2017.11.02

セクシュアルマイノリティの多様性を理解するために

森山至貴氏インタビュー / α-Synodos vol.231

情報 #インクルーシブ教育#プライバシー#αシノドス#タイガーマスク#畠山勝太#成原慧#森山至貴#矢嶋桃子#クィア・スタディーズ

はじめに

「α-Synodos vol.231」の特集は、「ひとりひとりが生きやすい社会へ」です。

多数派にとって生きやすいように構成されてきた社会やその常識は、時にマイノリティを排除してきました。一方で、人々の多様性が少しずつ可視化され、これまでマジョリティの陰に隠されてきた人々の声が、徐々にですが社会でも聞こえるようになってきています。全ての人が社会の一員として認められ、生きやすい社会になるためのアプローチを再考します。

巻頭インタビューは、早稲田大学で「クィア・スタディーズ」の教鞭をとる森山至貴氏です。「LGBT」という言葉で一言にまとめがちなセクシュアルマイノリティの多様性、そしてその多様性を見落としてセクシュアルマイノリティの味方だということの危うさについてお話いただきました。

第2稿目のQ&Aは、障害児教育におけるインクルーシブ教育の可能性についてです。歴史的に、分離教育が主流だった障害児の教育の中で、今、障害児と健常児を同じスペースで教育する、インクルーシブ教育の可能性が指摘されています。教育経済学がご専門の畠山勝太氏に伺いました。

第3稿、「あの出来事を振り返る」、今回は2010年のタイガーマスク運動を振り返ります。日本の寄付元年ともいわれる2010年~2011年の動きを振り返りながら、タイガーマスク運動が児童福祉支援に与えた影響、そして今後の可能性についてタイガーマスク基金の矢嶋桃子氏にご解説いただきます。

最後は、成原慧氏による「学び直しの5冊」です。今回のテーマは「プライバシー」です。

巻頭インタビューの一部を下記に転載します。ぜひご覧ください。

森山至貴氏インタビュー セクシュアルマイノリティの多様性を理解するために

 

LGBTという言葉が広がり、セクシュアルマイノリティへの関心が高まっている。一方で、汎用された「LGBT」という言葉は、多様な性のあり方、そしてそれに付随するトラブルを一緒くたに扱い、問題の可視性を低めている部分があるのではないだろうか。「違う」ことを忘れずに、その上で共有するものを見つけ、連帯していく。クィアの視点が教えてくれるものとは。早稲田大学でクィア・スタディーズの教鞭をとる、森山至貴氏に伺った。(聞き手・構成/増田穂)

 

 

◇人を傷つけながら自分を正当化しないために

 

――ご著書『LGBTを読みとく:クィア・スタディーズ入門』(ちくま新書)を拝読していて、「良心にもとづく差別」をなくすために書かれたというのが印象的でした。

私も含めてですが、おそらくセクシュアルマイノリティの人たちはいろいろなトラブルを抱えています。そしてトラブルを抱えている人たちは、そのトラブルを解決してくれたり、寄り添ってくれる人を必要していると思うのです。しかし、「味方になるよ」と言う人たちの中には、具体的な問題を知ろうとせずに、漠然と近寄ってくる人たちもいます。そういう人たちは実際にはなんの助けにもなってくれません。場合によっては自分が「いい人」であることを主張するために、セクシュアルマイノリティの苦境を利用するようなことになってしまう場合もあります。

これではお互いにとってよいことがありませんから、まずちゃんとトラブルをわかってもらわなければなりません。そしてトラブルを理解してもらうためには、コミュニケーションの中で、現に何が起こっているのかを共有することがまずは何より大切です。だからこそ、知識というものをもっと重視する必要があるのです。セクシュアルマイノリティに関する知識を共有することで、一見すると「いい行い」の中に隠れた差別をもなくすることができると考えてこの本を書いた、という点はありますね。

もちろん、知識のないまま味方になろうとする人たちがみな「悪い人」というわけではありません。しかし、良心的であったとしても、当事者たちが何に困っているのかわかっていなければ、その良心は的を外したものになってしまいます。セクシュアルマイノリティの人たちが具体的に何に困っているのかという、その知識や事実の水準にアプローチの中心を持っていきたいと思っていました。

――ご著書の中では、ゲイならゲイ、レズビアンならレズビアンで、それぞれ自分たちの権利を主張しましたが、その一方で自分たち以外の性のあり方を生きるセクシュアルマイノリティを見下すような感じになってしまった部分なども指摘されていました。「いいこと」だと思って何かをする反面で、誰かを傷つける、という点では、「良心にもとづく差別」に共通する部分がある気がします。

クィア・スタディーズが必要とされた理由の一つがそこにあります。セクシュアルマイノリティはみんな困っているのだから、みんなで一緒に改善を求めていけばいいんだ、と言うのは簡単です。しかし、歴史的にみて実際の運動の中では、誰かから足を踏まれて困っている人が、もう一つの足で別の誰かの足を踏んでいる、ということがよくありました。

男性同性愛者が女性差別をすることもありますし、同性愛者の人がトランスジェンダーの人を「男か女かわからない格好をしている人は気持ち悪い」と発言したりすることもありました。逆にトランスジェンダーの人が、自分たちは正しい身体を獲得できれば普通の男性女性として生きられるけれど、同性愛者の人たちは同性同士でくっついて気持ち悪い、などと言うこともあったのです。

こうした発言は、自分たちの性のあり方をはっきりさせ、正当化するための主張として必要だった側面があるかもしれません。しかし、やはり誰かの足を踏みながら、自分の主張をするのは褒められたことではありません。ですからその点に関しては、ちゃんと知識を整理して、お互いに傷つけないようなやり方で、それぞれの問題を一緒に考えられないかということになっていきました。それがクィア・スタディーズが必要とされた大きな理由の一つだと思っています。

――ひとつ大きなくくりで見て、その中から差異や類似性を見つけ出していく、ということですか。

くくるというより、違うまま一緒に考えていく、という感じです。セクシュアルマイノリティは「困っている」ということは同じだけれども、困り方が違います。ですから、クィア・スタディーズでは最初から類似性を強調することはあまりしません。置かれた立場がそれぞれ違うので、トラブルの質も程度も全く異なるからです。

クィア・スタディーズは、それぞれの人が持っている違いを消してしまうことに強い危機感を持ちます。ですから、ちゃんとお互いに何に困っているのか、違いを知った上で、「ここは同じかもしれないね」とすり合わせていくのです。クィアと冠された具体的な研究や運動はいずれもそうして成り立っています。「違う」ということを忘れずに、その中で誰と何を共有できるのか考えていく。それがクィアの考え方と言えるかもしれません。

◇セクシュアルマイノリティの多様性

――差異に注目するという点に関しては、「LGBT」とくくること自体がセクシュアルマイノリティをひとくくりにし、違いを認識しにくくしている気がします。

全くその通りです。LGBTという言葉が一過性の流行語のように使われてしまっています。実際、LGBTという言葉を使う人が、LとGとBとTについて説明できるかというと、説明できない人の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。

「LGBT」も、もともとはクィア・スタディーズが目指すように、セクシュアルマイノリティが連帯しながら、協力できることは協力していこうとする意図をふまえた言葉だったはずです。しかし今となっては、そうした思想や来歴は無視されて、はやりの言葉として使われてしまっています。同性愛とかトランスジェンダーという言葉をなんとなく使いたくなくて、「LGBT」という言葉を使う人もいるかもしれません。だとしたら、それは「LGBT」という言葉にとっても不幸なことだと思います。

そもそも「LGBTの問題」というのは、「LGBT」という言葉を正確に使ったとしても、こぼれ落ちてしまうものがあるくらい複雑です。ただでさえ複雑なセクシュアルマイノリティの現状が、トレンドとしてその単語が使われることでより大雑把に理解されるようになってしまっている、という印象はありますね。

――「セクシュアルマイノリティの中での多様性」がクィア・スタディーズの中の重要なキーワードかと思いますが、具体的にセクシュアルマイノリティが抱える問題にはどのような違いがあるのですか。

よく例にあげているのは、トイレの問題です。最近では「LGBTトイレ」といって、セクシュアルマイノリティが使いやすいように別のトイレを設置する動きがあります。しかしトイレでの困り方は、LとGとBとTとそれぞれ違うのです。

最も多く困っているのはトランスジェンダーの人たちです。身体上の特徴、つまり「見た目」ゆえに、自分の性自認のトイレに入ることが難しいのです。周囲の目線が暴力として働いてしまうのですね。

ゲイの人の場合、特に学生時代、男子トイレは他の男の子からからかわれやすい場所です。男性の場合、用を足すとき性器を露出しますので、カミングアウトしている場合などは、自分がゲイだと知っている別の人の隣で用を足すことに不安を覚える、ということもあります。

一方で最初から個室に入ってしまう、トランスジェンダーでないレズビアンやバイセクシュアル女性の方は、もちろん全く問題がないわけではありませんが、比較的トイレには困っていない場合もあるでしょう。

誰がどれくらい困っているのかもわからない状態で、「LGBT」をひとくくりにして「LGBTは『誰でもトイレ』にどうぞ」などと言われると、何に困っているか全然真剣に考える気がないんだな、と感じてしまいます。

もちろん困っている人が「誰でもトイレ」を使えることは重要です。しかしそれならば「困っている人は誰でもどうぞ」と言えばいいはずです。そこをあえて「LGBTの人はあっちでどうぞ」と言われると、「一緒のトイレに入るのが嫌なわけ?」と感じる人も多いでしょう。いろんな問題をちゃんと切り分けて、必要な人に必要なサポートが届くようになって欲しいですね。

◇しくみに則りながらしくみを「ずらす」

――クィアの視座はポスト構造主義から流れているとのことですが、ポスト構造主義とはどのような思想なのですか。

ポスト構造主義を説明するには、構造主義と対比するとわかりやすいと思います。大雑把に言ってしまえば、構造主義というのは、人々の個別の実践の背後にはそれを支える構造がある、という考えです。構造、つまり「しくみ」により、さまざまな行動や関係性が可能になっているというものです。

一方でポスト構造主義は、人々の個別の実践が、構造によって維持されていると同時に、その個別の実践が構造を崩してしまう作用をもつことを指摘します。ここで誤解しないで欲しいのは、構造は人々が実践によりその構造を壊そうとするから壊れるわけではないことです。むしろ、個別の実践が構造の中で、構造のあり方を守っていると、その構造が崩れていくことがある。それがポスト構造主義の考え方です。

クィア・スタディーズでは、この「しくみに沿っていると、しくみが壊れていく」ということが重要です。なぜなら、セクシュアルマイノリティの人たちにとっては既存の社会構造の力はとても強固なもので、そう簡単に意図して壊せるものではないからです。セクシュアルマイノリティに対する現在の社会的構造が納得のいくものではなかったとしても、その構造を変えるための個別的実践をするのはとても難しいのです。

しかし、ポスト構造主義の思想では違います。つまり、社会構造の中でその仕組みに逆らわず、場合によっては長いものに巻かれながら行動をしても、構造は崩れるかもしれないのです。この考えはセクシュアルマイノリティの人たちにとっては、ある意味「福音」のようなものでした。

それぞれの置かれた立場から社会構造に反対しつつも、変化のために行動することが難しいセクシュアルマイノリティは、自分のことを無力だと思いがちです。しかしポスト構造主義的な考えは、ルールをはっきりと壊す「力」がなくても、ルールに則りながら、内側からルールをずらしていくことが可能だと教えてくれます。もしそうであるならば、セクシュアルマイノリティにもやれることはあるのではないか。クィア・スタディーズはそうした思想を受け継ぐかたちで生まれてきたのです。……つづきはα-Synodos vol.231で!

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2017.11.1 vol.231 特集:ひとりひとりが生きやすい社会へ

1.森山至貴氏インタビュー「セクシュアルマイノリティの多様性を理解するために」

2.【障害児教育 Q&A】畠山勝太(解説)「途上国における障害児教育とインクルーシブ教育」

3.【あの事件・あの出来事を振り返る】矢嶋桃子「草の根の市民活動『タイガーマスク運動』は社会に何をもたらしたのか」

4.成原慧 学び直しの5冊 <プライバシー>

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シノドス編集部

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