2025.08.15

手話AIで雇用を生み出す──Vulcan Coalitionのインクルーシブ戦略(タイ)

芹沢一也 SYNODOS / SYNODOS Future 編集長

国際

タイには、およそ30万人以上の聴覚障害者が暮らしています。
彼らが日常的に直面する「聞こえない」という壁。
この壁は、教育、医療、雇用といった、人生のあらゆる局面で立ちはだかり、ときに彼らの可能性を大きく狭めます。

もしこの壁を、テクノロジーの力で取り払えるとしたら。
いま、そうした未来を現実にしようと、タイでひとつの挑戦が行われています。

その担い手は、社会的企業のVulcan Coalition。
同社は、音声読み上げや映像解析、アクセシブルな学習プラットフォームなど、多様なAI技術を開発する企業です(Vulcan Coalition公式サイト)。

これは一見すると、最先端の技術開発の話ですが、真の革新は別のところにあります。
Vulcan Coalitionは、AIを育てるために、AIによって職が奪われるかもしれない当事者――聴覚障害者自身――を雇用し、開発の中核に据えるというビジネスモデルを構築しました(Champions of Change)。

テクノロジーは誰のためにあるのか。
AIと人間はどう共生できるのか。
この記事では、こうした問いを、アジアのインクルーシブ・テクノロジーの最前線から考えてみたいと思います。

バンコクの喧騒と「物言わぬ壁」 ——タイが抱えるコミュニケーション格差

タイの首都バンコク。
トゥクトゥクのエンジン音や屋台の香り、人びとの活気あふれる会話。
この都市は、五感すべてを刺激するエネルギーに満ちあふれています。

一方で、この喧騒が届かない「静かな世界」に暮らす多くの人びとがいます。
2018年時点で、タイのろう者コミュニティの人口は30万人を超えるとされ、その多くがバンコクやチェンマイを中心とした都市部に暮らしています (Globalization and the Deaf Community in Thailand)。

この「静かな世界」の住人が直面しているのは、手話通訳者の著しい不足です。
障害者振興局(DEP)に登録されている手話通訳者はわずか約202名。
全国の聴覚障害者に対応するには明らかに不足しています (More interpreters needed)。

この需給のアンバランスは、医療現場、教育現場、社会生活のあらゆる場面に影を落とします。
たとえば、病院で症状を正確に伝えられずに誤診のリスクが高まる。
大学の講義に通訳が配置されないため、学ぶ機会が制限される。
このような現実があります。

バンコクの街の喧騒の裏側には、「物言わぬ壁」が存在しています。
個人の努力ではどうすることもできない、インフラの欠如に起因する問題であり、教育、医療、雇用の場で機会の格差を生み出す構造的課題となっています。

逆転の発想 —— Vulcan Coalitionが発明した「AIと雇用のエコシステム」

このようなコミュニケーションの壁に、まったく新しい角度から挑んだのがVulcan Coalitionです。
経営を率いるマニラート・アヌロムソンブット氏は、シンガポール発の大手デジタル企業Sea(Thailand)で、2014年からCEOを務めてきた経営者です。
デジタル産業で培った知見を、社会課題の解決に生かすべくVulcan Coalitionの立ち上げに参画しました(Techsauce)。

Vulcan Coalitionが取り組むアクセシビリティ技術のひとつに、手話の映像解析を活用した翻訳開発があります。
スマートフォンのカメラに映る手や顔の動きをリアルタイムで捉え、音声やテキストに変換する――そんな、コミュニケーションの壁を越えるための仕組みです。(Champions of change)。

この技術の背後には、AIを育てるための膨大な「教師データ」の存在があります。
手話のAIを高精度にするには、数えきれないほどの手話動画と、それぞれに正確な意味を紐付けたデータセットが必要です。

通常はこうしたアノテーション作業を外部委託しますが、Vulcan Coalitionはここで逆転の発想をとりました。
聴覚障害者自身を「AIデータスペシャリスト」として雇用し、開発の最前線に立たせたのです(Vulcan Coalition helps people with disabilities train for AI jobs)。

このモデルが生み出す価値は3つあります。

第一に、翻訳精度の向上。
手話のネイティブスピーカーは、方言や文化的ニュアンスまで把握しており、非当事者では見落としがちな細部までデータに反映できます。

第二に、専門性のある雇用の創出。
これまで能力に見合った職に就きにくかった聴覚障害者が、成長分野であるAI開発の専門職としてキャリアを積み、安定した収入と自立を実現できます。

第三に、ユーザー視点での製品改善。
当事者がチーム内にいることで、「この操作はわかりにくい」「こういう機能が欲しい」といった声が日常的に反映され、実用性が高まります。

こうしてVulcan Coalitionは、「AIは人間の仕事を奪う」という単純な物語をひっくり返しました。
AIはここで、人びとの能力を拡張し、新しい職業を生み出すパートナーになっているのです。

未来への実装 —— テクノロジーは社会の「OS」を書き換えられるか

この技術が社会に広がる未来を想像してみてください。
聴覚障害をもつ学生が、スマートフォン画面でリアルタイムの字幕を見ながら、他の学生と変わらず講義に参加する姿。
病院を訪れた際に、誰の助けも借りずに、自分の言葉で医師に症状を伝える場面。
オンライン会議で、画面の向こうの上司や同僚と、自然に議論を交わすビジネスパーソン。

テクノロジーが社会の「OS」を書き換えることで、コミュニケーションの壁が過去のものになっていく。
そんな未来が、確実に近づいているのはないでしょうか。

ただし、いくつかの問題もあります。
まず、AI翻訳の限界です。
日常会話や事務的会話には威力を発揮する一方で、感情の機微や皮肉、詩的表現など、言葉がもつ深い文化的な層には、まだ完全に対応できません。

また、AIの普及が手話通訳者の仕事を奪うのでは、という懸念です。
しかし、おそらく答えは「否」です。
むしろ、彼らの役割はたんなる翻訳者から、より高度な専門性を備えた「コミュニケーション・ファシリテーター」へと進化していくかもしれません。
法廷や重要な契約、あるいは心のケアを要する場面での深い共感、AIが表現しきれない部分で、その価値が増していく可能性があります。

そして最後に、手話という言語文化の保存についても考える必要があります。
テクノロジーによる利便性が追求されるあまり、手話がもつ独特な豊かさや文化が、平坦なテキストに飲み込まれてしまわないだろうか。
言語は文化そのもの。
テクノロジーによる支援と、言語文化の尊重をどう共存させるかは、この領域に関わるすべての人に突きつけられた問いです。

しかし、これらの問いは、Vulcan Coalitionの挑戦を否定するものではありません。
それどころか、この取り組みが社会に与えるインパクトが大きいからこそ、私たちは多角的な視点からその未来を議論し、よりよい実装を模索すべきです。

タイで生まれたこのモデルは、国境を越えて、世界中の課題への応用が期待されます。
日本の手話(JSL)や国際手話に対応した AI が生まれれば、SDGs の理念である「誰一人取り残さない社会」の実現にも、たしかな一歩となるでしょう。

おわりに

Vulcan Coalitionの歩みをたどると、ひとつの確信に行き着きます。
それは、テクノロジーの価値はスペックや効率性だけで測れるものではない。
「誰が、どのようにつくり、誰のために使うのか」という思想とプロセスにこそ宿るということです。

彼らはAIを外部から与える「支援ツール」として押しつけるのではなく、課題を抱える当事者を開発の主体に変えました。
聴覚障害者がもつ言語的専門性を「AIを育てる能力」として再定義し、それを経済的価値に転換することで、支援する側とされる側という境界線を曖昧にしたのです。

このプロセスから生まれたAIは、たんなる技術製品ではなく、作り手の哲学を宿しています。
それは「AIは人間の仕事を奪う脅威ではなく、人間の可能性を拡張し、新しい共生のかたちをつくるパートナーになりうる」という、未来への力強いメッセージです。

もちろん、AIによる社会変革には光と影があります。
すでに触れたように、翻訳精度の限界や手話通訳者の役割の変化、言語文化の保存など、課題は残ります。
私たちはその進化を盲目的に受け入れるのではなく、つねに倫理的な視点をもちながら、よりよいかたちを探りつづけなければなりません。

それでも、Vulcan Coalitionが示した「課題の当事者とともに未来を創る」というモデルは、日本を含む世界の国々にとって大きな示唆を含みます。
真のインクルーシブ社会とは、障害のある人びとをたんに受け入れるのではなく、彼らのユニークな能力や視点を社会の価値として認め、ともに新しいイノベーションを生み出す双方向の関係性のなかに実現される。

私たちの身の回りにも、まだ気づかれていない「物言わぬ壁」が無数に存在しているでしょう。
その壁を前に、私たちは何ができるのか。
タイで生まれたこの小さな、しかしたしかな希望の光は、「未来は待つものでも、悲観するものでもなく、私たちの意志でデザインできるものだ」という事実を教えているのではないでしょうか。

プロフィール

芹沢一也SYNODOS / SYNODOS Future 編集長

1968年東京生。
慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。
・株式会社シノドス代表取締役。
・シノドス国際社会動向研究所理事
http://synodoslab.jp/
・SYNODOS 編集長
https://synodos.jp/
・SYNODOS Future編集長。
https://future.synodos.jp/
・A Quiet Traceクリエーター
https://www.instagram.com/kazuya_aqt/
・シノドス英会話コーチ。
https://synodos.jp/english/lp/
著書に『〈法〉から解放される権力』(新曜社)など。

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