憲法論議を「法律家共同体」から取り戻せ――武器としての『「憲法改正」の比較政治学』

なぜ、日本では憲法「典」の改正はなされないのか

 

浅羽 本書は、「憲法」や「憲法改正」を捉え直す視座を提供していますが、面白いのは、2名の編者の間で温度差が最後まで残っているところです。政治学側の編者である待鳥聡史先生(京都大学教授)はグラデーションのように考えていて、改正要件が3分の2の硬性憲法を変えるのと2分の1の通常の法律を変えるのは同一線上の差にすぎない――とはいえ、やはり2分の1と3分の2とでは違うので、変えやすさとか実際の改正の頻度は当然変わってきますが――というふうに基本的には捉えている。

 

これに対して――横大道先生も先ほど、日常政治と憲法政治というのは同一線上に並んだプロセスなんだ、とおっしゃいましたが――憲法学側の編者である駒村先生は、その質的な差、不連続性を強調しています。本書は、一方で待鳥先生のように「フラットに」捉える有効性を示しつつ、他方でやはり日本の場合は閾値(しきいち)として「2分の1」と「3分の2」とでは決定的に違うにもかかわらず、「一緒くたに」捉えることによってその差がぼやけてしまう怖さがあるということ――待鳥先生もそこに無頓着なわけではありませんが――については、自覚的でなければならないと警告しています。

 

横大道 駒村先生の「あとがき」にあった、それでも憲法学者としては憲法「典」の改正にこだわりたい、というあたりのことですね。

 

浅羽 本書でのアメリカのニューディールに関する分析もそのことを示唆しています。つまり、当時、実質的には憲法体制が変わったと言えるが、そこまで「憲法改正権力」、あるいは生身の「憲法制定権力」が立ち上がり、一種の昂奮した状態にあったのならば、テクストの改正につながってもよかったのではないか、という議論です。つながらなかったのにはそれなりに理由があり、その差はやはり決定的だろうというわけです。

 

横大道 今おっしゃられたアメリカの事例は、テクストが変わらず、しかし「実質的意味の憲法」が変わったという例の典型ですよね。本書では岡山裕先生(慶應義塾大学教授)が詳しく説明されていますが、非常に興味深かったのは、変化をうまく言語化できなかったからテクスト化されなかった、という説明です。そういう理由でテクスト化されないというのは、説得的な説明であると思います。

 

ただ、先ほどの浅羽先生のお話にも関わるのですが、そもそも憲法典の構造がテクストの改正を必要としないものになっているのではないかというところを、まずは見なければならないのではないかと思います。これは、日本国憲法との関連で言えば、本書で西村裕一先生(北海道大学准教授)とか瀧井一博先生(国際日本文化研究センター教授)が書かれていますけれども、要するに、日本国憲法は非常に簡素な憲法典であるということです。

 

浅羽 字数が短い、ということですか。

 

横大道 非常に短い。「比較憲法プロジェクト」というアメリカのウェブサイトがあって、各国の憲法を長い順に並べているんですね。日本は下から5番目で、ラオス、ラトビア、ミクロネシアあたりと下位争いをしており、その短さが際立っています。内容に目を向けてみても、「法律でこれを定める」などと書いてあるところが30か所以上あるわけですね。だから、憲法「典」に手を付けなくても、「実質的意味の憲法」の改正はできる、そういう憲法典であったというのが第1にあります。このあたりは、政治学者のケネス・盛・マッケルウェイン先生(東京大学准教授)が指摘されているところです。

 

第2に、これは戦後の憲法学あるいは憲法状況で、「なんだかんだ言っても最終的には9条だろう」という議論があって、これは「蟻の一穴(いっけつ)論」ということで本書でも田近肇先生(近畿大学教授)が言及されていましたけれども、つまり、憲法「典」には絶対に手を付けさせないという主張です。そこで、憲法「典」に手を付けようとすることは政治的にも非常にコストがかかると。

 

それで日本国憲法を見てみると、実は、法律の改正で「実質的意味の憲法」の改正ができる仕組みになっている。となれば、憲法「典」の改正に行かないというのは、日本国憲法の構造上ある意味必然的にそうなっていると言えるわけで、これを、政府が解釈改憲をするのはけしからんとか、安倍総理のパーソナリティの問題にするのではなくて、そういう「仕組み」になっているというところをまず見なければいけない。

 

他方、たとえば、ドイツでは、「実質的意味の憲法」の改正に際しては、憲法「典」を変えるべきであるということが比較的明瞭に意識されているようです。日本と同じ敗戦国でありながら非常に大きな違いを見せています。本書では赤坂幸一先生(九州大学准教授)と近藤正基先生(神戸大学准教授)が書かれていますけれども、60回近くの改正があったという事実の裏には、そもそも憲法でどういうふうに国を創っていくのかというところからの発想、考え方の違いがあります。要するに、何が憲法「典」の改正に至る場合で、何が至らない場合か、それもまた「制度」との関係を抜きにしては語れないのではないかという気がします。

 

浅羽先生と國分典子先生(名古屋大学教授)が担当された韓国についても、1987年憲法以前は頻繁な憲法典改正が見られた一方で、1987年以降は憲法典の改正が下火になる。イタリアはその逆ですが、それでは、そのような動向は「基幹的政治制度」の制度設計とどのような関係があるのか。本書ではそうした制度の視点が示されていますが、日本国憲法を考える際にも、そのような視点が必要でしょう。

 

 

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浅羽 今のお話は、「特別な瞬間」も訪れず、憲法制定権力――剥き出しのままなのか、飼い馴らされたものなのかはともかく――も立ち現れなかったがゆえにテクスト改正がなされなかったのではなく、そもそも日本国憲法は字数が単に短く、ターゲットになりうる項目が全部法律マターとなっていたので、2分の1ですむ法改正で十分だったからだ、ということでしょうか。

 

横大道 そうですね。そしてさらに別の要素を言えば、「司法消極主義」があって――これもまた、制度的な要因が関わっているのですが――裁判所は憲法問題の判断を積極的に行わない。そうすると必然的に、政治部門に負荷がかかってくる。そういう中で、9条の解釈をはじめとした実践が積み重ねられてきたのが、日本の「国のありよう」であったわけです。まずはそこに目を向けないと、今回の安保法制の出来事を、単に小泉総理や安倍総理といった非常に特殊なパーソナリティをもった人に帰するような、あるいは、「政治の矩(のり)」といった政治家の心構えのように矮小化された議論になってしまうのではないか、と思います。

 

清水 そこはやはり政治ジャーナリズムの弱みなんです。「制度」論にとても弱い。55年体制下では、自民党の派閥とか親分・子分の人間関係で、本当にすべてが決まっていた。それはもう現実には雲散霧消しています。しかし、政治家の側にしろ取材する側にしろ、意識が変わりきらないものですから、どうしても指導者論、人格論を軸に政治を語りたがる。小泉氏が変人だと言う議論や、何でも安倍首相の人格に帰する議論だけでは本質を見失いかねないというのは、その通りだと思いますね。

 

横大道 かつての中選挙区制についても、1つの選挙区で同じ政党から複数の候補者を立てることが派閥化をもたらした、といったところを憲法学でももっと見なければいけなかった。その意味ではやはり、本来は政治学などの分野とコラボレーションしてやっていくべきだったわけです。一方で、限られた時間の中で日々の出来事を追うジャーナリズムにとっては、なかなかそういう視点というのは難しいのかもしれません。

 

浅羽 政治をアクターひとつひとつのミクロな観点、それらの戦略的相互作用から見るとき、ジャーナリズムだと政治家の個性やイデオロギーに注目する反面、社会科学だと、まず「(基幹的)政治制度」に由来するインセンティブ(動機/誘引)構造に注目します。それで不十分ならば――マクロな文化や個々のアイデンティティといった――特異な要素をさらに追加して検討するという順番になります。ただ、それだとキャラ立ちしないし、グッとくるエピソードも出てこないので、一般の読者にはアピールしにくいでしょうね。

 

清水 私自身は政治記者としては理屈っぽいほうかもしれませんが、平成政治史は制度改革抜きに論じられませんし、「制度」を遡れば憲法まで行き着くわけです。ただ、制度の重要性やその変革のインパクトを日々のニュース報道の中で伝えていくのはなかなか難しい。昨今は限界があるかな、と思ったりもするのですが、あきらめてはいけない、と教えられたのは、昨年亡くなられた経済学者の青木昌彦先生(スタンフォード大学名誉教授)の言葉です。比較制度分析がご専門で、やはり「制度」をとことん論じておられて、青木先生が最後に書き残されたものを読むと、「今の日本は移りゆく40年のさなかにある」とあるのです。

 

つまり、90年代初めぐらいから日本はいろいろな制度変化――統治機構だけでなく、経済社会全体も――があって、今はそれらが移りゆく40年の渦中にある、と。単に法律の条文や紙に書かれたルールが変わっただけで、人びとの意識までがすぐ変わるわけではない。そこまで含めての「制度」なんですね。意識変革には時間がかかる。世代がほぼ丸ごと入れ替わる時間が必要で、それが「40年」の意味です。それくらい時が経たないときちんとした結論は出ないんだ、と。それを読んでまた元気が出まして、統治機構改革の制度論を政治ジャーナリズムにどう組み込んでいくか、引き続き考えたいと思っています。

 

そこで本書ですが、各国の比較分析が中心で、ある意味では日本の憲法改正は中心課題ではないこともあってか――意外なまでにと言えば怒られるかもしれませんが――憲法学者の方々も非常に醒めた、冷徹な制度分析をされている。その意味で本書は、今後「憲法改正」の問題を捉えるときには、座右に置くべき一冊だと思います。

 

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