2012.06.22

現代民主主義の困窮を希望にすり替える

吉田徹 ヨーロッパ比較政治

政治 #再帰的近代#民主主義

民主主義がかつてのような輝きを失ってから久しい。2000年代のページがめくられてから、大きな問題として浮上してきたのが、民主主義という政治制度に対する疑念や不信である。冷戦の終焉によって、民主主義は揺るぎない原則となり、世界大に拡大した。その途端に民主主義が苦難を抱えるようになったというのは、皮肉としか言いようがない。

例えば、「アラブの春」でチュニジアやエジプトといった国は、絵に描いたかのように、そして多くの民主主義者の理想を体現するかのように、大衆蜂起によって民主化を成し遂げた。しかし、その途端にイスラム主義勢力が台頭し、選挙で多数を占めるような状況を迎えようとしている。民主化は民主主義とイコール、少なくとも世俗的な民主主義のイメージと異なるものを生もうとしているのである。

またギリシャでは、EUとIMFによって経済主権がほぼ完璧なまでに取り上げられ、これに対する抗議運動が蔓延する中、頭をもたげたのが極右ポピュリズムである。手間暇のかかる民主主義に対して政治エリートは民衆の「厚生」を掲げて、手続き的な正当性よりも結果による正当性に重きを置く「ガバナンス」に傾注し、これに対して民衆は政治エリートに対する不信から、結果による正当性を考慮せず、飽くまでも民意の表出にこだわる。

こうした光景は、多くの先進民主主義国での日常になりつつある。いわば「統治の論理」と「民意の論理」との相克の間で、民主主義は身動きが取れなくなっており、そのこと自体がまた、民主主義に対する、よく言って倦怠感、悪く言って疑念を巻き起こしているように思える。

日本の原発(および原発再稼働問題)は、この民主主義の困窮の例外ではないかもしれない。原発をめぐる争点は、人々の安全(ないし安心感)と経済的要請との間を行き来するだけでなく、この中には「決定者は誰なのか」(政府なのか国民なのか)、「範囲は何処までなのか」(国なのか自治体なのか)、「誰の声を聴くべきなのか」(政治家/専門家なのか、利害関係者/潜在的な被害者なのか)という原則論を抜きにしては語れなくなっている。

また、原発という「存在」をどうフレーミング・争点化したらよいのか、あるいはその場合の主体は誰なのかという自問や他者非難が続き、それ自体がフラストレーションの種とさえなっているかのように見える。このように、民主主義の在り方と本質、その可能性を模索する時期が再び到来しているのは間違いない。

民主主義をめぐる問題を、現代政治理論の文脈に置きなおして捉えて現状を点検するとともに、今一度その潜在力に目を凝らそうとするのが山崎望の『来るべきデモクラシー』(有信堂、2012年)である。この本を貫いている問題意識は明快だ。それは、「第二の近代」(これはベック=ギデンズのいう「再帰的近代」とほぼ等価に用いられている)の特徴である「時間と空間の分離」、「脱埋め込み」、「再帰的秩序化と再秩序化」がリアルなものとなっている現在、どのような民主主義構想が語られ、どのような「来るべき」民主主義が模索されるべきなのか、骨太の現代政治理論を通じて丁寧に検証することにある。

著者の山崎望は、20代後半に『思想』に掲載された論文で注目を浴び(「後期近代における政治の変容」2003年)、「第二の近代」における「政治」と「政治的なもの」がどう変化してきたのか/しているのかを、一貫して解明しようとしてきた新進気鋭の政治学者である。政治理論は、日本でもそれほど発信力を確保してきたとは言い難いが、それは内外の政治論の紹介や整理(それ自体に意味があることは論を待たない)や、「空理空論を弄ぶ」とみなされることが多かったからかもしれない。

しかし、この本がその種の書籍と大きく異なっているのは、粘り強く現実と向き合い(それは「おわりに」に引用されるウルトラマンAの言葉に象徴されている)、新旧の政治理論の長所を換骨奪胎しながらもその限界を指摘し、「その向こうにある」民主主義論へと想像力をいざなう所にある。それゆえ、平易な文章ではあっても(これはかなりの程度、概念定義を意図的に迂回していることにもよる)、読者は著者の理論的な展開に対しても、粘り強くついていかなければならない。

2つの「政治的なもの」

もう少し本書の内容を詳述してみよう。この本には強固なマトリックスが設置されており、それが「政治的なもの1」と「政治的なもの2」という区分である。前者は「政治が見いだされるアリーナ」を指し、国家、国際社会、市場や家族などがこれに当たる。後者は政治で「集団を単位とした敵対性の契機」を指し、国民や階級、男性性などがこれに当たる。いわば「政治的なもの1」は政治が展開される「場所」であり、「政治的なもの2」は政治を生産していく「主体」と言い換えても良いかもしれない。

「第一の近代」にあって、双方の「政治的なもの」は、例えば国際と国内、公と私との区別を(相対的に)固定化していた。こうした自明な境界線が、現実の上でも、認識の上でもすでに揺らぎをみせるようになったのが「第二の近代」のリアリティである。

具体例を引いて言えば、ドメスティック・バイオレンス(あるいは文化、宗教、ジェンダー、セクシュアリティなどの次元)といった、これまで原則的に「政治的なもの2」の中で私的領域に閉じ込められていたものは、「政治的なもの1」によって政治化されて公的領域との境界線に位置するようになったのに対し、「テロとの戦い」をめぐる状況は、それまで国家の独占権であった軍事行動を、民間アクターを巻き込んだ高度ポリシング(警察行動)へと変質させ、国家主権による生権力を私的領域へと拡大させることになった。

それは、例えば「政治的なもの1」の象徴でもある「国民国家の揺らぎは、国際政治と国内政治の脱分化である。それは国際政治や私的領域における暴力的契機が国内政治や公的領域へ、国内政治や公的領域における国家による秩序確立の契機が国際政治へと流出していくこと」を意味している。これは、「国内」と「国際」、もしくは「私」と「公」が主客転倒し、その本質的特徴がそっくりそのまま入れ替わるような状況を意味しており、政治的なものの境界線の揺らぎは、そのまま「政治」の内実を変容させることになるのである。

「再/脱埋め込み」の攻防

「再帰的近代化」における重要なキーワードのひとつに「脱埋め込み」、すなわち時間と空間を超えた関係性の形成があげられるが、著者はベック=ギデンズの論より一歩進めて、「再埋め込み」の過程、つまり人々の間の新たな秩序による新たな関係性の構築にも目を向けている。この「再埋め込み」は、正負両方向であり得る。

例えば、ネオ・ナショナリズムや様々な宗教的原理主義という「我々の昂進」は象徴的な負の過程であるし、他方では個人のアイデンティティの政治化を核とする「新・新社会運動」などは、正の過程と捉えることができる。何れにせよ、これは「主権、生権力、承認する権力」という「第一の近代」における三位一体が「デカップリング」したことの結果とされる。

こうした「再埋め込み」の過程のベクトルは、一方的なものたり得ない。なぜなら「第二の近代」の特徴はいかなるアイデンティティも所与のものではなく、獲得し、選択する運命を人々に強要することにあるからだ。「人間は自由という名の刑に処せられている」とは、サルトルの言葉だが、著者は「近代という時代は、人々を(略)「故郷喪失者」となることを運命づけた時代」という。

本書はこの「第二の近代」の特性について両義的でありながらも、そこにむしろ民主主義の可能性を見出す。それは、「自らの根拠を自らで基礎づける」という原則こそが民主主義と本来的に整合的なものだからだ(この点は、宇野重喜・田村哲樹・山崎望『デモクラシーの擁護』でも強調されている)。

著者の頭の良さを感じさせるのが、リベラル・ナショナリズム論(閉鎖された空間での自由で連帯的な市民形成論)、熟議民主主義論(熟議による正当性の発明)、闘技民主主義論(多元的なアイデンティティの形成)、絶対的民主主義論(ネグリ=ハートによる「帝国」と「マルチチュュード」論)という、現代の民主政治理論の4大潮流を、それぞれ包摂と排除、空間軸と時間軸から分析してみせ、それぞれの長短を述べる箇所である。この部分だけでも、凡庸な政治理論の教科書の何倍もの価値があるといえるかもしれない。

不確定性が希望へと変化する時

著者の結論は、暫定的かつ良識的なものだ。それが「政治的なもの1」を増殖させること、つまり「政治性」を高めて、複数の政治的領域間のバランスと緊張関係を維持することである(ちなみに評者にとってこの結論は、著者が批判的に分析している「討議的民主主義」の姿勢に近いように思える)。

「「政治的なもの1」からの自由と「政治的なもの2」からの自由という2つの自由を、デモクラシーによっていかに「政治的なもの1」への自由と「政治的なもの2」への自由へとつなげ、再帰的伝統化(選択された疑似的復古主義・急進主義――引用者註)とサバルタン化(存在が不可視化されていく人々――引用者註)を回避するか」が、「来るべきデモクラシー」とされるのである。

「再帰的近代論」を含め、近代を際限のない解体のプロセスと捉えるまなざしは、多くの社会学や政治社会学の常套句だった。この本は、実はそのようなプロセスが一方的なものでは必ずしもないこと(この点に本の主張と矛盾する点を見出すことはできるかもしれない)、そして何よりも、その不確実性と不確定性こそが、民主主義が現在抱えているかにみえる困窮の、実は最大のポテンシャルであり、それゆえに希望を見出せるということを証明してみせている。これは、「なぜ民主主義なのか」という問いが不可避のものとして再浮上している今に対する、強力なメッセージであるはずである。

プロフィール

吉田徹ヨーロッパ比較政治

東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。

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