2011.03.07

企業による統治? 

清水剛 経営学 / 法と経済学

政治 #企業統治

企業と国家の本質的違いとは?

一昔前のSF小説にしばしば登場した構図として、「国家ではなく企業が世界を統治する」というのがあった。たとえば、国家は存在しているものの、実際には巨大な企業あるいはその連合体がその国の重要な意思決定を行っているというものや、あるいは国家そのものに企業が取って変わっているというようなものである。とりわけ、このような構図に情報ネットワークが拡大し、個人が巨大なネットワークに接続する近未来社会という状況を重ね合わせるのは、当時のSFのひとつパターンであったといってもよいだろう。

単純に、国家の中で巨大な企業が政治的影響力を行使する、というような状況はしばしば起こりうる現象であるが、それだけでなく企業が実際にある地域を統治する、という状況もじつはときどきみられる。イギリス東インド会社によるインド統治や東清鉄道、南満州鉄道の鉄道附属地が有名な例だが、イギリス東インド会社以外の植民企業や新しい島を企業が開発した場合など、ほかにもいくつかの例がある。

しかし、このような例は必ずしも多くはない。また、SF小説でしばしば使われるということ自体が物語るように、どうもわれわれはこのような状況をどこか奇妙なものと感じるらしい。それではなぜ、この「企業による統治」というのは奇妙に感じられるのだろうか? 言い換えれば、企業と国家の本質的な違いとはなんなのだろうか。今回はこのことを考えてみたい。

企業が地域を統治することは可能

企業が統治する、といった場合、先に述べた巨大企業による政治的影響力の行使という場合を除けば、ふたつぐらいの状況に分けることができる。

ひとつは、国家は存在しているものの、ある地域においては企業が実際に統治を行っているというケースである。言い換えれば、企業がある地域において行政サービスを提供している状況である。歴史上存在した「企業による統治」の例のほとんどはこのケースだ。例えば南満州鉄道の鉄道附属地では南満州鉄道が行政を担当したが、行政権そのものはあくまで日本政府が保有しており、警察、司法等については日本政府が担当していた。

実際、ある地域を企業が地方自治体に近いかたちで統治することは、現在の日本でも不可能ではない。ある地域をある企業が買い取って、その地域に大規模な集合住宅とともに上下水道や学校、警備、インフラ整備のようなサービスを提供し、同時に契約により毎月の管理費や契約違反時の違約金のようなものを定めればよい。もちろん、さまざまな許可を取らなくてはならないために現実には簡単ではないが、そのような許可を取ることができれば、地方自治体が行っている業務のかなりの部分は企業にも提供可能なはずである。

明らかに不可能なのは、上の鉄道附属地のケースもそうであるように、警察や司法の部分、言い換えれば住民の身体に直接影響が及ぶような国家権力の行使の部分だけである。つまり、この点を除けば地方自治体と企業には明確な差は認められない。

ただし、ひとつだけ注意すべき点がある。それは、その企業からの利益の配分を受け取る株主(その他の出資者)と行政サービスの受け手である住民とが異なる場合、両者の間で利害にずれが生じるため、住民が望む行政サービスがすべて提供されるとはかぎらない、という点である。

企業が株主の利益を考えるかぎり、住民が希望する行政サービスが利益に結びつかないのであればそのようなサービスは提供されないかもしれない。この点は地方自治体と企業とのずれとなりうる点である。しかし、住民と株主が同じである場合には利害の対立がないため、住民が望むような行政サービスが提供されうる。言い換えれば、株主と住民が一致するかぎり、企業の「営利性」は地方自治体と企業を区別する根拠にならない。

住民=企業が統治の主体となるケース

さて、この点を踏まえて「企業が統治する」もうひとつの場合、すなわち、ある地域において、国家ではなく企業それ自体が統治の主体となる場合を考えてみよう。上記のような住民と株主との一致を前提とすれば、このような場合とは、すなわち住民が自らを「企業」として組織し、その「企業」がその地域の統治にあたる場合ということになる。

じつのところ、このような場合には国家と企業の区別はさらに微妙になる。つまり、国家が存在しない状況で人々が「企業」と呼ばれるものをつくりだし、それが統治にあたるのだとすれば、それと「国家」とは何が違うのだろう?

歴史上、これに類する例は必ずしも多くないが、たとえばボルネオ島西部にあった蘭芳公司(蘭芳共和国)はこのような例といえるかもしれない。この蘭芳公司は中国からわたってきた人々がつくった会社(公司)がそのまま国家となったものである。

また、近い例として、ニューイングランドのマサチューセッツ湾植民地をあげることもできるだろう。この植民地はイギリスによって認められた植民企業によってつくられた植民地(その意味では前者のカテゴリーに属する)たが、本社はボストンに置かれており、イギリス本国からはなかば独立した存在であった。そして、この植民地の法的構造は株式会社の仕組みをそのまま利用するかたちでつくりだされた(佐藤俊樹『近代・組織・資本主義―日本と西欧における近代の地平』ミネルヴァ書房, 1993)。

このように考えれば、国家と企業の境界というものは、じつは非常に曖昧であることに気がつく。企業と国家の法的構造は異なると思う人もいるかもしれないが、上の例が示しているように、法的構造からみても企業と国家には大きな差はないのである(Synodos Journalの拙稿『政治の手詰まり感と国民の「責任」』を参照)。

国家には「死」が定義されていない

それでは、このふたつには本当に差がないのだろうか。ありうる差のひとつは、先にも述べた司法・警察のような住民の身体に直接影響が及ぶ権力の行使であり、企業が株主=住民に対して司法権・警察権を行使するということには違和感が残るかもしれない。しかし、企業をつくりだす際に「一定の身体的拘束を認める」ということを含めて契約していると考えれば、この差はやはり絶対的なものとはいいがたい。

残る大きな差は、企業には解散ということがありうると考えられているのに対して、国家の解散というのは通常考えられていない、という点である。通常、われわれは企業というものは清算して消滅することがありうると思っており、清算に関する法的手続きも定められている。国家がない状況で「企業」をつくりだす場合であっても、とりあえず清算の可能性が認識されるだろう。

しかし、国家についてはこのようなこと想定されていない。憲法改正のようなかたちで国家の法的構造を変化させることはできても、国家の清算手続きというのは存在していないし、われわれもそのようなことを想定していないのである。

このような意味で、国家とはいわば「永遠」の存在である。そして、そうであるがゆえに、われわれは国家に依存し、統治をゆだねることができるのではないだろうか。逆にいえば、永遠の存在ではない企業にはどこか不安定性が残ってしまうため、企業の統治にわれわれは不安定さを感じてしまうのではないだろうか。

企業には「死」が定義されているがゆえに実際に死ぬことができる。しかし、国家には「死」が定義されていないために死ぬことができない。このことが国家の統治を安定させているが、一方で実質的に破綻した国家をどのように扱うかというような問題を生じさせる。われわれは一度、国家の「死」についてより深く考えてみる必要があるように思う。

推薦図書

この文章を書くにあたっては、上記の佐藤俊樹『近代・組織・資本主義』を参照している(というより、実際に著者本人と話した上で、その話の中身も含めてこの文章を書いている)が、この本はすでに紹介してしまっている。このため、方向を変えてSF小説に出てくる「企業による統治」の例をあげておきたい。

このような例としては、サイバーパンク(とりあえず、上で述べた「情報ネットワークが拡大し、個人が巨大なネットワークに接続する近未来社会」を扱うSFのジャンル、と思っていただきたい)の古典であるウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』(ハヤカワ文庫)をあげることができるだろう。『ニューロマンサー』の世界ではザイバツと呼ばれる企業群が世界を支配しており、また物語のなかでも(ザイバツではないが)企業が主役としてあらわれることになる。いささか難解な文体だが、「企業が統治する世界」の奇妙さを感じていただきたい。

プロフィール

清水剛経営学 / 法と経済学

1974年生まれ。東京大学大学院経済学研究科修了、博士(経済学)。東京大学大学院総合文化研究科・教養学部准教授。専門は経営学、法と経済学。主な著書として、「合併行動と企業の寿命」(有斐閣、2001)、「講座・日本経営史 第6巻 グローバル化と日本型企業システムの変容」(共著、ミネルヴァ書房、2010)等。

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