幸福追求権、生命権、平和的生存権と安全保障 ――人権論の誤用に歯止めを

 

全世界の国民のための「平和的生存権」

 

――「平和的生存権」の保障のしかただけが特別なのですか。

 

他の人権は、日本国民に保障されるものとなっており(憲法11条、12条)、日本国内にいる外国人には権利の性質上平等に保障できるものは保障される、というものです。ところが「平和的生存権」だけは、前文でとくに「全世界の国民」が「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」という言葉が明言されているのです。これは、自国の存立保全のことだけを考えるのでは足りず、日本国が国際社会に対する国是として遵守すべき規範です。このことの意味を、今、立ち止まって考える必要があるでしょう。

 

先ほど、この権利は法案の賛否どちらにとっても根拠とされているために議論が拮抗してしまうと述べましたが、この権利の意味内容を考えてみると、単純な拮抗にはならないことが見えてくると思います。この権利には二面性があります。国家がこの権利を侵害してはならない、という消極的な側面と、この権利を実現するために国家が何かをせよ、という積極的側面です。

 

今回の法案では、政府はこの権利をもっぱら国家によって実現される積極的権利であるかのように語っていますが、そこに二重の誤りがあります。ひとつは、この権利の消極的側面を切り落としていること、もうひとつは、積極型の実現方向をとるときには、戦闘型軍事ではなく、「恐怖と欠乏からの自由」という福祉的発想で人間の生存を支援する内容でなくてはならないことが理解されていないということです。

 

「平和的生存権」は、国家が戦闘活動によって被害者を出してはいけない、という消極的な意味内容を出発点としています。この「~してはいけない」という消極的要請は、法の論理として違憲・合憲の判断のできるものです。この権利を守るために国が何かをするというとき、まず、この権利は軍事に関してはアゲインストな姿勢、国家を制約する姿勢をとっているのだということを理解しておかなくてはなりません。

 

その上で、世界の平和を守る・構築するという課題は、一国が短時間で達成できるものではないため、その積極面での達成度について違憲・合憲を判断することは、実際上は難しいでしょう。そこは民主政治を活性化して、市民の考えが国政に反映される方向を考えるべきです。望ましい方向としては、国際社会で共有されてきた、構造的暴力を脱するための被害者への救済や弱者への援助を内容とする「積極的平和」や「人間の安全保障」の発想と合流させて貢献の道を探りながら、その内実を充実させていくべきだと思います。その意味では、日本が難民問題にあまりにも冷淡だ、といったことがもっと論題になるべきでしょう。

 

 

「知らされない」幸福と軍事の凄惨なバランシング

 

――「平和的生存権」は軍事行動の根拠となるわけではなく、軍事行動によってこの権利が侵害されることを防ぐ意義のほうが優先するわけですね。もう一つの「生命・自由・幸福追求の権利」についてはどうですか。

 

今回の安保法制案に盛り込まれた武力行使の新要件は、日本の国民自身にとって理論的にも実際的にも有効な限定とはいえないと思います。多くの論者がいろいろな角度からその問題を論じていますが、私はその理由の一つとして、「幸福追求権」の問題を挙げたいと思います。集団的自衛権において武力行使を認める新3要件には「国民の生命、自由、幸福の追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」という要件があります。これは憲法13条の一部をそのまま使っている言葉です。

 

13条は、人権が「個人」それぞれの権利であることを明記したものです。ここでいう「生命、自由、幸福追求の権利」は、「幸福追求権」という一つの権利としてとらえるのが通説です。が、「生命権」と「幸福追求権」を異なる守備範囲をもつ別々の権利としてとらえる見解も有力です。私は東日本大震災と原発事故以来、「生命権」はそれとして独立した対象をもつ権利で、人権のうちで最も明確で基本的な内容をもった権利だという理解に賛成するようになりました。

 

ここで「生命」が何を指しているかは、私たちの経験から、おおよそ一致したイメージを持つことができるでしょう。自国民の生命そのものがいま剥奪されようとしている、あるいはその危機に瀕しているというときに、法的に許容された手段の範囲内でこれを救済する責任は、国家にあると言えます。

 

災害時の救助活動がこれにあたるでしょう。外国から攻撃を受けたときにも、人命救済の責任と権限は国家にあると思います。しかしこれはまず避難と救助をもって切り抜けることを主眼とすべきで、百歩譲って国民を避難させるさいの時間稼ぎのために反撃せざるをえない場面が仮にあったとしても、それは個別的自衛権の範囲内で対処すべき問題でしょう。何より、この権利も、国民の生命へのリスクが国家によって増大させられることを拒否する意義のほうが優先することを確認しておくべきです。

 

これに対して、「幸福追求権」には、「生命」のように一致した意味内容はないのです。この権利の意味は、「幸福」は具体的な個人それぞれのものなので、各人が自分で決めた幸福を追求しているときに、国家がそれを妨害したり、特定の内容を押し付けたりしてはならない、ということです。だから、国家の側が抽象的な国民の「幸福」の内容を想定して、武力行使の根拠や要件にできる性質のものではありません。

 

たとえば「自衛隊員に戦死者を出すかもしれないし他国の民間人に被害者を出すかもしれない」と考えたらとても幸福ではいられない、という感受性をもった人の「幸福」もあるわけで、国家がある法律を制定した瞬間に、そちら側の幸福追求の権利が根底から覆されてしまうこともあるわけです。だから、幸福追求権を根拠とするかぎり、議論は永遠にひとつの結論に収束させることはできず、賛否の拮抗を乗り越えることはできません。ひとつの結論に収束させることを拒む権利なのですから、当然の道理です。

 

また「幸福追求権」は、包括的基本権とも呼ばれ、時代に合わせて新しい権利を生み出していく必要があるとき、その基盤の役割を果たします。これに基づき、条文に明記されていないプライバシー権、肖像権などが裁判で認められ、環境権の理論も共有されてきました。ここに嫌煙権・喫煙権を認める論者もいますし、尊厳死の権利や、恋愛の自由や性的自己決定の自由を引きだす論者もいます。このように解釈で新たなものを生み出していく機能が託された権利なので、これが要件に入ることは、武力行使に歯止めをかけるどころか、歯止めを掘り崩すことになりかねないのです。

 

法案を提出している政府与党側は、「存立危機事態」認定の要件を厳密で具体的な意味での国民の「生命」に絞り込むことを、避けたいのかもしれません。そこに絞り込んでしまえば「それは個別的自衛権の範囲内で考えればいいことだ」との指摘がくるからです。

 

だから集団的自衛権を認めるために、輪郭のあいまいな「幸福追求権」を要件の中に置いておきたいのではないか、と推測したくもなるのですが、これによって将来、行政権の解釈で武力行使容認の理由づけが広がり、憲法上容認しえない事態に道を開く可能性が出てきてしまうわけです。

 

たとえば極端にいうと、石油や希土類などの安定供給ルートに支障が出たせいで国民の光熱費や端末機器販売価格を値上げせざるをえず、そのために、現在の快適な生活が現在の価格で実現できなくなる(それはそれで「根底から」危険に瀕すると言えば言えてしまう)という名目で、自国の自衛隊員や他国・自国の民間人の人命が犠牲にされる、ということが理論上は成り立ってしまいます。

 

このようなバランシングを正面から《善》だと考える人は少ないでしょう。しかし、海外での戦闘や民間誤爆の実情を知らされない一般国民は、そのような凄惨なバランシングによって得られる「幸福」を、それについて考えるチャンスもないままに安穏と享受することになるかもしれません。

 

現在および将来の政府がそんな愚かなバランス感覚で物事を判断するとは考えたくないですが、そのようなことが理論上可能になってしまうような法は、その目的に反して結果的に、一部の国民の生命・生活を侵害し、多数の国民の幸福と倫理感覚(良心)を広く傷つける可能性をもっているわけです。

 

もっとも、幸福追求権が解釈によって新しい権利を生み出す基盤となるのは、国民の権利保障を拡充するためです。法律全体を見渡してみても、民法や労働法などで権利救済を拡充する場面では、解釈は柔軟に行われます。しかし国民の人権を一時的に停止したり奪ったりする作用をもつ刑法のほうは、「罪刑法定主義」や「刑法の謙抑性」によって、解釈には厳格さが要求されます。

 

憲法の解釈の場合も同じで、権利救済のための柔軟な解釈はありうるけれども、国民の人権に深刻な害がもたらされる可能性のある刑事罰や戦闘型軍事については、解釈による意味内容の拡大は許されない、と見るべきでしょう。

 

とはいえ、その時々の政権担当者がそういう理論的な歯止めを意識してくれるかどうかは甚だ不安です(実際に、いま、意識されてはいないでしょう)。やはり、この権利の誤用を防ぐために、この権利を集団的自衛権の根拠に使うことはできない、と考えるべきだと思います。

 

国会の質疑の実際としては、中東ホルムズ海峡が「機雷封鎖」され石油供給が滞った場合などが集団的自衛権行使が必要となる事例として挙げられています。これは表向きの説明で、政府にとっての本丸は別のところにあるのではないかとの声も聞くのですが、今の段階では、法文や答弁など「表」に表れた内容を敢えてナイーブに受け止めて考察したいと思います。エネルギーは国民にとってたしかに重要です。

 

かつて日本が「大東亜戦争(アジア太平洋戦争)」に踏み切ったのも、経済制裁によって石油の輸入が断たれたことが実質的な理由だったわけで、当時の軍部や政権担当者の間でも「自存自衛」を目的とした戦争だという理解がかなりの程度共有されていたわけです。が、結果的に、第二次世界大戦による犠牲と困窮状態はエネルギー不足による苦境を上回る凄惨なものでした。日本はそうした成り行きも含めて「先の大戦を二度と繰り返してはならない」と決意しているはずです。

 

そうした流れから見ると、経済的危機を武力行使や軍事的後方支援の根拠にすることはできないはずです。この問題は、個別的自衛権による武力行使を法律で認めた「武力攻撃事態法」制定の段階でもっと議論されるべきことでした。その議論を国民が十分に共有しないまま、集団的自衛権へと増築することは、できないことだと思います。ましてこの問題を国民の「幸福追求権」保障の問題にすることは、おためごかしというしかない論法です。これらについては、外交など、別の方策で切り抜けることを、日本国憲法は国の為政者に求めています。【次ページにつづく】

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.269 

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