2015.04.10

理性による自己支配という自由概念の恐怖──リバタリアンは消極的自由論に徹しているか?

松尾匡:連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

経済 #バーリン#リバタリアン

ここ数回、流動的人間関係にフィットした政策を支える思想は何かを探るために、最有力のリバタリアン思想を検討しています。リバタリアンは個人の自由を最大限尊重する思想ですが、これまで一般には、困った人を助けるために公的な保障をする政策や、不況対策を嫌う傾向がありました。

しかし私は、この連載前半をまとめた『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』(PHP新書)の最後にもまとめましたように、手厚いベーシック・インカムで貧困をなくすことや、インフレ目標政策で不況のときには景気拡大策をとることを主張してきました。個人の自由を尊重するリバタリアン的な立場に立ちながら、なおかつこのような福祉政策や不況対策が正当化できる理屈づけはないのでしょうか。それを今探っているところです。

そこで、従来のリバタリアンがこのような公的な政策介入を批判する根拠になっている「消極的自由」論を検討しているところでした。暮らしに困った人を救うために政府の介入を求めるのは「積極的自由」論であって、これは恐怖の独裁につながるからダメだ。追求すべきものは、他人からの意図的な制約や強制がないという「消極的自由」だけである。──こういう議論です。

ここには二点問題点があると思います。ひとつは、意図的でない制約や強制ならば自由の侵害とは言えないのかという問題で、これを前回検討しました。

意図的でなくても、因習とか世間の横睨みの圧力とか、直感的にどう考えても個人の自由の侵害とみなさざるを得ないことはたくさんあります。これらは基本的に、「全員の好みや能力が何も変わらなくても、ただ他人の行動についての予想が変るだけで、これまでは選べなかった望ましい状態が選べるようになる」という図式で描けるものです。「他人の行動についての予想」という「人間の考え」には違いないもので、本来他者の納得が得られたはずの選択が制約されてしまうのですから、これは自由の侵害とみなしていい。

そうすると、人々がデフレ予想を抱いて支出をしぶって本当にデフレ不況になっているせいで、人々がインフレ予想を抱いて気前よく支出して本当にインフレ好況になったならば得られたはずの職が得られず、望まぬ失業を余儀なくされる状態もまた、「デフレ不況予想」という「人間の考え」による自由の侵害だと言えるのだ。──前回はこのように結論しました。

残るもう一つの問題は、消極的自由論者による積極的自由批判の論点が、普通のリバタリアンが想定する、自己決定に責任をとれる理性的個人像と矛盾しはしないか。矛盾するならそれをどう解くのかという問題です。これを今回から考えていきたいと思います。

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

バーリンの「積極的自由」批判

「消極的/積極的」という自由概念の区分を最初に明示して消極的自由を擁護したアイザイア・バーリンは、積極的自由を「わたくしはわたくし自身の主人である」「わたくしはいかなるひとの奴隷でもない」という、「自己支配」の主張ととらえ(注)、これが恐るべき独裁に転化する理路を、おおかた次のように説明しています。──

(注)バーリン『自由論』(小川晃一ほか共訳, 1971, みすず書房)320ページ。

「自己支配」を求めるからには、そうではない状態、つまり自分が自分自身の主人になっていない状態を、克服するべき状態として念頭においているはずである。非合理的な衝動や欲望や情念を自分でコントロールできないとき、「我は自分の主人ではなく、衝動や欲望や情念などの「奴隷」になってしまっている」と表現される。

そうすると、衝動や欲望や情念に支配されていない、本来自分の主人になるはずの理性的な自我が、「本来の自我」とか「真実の自我」などとして設定されることになる。衝動や欲望や情念などは、実利や心理法則によって、しばしば外から流されてしまう。だから自由とは、こうした「低次」の自己を抑え、確固とした理性的な「真実の自我」にしたがって生きることで実現されるとされる。

そうするとその理性は、個人的な利益や事情を超えた「高次」のものだとされるので、国のため、党のため等々の公的な性格を帯びるようになる。こうなると、国や党等々のメンバーにとっては、私利私欲や己の衝動を克服して、全体の理性を実現することこそが「自由」であるとされることになる。

全体の理性を自分の主人とした者にとっては、その目的を追求しない者は、私的な衝動や欲望や情念の奴隷となっている無知で堕落した人々とされる。つまり、「真実の自己」を見失っているだけなのだから、彼らの「真実の自己」のために、全体の理性の示す目的を押し付けたとしても、彼ら自身の「自由」には反しないことになってしまう。かくして、人々を嚇し、抑圧し、拷問にかけることが「自由」の名のもとに許されることになる。──と言うことです(注)。

(注)同上書320-324ページ。

理性を主人公にする「自由」が抑圧をもたらす危険

これ、無理矢理なヘリクツに聞こえますか。私は「ヘリクツ」と言って終わらせたくはありません。とても大事な問題を指摘していると思います。

というのは、私は学生だった80年代、もうすっかり学生運動も下火になっていた時代に、ヘタレまくった左翼自治会活動をしていたのですが、上の世代の凄惨な内ゲバの話は十分伝わっていましたし、党派どうしの足の引っ張りあいとか、党派の勝手な都合による大衆運動の引き回しとかは、嫌と言うほど経験しました。

しかも、ロシア革命や中国革命の成れの果てがどんなものになったのかという情報は十分伝わっていました。そのうえで、なお私たちは社会主義を選んだのです。「こんなふうにだけはなるもんか」というのが、そのときの私たちの強烈な問題意識でした。

どんな美しい理想、現実説明力のある理論を掲げても、結局こうなってしまう。これは、理想や理論の内容の問題ではないのです。

私たちは上の世代から、消極的自由の「〜からの自由」にとどまっていては駄目だ、積極的自由の「〜への自由」を求めなければならないと言われてきました。──

今まで空を飛びたくても飛べなかったのが、飛行機ができて飛べるようになる。今まで結核にかかったら生きたくても死ぬしかなかったのが、特効薬ができて生きられるようになる。これこそが自由だ。

自然や社会や心理の必然法則を知らずに振り回されるうちは自由ではなく、必然法則を知って利用できてこそ自由は増す。だから、「資本主義から社会主義への移行の必然法則」の実現のために動くことにこそ、人間の自由はある。

──こういう理屈によって、必然法則の実現の妨げとされた、たくさんの個々人のささやかな暮らしの自由が抑圧され、多くの人生が踏みにじられたのです。

これは、「資本主義から社会主義への移行の必然法則」が間違っていたといってポイと投げ捨てるだけで解決されるものではありません。その逆の「社会主義から資本主義への移行の必然法則」だったとしても、「構造改革」の必然論だったとしても、戦時中の日本の翼賛知識人が掲げた「西洋文明の没落、東亜文明の興隆」の必然論だったとしても、何だって、数多くの人々の暮らしが踏みにじられてしまったではないですか。

ここにある本質的な問題は、理性を主人公にして、そこに目的を置き、本能、欲望、情動、肉体等々を次元の低いものとみなして、克服・変革の対象、理性のための手段にしてしまうという構図にあります。「妨げを受けない自由vs望み通りにする自由」とか「からの自由vsへの自由」というのは、自由の主人公をどこにおくかというもっと本質的な論点から(場合によっては)導かれる副次的な論点にすぎません。

理性で実現される自由というのは、飛行機を作って飛ばすのも、ペニシリンを作るのも、その理性が多くの人に共有されてみんなで働きあってはじめてできるものです。本来その目的は個々人の本能、欲望、情動、肉体などの暮らしの都合を満たすことにあるはずですが、そのことを忘れてしまうと、社会共同の理性の自由と、個々人の自由とが矛盾してしまい、個々人の自由の方が「自由」の名の下に抑圧されるという事態が起こってしまうわけです。

自由の主体が個人か集団かで「自由」を分類する議論があります(注)ね。「国家の自由」「民族の自由」「労働者階級の自由」などと、集団を主体にした「自由」を論じることがまま見られますけど、ほぼすべて、メンバー個々人の自由を圧殺することの正当化に使われるのがオチです。

(注)松井暁(2012)『自由主義と社会主義の規範理論──価値理念のマルクス的分析』(大月書店)161-163ページでは、「自由」概念を、主体、障害、目的の三次元から分類し、「主体」については、個人か集団か、経験的自己か本来的自己かで分類されると言う。

そんな経験を山ほどしてきたものですから、「集団の自由」を唱えるのは駄目だ、「自由」とはあくまで「個人の自由」でなければならないというのが、今日ではお話の前提だと思います(注)。ですけれども、理性というものは、もともと社会的に共有される性質を持っているのです。そうである以上、理性を主人公に据える自由論は、簡単に「集団の自由」論に転化してしまう危険があるわけです。

(注)松井同上書(同ページ)では、前注のように述べた上で、自由主義では自由の主体を、個人かつ経験的自己に限定するとする。そうでなければ、経験的個人の自由が抑圧されるからである。(なお、松井本人は自由主義の論点を必ずしもすべて是認しているわけではない。)

しかも理性というものは矛盾を許さないものです。実利や欲望や情動なら人々の間で矛盾しあったまま、妥協して折り合い続けることはできます。これらを目的とするかぎり、理性は妥協を見つける手段としてはうまく機能できるでしょう。しかし、実利や欲望や情動から切れて自己目的化した理性が、首尾一貫した自己支配を目指したならば、そしてそれが社会的に共有されてこそ実効力を持つならば、矛盾しあう理性どうしは、互いに相手の存在自体が自己の自由にとっての障害となります。

かくして天下をめぐっては内ゲバで潰しあい、天下を取ってはおびただしい大衆を拷問と殺戮のもとにおくのは、ここからの当然の帰結だと言えます。

理性だけが「自分」ではない

ここで、自由であることの主体である「自分」とは何かということが問題になります。齋藤純一さんは、自分自身に対して排他的一元的な支配を確立することを「主権性」と呼び(注)、ハンナ・アーレント、ミシェル・フーコー、ドゥルシラ・コーネルさんを引用して、これらの論者が、「主権性」は「自由」とは違うのだと、両者の混同を強く批判したことを紹介しています。

(注)齋藤純一(2005)『自由』(岩波書店)57ページ。

すなわち、自らの内部にも自らが支配できないものがあることを認めろ。自分を、首尾一貫して完結した同一性(アイデンティティ)を持つ存在になどしようとするな。アイデンティティから逸れていく動きこそが自由だ。──このように言っているのだとして、齋藤さんはこの自由を「自己への自由」と称しています。

(注)同上書57-71ページ。

つまり、「理性」「役割意識」「アイデンティティ」等々といった「考える私」だけが、自由であることの主体たる、唯一の「自分」だと思うかもしれませんが、そうではないということです。次元の低い存在扱いされてきた本能や情動や肉体等々もまた「自分」であり、しかもそれは首尾一貫した存在に塗りつぶすことはできないものです。昨日は紅茶好きだったかもしれないけど、明日は紅茶が嫌いでコーヒー好きになっているかもしれない。そんないろんな「自分」が時の流れによって入れ替わるものです。

だから、情動に流されて理性の命じる通りにできないことを「情動の奴隷」などと呼ぶのは、理性側からの一方的な見方であって、例えば、眠さや辛さを押さえ付けて理性の命じる計画を成し遂げて、健康を犠牲にさらすのは、本能や欲望や情動や肉体の側から見たら、「理性の奴隷」と言うべきでしょう。「理性による自己支配が自由だ」などと言い切るわけにはいきません。

バーリンが批判する積極的自由論者は、理性的自我を「本当の自分」と考え、情動に流される人を「本当の自分を失った」と表現しましたが、むしろ、本能や情動等々の方にこそ「本当の自分」があり、高邁な理性のために自己の心身を犠牲にする人こそ「本当の自分を失った」と表現すべきだとも言えます。

リバタリアンの合理的個人像は矛盾か?

それゆえ、バーリンの問題提起を正面から受け止めて突き詰めるなら、自由であることの主体たる自己は、第一義的には、本能や欲求や情動や肉体等々としての自分にこそなければならないということになります。この場合、自由であるということは、各自が「本能や欲求等としての自分」の満足を実現することに妨げを受けないということになります。

しかし、このような規定の仕方は、当の消極的自由論者であるはずの多くのリバタリアンの自由のイメージに合致しているのでしょうか。そこで想定されているのは、自分のなすことを理性的に判断して選びとる合理的個人ではなかったでしょうか。理性で決めたことだからこそ、その決定の責任を問えるのではないでしょうか。そもそも、前々回にも検討した、「自己所有権命題」というリバタリアンの中心教義は、「自己支配」「主権性」の主張そのものではないでしょうか。

前回もちょっと書きましたけど、市場ニーズを理性的に調査分析して新商品を開発し、マーケッティングを行い、人々の生活行動を意図通りに変えることを企てて、結果としてそれに失敗したら損失を引き受ける実業家像は、多くのリバタリアンにとってお手本みたいなケースだと思いますが、これは、理性を「主体」にして、人間を「対象」としてかかわる図式という意味で、昔の「マルクス=レーニン主義政党」のリーダーの姿勢と何も変わらないようにも見えます。やっぱり、バーリンの積極的自由への批判の理屈が、そのままあてはまってしまうのでしょうか。

実際バーリンは、J.S.ミルの自由擁護論が上記の「お手本」に似たケースを念頭においていることを批判しています。すなわち、「思想の自由市場」とも言うべき、様々な独創的生き方がなければ、画一的な凡庸と慣習に押しつぶされて、真理は現われ得ず、社会は停滞する──ミルはこのような理由から自由を擁護する(注)のですが、これに対してバーリンは、「二つの別個の観念を混同している」と評します。

(注)特に、ミル『自由論』第3章後半。

一つは、強制は必要な場合はあってもそれ自体は悪しきもので、無干渉それ自体は善きものだという考えで、バーリンはこれは正しいとみなします。もう一つは、「人間は真理の発見につとめるべきであり、ミルが是認しているようなあるタイプの性格──大胆で、独創的で、空想力に富み、独立自尊、偏屈なまでに適合・従順を排する等々──の展開につとめねばならぬ、しかもその真理の発見、性格の涵養は自由の状態でのみ可能なのだ、という観念」で、こっちは駄目だとしています(注)。

(注)バーリン前掲訳313-314ページ。

固定的人間関係での「伝統」という解決

とはいえ、理性で自然の法則を把握した方が私たちの選択肢が広がり、本能や欲求等々の側にとっても、その望みをよりよく満たせるようになるのは間違いないでしょう。また、情動のままに振る舞っていたら、互いの自由を侵害しあってしまいます。しかも、決定に責任が伴うようにしようというのが、この連載で確認してきた基本命題なのに、責任の問いようがないような動物的決定を煽るのもおかしな話です。やっぱり、「自分の理性どおりにする自由」という自由概念は、ないと困る気がします。いったいこの矛盾をどのように解決すればいいのでしょうか。

解決の一案は、各自の暮らす世界からリスクを一掃する固定的人間関係にふさわしい解決です。すなわち、理性側はゴリゴリに理論的になって個々の事情から離れていきすぎないよう、あまり抽象度の高いところにまで根拠をたどることを避け、ほどほどに具体的なところで「昔からそんなもんなんだ」と理屈づけを打ち切ってしまいます。これが、「慣習」とか「伝統」とか「常識」というものですね。そして本能や欲求や情動等々の側は、慣習や伝統や常識で幼い頃から長年型にはめることによって、欲求や情動等々自体を、大方その慣習や伝統や常識にそったものにしてしまうということです。

この場合は、理性(というにはやや普遍性に欠ける観念)の示すことを実現することと、欲求や情動の望むことを実現することとは概して一致することになります。この限りでくだんの矛盾はなくなるのですが、しかしこんな窮屈なことを「自由」と呼ぶ人はなかなかいないと思います。極端には、神に人身御供として捧げられたり、いやがる娘に泣く泣く纏足したりといった例を考えてみればいいです。こんなことが「自由」のはずはない。

とはいえ、個々人の本能や欲求や情動等々は、慣習や伝統や常識によっても制圧されつくすわけではありません。どうしてもはみ出すものは残ります。それは、本当にズブズブに本能的肉体的レベルのものになっていると思いますが、こうした社会において「自由」とは、このレベルの情動にしたがって振る舞うことが許されることを意味します。

それゆえ、それは世の中が窮屈すぎないための「息抜き」や「祝祭」、「娯楽」等々として、その人の力に応じて認められるもの。あくまで「お目こぼし」であって、ささやかな「自由」であっても多少は後ろめたさを帯びるものとされます。それは基本的には、人々に予期せぬリスクをもたらすことになるので、犯罪と地続きの「悪」扱いなのです。あまりに行き過ぎれば、たとえ具体的な被害者がいなくても、しばしば残酷に処罰されることになります。

このような解決は、千年一日の変らぬ社会ならいいでしょうけど、日々テクノロジーが発展して、昨日まであてはまったことが、明日にはあてはまらなくなるというような世の中では、慣習や伝統や常識では対処しきれなくて、システムが壊れてしまいます。慣習や伝統や常識を異にする人々が入り交じって仕事をしなければ食っていけなくなるグローバル社会でも同じことが言えます。

私有財産権の「範囲」をあてがう解決

解決の二つ目は、大方の消極的自由論者のリバタリアンが考えているであろうものです。それは、典型的には、この連載で何度も引き合いに出す「大草原の小さな家」の世界をイメージすればいいです。各自が目の前に茫漠と広がる荒野を自分が耕したいだけ耕し、自分の労働で収穫を得てそれを消費する世界です。

つまり、「自己の自由にしていい範囲」を各自に割り振って、それを互いに認めあいましょうということです。すなわち「私有財産権」ということです。

「大草原の小さな家」の世界では、働くのがカッタルい人は、休んでばかりの働き方でいいです。それは本人の本能や欲求や情動や肉体等の望むままです。働きたい人は逆に、しんどい気持ちを理性で乗り越えて働くかもしれませんが、それというのも、結局は収穫を享受するためです。やはり本能や欲求や情動や肉体等の望みのためにすることです。自分の理性の判断が間違っていたら、自分の本能や欲求や情動や肉体等の望みが損なわれることによって、自分に返ってきます。他人の本能や欲求や情動や肉体等を損なうことはありません。

すなわちここでは、理性の側の自由と、本能や欲求や情動や肉体等の側の自由が一致していて、両者が矛盾することはないのです。両者とも、消極的自由の範囲におさまります。理性にとっての自由が積極的自由を追求したあげく、個々の人間を超えて暴走するという恐れはありません。

しかし、これがこんなうまくいくのは、自給自足して一人で仕事をして、しかも無主の大地を耕せば自分のものになるという、「ロックの但し書き」が満たされた、誰も文句のつけようのない私有財産の割り振りから始まっているからです。

実際には、現代人の誰も自給自足などしていないし、多くは共同作業して働いています。そんな中で、相続その他、本来正当化が怪しい理由で、たくさんの人々に影響を与える、広い範囲の私有財産権が認められた人と、その影響を一方的に被るだけの、ほとんど無産の人が存在します。

もっと現実的に言えば、法制度上の所有などほとんどなく、ソ連の最高幹部がその地位を得るのとほとんど変らない根拠付けで大会社の経営者になる人もいます。株式会社はまだ形式的とはいえ株主総会や株式市場で評価、信認を受けるかもしれませんが、学校法人等々ではそれすらなく、出資も何もしていない経営者がお手盛りで再生産されたりもします。

そうすると、各自の私有財産の範囲内で自由に消費を選ぶことで、貧乏人がつつましやかな生活をする一方、大金持ちが飲めや歌えの贅沢をするというような格差がでるかもしれません。

しかし、それですんでいるならば、それは、各自の本能や欲求や情動や肉体等の望みを満たす活動に、自己の予算以外の制約を受けないというだけのこと。「消極的自由」の範囲内のことで「かわいいもの」なのです。「格差」といったときに普通念頭に浮かぶのが、もっぱらこんな問題なので、多くの私有財産派リバタリアンはそこに、消極的自由論との矛盾を感じないですんでいるのだと思います。

むしろ問題は、理性を「主体」にし、人間を「対象」としてコントロールするタイプの「自由」についても、その範囲が、広い人と狭い人の格差が生じてしまうことです。そうすると、広い範囲の自由を認められた人は、大組織に号令をかけて、経済法則や心理法則を利用して大衆を操作し、自然法則を大規模に利用して、自己の理性の実現を図りますが、自由の範囲がそんなに広くない多くの人は、その影響を後から一方的に受けて、自分の取り得る選択肢が狭くなってしまいます。そしてしばしば深刻な被害を受けることになります。バーリンが警告した、積極的自由の暴走、自由の反対物への転化が、やはりこの場合にも起こってしまうことになります。

***

さて、二つとも駄目なら、他にどんな解決策があるでしょうか。

私は後の回で、私なりの解決策を提示してみたいと思っているのですが、その前に、次回は、カール・マルクスがこの問題について、どんな解決策を考えたかを見ておきたいと思います。そう。いよいよマルクスですね。

マルクスこそ、理性の集団的な自己実現という意味での自由と、個々人の本能や欲求や情動や肉体等の側が抑圧を受けないという意味での自由の、両者の自由を、徹底的に追求して総合を試みた人です。彼の結論には、現代では直接あてはまらないものもたしかに多いと思いますが、しかしこの問題をフォローするときには、避けて通ることのできない議論だと思います。

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プロフィール

松尾匡経済学

1964年、石川県生まれ。1992年、神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。1992年から久留米大学に奉職。2008年から立命館大学経済学部教授。

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