ヘイトスピーチ対策法「与党案」について考える――「適法居住」要件はなぜおかしいのか

「適法居住」要件はなぜおかしいのか(1)

 

しかし、このうち2つ目の「適法居住」要件には、たんに対象となる言動の範囲を狭めるということにとどまらない、ヘイトスピーチの核心にかかわるきわめて重大な難点が含まれている。少し込み入った議論になるが、順に検討していこう。

 

ヘイトスピーチにおいては、「○○人を叩き出せ」のように個人を特定しない形で人種や民族にかかわる集団について言及されることが多い。特定個人を対象としたヘイトスピーチというのはもちろんありうるが、そうしたものについては現行法の侮辱や名誉毀損の適用が可能である一方、同じことを一般的な「○○人」に対して行った場合には現行法では対処できない。したがって、こうした特定個人を対象としないヘイトスピーチをどうするかということは、ヘイトスピーチ対策法を考える場合の基本的な前提の一つになる。

 

さて、与党案ではこの「○○人」に当たる部分を「本邦外出身者」という言葉で定義しているのだが、「適法居住」要件が付されているのはまさにこの部分である。しかし、少し冷静に考えてみればわかると思うのだが、「適法に居住しているかどうか」を判断できるのは、あくまでもそれが具体的な特定個人である場合に限られる。実際、ある言動の中で言及される一般的な意味での「○○人」について適法か否かを問うなどということは、常識的に考えて不可能だろう。

 

法律における定義規定というのはあるものが法律の適用対象かどうかを判断するために置かれるものだが、問題となる言動のほとんどが不特定の集団に言及するものである以上、何がこの法案の対象であるかを判断する上でこの規定はほぼ役に立たない。

 

 

「適法居住」要件はなぜおかしいのか(2)

 

しかしたんに役に立たないだけならば、「別にあってもいいではないか」という応答をすることも可能だろう(意味のある応答だとは思わないが)。より大きな問題は、それが役に立たないだけでなく有害だということである。たとえば与党案では、本来対象になるべき言動が頭に「不法滞在の」を付けるだけで(理屈の上では)すべて除外されてしまう。「不法滞在の○○人を叩き出せ」、これは言葉通りにとれば「適法に居住していない」○○人に向けられたものであり、与党案の対象とはならない(このことは、「不法滞在」を「不法入国」に変えても、「叩き出せ」の部分を「殺せ」に変えても変わらない)。

 

そしてこうした言動で示される「○○人」が一般的なそれである以上、たとえ「適法に居住する」○○人がいくら反論しても何の効果もない。レイシストはこう言うだろう。「あなたが適法に居住しているかどうかなど知ったことではない。私は「不法入国の○○人」を叩き出せと言っただけだ」。この点で与党案は、こうした一見論理的に筋の通った言い訳を最初から用意してしまう。

 

しかもこうした言い回しは、街頭で叫んだ場合の一般的な効果としてはむしろ(「限定」ではなく)「○○人全体が不法入国である」であるというイメージを拡散するから、レイシストからすれば「一石二鳥」だとさえ言える(実際この法案を「適法居住」要件を理由に「歓迎」する意見はすでに出ている)。

 

なおこの間の国会での審議では、こうした指摘に対しては「定義に明示的に含まれないからと言って許されるわけではない」と答えるのが通例となっているようだ。確かに、どんな法律であっても定義を行えば必ずそこに含まれない部分が生じるから、そうしたものについては運用で柔軟に対応する、といったことはもちろんありうる。しかし「適法居住」要件は、定義に伴って必然的にそこに含まれないものが出てくるという話ではなく、「意図的に」対象を限定するものだ。自分で「適法居住」要件を付けておいて「実際には適法居住でない場合も含まれうる」とかいうのでは、何のための条文なのか本当にわからない。

 

このように与党案の「適法居住」要件は、ヘイトスピーチという問題の核心、つまりその多くが特定個人に還元できない集団全体に対してなされる、という「基本」がわかっていれば、そもそも発想として出てこないはずのものである。ヘイトスピーチにかかわる法律の制定に際して抜け穴抜け道を探すことで対応するというのは古今東西レイシストの常套手段だが、最初からこんなふうに使い勝手のいい抜け道を用意するような法案が、レイシストに対抗できるとは思えない。与党案作成者もまさかそんなことのために「適法居住」要件を付けたわけではないだろうから、少なくともこの点については、今後の審議の中できちんと修正する必要があるだろう。

 

 

「人種差別禁止法」への展開に向けて

 

以上、ヘイトスピーチ対策「与党案」の問題点について、とくに「適法居住」要件に重点を置いて見てきた。すでに述べたように、今回の与党案の問題点は「実効性の弱さ」と「対象とする範囲の狭さ」の2点に集約される。ただしそれはあくまでも与党案に即して見た場合の話であり、先に提出された野党案と比較した場合には、より重要な変更がもう一つあることを最後に言い添えておきたい。それは、「人種差別禁止法」から「ヘイトスピーチ対策法」への「縮小」である。

 

もちろん、ヘイトスピーチの問題に対する法的対策が急務であることは多くの関係者の一致した見解であり、今回の法案の対象をヘイトスピーチに絞るということそれ自体は、十分ありうる選択肢である。しかし同時に確認しておく必要があるのは、ヘイトスピーチの核心は「差別煽動」であり、不特定の「○○人」に対する侮辱や脅迫を行うことは、結果として「○○人」に属する特定個人への差別を引き起こすという点だ。そしてこの「特定個人への差別」――住居差別や就職差別、あるいは学校での差別など――に対応できる法律(「人種差別禁止法」)は、今の日本には存在しない。

 

いずれにしても、法律の制定はゴールではない。これはヘイトスピーチ関連の法制度の歴史について一般的によく言われることではあるが、今回の与党案については、この点はさらに何倍増しかで強調しておく必要があるだろう。その一方で、一つの法律の制定は、とはいえ一つの区切りである。その点で言えば、与党案が「案」であるあいだにできる限りの議論を尽くすことの重要性もまた、強調しすぎてもしすぎることはない。法律の制定をゴールにしないことと、法律の制定に際して議論を尽くすこと。この2つは、決して矛盾する態度ではないはずである。

 

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