2012.04.09

歴史の証言者たち ―― 日本の『制度』をささえた人びと(2) 新田勲 ~介護を生んだ〈2つのテント〉~

大野更紗 医療社会学

福祉 #新田勲#脳性まひ#府中療育センター闘争

(*本稿では、現在「差別用語」とされている表現を、資料・記録の記述に即し、変更をせずに使用しています)

介助者の40代の男性が、「新田さん」の電動車いすの横で正座する。車いすの足元には、一枚の板切れ。板には、何の印もない。文字盤の類が記してあるわけでもない。どこからどう見ても、ただの木の板だ。新田さんが、不自由な足先を、ポン、ポン、と板の上で弾ませる。

「さむ くて  ねむくなってとう し しかけ た ことも なんかいもあった」

「CPはいまはじり つする こと かい ごほしょうをじぶんでさが さない」

わたしには全く読み取れぬ不可解なサインを、一字一句正確に、一切の抑揚のない声で代わりに「喋る」介助者。その姿を見て、人形浄瑠璃の黒子が思いうかんだ。これが、「足文字」か。

「魔法のようですね」と、わたしがため息をつきながら一言こぼしたら、「ぐうううう」とうなられた。新田さんが、せせら笑った。

「武闘派」の重度脳性まひ者

新田勲さんは「伝説」がやたらと多い方だ。特に1970年代~80年代の障害当事者たちにまつわる文献や資料を集めてめくっていると、「府中療育センター闘争」と「新田勲」という固有名詞が頻繁に目に留まる。

―― 府中問題はまえまえから会報を通じて知っておりました。

私は障害がひどかったので一般の学校にいけなかったわけです。

ですから幼ないころよく同じような人たちと一つ屋根の下で暮したらどんなに楽しいだろうと考えたものでした。

しかし、今こうして施設を見たり来たりして、改めて考えさせられます。

私たちは社会から、また親・兄妹などから見はなされた場合、結局は施設にいかなければならないのでしょうか。――

―― 先日もある重障者の施設に知人をたずねていきましたが、その人が「早く家にかえって、あったかいゴハンをたべたい」といっておりました。

 私がいるあいだも外に出たいが、出してもらえないでおりましたし、そのほか、ひどいなあと思う事がありました。――

(「府中のハンストに思う」金子和弘 -『会報 青い芝』 1973年 施設問題特集号)

「新田さんは武闘派だ」、と人づてに初めて聞いたとき。一体何の話なのか意味がわからず、ポカンとしてしまった。

脳性まひ(通称、CP)者として、障害は最重度の部類に入る。手足は変形し、ほとんど自由に動かない。言語障害も重く、たった一言、自力で発することすらできぬ。そんな人が、あちこちで「武闘派」と噂されている。

脳性まひ、という障害になじみがない方もおられるだろう。

わたしは脳性まひではないので、当事者の方の記述を下記、転載する。「自己免疫疾患系の難病」というわけのわからぬ新規参入者が、戦後をその身体できりひらいてきた脳性まひ者を「代弁」などしようものならば、新田さんに叱られそうだ。

―― ひとくちに脳性まひといっても、そこには個人差がある。というのも、脳性まひの定義自体が、以下に記述するように、多くの状態を十把一絡げにしたものだからだ。

『受胎から生後四週以内の新生児までのあいだに生じた、脳の非進行性病変に基づく、永続的な、しかし変化しうる運動および姿勢の異常である。その症状は満二歳までに発現する(厚生省・1968年)』――

(熊谷晋一郎『リハビリの夜』 2009年 医学書院)

たとえば、この文章を書いている熊谷晋一郎さん。彼の「初対面の印象」は次のようなものだ。これはあくまでわたし個人の主観から「見た印象」であり、無礼きわまる振る舞いであることを先にお断りしておきたい。

・手足が湾曲・変形して「奇妙な形」をしている

・全身の筋肉がこわばっており、また、脳からの信号が身体の動きにうまく反映されない

・一挙手一投足、「抵抗する全身」と格闘している

・電動車いすが足の代わりで、「歩いて」移動することは一切できない

・介助なしではトイレにも行けない

・熊谷さんの言語障害は軽いが、それゆえに「脳性まひなのに普通に話せる」と錯覚しがち。「言語障害の有無」について、わたしが熊谷さんに質問したことがないというだけである

新田兄妹

新田勲さんは、1940年、東京都内で貧しい家庭の7人兄弟の1人として生まれた。この7人の兄弟のうち、2人が重度の脳性まひ児であった。

勲さんと、妹の絹子さん。「新田兄妹」は、当時の市井の差別や偏見の中で、文字通り、這いつくばるようにして育つ。以下、兄妹2人の混同を避けるために「新田勲」は「勲さん」と表記する。

勲さんは自身の手記で、幼かった子ども時代をこうふりかえっている。

―― 障害者を2人もつ家族がありました。その家族は障害者を入れて7人兄弟がいました。すごく貧乏で、母は2人の障害者の世話だの兄弟の世話に追いまくられていましたが、子供が小さいうちは楽しい家族として暮らしていました。

しかし、子供が成長期にむかい、この世の中の当然のごとく、健全な兄弟にとっては障害者が1人いても負担や重圧に感じるのに、まして障害者が2人もいると……、特に結婚の年頃になると健全な兄弟といさかいは絶えず起き、その上、父が亡くなり家族の生活の収入源を健全な兄弟の収入に頼ると、母としての実権もなくなり、2人の健全な兄弟に楯突くこともできないし、家の片隅で小さくなっていなければなりません。

そういう状況のあげく母といざこざの結果、健全な兄弟は「家族はみられない2人の障害者は施設へ入れろ」といって、家族からとびだして2人の障害者のいることを隠して結婚したのです。

生活の収入源を断たれた母は、働きたくても2人の障害者を抱えては働きにも出られませんでした。それに、まだ幼い健全な兄弟3人もいました。収入源を断たれた母は心中するか、2人の障害者を施設に入れるしかありません。――

(新田勲『重度障害者の自立と介護保障』1985年)

「府中療養センター」

以下、資料の引用がつづく。

1968年、勲さんと同時に「施設」である「府中療育センター」に入所した、妹の絹子さんの手記からである。

―― センターに入って一日目、

ついたとたん、看護婦が自分のきているものをよってたかってはぎとり、下着までセンターのものをきせられ、ペラペラのダッブダブのねまきをきせられ、そのあと、ストレッチャーに乗せられて、検査室につれていかれた。

 …私物のもちこみはいっさい認めなく、持ってきたものは全部もちかえり。その夜の七時半ごろトイレに行きたくなったので「鈴」(言語障害の人には鈴をわたして、用事のある時それを鳴らすように)をならした。

 「あんたさっきいったばかりじゃないの、まだあれから何時間たったと思っているの」といわれてしまった。

…はいって三日目、入浴日だった。裸にされつれていかれ、目の前に海水パンツ一つの男性が立っていた。

…それからは入浴を拒否しつづけた。わがままだ、いれてくれるだけでもありがたいと思わばければいけない。ぜいたくだ、などとよくいわれた。労働力の軽減のために、男子をつかうのである。

…はいって十日目ごろ写真をとるからきなさい、と言われ、何の気なしに行った。そうしたら、あっというまに看護婦二~三人に裸にされてしまった。仰向け・立位・座位の三枚の写真をとられて ――

(新田絹子『私のいた施設の実態』1976年)

これを読んで「なんとひどい」とか「旧来の悪人のすることだ」思う人もいるのかもしれない。そうではなく、既視感を感じる人もいるだろう。

わたしが一連の資料を読みながらまず感じたのは、後者のほうである。過去の話というわけではない。今日も、最底辺に属する「施設」ではさして変わらぬ風景が展開される。

府中療育センターが東京都府中市に設立されたのは、1968年4月。当時の美濃部都政は「東洋一の規模・近代的施設」という鳴り物入りの福祉拡大施策として、このセンターを建設した。

現在もセンターは現役で運営されており、約250床を有する。平成22年度のデータによれば長期入所者225名中105名、46.7%が「50歳以上」である。また、その入所期間については「15年以上」が74.2%を占める。

わたしのひいき目を差し引いても、在籍が長期にわたっておりかつ在籍者が高齢化していることは明らかである。

このような大規模施設が、1968年当時からつい先ごろまで「近代的」で「進歩的」なものとして認識されていたことは特筆しておきたい。

―― 重症心身障害児者、重度精神薄弱者、重度身体障害者を入所される大規模な施設 ――(『都立府中療育センター事業概要 平成四年度版』1993年)

―― 東洋一の偉容を誇る都立府中養育センター ――

(朝日新聞 1970年12月14日)

介護をもぎとる〈2つのテント〉

劣化して茶色に変色した、1970年12月14日付、朝日新聞のスクラップが手元にある。

―― こういう人たちを各家庭に分散しておくより、集団として扱った方がはるかに社会的に経済であるという。確かにうなずけると思う。――(センター事業年報から)

出所)1970年12月14日 重度障害者も人間です(朝日新聞)

現在、障害の領域では2005年に成立した自立支援法をはじめとして ―― 自立支援法について数多の欠陥や不備が国際的に指摘され久しいことはひとまず置いておく ――「ある程度」制度が存在している。また、高齢ケアの領域では2000年に介護保険制度がスタートした。

「介護」というサービスは法的な建前としては、どのような人でもニーズが生じれば普遍的に使えるようにする、というのが大きなレベルでの潮流である。

しかし公的な介護サービスが、日本においてもともと自明のものだったわけではない。1970年代以前は、重度脳性まひ者による代表的な当事者団体の代名詞である「青い芝の会」ですら、「国が介護を保障できるわけがない」という認識がむしろ主流派であった。

「自立生活」という言葉すら存在しなかった時代。特殊な例を除く、ほとんどの重度の脳性まひの人や重い身体障害がある人は、「死に瀕する」か「座敷牢」のように生きるかしかなかったのだ。

介護の制度化の過程において、障害当事者が建前上も「人間ではない」(=人権がない)扱いから脱するために戦後をあゆみつづけてきたことは、あまりにも一般に知られていない。わたし自身が勲さんのことなど、つい最近まで、知る由もなかった。

勲さんは28歳のとき、1968年に府中養育センターに入所する。

まず入所時に、「死亡後の解剖承諾書」に署名をすることを余儀なくされたという。それが何を意味するかといえば、当時の医療並存型大規模収容施設の多くがそうであったように、現在ではあまり行われない「脳性まひ者の整形外科手術」が日常的に繰り返された。

今日の「福祉の対象」という感覚からは、ずれる。語弊をおそれず言えば、勲さんたちは整形外科的な「実験の対象」でもあった(第一回参照)。

脳性まひへの現行の臨床医療は、この世代の当事者たちの議性をともなっている。

設立されたばかりの府中療養センターは5階建てで、「1階は民生局」(=福祉担当)/「2階から5階は衛生局」(=医療担当)に管理運営がわかれていた。このセンターの縦割りの管理が奇しくも、勲さんたちの1970年の行動の萌芽につながることになる。

どんな時代のどんな環境の「施設」であろうとも、その場に生活する人の営みすべてを管理しきるということは、それは人の能力をこえる幻想でしかないのかもしれない。

府中療養センターで新田兄妹の2人が「施設」に投げかけた問いとうねりは、都庁と二年半もの長きにわたって交渉をつづけた〈2つのテント〉へと、かたちを変えてゆくことになる。

介助者と、ともに生きること

センターで雇用されていた介助職員の中には、勲さんたちの状況に胸を痛める人もいた。精神的なストレスと、過酷な勤務体系が主な要因となり、「ひどい腰痛」をうったえる職員が頻発するようになった。

勲さんは、「唯一人間として扱ってくれた、介助職員たち」の待遇改善を求めてゆく。

1970年11月29日、一階部分の管理が民生局から衛生局へ移されたのちに、「一部の職員の異動」が決まる。勲さんを含めた4名は、重度障害をかかえながら施設内でハンガーストライキをおこなった。このときのハンガーストライキは、一時的で9日ほどでドクターストップがかかり一旦収束した。「話すこともできない」「食べることもできない」勲さんにとっては、軽々しい表現ではなく文字通り「命がけ」だった。

都に所属があった介助職員の一人が、匿名で下記のような手記を残している。

―― 11月30日(月曜)朝出勤して、私は職員の勤務移動反対で一階障害者がハンストをやっていることをはじめて知りました。

問題が私たち職員が基本的にやらなければならないことなのに、障害者たちがハンストという生命を賭けた闘いで支援してくれたことについて、ものすごいショックをうけました。というのは、私は過去二年半にわたり、労働者として組合運動にかかわってきたわけですが、自分たちの労働者としての権利の確立のための様々な要求運動において、これまで私じしんの生命を賭けてやろうなどと考えたことは一度もなく、さらにいえば、むしろそんなことはやればやるだけ面倒くさいことだからストにしても何にしても適当にやってやればいいやくらいの気持ちでやってきたからです。

人数も縛られ、トイレに行くのも気にしながら、やっているような状況では

――(新田勲『足文字は叫ぶ!』2009年 現代書館)

労働運動と障害者運動のかかわりは、1960年代後半以降の「最近」の動きであることは、記しておきたい。

60年代までは、両者の間にほとんどかかわりはなかった。府中療養センターのような事例が60年代後半から新聞やラジオなどでセンセーショナルにとりあげられ、1970年代には大学紛争と並走・対立をしながら、それ以降は海外とのネットワークの影響も強く受けてゆく。

調べる側からすれば、まさしく「迷路」のような、複雑な様相を呈する。

日本の戦後社会の、〈障害〉にまつわる記録偏在や資料収集の困難は、言語を発することができぬ重度の脳性まひ者が、その最前線に立っていたことと無関係ではない。

―― 演説やディベートという形で、時に不特定多数の人々に自らの肉声を伝えなければならない社会運動のリーダーの位置に、重い言語障害を伴う重度脳性麻痺者がついたという事例は世界的にも珍しいのではないか。

――(荒井裕樹『障害と文学』2011年 現代書館)

府中療養センターにまつわる、膨大な資料と記録をめぐりつつ。

次回は、介護の〈2つのテント〉のもういっぽう、妹の「絹子さん」の軌跡をたどろうと思う。

「黒子」のこれから

東京都内の、勲さんのご自宅へ伺った2012年2月半ば。勲さんは末期のガンを患われていた。一週間おきに入院と退院を繰り返して、抗がん剤の投与治療を受けている。

抗がん剤治療の副作用でさぞかし弱られておられるだろうと思っていたのに。その片鱗すら、見せてくれなかった。わたしなどが一度行ったくらいで、見せてもらえるはずもなかった。

眼光鋭く言葉は厳しく、禍々しい「生ける伝説」そのものであった。残り少ない限られた時間をインタビューに割かせてしまった、その思いしか残らなかった。

「勲さん。また、お会いしましょう」

それがおそらくは、口約束になってしまうのだろうと思いながら。わたしの浅はかな思考の底など、すべて見透かしているような目線に、一礼をして。老朽化した、古い都営アパートのドアを閉めた。

外は日が落ちかけていて、冷たい凍えるような氷雨が降っていた。緊張が抜けて、鎮痛剤が足りぬとたちまち身体が訴えてくる。フラフラと壁をつたう様子を、心配したのだろう。「足文字」を読みあげていた介助者の男性が、駅前のタクシー乗り場まで、車で送って下さった。道中、ぼそりとおっしゃった一言が、耳に残っている。

「これまで僕が、勲さんに生かされてきたようなものです」

勲さんに十数年間付き添ってきた人は、苦しげなかすれた声でそう言ったのだった。「黒子」の彼からこの日唯一聞いた、人間らしい感情のこもった声だった。

*「歴史の証言者たち」は不定期連載として継続していきます。

プロフィール

大野更紗医療社会学

専攻は医療社会学。難病の医療政策、難治性疾患のジェネティック・シティズンシップ(遺伝学的市民権)、患者の社会経済的負担に関する研究等が専門。日本学術振興会特別研究員DC1。Website: https://sites.google.com/site/saori1984watanabe/

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