2013.07.06
ネット選挙運動解禁の意義とは何か?
インターネット選挙解禁で投票率が上がる?
来たる参議院選挙から、ネット選挙運動解禁となる。以前より、ネット選挙運動解禁を求めるOne Voice Campaignのメンバーとして活動していたこともあって、私も取材をお受けすることが多くなってきている。
そういうときに、かならず聞かれることのひとつに「ネット選挙運動解禁によって、投票率は上がりますか? 」といった質問がある。
この質問を受けるたびに、私が心のなかで思うことは、日本政治の変わらなさ、抱える問題の根深さである。
その理由については最後に述べるとして、せっかくなので、このよく問われる「ネット選挙運動解禁で、参議院選挙の投票率は上がるか?」という質問に答えることから、議論を展開してみよう。
私の答えは、「正直いってわからない。しかしおそらくは、ネット選挙運動が解禁されたからといって、参議院選挙の投票率に影響を与えることはないのではないか」というものである。
このような議論には既視感がある。それは小選挙区制度導入の際の議論である。90年代、佐川急便事件によって「政治と金」の問題が浮上したときに、あたかも小選挙区さえ導入すれば、そうした問題がすぐに霧消するかのような言説があった。
もちろんそんなことはなかった。その理由は単純である。制度が変わったからといって、急に人間の行動そのものが変わるわけではないからである。実際に多くの関係者は、制度設計者の意図とは関係なく、何とか制度の穴を見つけ、慣れた方法で、政治を行う道を探したのである。
まして今回のインターネット選挙運動解禁では、これまでの選挙運動が何か禁止されるというわけではない。法定ビラや葉書の頒布、選挙カーでの連呼もそのまま認められる。それどころか、たとえば選挙カーについては、ガソリン代からレンタル代、人件費まで公費の補助が出るのである。もちろんネット選挙運動には公費の補助などつかない。日本の後援会を中心とした選挙のやり方は、一種独特であり「日本の伝統芸能」とも揶揄されることもある。とくに制限がなされないにもかかわらず、伝統が早々廃れるとはとても思えない。
何か革新的なネットを使った選挙運動、それをやらないと圧倒的な差がつくと誰もが認めるような手法が出てくれば話は別である。しかし今回の参議院選挙はネットが使えるようになる初めての国政選挙である。有権者も、候補者も、あらゆる関係者が手探りを続けるなかで、いきなり選挙の主役に飛び出るとは考えられない。そうであれば、やはりネット選挙運動が解禁されたからといって、すぐに投票率が上がるとは、このままでは考えられないのではないだろうか?(もちろんこの予想は外れてほしいと思っているし、そのために、最近では「主体的な選挙をつくる会」というネットワークの設立にも私自身かかわっている。)
有権者の主体性の回復へむけて
では、ネット選挙運動解禁は意味がないかというと、まったくそうではない。以下、ネット選挙運動解禁の意義について述べていくが、近視眼的な視点ではなく、長期的な視点から見ていくと、そこには大きな可能性が広がっていることがわかる。そうした観点から改めて今回のネット選挙解禁の意義について述べていこう。
まず、今回の公職選挙法改正によって、法律上、あきらかに有権者の主体的に選挙にかかわる余地は広まっている。
インターネットが普及した現在、何かわからないことがあればインターネットを使って調べる、あるいは商品を比較したり、ネットを通じて問い合わせることは、多くの人が普通に行っていることだろう。
しかし、こと選挙に限ってはそれができない。選挙が近くなって興味を持ち、ネットで調べても、候補者や政党のウェブページの更新は止まり、何か質問しても、まずネットを通じて回答を得られることはなかった(もし回答してしまうと、公職選挙法違反に問われる可能性があるため)。もちろん有権者も、応援したいと思う候補者がいたとしても、ネットを使って支援を呼びかけることはできなかったのである。
つまり現在の公職選挙法のもとでは、多くの有権者は、ビラや葉書、ポスター、選挙カーからの連呼、立会演説といった限られた情報、限られた情報を「消費」するぐらいしかできなかったのである。
それがネット選挙運動解禁によって、より「自分らしく」選挙にかかわることができるようになったのである。ネットを使って調べ、問い合わせ、そして応援する。これこそが、じつは最大の意義であると思える。こう述べると、あまりにも普通のことじゃないかと思われるかもしれないが、その普通のことすら、いままでできなかったのである。いわばマイナスがゼロになったことの意義ともいえるが、それすらも定着して、さらに有権者が創意工夫をして選挙にかかわったり、候補者も有権者とのコミュニケーションに重きを置くような使い方をしだすには、やはり時間がかかるのではないだろうか。
「政治マーケティング」を剥がすネット選挙運動
つぎに、昨今の潮流を踏まえて、その意義について述べてみよう。ここ数年、日本で注目されているのが「政治マーケティング」である。これは民間企業が使っているマーケティングの手法を政治でも使って、有権者を「消費者」に見立てて、政党や候補者を売り込もうするものである。
各政党のポスター、テレビCMなどを見ても、各政党が有権者の心を掴むべく、良いイメージ、わかりやすいメッセージの構築に腐心している様子がよくわかる。そして、昨年の総選挙、ポータルサイトなどに政党の広告が突如大量に出稿されたことは記憶に新しい。インターネット選挙運動解禁によって、ネット広告の幅が広がったことで、さらなる情報の洪水、しかもイメージ先行の情報が有権者に押し寄せることになるかもしれない。
そんなとき、有権者はどのような反応をするだろうか。ひとつ考えられるのは「政治からの退却」である。情報の洪水がさらに押し寄せるとき、人はますます嫌になって政治から目を背けようとしてしまうのである。コリン・ヘイは『政治はなぜ嫌われるのか―民主主義の取り戻し方』(岩波書店)のなかで、政治マーケティングは公共政策の脱政治化をもたらし、有権者にとっては投票所に向かわないことが合理的選択になるとまで述べている。
さらにもう一つの懸念としてよくあるのは、ネット上で有権者の情報が収集され細分化され、カテゴライズされ、最適化されたアプローチがとられることで、有権者は抵抗することのできない「操作される対象」におとしめられてしまうのではないかという懸念である。「ビックデータ」流行りであるが、有権者からすればつねに先回りされて、操作されるのではないかという不安があるだろう。
しかしこれは、インターネット選挙運動解禁にかかわらず、もうすでに起こっている「現実」なのである。こうした潮流に対抗するとすれば、やはりその拠点はインターネットのなかにあるかもしれない。
というのは、大量の情報が流れるほど、そしてそうした情報に不信感を抱くほど、人々が信頼を寄せるようになるのは、自分と近い友人・家族や、信頼する人間からの情報なのである。たとえばニールセンが世界56か国、28000人のインターネットを利用する消費者を対象にして実施した「Global Trust in Advertising Survey」によると、回答者の92%が、クチコミや友達や家族からの情報を信頼すると回答しており、あらゆる形態の広告を上回っている。一方で、テレビや新聞広告は、低落傾向である。
人間関係があって、その上に情報が流れるのが、ソーシャルメディアである。つまり広告的な情報が大量に流れるほど、相対的にソーシャルメディアの重要性が人々にとって高まるのである。
ソーシャルメディアによる有権者からの一次情報は、イメージや心地よい言葉で固めた「マーケティング」の化けの皮を引きはがすことに繋がるかもしれない。というのは、人間24時間、本性を隠すことなどできない。候補者はつねにソーシャルメディアの監視にさらされることになる。思わぬところで出た「本音」や本性を現すような態度が、有権者に目撃され、あっという間に拡散することもあるかもしれない。イメージと実像にギャップがあるほどネタにはなりやすい。
すでに私たちはそうした事件を見ている。2009年5月、衆議院選挙に出馬予定であった民主党の横粂勝仁氏が、同じく立候補予定者だった小泉進次郎氏と、横須賀市内の祭りで遭遇し、横粂が小泉に握手を求めたが無視されたという動画がYouTubeで25万回以上再生されるほどの反響を呼んだ。この動画の前に両氏が握手をしていている動画もアップされ、当の動画が悪意のある編集なのではないかと、さらに話題を呼んだ。
いずれにしても、インターネット選挙運動解禁で、有権者側からの情報が、作り込まれたイメージを壊していくことに繋がるかもしれない。さらにドミニク・カルドンは『インターネット・デモクラシー 拡大する公共空間と代議制のゆくえ』(トランスビュー)という本のなかで、政党などが、SEO対策や大量の資金投入によって、検索結果などを歪めてしまう危険性を指摘しているが、彼もまた、抵抗の拠点としてソーシャルメディアによる有権者からの情報、つながりに期待をしめしている。
有権者からの気軽な情報発信、いわば「ライトな参加」が、作りこまれたイメージをひとつひとつ剥ぎ取っていくことにつながるならば、候補者や政党の方も、説得力と一貫性のある政策という中身こそが重要と考えるようになるかもしれない。
選挙全体を見直しへの「発火点」
さらにインターネット選挙運動が定着していくことは、公職選挙法全体の見直しにつながる可能性がある。そのきっかけをつかんだことも、今回のネット選挙解禁の大きな意義である。選挙のあり方に疑問を持っている有権者は多いだろう。しかしこれまでは公職選挙法の改正まで議論が発展していなかった。
しかし今回の改正によって、ネット上で様々な選挙、有権者主体の選挙がなされるようになるならば、その一方で、ビラやハガキの印刷代、選挙カーのガソリン代から運転手代まで手厚い公費負担で支えることの是非は、再び議論にならざるを得ないのではないだろうか。
今回のネット選挙解禁によって、おそらくさまざまな矛盾や問題点が出てくるのではないかと考えている。たとえば有権者は選挙運動用メールが送れないが、同じ内容でも、ソーシャルメディアではメッセージを送ることができる。あるいは同じ候補者であっても、無所属であればネット広告が出せないが、政党の選挙区支部長であるならば、顔写真・名前つきで政党として広告を出すことができる。そうした矛盾を是正しようという動きが出た時に、小手先の微調整に終わらせず、選挙のあり方全体まで議論を広げられるか、問われるのはこれからだろう。
「ダチョウ・アルゴリズム」を超えて
もうひとつだけ、ネット選挙運動解禁の意義について述べておきたい。それは誹謗中傷対策である。このように書くと意外に思われるかもしれない。ネットが自由に選挙に使えるようになることで、根も葉もないような誹謗中傷が増えるのではないか、それは意義ではなくて、問題点ではないかと。確かに公職選挙法改正までの報道を見ても、「今後の課題は誹謗中傷・なりすまし」という記事のまとめ方は、ほぼテンプレート化していたように思われる。
しかしじつは一概にそうとはいえない。むしろ改正前の方が、ネット上の誹謗中傷等に無防備であり、今回の改正によってはじめて、そうしたものに対抗できるようになったのである。
何よりも、選挙期間中にネットを使えるようになったということ自体が、誹謗中傷対策となる。いままでであれば、選挙期間中に書き込まれた事実無根のネット上の誹謗中傷に対して、ネット上で反論することはできなかった。というのは、選挙期間のウェブページの更新は公職選挙法違反と見なされていたからである。インターネット上で、落選運動は選挙運動ではないので自由に行うことができ、一方で選挙期間中となると候補者は反論できないというのが、以前の公職選挙法であった。
今回の改正によって、ネット上の「成りすまし」に対しても虚偽表示罪が適用されるようになり、また、落選運動についても選挙運動同様に、連絡先表示義務が設定された。この連絡先表示義務を果たしていないネット上の書き込みについては、プロバイダーが即時に削除しても民事上の責任は免責される。さらに名誉棄損に当たると候補者本人が削除要請を出した書き込みについて、プロバイダーが削除しても民事上の責任を免責される同意照会期間が、これまでの5日から2日に短縮された。
情報通信の世界には「ダチョウ・アルゴリズム」という言葉があるそうである。これはダチョウが身に危険が迫ると、砂に頭を突っ込んで見ないふりをするという迷信から来ている。ある議員事務所の方から「ネットは誹謗中傷があるので、ネット選挙運動をやらない」という話を聞いたときに、私の頭をよぎったのがこの言葉であった。ネットをやろうがやるまいが、誹謗中傷が起きているのはもはや「現実」なのである(ちなみに、この議員の偽アカウントがツィッター上であり、当時、事務所は気づいていないようであった)。本当に誹謗中傷が問題というのであれば、インターネットに向き合わざるを得ない。そのうえで対抗するための道具ができたというのが、この公職選挙法改正のひとつの意義なのである。
「作為」こそが問われる、これからのネット選挙運動
さて、そろそろ、最初の問題意識に戻ることで本論のまとめをしていこう。なぜ私が「ネット選挙運動解禁によって、投票率は上がりますか? 」という問い自体にこだわるのか。それは、あたかも何か制度が変わると、戸板を立てると水の流れが変わるがごとく、「自然」に政治も変わるかのような感覚をみてとれるからである。
制度の意図するところを達成するためには、制度を梃子としつつも、不断に努力する人間の「作為」がなければならないのではないだろうか。小選挙区制度が当初の目的を果たせなかったことは先に述べたとおりであるが、「日本政治の変わらなさ」はここに起因しているように思えてならない。ましてや「日本の伝統芸能」選挙である。問われるべきは、投票率が上がるかどうかではない。投票率を上げるために、ネットを利用しつつ何をしていくか、作為の契機をどう作っていくか、どう継続させていくか、といったことではないだろうか。
戦後政治学の泰斗、丸山真男が格闘してきたのも、いかにして「個々人の主体的な作為」としての民主主義を構築するかであった。本稿で論じてきたインターネット選挙解禁の意義を単なる可能性で終わらせないためには、まさに参議院選挙をスタートと位置付けて、私たちの作為を積み重ねていくことが必要である。最後にマックス・ウェーバーのつぎの言葉を紹介して締めくくりたい。
政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力を込めてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である(脇圭平訳『職業としての政治』岩波文庫)。
サムネイル:『Light pendulum』YaYapas
プロフィール
谷本晴樹
「One Voice Campaign」発起人。(一財)尾崎行雄記念財団客員研究員。インターネットと政治、平和論、政治倫理など幅広く研究している。主な著書に『統治を創造する』『グローバリゼーション再審』(ともに共著)など。