2011.06.09

3月上旬に訪れたベルリンでは、史上最大規模と言われた反原発デモが繰り広げられていた。参加者らが掲げたプラカードには「チェルノブイリ=フクシマ」とあった。そのわずか2か月後、ドイツのメルケル首相は、2022年までに同国の原子力発電所を段階的に停止することを発表した。

これまでにも、スウェーデンやスイス、イタリアといった国々が脱原発をすでに決定している。しかし、なかでもドイツが脱原子力に舵を大きく切った意味は、深刻に受け止める必要がある。ドイツは再生可能エネルギーでも世界先端を行く国だが、それでも世界第4位、欧州第1位の経済大国が「脱原発」を政治決定したことの意味は大きい。

いうまでもなく、脱原発の直接的なきっかけは、日本の福島原発崩壊とつづく放射能危機にある。もちろん、スウェーデンの事例がそうであったように、ドイツの原子力政策も紆余曲折を経てきたことは確かだ。スウェーデンでは1980年の国民投票で脱原子力を決定したものの、その後のエネルギー確保が不十分だったために、完全停止をずるずると先延ばしにしてきたという経緯がある。

脱原子力への道はどのような条件によって選ばれることになったのか―ドイツのエネルギー市場の構造を確認しながら、その政治的・経済的条件を探ってみよう。

再生可能エネルギー先進国であること

ドイツ政府が公表した資料によれば、同国の総発電容量は90ギガワット(日本は約2.5倍の230GW)であり、そのうち20GWが原子力発電によって賄われている。国際エネルギー機関(IEA)の資料ではドイツの原子力発電シェアは26%強となっているが、いずれにしても日本と同程度の原発依存度である。もっとも、ドイツの原発17基中8基がすでに停止もしくは停止予定であり、この不足分は石炭・ガス発電所の新規建設によって補われるという。もちろん、原子炉停止があっても、1990年比でCO2排出マイナス40%減という目標は維持される。

通常、原子炉一基が1GWの発電能力をもつといわれるから、総体としては20GW程度の電力供給が新たに必要となる。この点、脱原発を答弁した政府の専門家グループ「倫理委員会」は、風力発電機の増設を含む再生エネルギーの増強によって、2019年までに30GW程度が確保されるとの見通しを立てている。

すでに多くの所で指摘されているように、ドイツは再生エネルギー先進国であり、地球温暖化対策が世界政治のホット・イシューになってからはとくに、EU(欧州連合)を通じて自国の技術力とマーケットをクリーン・エネルギーに振り向け、デファクト・スタンダードのセッターとしての地位を確立してきた。京都議定書批准直後には、CO2排出のヨーロッパ基準が1990年比であることをもってヨーロッパ勢の「狡猾さ」を批判する議論も日本ではあったが、ドイツが環境税の導入を含め、政治リソースを環境対策に振り向けることで、原発だけに頼らない、新たなパラダイムづくりに貢献してきたことは否定できない。アメリカのオバマ政権のエネルギー戦略も同様の方向にある。

後段の緑の党の話とも関わるが、こうした戦略と意識は一般市民のあいだでも広く共有されている。その結果、自然エネルギー(その他含む)の電源構成は11.8%にまで高められてきた。これに対してイギリスは4.7%、フランスは2.1%、日本でも2.8%にすぎない。ドイツのこうした積極的なエネルギー政策が、脱原発の選択を容易にしたといえるだろう。

今後のドイツのエネルギー政策の転換は財政によってもフォローされる。家庭エネルギー消費の10%削減は、新規建設住宅のエネルギー効率性上昇策の補助金とセットになっており、電気自動車の開発投資支援、電気料金引き上げに備えて、エネルギー消費の多い製造業には年5億ユーロ(約640億円)の支援が約束されている。

ちなみに、ドイツの脱原発は隣国からの電力輸入があるからこそ可能になったとの論調も多くみられるが、この見方は必ずしも正しくない。同国は電力輸入国(計32テラワット、2007年実績)であると同時に、電力輸出国(計45テラワット)でもあるという事実を忘れてはならない。単一市場を実現しているヨーロッパの電力市場がいわゆる「スパゲッティ状態」といわれるように、各国は相互に電力を融通し合っており、国境を越えた相互の送電は日常的に行われているからだ。それは、原発大国であるフランスでも同様である(もっともメルケル首相は原子力発電エネルギーを輸入しないと明言しており、これが欧州単一市場の原則に抵触する可能性はある)。

ドイツは、エネルギー安全保障の観点から、ロシアからのガス輸入に積極的に交渉を行い、多くの譲歩をしてきたのも事実だ。しかし、そのようなエネルギー安全保障に高いコストを払いつづけてきたからこそ、脱原発を計画できる条件が整えられてきたともいえるだろう。

「緑の党」という存在

もうひとつ、脱原発を可能にした政治的次元がある。

原発政策でドイツにもっとも影響を与えてきたのは、一貫して反原発の立場を貫いてきた「緑の党」である。

ドイツが脱原発に大きく舵を切りはじめたのは10年以上も前のことである。1998年、社民党(SPD)と緑の党(90年連合/緑の党)の連立政権発足に際して、段階的な原子力撤退が両党間で合意されたときのことだ。

その後、2005年に発足したメルケルの保守中道連立政権は、産業界の意見を受け入れて、原子炉の稼働年数の平均12年の延長を決定している。しかし、これは方針転換というほどのものではなく、脱原発のスピードを緩めたと解釈する方が適当だろう。さらに、その交換条件として、経済界には新たな経済負担(核燃料税)が課せられたことも忘れてはならない。そして、この当面の原子力維持政策も、「フクシマ」のインパクトを受けた市民社会の抵抗によって転回を余儀なくされることになったのである。つまり、ドイツの脱原発はすでに10年以上も前から既定路線であり、今回の決定はこれを早めただけにすぎないともいえる。

その背景には、やはり緑の党があった。今年3月中旬、南西部バーデン・ビュルンベルク州議会選挙で、緑の党とSPDの躍進を前に、メルケル首相率いるCDU(キリスト教民主同盟)が敗北するという出来事があった。同州は戦後一貫してCDUが多数派だったにも係らず、である。この選挙での結果、緑の党から史上初めての州首相が選出されることにもなった。

したがって、メルケル首相による脱原子力の決断は、優れて政治的な決断でもある。「フクシマ」を経て勢いづく緑の党と、その潜在連立パートナーであるSPDの先手を打つという戦略がみてとれる。ドイツでの近年の総選挙は、保守/左派の二大政党とも、単独過半数を得られないばかりか得票率を減らしつづけ、小政党との連立を前提にしなければ政局が安定しない状況がつづいているからだ。

しかし、そうした決断をうながす政治的状況が長い年月をかけてつくられていったという事実にこそ眼を向けなければならない。実際、緑の党が掲げる政策は(他の国でも同じように)、既存の大政党に徐々に取り入れられるようになっているのである。

「エコロジー、社会、ラディカル・デモクラシー、非暴力主義」

ドイツに滞在したことがある者なら誰でも気づくように、この国の環境主義は徹底している。それだけ環境意識が高いともいえるが(近代において環境保護政策を掲げたはじめての政治勢力がナチスだったことも想起されてよいだろう)、しかし国民意識は土壌のようなものであって、実際にはそれを表現する主体(アクター)が必要なのはいうまでもない。

西ドイツの緑の党は、新左翼の流れのなかで環境意識が高まった1970年代から存在してきたが、全国レベルで組織形成がなされたのは1980年のことである。同党の綱領は「エコロジー、社会、ラディカル・デモクラシー、非暴力主義」(「カールスルーエ綱領」)を謳う。国政レベルに進出したのは83年だが、これも当時の広範な反原発運動の勢いを借りてのことだった。同党は、その後、ほぼすべての州議会で議席を獲得して、社会のなかに着実に足場を築いてきた。

政治学に「政治的機会構造」という考え方がある。これは社会のなかで一程の政治勢力が存在していても、実際に影響力を持つためには、さまざまな「機会(オポチュニティ)」を保証する構造がなければ、現実に影響を与えるまでにはいたらないという見方だ。この見方からは、ドイツの連邦制や小政党でも議会進出が比較的容易な選挙制度など、環境主義政党の影響力を担保する制度的が保証されていたといえるのである。

日本は特殊な例外

その影響力は異なるものの、ドイツ以外でも緑の党はヨーロッパのほとんどの国で結党・組織されている。いずれも、既存の大政党とは異なって、ルースな運動体として、きわめて平等主義的な組織運営がなされているのが特徴だ。

日本は、先進国のなかで環境政党をもたない特異な事例として特筆される。その理由は多岐に渡るが、自民党との対抗関係から、社会党が既存の反原発運動との連携を重視したため、環境主義政党の芽を摘んでしまったこともあげられる。かつての「新党さきがけ」は、この環境政党の路線を狙ったが、その後の民主党(96年)の発足で吸収されるにいたった(現在、「さきがけ」の後継組織としては「みどりの未来」がある)。現在では「新党日本」が、同様の政治信条・立場を掲げているともいえるが、民主・自民二大政党の狭間で伸び悩んだままである。

日本と比較する際、政治的機会構造に並んで、もうひとつ指摘されなければならないのは、その国の政治において、どの程度「脱物質主義的価値」が支持されているかどうかという点があげられる。「脱物質主義的価値」は、政治社会学者のR.イングルハートが1970年代に広めた言葉で、国民が物質的豊かさや賃金水準よりも、政治参加や表現の自由に重きをおく態度全般を指す。この観点から比較すると、日本は90年代に脱物質主義的価値観が広まるものの、そのタイミングは他先進国と比べて20年程遅く、その程度も相対的に低いことが国際調査からはみてとれる(*)。

*以上は、野地孝一”Why Does not Exist Any Ecology Party in Japan? : New Politics in Comparative Perspective,” 『信州大学法学論集』1:161-172,2002からの示唆を受けている。

その理由にもさまざまなものが考えられるが、ひとつには、1968年の全共闘世代の後世に対する影響の多寡がある。ヨーロッパ各国で、民主化運動を繰り広げた「68年世代」が文化的ヘゲモニーを確立し、ドイツのように確固とした政治運動へと波及していったのに比べ、日本で同じだけの政治的遺産は残らなかった。「赤毛のダニー」として当局を恐れさせたコーン・ベンディットに象徴されるように、緑の党のリーダーの多くがまた学生運動を率いた「68年世代」であった。その後、緑の党の支持者が若年層に浸透して行ったことを考えても(83年選挙の際にドイツ「緑の党」に投票した有権者の7割が35歳以下だった)、世代間でバトンを渡すことに失敗した日本との政治的条件の違いは歴然としている。

「古い政治」との対抗

こうして、現代政治は歴史に投げ返される。歴史的遺産とその遺産を活かす制度の双方があったドイツだったからこそ、脱原発への舵切りを可能にしたのだ。

リーマン・ショックを経て、各国の経済政策はケインジアニズム一色となり、経済成長優先という「古い政治」に回帰したかにみえた。メルケル政権による原子力継続政策もその性格が強かった。しかし、緑の党に代表される政治意識は、そもそも資本主義と原子力エネルギーがともに持続不可能であることを、もっと悪いことに両者が「癒着」した関係にあることを、告発しつづけてきた。その告発が正しかったことが、いまでは明らかになりつつある。

資本主義と原子力の「癒着」がもっとも強固な日本で、これを断ち切るための歴史的遺産も、その活用を可能にする条件も、ともに不足しているのは間違いない。それだけに、日本の脱原発への道は、遠く、険しいといわざるを得ない。しかし、もし脱原発の路を選ぶのであれば、そのために必要なツールはすでに解っている。それは意識であり、制度であり、主体なのである。

推薦図書

ドイツ緑の党は、さまざまな困難を抱え、その困難を乗り越えてきたからこそ、いまのような存在感を発揮するにいたった。その主張やなぜ支持されるようになったのかを知るには、(西)ドイツが「戦後」をどのように構築し、認識してきたのかを理解しなければならない。運動を率いた政治活動家たちの真摯な問いかけを遡上に乗せ、大きな枠組みからその存在理由に迫ったこの本は、むしろ「反トレンド」だったこの政治勢力のリアリズムを浮き彫りにしている。

プロフィール

吉田徹ヨーロッパ比較政治

東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。

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