2013.03.19
臨床心理士による児童の活動グループ ―― SNAPのささやかな挑戦
わたしの勤務先の大学院で臨床心理学を学ぶ大学院生が、有志で子どもたちのグループ活動を始めたのは、かれこれ10年程前のことである。彼らは臨床心理士の資格を持つ前の段階であったし、ボランティアでやっていることでもあったので、問題を持った子どもたちへの心理療法ということではなく、「のびのび遊びたい子、元気になりたい子」を対象とした遊びと勉強のグループを始めた。これが予想外の発展を遂げることになった。
初めは3名の小学生で、学校でいじめられていた男子、軽い身体障害がある男子、そして取り立てて問題はないがおとなし目の女子だった。週1回2時間ほど、大学の教室と園庭を使って、宿題をやり、遊んでいた。スタッフは大学院に入りたての男女1名ずつ。よくわからないまま子どもに振り回されるように相手をしていた。ところが、この子どもたちが変わっていった。いじめを受けても平気になり、避けていた運動を楽しむようになり、大声で笑うようになった。たしかに、「のびのび遊び」「元気になった」のである。うわさは広がり、参加する子どもたちの数は増えていった。それが今に至る活動グループ「SNAP」の始まりである。
SNAPの活動概略
現在のSNAPは、小学生を対象に男女別の各10名以下のメンバーで、土曜日の午前中、ほぼ毎週の活動を行っている。プログラムは、(1)学習、(2)身体運動系の遊び、(3)自己表現系の遊び(工芸や自分について語るゲーム等)の3本立てである。夏にはキャンプにも行っている。数年間通いつづけているお子さんも少なくない。
しかし、心理療法として(つまり、心理的問題の治療を目指して)行っているわけではない点、ボランティア運営である点(親御さんから多少の寄付をいただいてはいるが)、問題のある子ではなく元気になりたい子どもを募集している点は変わらない。一方、スタッフは大学院生のみならず修士課程修了後の臨床心理士も協力してくれており、わたしも入れると10名が適宜交替しながら担当するようになっている。
ただの「遊びグループ」と何が違うか ―― 臨床心理士の視点
「垣根なく」声をかけて募集しているとはいえ、やはり親御さんがお子さんのことで何かしら困っている、あるいは気にしているからわれわれのところに来るのである。その「困り」の性質をよく理解することは非常に重要である。近年は、ADHDやアスペルガー障害など、発達障害を持ったお子さん(とくに男子)が来られることが増えているが、「普通の」成長上での苦労という場合も多い。われわれは臨床心理士なのでアセスメント(心理査定)を行うが、SNAPでは、テストを通してではなく、おもにグループ活動中の「関わりながらの観察」を通して行うことに重点を置いている。どこでその子が苦労するのかを見、それはなぜかを検討するのだ。
SNAPでの身体運動系の遊びは基本的に外遊びだが、苦手意識を刺激しないで、身体を動かして気持ちよくなるために、細かな運動技能のいらない、ルールのシンプルなものが多い。鬼ごっこ、缶けり、だるまさんが転んだ、なわとび、かくれんぼ、木登り(園庭には梅の木がある)のような遊びが案外と盛り上がる。放課後や休日にできなくなったそういう遊びこそ、子どもたちには新鮮で、飽きが来ないようである。
遊びの力は大きい。その楽しみを原動力にして、子どもの心身は成長する。たとえば、だるまさんが転んだは、動く、止まる、という動作で成り立っているので、ADHDの子どもには最初難しい。木登りは、身体のバランスと筋力を連動させる一連の動作によって成り立っているので、ある種の発達障害(協調運動障害)の子どもには難しい。
しかし、子どもたちはみんなと遊びたい一心で、止まる動作や木登りを身につけるようになる。彼らが遊べるようになれば、いわゆる発達障害の問題点もいくらか軽減するのである。また、かくれんぼのような遊びは相手が信頼できないとできない(無視されてしまう危険があるから)ものであり、信頼の練習といった心理的な意味もある。
スタッフは、子どもの身体運動感覚や行動の意味を見極め、できることを提案し、少しずつできるようになる方法を考える。子どもが楽しんで遊べるようになって、自信を得るのを待つのがわれわれの仕事である。
学習は、自分で取り組めることを援助するのを中心としているが、苦手なものについてはどのあたりでつまずくのかを見きわめ、できるように手助けをする。
一番重要なのは、対人関係のあり方、集団場面での行動の理解である。対人関係「能力」の査定と言いたくなるところだが、そうするとある望ましい状態を前提にして「できる・できない」の物差しを当てることになりがちである。それは避ける。むろん長所は認めるが、一方で、対人関係の難しさや活動にのれないことをすぐに問題視して、排除、矯正するのではなく、その子どもにとっての独自の意味に接近していこうとするのである。
たとえば(個人情報保護の観点から、多少脚色を施している。以後の事例も同様)、ある男子はグループ活動をみんなでやろうとするといつも輪から離れてしまい、一緒にやろうと声をかければ、厳しい表情をして一層外に出ようとし、引き留めようとすると暴力的になるという行動パターンを繰り返していた。それは、一見反抗的に見えるが、じつは対人緊張がきわめて強いということに起因していた。
あるとき、その彼が、構内で見つけたカマキリを持ち込んだ。男子たちは一時活動どころではなくなったが、その子はカマキリを持つことでグループにいられる安心感を得、他の男子とのやり取りが生まれ、輪の外から輪の中心になれたのである。彼はまた別のときに、工作の活動中に、糊のベタベタする感覚が楽しくなって、たくさん手につけては作業そっちのけでウロウロと歩いていた。しかし、その彼が後で「スライムをつくりたい」と提案した。スタッフはそれを採用し、その企画は好評を博した。彼も他の子どもたちと気持ちよく一緒の活動をすることができ、「感想の時間」にはめずらしく「楽しかった!」と言って、満面の笑みを浮かべたのだった。
彼は自閉傾向があり、世間から見ると「奇異な」あるいは反抗的な行動を取ることがあるが、その行動の意味が理解できれば成長への道筋が見えてくる。子どもは自分の世界を守り、安心感を持とうとする。それが自分から世界を広げていくことの基地になる。たとえ障害があっても、彼のように、「問題行動」が転じて社会化のきっかけになることもある。それらを理解し、支持することがわれわれの仕事なのである。この原理は、発達障害、情緒障害だけでなく、普通の子どもにもあてはまるものだろう。
すぐに答えや解決法が見つかるのはまれである。トラブルやよくわからない行動がつづくことも多い。女子グループが全員で活動中抜け出しかくれんぼをし始めたことがあった。あとで、ある女子が、「かくれんぼなんだけど、先生たちに探してもらっても面白くないの。待っててほしいの」と言っていた。この意味はなかなか理解困難である。しかし少なくとも、かくれんぼをやめさせても意義ある展開が生じないだろう。はたらきかけながら、あるいは親御さんからの情報とつき合わせながら、それは何なのかを問いつづけ、辛抱強く工夫していく姿勢が大事なのだろう。そこにわれわれの専門性があるのだと思っている。
スタッフの態度
専門性のもうひとつのポイントは、スタッフの子どもに対する態度にある。スタッフは一人ひとりの子どもに声をかけ、気にかける。話し相手になろうとする。そして、善悪の判断抜きに、子どもの話しをそのまま聞き、対話を展開する。これは基本だがもっとも難しいことである。問題のあるない、障害のあるないに関わらず、子どもは話を聞いてくれる存在を求めていると痛感させられている。
すでに示したように、子どもに対しては受容的な態度を取る。そして、活動の出来よりも、それを触媒にして遊べるようになること、いろんなことを体験し、表現するところに意味を求める。もちろん、危険なこと、暴力的(身体面、言語面の両方で)なことは禁止する。しかし、それ以外は自由である。
子どもたちはしばしばスタッフをからかい、変なあだ名をつけ、反則勝ちをしたり、連帯して困らせたり、またひどく横柄に命令したりする。かと思うと、ひどく甘えておんぶをねだってきたり、手をつないでもらいたがったりする。要するに、どこまで「一緒にいてくれるか」「自分を許してくれるか」を試しているのである。スタッフが子どもに「遊ばれる」ことが、子どもにとっては最上の「遊び」なのかもしれない。
受容などと書くとのどかで温かなイメージを与えるだろうが、スタッフはつねに内的な挑戦にさらされる。彼らのさまざまな試しに対して、「これは認めていいのか?」「甘やかしているのではないか?」「他の子が『ずるい』と文句を言うのではないのか?」と自問することの連続なのである。簡単に受容できることなど、じつは大したものではない。「これはダメ」と言ってしまえればむしろ楽である。だが、スタッフが苦悶した分だけ子どもたちはより深く受け止められたと感じるようである。
そのようにして、スタッフという大人は決して脅威の対象ではないことを学び、子どもは家庭では見せない地を出して、自分を表現し始める。ある優等生の女子は、絵を描くという活動のなかでぐちゃぐちゃに色を混ぜて絵を塗りつぶし、「学校だといい絵を描かないといけないけど、ここだと変なことが自由にできるもん」と嬉しそうに笑ったのだった。先ほどのカマキリを持ち込んだ男子は、苦手だったお絵描きでそのカマキリの絵を生き生きと描いたのだった。
グループでの成長
そのようにして個々人がいやすい距離でグループとつき合うことをわれわれは許容する。そういう体験が、グループを「自分がいていい場所」にしていく。それゆえ、われわれのグループは統率が行き届いたものというよりは、雑然とした賑やかなものとなる。しかし一人ひとりの欲求を認めようとすれば、必ず子ども同士のあいだに衝突が起こる。女子の場合だと当たらず障らずで疎遠になるというやり方を取ることも多い。
われわれはその衝突を歓迎する。自分の意見を言い、対人関係を学ぶよい機会だからである。要するに、建設的な衝突へと導いていくのだが、重要なのは感情の交換である。もめごとの種は、しばしば妬みの感情から発生する。話しを聞いていく中で、見えてきた子どもの感情を「うらやましかったんだね」と言語化し、「抱えて」やると少しは落ち着く。自分のなかの厄介な感情が乱暴な言動を生むことがある。その場合、その感情の理解が有益なのである。
必ずしも建設的にスマートにやり取りできる必要はない。ある高機能自閉症の男子は、最初はグループを怖がっていたが、徐々にスタッフに乱暴な言葉遣いをするようになり、さらにはメンバーに対してもそれをやるようになった。しかし、上級生もひるんでしまうほどの乱暴さのおかげで、彼に変なちょっかいを出すことはなくなった(つけ加えておくが、彼は、誰かが泣いていると「どうしたの?」と助けに行く優しい子である)。一方、女子の場合は、いっそう仲良くなって連帯感を強めることで、誤解から生じるいざこざを許す傾向があるようである。
先に、スタッフが苦悶した分だけ子どもはより深く受け止められたと感じる、と言ったが、スタッフの苦悶はスタッフ同士の衝突をもたらす。どうするのがよいのか、どちらの意見が正しいのか、本気がぶつかり、分裂寸前まで行くこともある。安易な正論は子どもを縛るだけだと知っているからである。筆者は調整役だが、しばしば巻き込まれる。しかし、この本気が大事なのである。このような議論が子どもについての固定化された見方をゆるがし、より深い感情を理解する道を開き、新たな関わり方のヒントをもたらすとき、スタッフ同士の関係性も深まる。スタッフの衝突は子どもが建設的に衝突するための土台となっているのである。
親との関わり
SNAPでは、学期の始めと終わりに親と面談の機会を持つだけでなく、適宜話しをする。親からその子の生活状況を聞く一方、こちらがつかんでいる理解を伝え、子どもへの関わりをコーチすることもある。子どもの日々の行動にはわからないことが多い。それを一緒に考え、建設的なとらえ方、有効な関わり方を見出していくのである。
親が自身のことで苦しんでおられるときには、構造の柔らかなカウンセリングを行って、少し荷降ろしをしてもらい、労をねぎらうとともに、われわれが仲間であることを繰り返し伝える。一方、自分の子どもの発達障害を認めたがらず、勉強や運動を無理強いしたり、叱責したりする方に対しては、現在子どもが苦痛に耐えて最大限のことをしていることを粘り強く伝える。困難だが重要なスタッフの役目である。
終わりに
この活動は地域レベルで見ても小規模なもので、普及しているとは言えない。また、臨床心理士の活動としても異端である。カウンセリングルームやプレイルームで個別に子どもと会う方が圧倒的に多いからである。だが、グループによる子どもの発達支援、心理教育、心理治療には可能性がある。まだ言葉としては十分結実していないようだが、適応指導教室、特別支援学級、養護施設などでも同様の成長原理が働いていると思われる。
学校からも親からも、「困った子ども」に対して「どうすればいいですか?」と問われることが多いが、その子と直接関わって、なぜそうしているのか、どう感じているのかを知ろうとする人は少ない。「発達障害」の子どもたちは、そうした周囲との深い溝によって孤立感、疎外感にさいなまれている。一方、「普通の」子どもたちも案外と窮屈な現代社会に押し込められている。安心していられる自由な空間があれば、彼らは生き生きと身体と心を動かし始めるのである。そのような空間を目指して、SNAPはささやかな挑戦を今日もつづけている(財政基盤をどうするかは頭痛の種だが…)。
参考文献
西村馨 (2009) 児童期グループ 小谷英文編 「現代のエスプリ504号 グループセラピィの現在」 ぎょうせい 169-178
プロフィール
西村馨
1965年神戸生まれ。東京大学教育学部卒業。国際基督教大学大学院博士課程修了。東
京大学学生相談所カウンセラーを経て、現在、国際基督教大学上級准教授。臨床心理
士。日本集団精神療法学会常任理事、認定スーパーバイザー。