2015.06.15
今ある秩序をこえるために――文学の時代錯誤と試行錯誤
わざわざ大学まで行って日本文学を勉強する意味はあるのか!?――これは小説や言葉が好きな人でも躊躇することではないでしょうか。しかし日本近代文学という、比較的アプローチしやすい分野を通すことで見えるものが数多くあります。「田舎から出たい……!」という自身のきっかけから東日本大震災まで、文学を通して見つめてきた位田先生にお話を聞きました。(聞き手・構成/住本麻子)
きっかけは「時代錯誤」
――位田先生のご専門を教えてください。
専門は日本近代文学です。横光利一という、1920年代から40年代にかけて活躍した作家を中心に研究しています。教科書などで『蠅』という作品を読んだことのある高校生も多いかもしれません。
――高校生のころから日本文学に興味があったんですか?
教科書で小説を読む程度でした。大学の学部時代は商学部にいましたし、日本文学を専攻したのは大学院からです。
――なぜ商学部から文学へ変更したのでしょうか?
ぼくは三重県の「村」出身で、ちょっと「時代錯誤」なところがありました。「勉強して東京に出たら、田舎で住んでいるよりも面白いことがあるのかな」って思っていたんです。勉強ができると、田舎のヒエラルキーをとびこえられるんじゃないかと。ちなみに、ぼくは親族で初めて大学に行った人間でした。
で、商学部に入って……当然のことながら夢をくだかれる。「あ、こんなもんかぁ」って(笑)。そこで憂さばらしに、大学図書館で夏目漱石とか明治時代の小説を読むと、主人公が「故郷」から東京に出てくる人ばっかりなんですね。すると自分と小説の主人公を重ねちゃう。
そのときに商学部を卒業してそのまま就職するよりも、「故郷」から脱出して来た者として、文学の勉強を続けてみて、本を読んで世界を広げてみたら、その先にもうちょっと面白いことがあるのかなぁ、と思ったんです。まぁこれも「時代錯誤」ですよね。
――近代以降の文学を勉強するということと、中世や近世などの古典を勉強することの違いは何でしょうか?
それは正直にいっちゃえば、読みやすさじゃないでしょうか。中学・高校の「古文」を思い浮かべれば、わかると思います。そして、近代文学のほうが文献も手に入りやすく、いいことか悪いことかは別として、自由に作品解釈もできる傾向があると思います。古典文学は解釈学とか文献学に伝統がありますから、それに従う必要がある。でも近代は伝統が浅いぶん、ちょっと「いかがわしい」部分があるんですよね。
自分の発想と知識でトリッキーに作品を読みかえられる。いわゆる古典文学の研究でそれをやったら、研究が成立しないと思います。その意味で古典の方が、「学問」としてしっかりしてると思うけど、近代の「いかがわしさ」、つまり何をやってもいいというのが、結果的にぼくにとってはよかったのかなと思います。
ただ、これはぼくのパーソナリティに関わる問題であって、文学研究の一般論ではありません。近代文学を研究する場合も、厳密な文献調査は必要ですし、古典文学の知識は多少なりとも必要です。また近代文学研究者で古典文学に精通している方もいます。一応このことだけは、いっておきますね。
――「いかがわしさ」ですか!……しかし何をやってもいいというのは、具体的にはどういう意味ですか?
今と時代が近いぶん、現代の問題や価値観を問い直すような視点を研究に導入しやすいんだと思います。たとえば、ぼくが研究している1930年代って、今の政治の問題と関連させようと思えば可能、というかむしろ、大いに関係するでしょう。でもいきなり「寛永6年の問題と……」といわれても、ピンときませんよね (笑)。
――たしかにピンときませんね(笑)。
それに街角の本屋さんで見てもわかるように、近代文学の方が手に入りやすい書籍や資料が多い。また近代文学に関わった「関係者」も健在な方がまだまだいらっしゃるので、直接インタビューなどの取材もできます。
たとえば、ぼくの研究対象である横光利一は、1923年の「関東大震災」とほぼ同時に作家デビューするんです。そこを調べていくと、2011年の「東日本大震災」と比較して考えないといけない部分が出てきます。相対的な問題ですが、貞観(平安時代)の東北大地震よりも「関東大震災」の方が、まだ現代と関わる問題としてイメージしやすいと思います。
文学は社会とつながっている
――文学や小説は社会との問題とつながるんですね。
社会の問題と近代文学はつながりやすいと思います。さっき話した田舎のヒエラルキーをとびこえようとして東京に出てくるという人の動き、社会の動きは、近代文学の成立と結びつきやすかったわけですしね。
ちなみに、横光利一は『上海』(1928~31)っていう作品を書いているんだけど、ぼくの祖父も『上海』が書かれた数年後、1930年代半ばに「兵士」として上海に滞在していました。当時の祖父の日記が残っていて、上海に調査に行ったとき、ついでに祖父の足取りも追ってみましたが、ちゃんと追えましたよ。このように「戦争」を考える上でも、中国という国家の歴史を考える上でも、近代文学は時間的にまだ身近で、社会問題と結びつけやすいといえるでしょう。
――最初から、社会とのつながりがありそうだから、横光利一を選んだんですか?
いや、偶然です。最初に何を研究しようかなと思ったときに、渡された教科書のなかに横光利一が入っていたからというだけで。それまで横光利一のこと知らなくて、推理作家の横溝正史と混同していたくらいです(笑)。
――でも結果的にはよかった、ということでしょうか?
横光利一は、民主主義とか、教養で立身出世して行くとか、そういう近代国家をつくってきた知の基盤を問い直すような立場の人でした。そういう教養主義批判を含んでいたので、結果的にはよかったですね。教養主義というのは、学問や教養によって人間の人格を養い、自由や平等、民主主義を達成しようという側面を持っていました。「大正デモクラシー」って日本史で習うでしょう? あれも教養主義のひとつです。
でも、立身出世を目指して東京に出てくると「教養ってこんなもんか」と感じるわけです。そうすると教養に対する批判が出てくる。教養って思ったほど立派なもんじゃない、と思いはじめるんです。むしろ教養が自由や平等のじゃまになってないか? とかね。横光利一もそういう教養に満足できず、文学の「新感覚」を求めた人でした。
――今まで聞いていて、近代文学とご自分の体験と重なってる部分もあるのかなと思いました。
重ねたいんでしょうね。ぼく自身の体験と近代文学の歴史が触れあってると思いたい。今話したような「物語」にして、自分は文学と触れ合ってると実感したいのかもしれません。自分が文学を勉強する意義はあるんだ、と。でも本当は、こういう都合のいい「物語」を、文学って批判しなきゃいけないんだと思います。当たり障りのない、安心できる「物語」にしていこうとする、そのこと自体を。
つまり、教養がどんどん広がっていって、そういった「物語」をつくろうとしていく――「みんな平等だ」とか、「世のなか民主主義だ」とかね――このこと自体を批判しなきゃいけないわけです。平等とか民主主義というものは、現実社会では決して安定して存在していません。でも、誰もが安定して存在していると思いたいわけですよ。そのとき、ぼくらは安心するために、安易で都合のいい「物語」をつくってしまう。文学はそういう「物語」を批判する必要があると思います。
言葉を通して世界を考える
――しかし小説ってそもそも、つくりモノなわけですよね。社会自体を研究するのではなくて、わざわざフィクションを通して考える必要はあるんでしょうか? もっと直接的に社会と関わるやり方もあるのでは?
難しい質問ですね……。でも今いった、「文学は直接的に社会に関わらない」という判断や、よく世間でいわれる「文学は実学ではない」という判断も、文学に対する先入観です。
どうしてもぼくらは、自分たちが生きている期間、10年や20年の短い期間の常識のなかで考えてしまいます。「人文科学は直接金にならないから、いらない」とか「ips細胞はすぐに利用できそうだから、お金を注ぎこもう」という話によくなりますよね。
ですが、文学はそのような先入観や判断基準そのものを問い直す、考え直すことのできる学問だと思っています。それらを問い直すことって、社会に対して言葉で向き合うことだと思うんですよね。それはフィクションによって社会を理解するということでもある。
文学って時代錯誤的、あるいは試行錯誤的なものだとぼくは思います。文学はフィクションによって仮想的(ヴァーチャル)に世界をつくっているものだから、その世界のなかでなら、どんな試行錯誤だって実験だってできます。その試行錯誤のなかに、いつ役に立つのかわからないけど、10年や20年程度の短いスパンで考えられているような判断基準や価値観を、こえていく可能性があると思うんです。そのぶん、「今」や「現代」の価値観からだけ見ちゃうと、文学は時代錯誤に見えるでしょうね(笑)。
時代錯誤=普遍性?
――お話を聞いていると時代錯誤性は普遍性に近いような気がします。
ぼくもそうだと思います。普遍性っていうのも、ひとつの「錯誤」からしか生まれないと考えています。人権や民主主義や平等といったって、今現在、周りを見わたしても、全然平等じゃないでしょう? 人権や民主主義ってどの程度守られていますか? それらは、かなえたい理想として存在します。でもそういうと、「キレイごとだ」とか、「そんなことやれるわけない」という反応が返ってくる。でも求めないとしょうがない。求めるべきです。
そう考えたときに普遍性や理想に対して試行錯誤できる、「錯誤」を肯定的に扱える学問って、文学の他に何があるのかな? 普遍性や理想っていうのは、まだ社会では実現していない「可能性」のことだといえます。でも「可能性」は必ずしもいいものとは限りません。「錯誤」の「可能性」でもあるのです。でも、その「可能性」に向き合って、「試行錯誤」ができる分野って、文学とか哲学とか精神分析、あと芸術くらいじゃないかな……。
ぼくは経済学部でゼミを担当しているんですが、ライトノベルやゲームを卒論のテーマに選ぶ学生が主流なんですよ。いわゆる「日本近代文学」を研究対象にする学生は少数です。それ自体は、悪いことじゃないと思います。メディアは変わっていくものですから。逆にぼくが学生から教えられることも多い。
自然科学や法とか経済などの学問では、教員の方に絶対的な知識量があって、教える・教えられるという関係性がはっきりとしていますが、文学の場合は若い人の方が正しい場合もあるんですよね。というか……おそらく若い人の方が「正しい」のでしょう(笑)。
でも「錯誤」、つまり間違えるのを怖れている学生は多いです。ぼくの経験に限りますが、本当に多い。「こういうこというと、ダメなんじゃないか」って。でも文学は、何をいってもいいんです。ぼくは「何をいってもいいから発表しろ」っていっています。少なくとも大学で文学のゼミならば、どんな試行錯誤をおこなってもいいと。せっかく大学という空間は、文学と同じように「試行錯誤」ができる世界なのに!
文学にはそういう、「試行錯誤」の無条件性があるんですよ。それはさっきいった、秩序を根本からつくり直す力とも直結していると思うんです。文学をめぐって議論するとき、その瞬間は教員と学生というヒエラルキー自体が壊れ、新しい関係性をつくりはじめます。文学はあらゆる「錯誤」と思考実験を歓迎してくれるというのが、ぼくの文学における理想のひとつです。でも、この無条件性に見合うだけの勉強はしないといけませんね。もちろんぼくも含めてです。
学生がゼミ発表のときに「この作品は『同じ失敗を続けるうちに、別の何かに出会えるんじゃないか』という可能性をテーマにしていると思いました」といっていました。そのときぼくは、サミュエル・ベケットの、‘Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.(やり続けろ、次はもっとうまく失敗するために)’っていう言葉があるでしょう、その言葉を思い出していました。ものごとっていうのはうまくやるようにやるんじゃなくて、うまく失敗するために「試行錯誤」するんですよね。
文学は感動から遠ざかる
――なるほど。しかしその「試行錯誤」が、高校を卒業したばかりの学生には、難しいのかもしれませんね。高校までの国語教育や読書感想文と、文学研究はどう違うのでしょうか?
ぼくは文学研究をしようと思い立ったとき、近代文学の論文を読みました。その論文には、ある小説に登場する夕方の「川下り」のシーンが解説してあったんです。田舎のかやぶき屋根の家が出てくる。その屋根を眺めると真っ赤に色づいている。なぜかというと、屋根に赤唐辛子が干してあるんですね。だから赤い。屋根が真っ赤に映えていて、川面も夕日に照らされて橙色ですごくきれいだった。赤と橙の対比……そこで論文にはこういうことが書いてあるわけです。「ここに作者の鮮やかな色彩感覚が現れている。唐辛子と夕日と川面のコントラスト……」と。ぼくはまだ文学研究をはじめる前でしたが、この解説に非常に違和感を覚えました。
ここが読書感想文と文学の境目だと思うのですが、つまり「この場面をきれいと思わなかった人がいたとき、どうするんだろう」ということです。この論文は、屋根が真っ赤に映えていて、夕日がきれいだということをまったく疑ってないでしょう? もし、このシーンを読んで、まったくきれいだって思わなくて、作家の彩色感覚にも何ら感動しない読者がいたとき、どうやってこの論文はその無感動な読者を説得するのでしょうか?
どんな「赤色」を思い浮かべるかも、人によって違います。つまりぼくが読んだ論文は、夕日の色はきれいなんだっていう「常識」に寄りかかってしまっているんです。文学とは本来そういう「常識」を疑いながら作品を読む学問のはずなのですが。
読者の抱く作品に対する「感動」は、いってしまえば「人それぞれ」です。どういう色や風景に「感動」するかは、読者本人の経験によるところが大きいはずです。だから「感動」から作品を考えるのではなく、作者が作品にどういう「仕組み」をほどこせば、読者を「感動」させるような作品になるのか。そういう文学の「仕組み」から「感動」について考える方が、より理論的ではないでしょうか。「感動」は「人それぞれ」ですが、少なくとも「仕組み」には何らかの普遍的な法則があるはずです。ぼくは文学を研究しようとしたとき、「感動」からではなく、文学の「仕組み」を勉強するべきだと考えました。
高校生や文学を勉強したい人にいいたいのは、数多く「仕組み」を覚えるためにも、幅広い時代の作品を読むべきだということです。ラノベばっかり読むのも、それはそれで意義がある。だけど、ラノベのなかにある「仕組み」と、明治時代に書かれた小説の「仕組み」にも、実は共通点があるのを知ってほしい。作品を広く、数多く、歴史的に読んでみる。そうすると、そのいろんな作品の「仕組み」のなかに共通する「パターン」が見えてきます。
そういう「仕組み」が見つかると、文学の「仕組み」と社会の「仕組み」の関係性も考えられるようになります。文学の「仕組み」と経済や政治や法の「仕組み」は別物だと考えがちですが、それぞれの「仕組み」はどこかでつながっています。そういう意味では、文学以外の経済や政治、法学など、文学に関係なさそうな分野の本も読んだ方がいいでしょう。古典も読んで近代文学やラノベ、漫画も読む。そしてゲームもやればいい!
――フィクションだからこそシステムが浮き彫りになりやすいということあるんでしょうか?
作品だからわかりやすいし、高校生にもとっつきやすいと思います。作品を読むと、意識的にも無意識的にもその「仕組み」に触れることになりますからね。文学というフィクションは「仕組み=システム」に触れるには便利なものではないでしょうか。
――感情とか感性の豊かさで突っ走っていけるものではないんですね?
ないです。作品による道徳教育とか文学で感性を豊かにとか、そういうことと文学とはまったく別のものといえます。むしろ文学はそういう先入観を批判するものだと思います。もし文学で「感動」したければ、「仕組み」をたくさん見つけてください。きっと「感動」できます。
――その意味では、高校までの国語教育になじめなかった人でも、大学で文学にハマる可能性はありますか?
それは十分あり得る! ぼくの経験からも、これは強くいいたい。ぼくは高校生まで国語の成績は、そんなによくなかったんです。よく「国語得意だったんでしょう?」って聞かれるけど、まったくよくない。だから国語で挫折した人も、あきらめずに文学作品に触れ続けてみてください。文学では国語の得意・不得意は関係ありません。おそらく、文学はあらゆる人間を歓迎してくれるはずです。
高校生におすすめの3冊
プラトンの哲学書はその「対話篇」の名の通り、登場人物の「対話」で出来上がっているので、「文学作品」として読めます。哲学や文学というものが、「普遍性」を追い求め、それが社会の「常識」と激しくぶつかり合うさまが、読みとれると思います。
主人公「三四郎」が九州から出てきて大学で勉強しようとする、まさに教養小説です。でも東京で教養に疑念を抱きはじめ、そして恋愛もうまくいかない。小説で教養主義の挫折をヴァーチャルに体験してもよいのではないでしょうか。
教養主義的な小説観を破ろうとした小説です。文章が意図的に改行されず、会話文と地の文の区別をつけず、延々と文字の羅列が続く小説です。近代的な「私」をつくり出している従来の小説の「仕組み」を変えれば、新しい人間の感覚(新感覚)を生み出せるのではないかという実験を、その特異な文体で試みました。文字は機械のように「私」をつくる、という小説です。文学の「仕組み=機械」を学ぶにはうってつけだと思います。
プロフィール
位田将司
日本大学経済学部助教。1976年、三重県生まれ。早稲田大学商学部卒業。同大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早稲田大学文学学術院助手を経て、現職。専門は日本近代文学。著書に『「感覚」と「存在」 横光利一をめぐる「根拠」への問い』(明治書院、2014年)、『信じる心×小説――掘りだしものカタログ〈6〉』(明治書院、2009年、編著)がある。