2011.02.23

ウィキリークスのもつ普遍性と凡庸さについて  

吉田徹 ヨーロッパ比較政治

情報 #ウィキリークス#オープン・ソースインテリジェンス

在外のため、日本でウィキリークスに関する一連の報道がどう受け止められたのか詳細には解らないが、関心の度合いはアメリカとヨーロッパと比べて低いように感じられる。それは、この種の話題に対するニーズの高低だけに由来するだけでなく、ウィキリークスによって先に暴露されたアメリカの外交公電に日本が直接的に係っているケースが少ないからかもしれない。

ウィキリークスが暴露した公電のうち、日本に直接関係するものとしては反捕鯨団体「シーシェパード」をめぐる日豪の関連文書に留まる。いわば、日本はウィキリークスの直接的な利害関係者ではないのである。それゆえ、勢いメディア論やインターネット論としてのウィキリークス論が中心を占め、日本国内の既存メディアもこれに追従しているというのが構図であるように思われる。

ウィキリークスについての報道や論説はすでに多くなされているし、関心はむしろ創設者アサンジの処遇やその妥当性に向かっているようにみえる。しかし、ここではウィキリークスがもった意味に焦点を絞った上で、遅ればせながらの、そして条件つきでのウィキリークス肯定論を、重要と思われる3点にわたって展開してみたい。

既存メディアvs.ウィキリークスという間違った構図

まず、各国の既存メディアは漏洩した公電公開に先立って、最初からウィキリークスと関係を樹立し、その精査をしていた点が重要である。英国の「ガーディアン」、フランスの「ル・モンド」、ドイツの「デア・シュピーゲル」、スペインの「エル・パイス」のグローバル・クオリティペーパー4紙に対して、ウィキリークスは公開を予告した上で事前に情報を提供していた。

これに米国の「ニューヨーク・タイムズ」が加わり、各紙は互いに連携をとり、専門記者数百人を動員して内容の真実性を精査した上で、ウィキリークスの公開情報を紙面で紹介したのである。これまでにも、各国ジャーナリズムは数々のスキャンダルを暴く上でウィキリークスと協力関係を構築していた実績をもっていたのだから、こうした流れになるのは必然でもあった。

ウィキリークスによる追加情報公開に応じて、その内容は今でも紙面で紹介されているが、既存メディアはウィキリークスの提供する情報に補足や解説を施し、公共利益に反すると思われる情報を削除することで、紙面で紹介することの意義を保っている。

すなわち、既存メディアvs.ウィキリークスという構図ではなく、むしろそれぞれの特性を活かした上で、相互補完関係が成り立っているのである(この既存メディアとの過大な協力関係がウィキリークスから分裂したオープンリークスの誕生の理由のひとつとされる)。こう考えても、ウィキリークスに批判的な論調を展開した日本のマスメディアは、国際的な報道ネットワークとはかなり異質なポジションをとっているようにみえる。

もちろん、ウィキリークスと情報提供者が違法行為を行っているのか否かといえば、違法であることは間違いがない。しかし、これは守秘義務を負った人間が内部告発をした場合と同じである。

ジャーナリズムの使命のひとつが「公衆の利益の実現」(これは米ジャーナリズムの基礎をつくったピュリツァーのモットーでもあった)にあるのならば、民主政治においては、それが政府によって「機密」とされている情報であっても、公開するのは当然である。ウィキリークス創始者アサンジの「わたしは人権擁護を目的とする人々を守るシステムをつくる活動家兼ジャーナリスト兼プログラマー兼通信暗号専門家」という自己規定と、「社会の木鐸」たるジャーナリズムの違いは、さほどない。

何れにしても、ウィキリークスと類似の情報公開組織は世界各地で登場しており、この流れはウィキリークス単体を非難したところで留まるようなものではないことは承知しておく必要がある。

「私的権威」としてのウィキリークス

2つ目として、リークされた内容について国際情勢を日々追っている者ならば、さほど驚くような内容が暴露されているわけではなかったということがある。もちろん、米高官がスパイ同然の情報収集活動をしていたとか、各国の指導者・要人が奇異な発言をしたとか、あるいは核開発・核物質取引に関する情報など、人々の耳目を引くような情報があったのはたしかである。

しかし、それらは個別的なエピソードの類を出るものではなく、大枠としてはすでに専門紙や既存メディアで報道・分析、言及されていたものであり、それが公文書によって裏付けられたにすぎない。

すなわち、ウィキリークスが公開した公電のなかに、アメリカ外交の戦略的転換の示唆や国際政治のパラダイムを大きく塗り替えるような新事実が盛り込まれていたわけではないのである。先に起きたチュニジアとエジプトの体制転換についても、体制の内部事情や軍部の動向について米在外公館からの詳細な報告はあっても、体制転換と民衆蜂起は示唆すらされていなかった。

筆者も過去に在外公館の公電の写しを部分的に目にすることがあったが、その9割近くはいわゆる「オープン・ソースインテリジェンス」からなる情報である。ウィキリークスの公開はこれからもつづくから全容はつまびらかではないが、とくに在外公館が発信元である場合、これが秘密・機密扱いされているからといって、驚くべき内容が必ずしも盛り込まれているとはかぎらない(アメリカと日本の在外公館の情報収集能力の差の違いはさておくとしても)。そうした意味では、たとえば、先になされたウィキリークスによるイラク・アフガン戦争に関する公文書公開の方が、国際世論に対しては大きなインパクトをもっていたといえよう。

そもそも、公的機関の内部文書をネットで公開するという手法をとったのはウィキリークスが最初ではない。1996年に米で発足した「クリプトム」はその草分け的存在だったし、また同年代にはNGO「グローバル化観測所」が当時合意済みだったOECDの多国間投資協定の内容を暴露して、協定そのものが流産するという事件もあった。こうした先行事例と比べて、ウィキリークスが実際にもった影響力はまだ確認されていない。

こうしてみると、今回のウィキリークスによる公電公開がなぜスキャンダルにまでなったのかといえば、それは公電そのものの公開よりも、「国家理性」の一部が「私的権威体」によって暴露されてしまった、という事実そのものにあることが解る。

国際社会の秩序形成については、従来は「国家」という「公的権威体」が独占をし、そのために情報を抱え込んでいた。しかしウィキリークスは、この国際社会の秩序形成能力の一部を国家の独占から開放してしまったのである。

ウィキリークスはこれまでに銀行など他の「私的権威」の汚職などについても内部文書を公開していたが、こうした行為が公電公開ほど議論を呼ばなかったという事実もこの仮説を裏付ける(国際社会で影響力をもつ「私的権威体」には格付け機関やテロ組織などが含まれる。詳しくはRodney Bruce Hall & Thomas J. Biersteker著The Emergence of Private Authority in Global Governance,2002参照)。

挑戦される「国家理性」

以上を踏まえると、ウィキリークスのもつ普遍性とその凡庸さの両方が明らかになる。すなわち、ウィキリークスの公電公開は、「国家理性」を否定して、個々の人権(この場合は米国務省の内部告発者を含む)を優先させたゆえに、ひとつのスキャンダルとなったのである。

「国家理性(レゾン・デタ)」という言葉は、もともと16世紀イタリアの思想家・外交官だったジョヴァンニ・ボッテロの主著のタイトルに由来している。基本的には、国家や統治者が公益に値すると考えるものを、公開性や透明性よりも優先して実現しようとする思考のことを指している。一言でいえば、「秘密の名のもと異議申し立てを受け付けようとしない権威によって生まれる言説」(マルセル・ゴーシェ)だと定義付けることができるだろう。

歴史的にみると、この「国家理性」は19世紀の市民革命や民主化とともに、国際赤十字やグリーンピース、「国境なき医師団」といった、いわゆる今日「国際NGO」に括られるトランスナショナルな「私的権威体」から挑戦を受けつづけている。

「国家理性」が、名目や大儀よりも結果を重視する考えであるのに対し、これら私的権威体は、予想される結果よりも大儀そのものを重視する存在である。こうした勢力は、大儀にしか意義を認めないから、テロ組織がそうであるように、法律によって規定される既存の道徳を無視し、イルカやクジラ保護など、活動の内容対象も拡散していくようになる。

ウィキリークスの手段はたしかに革新的であったかもしれない。しかし、その活動の目的や内容は、民主化によってはじまり、戦後の市民社会の勃興によって加速した私的権威体による国家理性の否定という文脈に収まる。この文脈に収まるからこそ、私的権威体の代表格でもある既存メディアとの連携も可能となったのである。

新たな外交の引き金になるなら

古くから外交に「国家理性」はつきものだった。しかし、民主化の流れと戦後におけるその加速化によって、公的な権威が国家理性の名のもと、公衆の利益を定義し、規定するのも限界に達しつつあるのは、ウィキリークスや類似組織の誕生がとどまる所をしらないことからも明らかである。

米国務省は、ウィキリークスの公電公開によって多くの人命が危機に晒され、外交交渉が不可能になる、と非難した。しかし、それは既存の外交の枠組みでの話である。

歴史を紐解けば、旧大陸の秘密外交への反感から、外交とはその交渉過程から国民に対して完全にオープンであるべきと説いたのは、ジョージ・ワシントンやベンジャミン・フランクリンといった米国建国の父たちでもあった。20世紀初頭、この世界史的な流れを視野に入れて、外交原則に反映させようとしたのも当のアメリカであった。「新外交」を唱えた米ウイルソン大統領の「平和14か条」の最初の条項が、「秘密外交の禁止」にあったことを思い出すべきだろう。

ウィキリークスは、こうした世界史的な普遍性の延長線上にあり、それゆえ凡庸でもある。ウィキリークスが引き金となって、新たな外交のあり方が歴史の表舞台にふたたび登るとき、はじめてその革新性が証明されることになるだろう。

推薦図書

たまには小説もいい。カズオ・イシグロは日本生まれのイギリス人。この本は、1989年に英国のもっとも権威ある文学賞「ブッカー賞」を受賞して、彼の名を世界中に広めるきっかけとなった小説。物語は、イギリス貴族のダーリントン卿の館を舞台に繰り広げられる「旧外交」の試みと挫折が、主人公であるダーリントンの執事スティーブンスの目を通じて展開されていく。作品中、米外交官が「あなた方はみんなアマチュアにすぎない!」と演説をぶって、旧世界と新世界とが衝突する。緊迫した外交交渉と執事の淡い恋を軸に、そこはかとない哀しみが余韻を誘う名作。

プロフィール

吉田徹ヨーロッパ比較政治

東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。

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