2021.11.12

「ユダヤ人の私」と辿るオーストリアの歴史

木戸衛一 現代ドイツ政治

文化

オーストリアのドキュメンタリー映画「ユダヤ人の私」(A Jewish Life、2021年)が間もなく日本で封切られる。ヴィーンの映画制作会社「ブラックボックス」の4監督による歴史証言ドキュメンタリーで、「ゲッベルスと私」(A German Life、2016年)の続編に当たる。1942年から敗戦までナチス=ドイツのヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相の秘書だったブルンヒルデ・ポムゼル(1911~2017)が、103歳にして自らの生い立ちやゲッベルスとの日々を語った「ゲッベルスと私」は、日本では2018年に公開され大きな反響を呼んだ。

ナチス権力の中枢に身を置いた女性の証言による「ゲッベルスと私」とは対照的に、「ユダヤ人の私」は、ホロコーストを生き延びた106歳のユダヤ系オーストリア人、マルコ・ファインゴルト(1913~2019)が実体験に基づいて、ナチス犯罪の実態と、戦後オーストリア人の歴史意識の欺瞞性を告発する。

この映画は、ファインゴルトのちょうど没後2周年に現地ザルツブルクで開かれたプレミア上映会からわずか2カ月後に日本で公開される。コロナ禍で2020年の世界プレミアがキャンセルされた事情もさることながら、「ブラックボックス」の証言プロジェクトに強い感銘を受けた、配給会社「サニーフィルム」の有田浩介代表の並々ならぬ意欲が窺える。

左から クリスティアン・クレーネス、フロリアン・ヴァイゲンザマー両監督 ©︎ Stadtkino Filmverleih

1.幼少期の飢餓体験

ファインゴルトは、オーストリア=ハンガリー二重君主国のハンガリー王国領ノイゾールに生まれた。現在は、スロヴァキアのバンスカー・ビストリツァという町である。一家は間もなくヴィーンに移り、マルコは二人の兄と妹と共にこの町で育った。

ヴィーンは1897~1910年、激烈な反ユダヤ主義者のカール・ルエーガーが市長として権勢をふるい、画家を目指していた若きアドルフ・ヒトラーもそれに感化された。ファインゴルト自身も8~9歳の頃、反ユダヤ主義の教師(1970年、初のユダヤ系オーストリア首相となったブルーノ・クライスキの叔父オスカー)に出くわし、学校が嫌になったことを述懐している。

第一次世界大戦の敗戦により、二重君主国は崩壊した。1919年9月10日のサンジェルマン条約で、ポーランド、チェコ=スロヴァキア、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ(ユーゴスラビア)の独立などを認めたオーストリアは、領土は帝政時代の4分の1程度、人口は700万人足らずの小さな共和国となった。しかもこの条約は、ドイツとの合邦(「アンシュルス」)を実質的に禁止しており、臨時政府が本来用意していた「ドイツオーストリア共和国」の国名は日の目を見なかった。第一次世界大戦後の「民族自決」原則は、実に一方的なものであった。

マルコの記憶は、第一次世界大戦時3歳の頃、おがくずの入ったパンが兄妹に用意されていたという飢餓体験に始まる。領土を失い新たな関税境界に囲まれたオーストリアは、数々の経済不況に見舞われた。1929年世界恐慌を受け、隣国ドイツでナチ党が台頭するなか、オーストリアでは、1932年5月、首相に指名されたエンゲルベルト・ドルフスが、ファシスト=イタリアをモデルとする「オーストロ・ファシズム」独裁体制を確立、翌年6月に国内のナチ党を禁止したが、翌々年7月にナチスに暗殺された。後任のクルト・シュシュニックも強権体制を敷いたが、ヒトラーは1938年3月12日、ドイツ軍をオーストリアに無血進駐させた。ここに「アンシュルス」が実現した。

映画から 1946年アメリカ軍通信部隊制作の宣伝映画「運命の種」 ©️2021 Blackbox Film & Medienproduktion GmbH

2.「アンシュルス」の熱狂

ヒトラーは1889年、ドイツ国境沿いのブラウナウで生まれたオーストリア人である。ドイツ民族主義者の彼は、多民族国家である二重君主国の徴兵を忌避してミュンヒェンに移り、第一次大戦でドイツ軍に従軍志願した。

1933年1月30日、ドイツ首相に就任したヒトラーは、あっという間に類例を見ない独裁体制を築き上げた。1935年3月に再軍備を強行し、翌年8月、ベルリン・オリンピックの最中に4カ年計画を作成、本格的な戦争準備に乗り出した。そして「アンシュルス」を敢行、オーストリアは「オストマルク」と改称した。

ファインゴルトによれば、「人々の困窮が最もひどかった時に、ヒトラーがやってきた」。事実オーストリア人は、「やっと来てくれた」と「アンシュルス」を大歓迎した。故郷に錦を飾ったヒトラーは3月15日、ヴィーンの英雄広場で演説した。ファインゴルトは、まさにその現場にいた。英雄広場は「大変な人出だった。あんなに人が集まることはそれまでなかった」。そして、「ヒトラーは奇跡を約束し、誰もがそれを聴きたがった。みんなうのみにした」のであった。

この証言は、沸き返るヴィーンの群衆を撮影した米国人ロス・ベイカーの記録映像によって雄弁に裏付けられている。事実、「オストマルク」ではナチ党への入党希望者が殺到した。1942年時点での党員の割合は、ドイツの7%を大きく上回る10%に達した(注1)

映画から1938年ロス・ベイカーによる個人の撮影記録(16mm映像)アンシュルスを歓迎するヴィーン市民 ©️2021 Blackbox Film & Medienproduktion GmbH

「オストマルク」では、交通規則も変わった。「右側通行!」というアーカイヴ映像は、それまでフォアアールベルク、チロル、ザルツブルクの一部、ケルンテンのみに適用されていた右側通行が、1938年7月1日にザルツブルクの残りの地方、オーバードナウ、シュタイアーマルク、ブルゲンラント南部、さらに10月4日にはニーダードナウ、ヴィーン、ブルゲンラント北部にも拡大されることを告知し、ナチ民族共同体の一つとしての「交通共同体」の意義を強調している。

1938年4月10日、「アンシュルス」に関する国民投票が行われ、ドイツでは99.01%、旧オーストリアでは99.73%が賛成した。もっともその投票用紙は、「賛成」の欄が「反対」よりずっと大きく、ユダヤ系市民やナチス反対派は投票から排除されていた。

映画から1938年ニュース映画「右側通行!」/オストマルクに新たな交通規制を導入 ©️2021 Blackbox Film & Medienproduktion GmbH

ファインゴルトは、「ドイツでは迫害が徐々に進んだ。1日ずつ進んでいったのだが、オーストリアでは24時間でユダヤ人から権利が剥奪された」と述べている。実際、「アンシュルス」から10日で、「オストマルク」では1742人が逮捕され、ヴィーンだけで96人が自殺した(注2)。社会民主労働者党(戦後は社会党、1991年6月より社会民主党)・共産党の党員や、多くのユダヤ系市民がオーストリアを離れた。有名な心理学者のジグムント・フロイトは、「アンシュルス」3日後、自宅を突撃隊員に踏み込まれ、「帝国逃亡税」を支払って6月4日、イギリスに亡命した。

「アンシュルス」の半年後、「オストマルク」には、当初ダッハウ強制収容所の外郭施設として、リンツ東方にマウトハウゼン強制収容所が建設された。ファインゴルト自身は「アンシュルス」直後、父親を逮捕しに来たゲスターポ(国家秘密警察)に次兄エルンストと連行され、5日間殴られ続けた。3週間ほどして、2時間以内にオーストリアを立ち去るのを条件に釈放されたマルコは、期限切れのパスポートで兄とプラハに移ったものの国外追放処分を受け、ワルシャワで作ってもらった偽造身分証でポーランド人になりすまして暮らした。兵役逃れを疑われポーランド軍に召集されそうになったためプラハに逃れたが、チェコ=スロヴァキアは1939年3月15日、ドイツ軍の進駐を受け解体された。ポーランドも9月1日にナチス=ドイツの攻撃を受け、独ソ不可侵協定の秘密付属協定に基づいて東西に分割された。

3.4つの強制収容所体験

ファインゴルトは5月6日にプラハで逮捕され、11月にポーランドの古都クラクフの刑務所に移された。そして、1941年4月5日からアウシュヴィッツ第一強制収容所、同月25日からハンブルク近郊のノイエンガンメ、5月30日からミュンヒェン郊外のダッハウ、6月12日からヴァイマル近郊のブーヘンヴァルトと、4つの強制収容所を体験することになる。アウシュヴィッツでは自分で首をつることもできないほど衰弱し、ノイエンガンメでは1年ぶりに鏡を見て、自分のことがわからずに愕然とした。そこまで一緒だった兄エルンストは1942年6月、マグデブルクとハレのほぼ中間にあるベルンブルク安楽死施設でガス殺された(マルコがその死亡通知書を受け取ったのは、1950年のことであった)。

映画から1945年 ニュルンベルク裁判でソ連軍が提出した証拠映像「オシフィエンチム—アウシュヴィッツ」 ©️2021 Blackbox Film & Medienproduktion GmbH

強制収容所での6年間、マルコは飢えに苦しんだ。特にブーヘンヴァルトでは食事の量が厳しく制限され、過酷さが募った。「人は飢えを経験すると、その後の人生でも諦めることを覚える」という言葉には、深い実感が伴っている。

大戦末期ナチスは強制収容所の囚人に、疎開を名目に「死の行進」を命じた。できる限り仲間が「死の行進」に送られないよう尽力したブーヘンヴァルトの抵抗グループは、米軍の接近を確信し、1945年4月11日の正午頃武装蜂起を決行、夕方4時頃米軍を迎え入れた。もっともファインゴルト自身は、「自己解放」を共産主義者の作り話と見なしていたそうである。

「ユダヤ人の私」のエンドロールでは、「ブーヘンヴァルトの歌」が流れる。「おおブーヘンヴァルト、お前が忘れられない。お前は私の運命だから。お前から去って初めて人はわかるだろう。自由のすばらしさを。ああブーヘンヴァルト、我らは嘆きはしない。どんな未来になろうと、我らはそれでも人生を肯定したい。いつか自由になる日が来る。我らはそれでも人生を肯定したい。いつか自由になる日が来る」という歌詞はともかく、変ホ長調の明るいメロディーに違和感を抱く人もおられるかもしれない。それもそのはず、この歌は1938年、収容所のナチ親衛隊将校の要望に応えて囚人が作詞・作曲したものなのである。いずれにせよ、「1年に数回、汗びっしょりになって目が覚める」、「まだ強制収容所にいると思ってしまう」と語るマルコにとって、ブーヘンヴァルトは紛れもなく忘れられない存在だったに違いない。

©️2021 Blackbox Film & Medienproduktion GmbH

4.戦後の犠牲者神話

ブーヘンヴァルトに収容されていた28カ国の囚人のなかで、祖国から迎えが来なかったのはオーストリア人だけであった。ファインゴルトは故郷ヴィーンに戻れず、ブーヘンヴァルトに逆送されそうになったため、ザルツブルクで列車を降り、以来その地の住人となった。

ユダヤ人生存者128人のヴィーン帰還を阻止したのは、臨時政府首相から戦後初代大統領となる社会民主主義者カール・レンナーであった。既に第一次大戦後の共和国初代首相を務めたこの「国父」は、他方で「ユダヤ大資本」を排撃する反ユダヤ主義者で、「アンシュルス」に賛同していた(注3)

オーストリアで第二次世界大戦が終結した日は、公式には、ナチス=ドイツが連合国に無条件降伏した1945年5月8日である。そしてドイツ同様、オーストリアも米英仏ソの4カ国に分割占領され、首都ヴィーンも4カ国に分割統治された。

ただし、被占領国民の扱いは異なり、オーストリア人は、米陸軍省が作成した映像「ドイツでの仕事」にあるように、「ドイツ人は皆ナチスの関係者だ」、「心を許さず油断もせず信頼もするな」といった扱いを受けなかった。住民が映画「死の製粉所」を見るよう米占領当局から強制されることもなかったであろう。なぜなら、オーストリアはナチスの「犠牲者」だったからである(注4)

映画から1945年 アメリカ陸軍省制作の宣伝映画「ドイツでの仕事」 ©️2021 Blackbox Film & Medienproduktion GmbH

それは、1943年11月1日のモスクワ外相宣言に起因する。ここで米英ソは、オーストリアを「ヒトラーの典型的攻撃政策の犠牲になった最初の自由な国」と規定した。枢軸国側の戦線切り崩しを狙ったこの定義に、敗戦後のオーストリアは見事に便乗するのである。

こうしてオーストリアでは、「戦後言い逃れがまかり通るようになった。「哀れなオーストリアはドイツに侵略されたのだ」と」とファインゴルトが嘆く状況が生まれた。非ナチ化も、「誰かが誰かを免責してやったり、肩入れしてやったり厳しい断罪とは程遠く仲間内で茶番劇を繰り広げただけ、かばい合うだけだった」。この、「アンシュルス」後以上に、1945年以降特に顕著になった「国民の愚民化」に対し、ファインゴルトは飽くなき批判を加えることになる。

他方で彼は1945~47年、身分証を持たない10万人ものユダヤ人難民を、イタリア経由でパレスチナに送り込んだ。戦後15年近く内務大臣を務めた社会党のオスカー・ヘルマーは、ユダヤ人を厄介払いしたい思惑から、この行動を見て見ぬふりをした。なおナチの幹部もまた、第二次大戦後オーストリアからイタリアを通り、海を渡っていった。手引きしたのは、ヴァティカンのアロイス・フーダル司教であった。

映画から 1946年から47年頃モシェ・シャピロによる個人の撮影記録 パレスチナを目指すユダヤ人難民たち ©️2021 Blackbox Film & Medienproduktion GmbH

5.歴史認識と民主主義

「ナチスの被害者」を装うオーストリアの自己欺瞞が世界に露見したのが、1986年のヴァルトハイム事件である。1972年から10年間国連事務総長を務めたクルト・ヴァルトハイムは、キリスト教民主主義の国民党から大統領の座を目指した。ところが、世界ユダヤ人会議によって、彼が国防軍将校だったのみならず、ナチ突撃隊やナチ学生同盟のメンバーだったことが暴露された。

オーストリアの大統領は、国民の直接投票で選ばれる。1986年6月8日の決選投票で、自らの過去を否認し続けるヴァルトハイムは、53.9%の得票で大統領に当選した。オーストリアの有権者は、ヴァルトハイムへの批判を、「大国が寄ってたかって小国オーストリアをいじめている」と捉え、いわゆる「車陣メンタリティー」を発揮した。

オーストリア人の歴史の否認は、極右勢力の台頭に繋がる。確信的ナチスだった両親を持ち、ナチス=ドイツの「真っ当な雇用政策」を称え、武装親衛隊の名誉回復を図るヨェルク・ハイダーに率いられた自由党は、ついに2000~05年連邦与党となった。さらに2017~19年にも、この極右政党は連邦政府の一角を占めている。極右は、歴史を歪めるだけでなく、かつてはユダヤ人、今日は外国人労働者や難民を標的とし、人間の平等を否定する。

ファインゴルトは、「人はそんなに早く過去を忘れられるものなのか。記憶の外に押し出せるものなのか。オーストリアは沈黙しているが、私が繰り返し言っていることを忘れてはならない」と観客に問い訴えている。証言の途中彼はしばしば「なぜ、あんなことになってしまったのか?」と言わんばかりに頭を振る。早晩時代の証言者がいなくなるなか、彼の問いかけに正面から向き合い、主体的に思考し継承することが、「ユダヤ人の私」を観た人間の責務であろう。

©️2021 Blackbox Film & Medienproduktion GmbH

このドキュメンタリー映画のアクチュアリティーは、証言とアーカイヴ映像に加え、オーストリア内外からファインゴルト宛に送られた手紙にも示される。その大半は、精力的に講演活動を行う彼への誹謗中傷で、オープニングのタイトルの直後には、「クソ・ユダヤ人が文句を言うな。ガスでもっと殺しときゃよかった」という2017年の手紙が登場する。このように、オーストリアの過去もまた過ぎ去っていない。

「私の身に起ったことを否定する者がいる限り、語り部の仕事は終わらない」、「過去の記憶を語ることは私が生きている意義なのだ」と述べていたファインゴルトは、2019年9月19日に永眠した。今年5月ザルツブルク市は、ザルツァッハ川にかかる「マカルト小橋」を「マルコ・ファインゴルト小橋」に改名し、彼の功績を称えた。本来の故郷のヴィーン市は、何か遅ればせの措置をとるのだろうか。

「マルコ・ファインゴルト小橋」にある石碑 ©︎柳原伸洋撮影(2021年9月19日)

おわりに

戦後「ナチス=ドイツの犠牲者」を決め込んだオーストリア人の自己欺瞞的な歴史意識は、「ヒロシマ・ナガサキ」を盾にもっぱら戦争被害を語ってきた日本人のそれと重なるものがある。

アーカイヴ映像には、1961年7月21日のアイヒマン裁判第106回公判の模様も含まれている。アドルフ・アイヒマンは幼少時にドイツのゾーリンゲンからオーストリアのリンツに転居、1932年4月、オーストリア・ナチ党に加入した。同党が禁止されバイエルンに逃亡した彼は、ヒトラーの権力掌握後の1934年10月、ベルリンの親衛隊保安部に所属した。「アンシュルス」でアイヒマンは、ヴィーンのユダヤ人追放を担当、「ユダヤ人問題の最終的解決」を取り決めたヴァンゼー会議(1942年1月)にも名を連ねたが、戦後ヴァティカンルートで南米に逃亡した。

正真正銘のホロコーストの下手人は公判で、「国民の大多数は市民的勇気と呼ばれるものを忘れてしまい、起きていたことを考えようともしなかった。そして命令を頑なに守り、完璧に遂行した」と、まるで他人事のようなコメントをしている。

映画から 1961年7月21日 エルサレム アイヒマン裁判(106回公判) ©️2021 Blackbox Film & MedienproduktionGmbH

オーストリアにも日本にも、加害の過去に誠実に取り組み市民的勇気を発揮している人々は存在する。10月29日、ヴィーンのクリスティアン・クレーネス監督、フローリアン・ヴァイゲンザマー監督とオンラインで結んだ阪大法学部の特別授業でも、学生からは「歴史を知るということがどれだけ薄れてきており、そしてどれだけ目を向けられるかが重要だと知った」、「政治がメディアを操作する状況は日本でも見られるが、そのことを理解できている、すなわちメディアリテラシーのある人は少ないように思われる」といった声も寄せられた。

その日本では、歴史を歪め、人々の尊厳や権利をないがしろにし、ひたすら軍事化を進める政府与党が繰り返し信任されている。いずれこの国の国民は、米軍の宣伝映画「運命の種」に引用された「悪しき木に良き実を結べず」(マタイによる福音書7章18節)を地で行き、アイヒマンよろしく「あの時は戦争中でした。私自分一人が反対してもムダです」と愚劣な自己弁護のセリフを吐くのであろうか。

講義:『ユダヤ人の私』公開記念 特別講義 大阪大学・法学部・現代ヨーロッパ政治(講義内)

(注1)増谷英樹・古田善文『図説 オーストリアの歴史』河出書房新社、2011年、91ページ。

(注2) https://www.dhm.de/lemo/kapitel/ns-regime/aussenpolitik/anschluss-oesterreich-1938.html

(注3) アントーン・ペリンカ著/青山孝徳訳『カール・レンナー入門』成文社、2020年などを参照。

(注4)詳しくは、水野博子『戦後オーストリアにおける犠牲者ナショナリズム』ミネルヴァ書房、2020年。

公開情報

『ユダヤ人の私』11月20日(土)より岩波ホール他全国順次公開

106歳まで生きたホロコースト生存者、ユダヤ人のマルコ・ファインゴルト氏(1913〜2019)の証言を記録したドキュメンタリー映画。ファインゴルト氏は1939年に逮捕され、アウシュヴィッツを含む4つの強制収容所に収容された。終戦後、10万人以上のユダヤ人難民をパレスチナへ逃がし、自らの体験とナチスの罪、そしてナチスに加担した自国オーストリアの責任を、70年以上訴え続けた。2018年に公開して話題を呼んだ『ゲッベルスと私』の監督たちによるホロコースト証言シリーズ第2弾。

★公開初日監督舞台挨拶

11月20日(土)岩波ホール13:00からの回上映後

11月27日(土)第七藝術劇場15:55からの回上映後

クレーネス監督、ヴァイゲンザマー監督の舞台挨拶(zoom)を実施します。

プロフィール

木戸衛一現代ドイツ政治

1957年千葉県柏市生まれ。1981年東京外国語大学卒業、1988年一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位取得退学。2008 年ベルリン自由大学博士。大阪大学大学院国際公共政策研究科教授。2000~01年ライプツィヒ大学客員教授、2019~20年ボーフム大学客員教授。主な著書に、『ベルリン過去・現在・未来』(編著、三一書房  1998 年)、『「対テロ戦争」と現代世界』(編著、御茶の水書房  2006 年)、『平和研究入門』(編著、大阪大学出版会  2014 年)、『変容するドイツ政治社会と左翼党―反貧困・反戦』(耕文社  2015 年)、『核と放射線の現代史』(共編著、昭和堂  2021 年)など。

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