原さんが泣き出す。3人は冗談冗談と苦笑いしながら相原さんをなだめる。そこで内山が立ち上がるわけですが、中国人のほうに向かって「シンアンジン」と言うんです。顔をひきつらせながら。ここが俺は、すごく嫌な気分になった。

落 私も、ふざけてる女のほうを注意するんじゃないんだなと思った。

山崎 そっちに決断すんのかよ、と。

落 2幕で「新・内山」となった内山は、離婚したりデモに行ったり福島にお墓を探しに行ったりするんですが、最後は何も言わずに瓦礫の中に消えていく。

山崎 ト書きには「遺留品」と書いてあるから、内山は死んでいるとしか思えない。この作品は瓦礫の中に死者が出てくるところから始まって、そこに内山は人間として出てくるように見えるのに、最後は死者でしたみたいに消えて行く。構造としてはやはり整理されていない感じがしますよね。

でも、全体としてはうまくいってないんだけど、部分部分ではすごく面白いところがある。これはパワーがあるなと思ったのは、2幕1場(4)の、広島の平和記念式典の場面。内山と相原さんのやりとりと、バックに聞こえてくる平和記念式典のスピーチがオーバーラップするところで、すごいパワーを感じた。

落 わかります。ちなみに広島は相原さんの故郷という設定ですね。

山崎 それから、ラストの近くの、人のいなくなった被災地をねらった空き巣が瓦礫の中に梅干しやレシートを見つける場面。パワーを感じる部分はいくつかあった。でも断片的なんです。それこそ福島と広島の問題や、血の問題や、貧困の問題、いくつも問題をぶちこんでくるんだけど、そのことによって何かが起きているかというとあまり起きていない。でもそれも一概に否定はできなくて、結果として得体の知れない世界の全体みたいなものが浮かび上がってくる。

落 そうだね。空襲がない今、現代日本における理不尽な死というのは、自然災害によるものなんだと思う。この作品では、時代を超えて、理不尽な死に翻弄された人が登場する。

山崎 数珠つなぎみたいな人物の配置でそれぞれが直面する人生の理不尽を総体として提示することはできると思うんだけど、成功しているかというと……。

他にも、区役所に「渡辺さんの妹さん」という障害のある女性がきて、彼女が描く絵が依り代のようになって異形の顔がばーっと舞台の奥に出てくる場面は、迫力はあるんだけど、そのためだけに「渡辺さんの妹さん」が登場させられてる感じがある。他の場面とのつながりも弱い。

落 像を結ばないまま、光源だけがたくさんあるような感じ。

山崎 そう。そして光量は強い。

落 最初から最後まで一言もしゃべらずに内山を見ている、瓦礫の中の「少女」は誰なのかな。

山崎 明らかに幽霊として描かれているから、死んだ子どもか生まれなかった子どもなんだけど……これから生まれてくる内山と相原さんの子なのか、聡子と弟の近親相姦でできた生まれなかった子なのか。でもどちらにしてもつじつまが合わないところが出てくるように思う。

落 ひとつひとつの場面は具体性を持って伝わるんですよね。たとえば、内山のお姉さんはコンビニを経営しているんだけど、日本においてコンビニの仕事が貧困の象徴として使われるのがもはや自然なことになったんだなと思った。コンビニの仕事は高度なオペレーションが必要だから本当はすごく大変なはずなんだけど、虚しい労働の象徴のように描かれてて……お姉さんの苛立ちがかなり具体的に伝わりました。

山崎 とにかく情念みたいなものはすごく感じるんだけど、作品としては荒過ぎる。

落 もともと「悲劇」というテーマでつくられた作品だから、問題を大きめに設定しているのかもしれない。戦争や災害というすべてを飲み込む大きなものと、ひとりの優柔不断な人間。語り得ないことを演劇で描くという、難しいことに挑戦しているんじゃないかと思った。

山崎 「烏丸ストロークロック」の上演を見た人からは「すごかった」という評判を聞きますね。

落 ぜひ一度見に行きたいと思いました。

賞を予想してみる

落 本命、対抗、大穴で予想してみましょうか。

山崎 個人の評価とは別に、賞読みとしてね。

落 私は、本命が神里雄大『+51 アビアシオン,サンボルハ』。この独自性と言葉の強度には、誰も追いつけないでしょう。対抗がタニノクロウ『地獄谷温泉 無明ノ宿』。再現性の問題はあるけれど、文学的で圧倒的に美しい。大穴で三浦直之『ハンサムな大悟』。恋するせつなさと優しさを描かせたら、三浦直之がナンバーワンですね。

山崎 俺は、本命が神里さんで同じ。言葉の力がとても強い戯曲だと思う。対抗が山本健介『30光年先のガールズエンド』。同時多発会話を戦略的に使っていて、演劇的企みという点でも評価できる作品だと思います。大穴で柳沼昭徳『新・内山』。ダメな部分も多いけど、このパワーは評価したい。

k-3

落 『アビアシオン』は同じでしたね。

山崎 今回、この対談をやることになって戯曲のことを考えてて、「戯曲は折り紙みたいなもの」だと思ったんだよね。たとえば、ポケモンの絵とかついてる折り紙あるじゃないですか。あれはポケモンしか折れないけど、ポケモンの再現性は高くなる。これはひとつの「いい戯曲」だと思う。演出が正しく折ってやればピカチュウができあがる。

落 そのたとえはわかりやすいね。

山崎 一方で、折り方によって違う美しさが出る折り紙もあり得る。神里さんのはとりあえず強烈な模様があるんですよ。

落 目玉模様の折り紙みたいだよね。どう折っても目玉が出てきそう!

山崎 今回の候補作から自分の好みの折り紙を1枚選ぶとしたら山本健介『30光年のガールズエンド』かな。

落 今挙がったような戯曲はどれも、繰り返し見て観客が咀嚼して考えるべき問題をたくさん含んでいると思うし、未来へ向けて上演されるべきだと思う。だから、岸田賞は毎年、新鮮な気持ちで楽しみにしています。

白水社・岸田戯曲賞 サイト

http://www.hakusuisha.co.jp/news/n12020.html

関連サイト

岡崎藝術座 http://okazaki-art-theatre.com/

庭劇団ペニノ http://niwagekidan.org/

月刊「根本宗子」 http://gekkannemoto.wix.com/home

劇団チョコレートケーキ http://www.geki-choco.com/

ブス会*  http://busukai.com/

ロロ http://lolowebsite.sub.jp/

烏丸ストロークロック http://karasuma69.org/

ジエン社 http://elegirl.net/jiensha/30ge_gikyoku/

プロフィール

山﨑健太演劇研究・批評

1983年生まれ。批評家、ドラマトゥルク。演劇批評誌『紙背』編集長。WEBマガジンartscapeでショートレビューを連載。他に「現代日本演劇のSF的諸相」(『S-Fマガジン』(早川書房)、2014年2月〜2017年2月)など。2019年からは演出家・俳優の橋本清とともにy/nとして舞台作品を発表。主な作品に『カミングアウトレッスン』(2020)、『セックス/ワーク/アート』(2021)、『あなたのように騙されない』(2021)。

artscape: http://artscape.jp/report/review/author/10141637_1838.html

Twitter: @yamakenta

この執筆者の記事

落雅季子劇評家・LittleSophy主宰

LittleSophy主宰。1983年東京生まれ。一橋大学法学部卒業。「CoRich!舞台芸術まつり!」2014、2016審査員。BricolaQ(http://bricolaq.com)にて毎月のおすすめ演劇コーナー(マンスリー・ブリコメンド)やインタビューのシリーズ(セルフ・ナラタージュ)を担当し、ドラマトゥルクとして遊歩型ツアープロジェクト『演劇クエスト』を各地で創作した後に、2017年に独立。演劇人による文芸メールマガジン「ガーデン・パーティ」(http://www.mag2.com/m/0001678567.html)編集長。戯曲と批評誌「紙背」などに寄稿。Twitter:@maki_co

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