2011.10.24

ミシュランガイドはなぜ歓迎されるべきか 

吉田徹 ヨーロッパ比較政治

社会 #ミシュランガイド#フランス

日本国内では東京版と関西版につづいて、ミシュランガイドの北海道版が発行されることが先に発表された。

北の大地を多少なりとも知っていて、いままで声高に「ミシュランガイドは北海道にこそ相応しい」と言ってきたものにとっては朗報だ。というのも、ミシュランガイドのコンセプトは北海道にこそ相応しいと思うからだ。以下では、ミシュランガイドのコンセプトを紹介するとともに、日本での発行が何を意味するのかを考えてみよう。

自動車旅行とともにあるミシュランガイド

ミシュランガイドは1900年、パリ万博に合わせて出版されたことに端を発する。もともとは、当時は数千人もいなかった自動車保有者に向けた、タイヤ会社の販促用パンフレットのようなものであった。そこには簡単な道路地図や観光案内があるだけで、レストランガイドが掲載されていたわけではなかった。有料になったのは1920年からで、このとき初めてレストランが掲載されるようになる。

タイヤ・メーカーらしくその標記や尺図は正確で、第二次世界大戦の際、ミシュランの地図を複写した地図をドイツ軍が利用したといわれ、反対にノルマンディー上陸後には連合軍の手引きとしても利用されたとの伝説も残っている。こうして1900年から21世紀にかけて、ミシュランガイドはフランス国内だけでも3000万部以上を売るベストセラーとなった。

レストランが星(フランス語の通称では、勲章を意味する「マカロン」とも呼ぶ)で評価されるようになったのは、1926年のことからだ。ホテルは城のマークで評価される。ちなみに、しばしば誤解されているが、星の数は決してレストランの「美味しさ」を意味しているわけではない。正確な定義は、三ツ星が「そのために出かける価値がある」、二つ星が「迂回して行く価値がある」、そして一つ星が「この分野ではとても良い料理」の意味である。

つまり、ミシュランガイドのコンセプトの核心はグルメガイドではなく、「ドライブとともにある」ということにある。それも、ツーリングカーにトランクを数個載せて、方々を旅する富裕層を対象にして、である。フランスで自動車を利用したバカンスが大衆に広まったのは1930年代後半からだが、日本でいえば国民休暇村に出向いて庭先でバーベキューを楽しむこうした層は、ミシュランなどあてにしなかったに違いない。

何を言いたいかというと、日本のなかでは北海道こそが、このミシュランガイドの精神に相応しい土地だということである。北海道の地方に出かけるには、やはり車がもっとも簡便な手段だ。雄大かつ多様な風景を楽しみながら、ミシュランガイドを繰りつつ、宿泊先やレストランを目当てに移動する。ミシュランガイドがもっとも得意とするユーザーは、北海道を駆けめぐるドライバーなのだ。

本国版はレストランを10キロおきに調査、評価しているとされるが、そこまでの精度が北海道版に盛り込まれるかどうかは分からない。しかし、公共交通機関での移動を前提にした東京版や関西版ミシュランよりも、北海道版こそが本来の使い方に合致している。もっとも、日本で販売されているミシュランガイドは、定本の「赤本(Guide Rouge)」ではなく、同社が2003年から販売しはじめた地域のレストランのみを評価した「グルマン・ガイド」を原型にしているというべきだろう。

ジンギスカンやラーメンが北海道版の対象になるかどうかなどはさして意味がない。そうではなく、日本では北海道がミシュラン・コンセプトのもっとも忠実な体現者であるという点を、日本ミシュランタイヤは強調すべきだっただろう。

「格付けすること」の意味

「素材は一流、腕は二流」などと称される北海道の食文化が、ミシュランガイドの発行でどの程度変わるかは未知数だ。東京と関西でミシュランガイド発行の反響や反応は微妙に異なっていたように思えるが、いずれにしても料理人やグルメガイドの反応は、1)無視、2)歓迎、3)反対の三つにわかれたようにみえる。

反対派の論拠は、外国を基準にした評価は日本には当てはまらない、外国人が喜ぶものが日本人と同じとはかぎらない、日本の味が本当に分かるのかといった、見当はずれな意見が多かったように思う。なかには、ミシュランガイドの公平性を疑う意見もあった。日本でもミシュランの覆面調査員を16年務めたパスカル・レミー氏が内部事情を暴露し(「調査員はテーブルに着く[原題 L’inspecteur se met a table])、そもそも毎年厳格な調査は行われず、覆面調査が行われることはまれで、多くの場合は自分の身分を明かし、場合によっては代金を支払わずに食事をしているなどといった内容が報じられた。

もちろん、人間が人間の感性や作品を評価するのだから、完璧はありえない。フランス国内の星付きレストランだけでも500以上を数えるのだから、マネージメントにミスがあるのも致し方ない部分もあるだろう。もし批判をするとしたら、ミシュランガイドそれ自体がいまや権威と化しており(星を失ったがゆえにシェフが自殺するといった事件もある)、通常は星がつくごとに定価が2-3割高くなってしまうということがある。ガイド自体が市場をつくり上げてしまう場合、ガイドそのものの性格が歪んでしまう。そうした意味では、賛成するにせよ、反対するにせよ、日本人自身がミシュランを評価することで、自らの市場を歪めてしまっているのである。

ミシュランガイド、とくに日本版のそれにさまざまな問題点やバイアス、経営戦略があることを認めつつも、北海道版を含め、ミシュランガイドがそれでも日本の各地の宿泊所とレストランを評価しつづけることを歓迎すべきことだと思う。

☆   ☆  ☆

企業にせよ、国債にせよ、大学にせよ、対象が評価され格付けされている。そして、数多くのグルメガイドが日本国内に存在するなかで、考えてみれば飲食店を格付けすること自体が(「編集部お薦め」といった良心的なものを除けば)皆無に等しかった。その点においても、日本人など足元に及ばないほどに頑固なフランス人を相手にしたミシュランの試みは、革新的かつ野心的だったのである。

リーマン・ショック以降の金融危機で、市場評価が不適切だったとして、格付け会社自身が批判の対象になっている。格付けして評価するということは、それだけの経験と覚悟に裏打ちされている必要がある。たとえば、日本の政党のマニフェストのように、政策メニューを並べて、それを実現します、というのはそれと正反対の姿勢である。優先順位をつけて、それに納得してもらうこと。つまり、評価する主体であるということは、責任の主体となるということでもある。その姿勢のなかに、評価の主体と、評価される客体との真剣なせめぎ合いが生じるのだ。

もちろん、だからこそ評価基準は多様かつ多数存在している方が好ましい。レストランガイドでいえば、すでに多くの国で「ザガット」や「ゴーミヨー」といった他のレストランガイドがミシュランと凌ぎを削っている。今夜の美味しい一皿を求めて店を探すユーザーが、ミシュランガイドに反発して、独自の判断基準をもってその店を訪れるのであれば、それはミシュランの格付けなどにびくともしない、強固でしなやかな市場をつくっていくことに貢献することになるだろう。そのときにこそ、日本でのミシュランガイドの真価は問われるに違いない。

プロフィール

吉田徹ヨーロッパ比較政治

東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。

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