企業による統治? 

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住民=企業が統治の主体となるケース

 

さて、この点を踏まえて「企業が統治する」もうひとつの場合、すなわち、ある地域において、国家ではなく企業それ自体が統治の主体となる場合を考えてみよう。上記のような住民と株主との一致を前提とすれば、このような場合とは、すなわち住民が自らを「企業」として組織し、その「企業」がその地域の統治にあたる場合ということになる。

 

じつのところ、このような場合には国家と企業の区別はさらに微妙になる。つまり、国家が存在しない状況で人々が「企業」と呼ばれるものをつくりだし、それが統治にあたるのだとすれば、それと「国家」とは何が違うのだろう?

 

歴史上、これに類する例は必ずしも多くないが、たとえばボルネオ島西部にあった蘭芳公司(蘭芳共和国)はこのような例といえるかもしれない。この蘭芳公司は中国からわたってきた人々がつくった会社(公司)がそのまま国家となったものである。

 

また、近い例として、ニューイングランドのマサチューセッツ湾植民地をあげることもできるだろう。この植民地はイギリスによって認められた植民企業によってつくられた植民地(その意味では前者のカテゴリーに属する)たが、本社はボストンに置かれており、イギリス本国からはなかば独立した存在であった。そして、この植民地の法的構造は株式会社の仕組みをそのまま利用するかたちでつくりだされた(佐藤俊樹『近代・組織・資本主義―日本と西欧における近代の地平』ミネルヴァ書房, 1993)。

 

このように考えれば、国家と企業の境界というものは、じつは非常に曖昧であることに気がつく。企業と国家の法的構造は異なると思う人もいるかもしれないが、上の例が示しているように、法的構造からみても企業と国家には大きな差はないのである(Synodos Journalの拙稿『政治の手詰まり感と国民の「責任」』を参照)。

 

 

国家には「死」が定義されていない

 

それでは、このふたつには本当に差がないのだろうか。ありうる差のひとつは、先にも述べた司法・警察のような住民の身体に直接影響が及ぶ権力の行使であり、企業が株主=住民に対して司法権・警察権を行使するということには違和感が残るかもしれない。しかし、企業をつくりだす際に「一定の身体的拘束を認める」ということを含めて契約していると考えれば、この差はやはり絶対的なものとはいいがたい。

 

残る大きな差は、企業には解散ということがありうると考えられているのに対して、国家の解散というのは通常考えられていない、という点である。通常、われわれは企業というものは清算して消滅することがありうると思っており、清算に関する法的手続きも定められている。国家がない状況で「企業」をつくりだす場合であっても、とりあえず清算の可能性が認識されるだろう。

 

しかし、国家についてはこのようなこと想定されていない。憲法改正のようなかたちで国家の法的構造を変化させることはできても、国家の清算手続きというのは存在していないし、われわれもそのようなことを想定していないのである。

 

このような意味で、国家とはいわば「永遠」の存在である。そして、そうであるがゆえに、われわれは国家に依存し、統治をゆだねることができるのではないだろうか。逆にいえば、永遠の存在ではない企業にはどこか不安定性が残ってしまうため、企業の統治にわれわれは不安定さを感じてしまうのではないだろうか。

 

企業には「死」が定義されているがゆえに実際に死ぬことができる。しかし、国家には「死」が定義されていないために死ぬことができない。このことが国家の統治を安定させているが、一方で実質的に破綻した国家をどのように扱うかというような問題を生じさせる。われわれは一度、国家の「死」についてより深く考えてみる必要があるように思う。

 

 

推薦図書

 

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この文章を書くにあたっては、上記の佐藤俊樹『近代・組織・資本主義』を参照している(というより、実際に著者本人と話した上で、その話の中身も含めてこの文章を書いている)が、この本はすでに紹介してしまっている。このため、方向を変えてSF小説に出てくる「企業による統治」の例をあげておきたい。

 

このような例としては、サイバーパンク(とりあえず、上で述べた「情報ネットワークが拡大し、個人が巨大なネットワークに接続する近未来社会」を扱うSFのジャンル、と思っていただきたい)の古典であるウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』(ハヤカワ文庫)をあげることができるだろう。『ニューロマンサー』の世界ではザイバツと呼ばれる企業群が世界を支配しており、また物語のなかでも(ザイバツではないが)企業が主役としてあらわれることになる。いささか難解な文体だが、「企業が統治する世界」の奇妙さを感じていただきたい。

 

 

 

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