『政治の理論』――近代において共和主義を再考する

みんなが資本家である資本主義

 

少し言い方を変えるならば、「リベラルな共和主義」が目指している市民社会のかたちは、「みんなが資本家である資本主義」である。この観点から、拙著『不平等との闘い』をいわば『政治の理論』における「リベラルな共和主義」の前提条件についての議論として読み替えることもできる。

 

『不平等との闘い』は直接には共和主義の問題を取り上げてはいない。それどころかそこではただ単に私的所有制度と市場経済が成り立っているだけではなく、その市場経済は十分に競争的である、つまりそこには政治の余地はないものとして議論が展開されている。もちろん『不平等との闘い』の議論が政治を否定するわけではない。後半では福祉国家的再分配の議論を提示しているし、のみならず競争的市場経済の外側に公共財が存在していて、その配分をめぐって「政治」が登場してくる可能性ももちろん排除してはいない。しかしその主題としての持続的経済成長の基盤は、あくまでも競争的市場メカニズムとして描かれている。

 

しかしながらそこでは、競争的市場の下での経済成長が、分配、しかもフローとしての所得だけではなく、ストックとしての資本の分配にどのような影響を及ぼすか、が論じられている。そしてそこでの議論は「みんなが資本家である資本主義」の可能性を排除してはいないのだ。

 

復習するならば、『不平等との闘い』ではスミス、リカードウ、そしてマルクスにいたるいわゆる「古典派経済学」の枠組みの下では、経済成長の主体はあくまでも資本家であり、所得分配が賃金労働者に対して有利に、資本家に対して不利になれば、投資の原資が減り、その分経済成長、長期的な総生産に対してマイナスとなると結論される、と論じられた。すなわち、分配と生産・成長とは不可分であり、分配が資本家にとって有利であればあるほど成長にも有利である、と。

 

それに対して我々の解釈では、19世紀末以降の新古典派経済学では、古典派とは異なり、(1)資本市場が発展する――銀行を媒介とした信用機構が長期的な資本信用にまで及ぶ、また株式市場も発展する――、(2)投資の対象が物的資本設備のみならず、人的資本、労働者の知識や技能にまで及ぶ、(3)労働者の所得水準が向上する、といった条件の成立が想定され、そこから賃金労働者もまた、金融機関に貯蓄を行うことによって、また教育を受けることによって、投資の主体となる、という可能性が射程に入ってくる。

 

こうした議論は、理論的に言えば、分配と生産・成長の切断を可能にする。十分に効率的な金融市場が存在すれば、所得・富の分配と生産力、成長とは無関係である。社会のなかの富、生産手段の分配が平等であろうが不平等であろうが、資本市場はそれを効率的に活用して、最大限可能な成長を実現できる。新古典派の議論にはそのような含意がある。

 

これは言ってみれば両義的な含意を持つ。一方では分配と成長は分離可能であるから、古典派の議論とは異なり、新古典派の枠組みに則れば、分配の平等化は何ら生産、成長を阻害しない。しかし逆に言うと、それは古典派の場合とは異なり、分配問題に対する関心を経済学者の間から奪う効果をも持ったとも考えられる。

 

しかしながらより精密に見ていくと、新古典派の枠組みの下でも、成長と分配との関係はじつは一筋縄ではいかない。新古典派の成長モデルにおいては、基本的な経済主体の時間の中でのありようを念頭において、大まかに言って二通りのタイプのモデルがある。ラムゼイ・モデルと呼ばれるものは、あたかも永遠に生きて、無限の寿命のなかでの自己利益の最大化を目指して長期的意思決定を行い、行動する主体を主人公とする。この場合、貯蓄=投資行動は永い生涯の中で時々刻々と変化していく。

 

それに対して、もう一つのモデルは重複世代(OLG)モデルと呼ばれ、有限な寿命を生き、世代交代していく主体たちを主人公とするモデルである。このモデルの特徴は、ラムゼイ・モデルの場合と異なり、第一に競争的市場の下での主体の合理的行動が、完全雇用、可能な最高の成長率を普通は下回ってしまう、ということであり、第二に、代表的な設定の下では、貯蓄率=投資率が世代を超え、長い時間の中でずっと一定不変のままとなる、という点である。念のために付言しておくならば、その解釈には注意が必要だが、従来の統計的研究の示唆するところでは、現実の経済における長期的な貯蓄率は、一定不変とは言わないまでもかなり安定している。

 

『不平等との闘い』における我々の作業の結果見えてきたのは、競争的市場、とりわけ資本市場がきちんと機能している市場経済を前提とすると、貯蓄率が時間の中で変動していくラムゼイ・モデルにおいては、経済成長の過程の中で、人々の間の富、資産の分配は不変である。手元に使いきれない資本を持ち合わせた人は、それを他人に貸し出し、資本が足りない人は他人から借り入れ、経済の中に存在するすべての資本は無駄なく利用される。しかしながら当然、貸し出される資本は、利子をつけて返却せねばならない。この利子の作用によって、富める者と貧しい者との間で、資本は貸し借りされつつも、結局その所有は移動せず、富める者は富めるまま、貧しい者は貧しいままである。ところがこれに対して、貯蓄率が長期的に一定のOLGモデルにおいては、世代を経るうちに資産格差がだんだんと縮小していく。

 

きわめて単純で抽象的なモデルの解釈には注意が必要だが、あえて踏み込んだ解釈を行うならば、不確実性のない(このモデルではそこが重要)市場経済においては、格差を縮小する力はとくにはたらいていない一方、増幅する力もはたらいていないように見える。その一方で世代を超えた貯蓄=遺産の力は、それを超えた格差の縮小効果を持つのかもしれない。というあたりだろうか。しかしいうまでもなく、ここに「不確実性」という要因を放り込むと、どうなるかはわからない。

 

それでも、古典派的な「分配が改善すると成長率は低下する」という展望は、新古典派の下では否定されたと言えるだろう。少なくとも「成長を維持しながら分配を改善する可能性はないわけではない」くらいまではいえるかもしれない。

 

もう少し踏み込むならば、古典派の、そしてとりわけマルクスの考えでは、本格的な資本主義経済はビジネスの、生産の単位としての企業の規模を大きくするため、その意味でも持てる資本家と持たざる労働者の間の格差の存在は、生産の拡大、成長にとってプラスになる、という議論に行かざるを得なかった。

 

しかしながらそのような発想は、リカードウやマルクスが産業革命以降の機械制大工業に注目し、のみならずそれが労働を代替し、失業を生み出す可能性まで指摘していたにもかかわらず、ある意味スミス的なマニュファクチャーの世界から彼らの想像力があまり外に出られなかったことを示しているのかもしれない。労働が機械によって代替されることは、労働需要を減らし、失業を増やすが、長期的にはそれに反応して労働供給、労働者人口をも減らしていく。その延長上に「みんなが資本家である資本主義」を展望することは、あながち無意味でもない。

 

興味深くも厄介なことはもちろん、『不平等との闘い』後半で説明したように、以上の考察はまだ技術変化と生産性上昇を考慮に入れず、長期的には最適水準で成長がストップしてしまうモデルをもちいてのものである、ということだ。技術革新による生産性向上、ひいては持続的な経済成長を組み込んだモデルはなかなか難しい。『不平等との闘い』で取り上げたのは一番素朴な、投資にネットワーク外部性が存在するケースである。典型的には知識や情報技術がその例としてあげられる。

 

 

たとえば技術的な知識は、それを体得して使いこなすことで、それを知らないライバルよりも生産性を上げ、抜きんでることを個別の経済主体にとって可能とします。そうであれば、個々人、個々の企業にしてみれば、自分だけが持っている知識、技術を自分だけのものとして秘匿しておきたくなるでしょう。しかしながらそうした知識、技術を独占し続けておくことができず、社会全体に知れ渡り共有されてしまったら、公益の観点からはともかく、元の独占者は損をするばかりでしょうか? 必ずしもそうとは限りません。

 

もちろんライバルよりもぬきんでて相対的に有利なポジションを獲得することはもはやできないかもしれません。しかしその知識・技術が汎用性に富んでいて、自分の業界以外にも広く利用されうるようなものだった場合には、どうでしょうか? 知識を独占してライバルよりも良いものをより安く売りつけることはもはやできなくなったかもしれません。その場合、生産者・売り手としては元独占者は損をしたことになります。

 

しかし漏れ出た知識が狭い業界を超えて他の産業でも威力を発揮し、より良いものをより安く作ることに貢献していたとしましょう。そうなると生産者・売り手としては損をしていた元独占者も、消費者・買い手としては得をするわけです。そして知識・技術の汎用性がとても高ければ、得は損を上回るでしょう。こうしたスピルオーバー効果は、最も根本的なレベルでは「読み書きそろばん」、つまり初等中等教育レベルの識字能力、基礎学力について強調されますが、言うまでもなくさまざまな技術標準について考えると分かりやすいでしょう。(『不平等との闘い』174-175頁。)

 

 

ここではかつての古典派とも、標準的な新古典派とも異なり、資産の分配が平等であった方が生産性の上昇率、ひいては経済成長率が高くなる可能性が指摘されている。

 

単純にまとめるなら、古典派の想定する世界では、資本市場が不完全であるため、投資は資本家が主役になるしかなく、分配が平等化すれば資本家の投資が低下し、ひいては成長率も下がる。それに対して初期の新古典派においては、資本市場が発達し、また全体としての生産力が上がるため、労働者も投資の主役となりうる。そこでは分配がどうあろうと、市場が効率的にはたらいて最大限の生産と成長を実現する。

 

しかし20世紀末以降の新しい成長理論は、さらに異様な展望を示す。知識の交流が活発な社会においては、投資はネットワーク的外部性を発揮して、持続的な技術革新と経済成長を引き起こす。のみならずそこでは、資本の分配が平等であればあるほど、ネットワーク外部性の効果で生産性は上昇し、成長率は高くなる。論者によってはそこでの投資の主体はもはや物的投資よりも人的投資である、とさえ主張する。

 

以上をまとめるならば、『不平等との闘い』の立論は、「リベラルな共和主義」の基盤としての「みんなが資本家である資本主義」は自然にできあがるものではないが、実現不能と言うわけでもないし、またそれが成立することは望ましい程度のことは言える、となるだろう。

 

しかしながらそこで話を終わらせるわけにはいかない。『政治の理論』では、標準的な経済学の枠をあえて踏み越えないようにした『不平等との闘い』とは異なり、市場経済における不確実性や非対称性の議論にまで踏み込んでいるからだ。

 

 

市民社会にとって「諸刃の剣」である金融システム

 

「リベラルな共和主義」などという構想を提示するのは、「自由人による自由な政治」としての共和主義は、政治の主体として「財産と教養のある市民」を想定するので、その要件を満たさない人々はそこから排除されざるを得ないからである。これは狭い意味での「政治」、公共政策をめぐる決定への参加の問題に限定される話ではない。市民社会における私的な活動のレベルにおいても、「財産と教養」がなければ、人々に残された自由は、たかだか「他人にいいように操作されない自由」にとどまり(それも市場が競争的である限りにおいて)、自らのイニシャティブで事業を起こす自由はない。だから我々の「リベラルな共和主義」構想にとって「みんなが資本家である資本主義」の成否の可能性は死活問題である。

 

しかしながら「みんなが資本家である資本主義」の実現可能性は低くはあってもゼロではない、としたところで、それで問題が――とりわけ『不平等との闘い』が示唆するような、順調な経済成長の結果として(むろん「自然に」「成り行き」のままに)実現するなどとは思えないということを措いても――なくなるわけではない。

 

問題は「金融市場」「資本取引」にある。ここまであっさりと「資本市場」と書いてきたが、これがじつに曲者である。一口に「資本の取引」と言っても具体的な様態はさまざまである。たとえば土地建物を借りて、その対価として地代・家賃を払うような場合には、即金での売買とそれほど違いがあるわけではない。しかしながらこのような賃貸借取引がそのすべてではない。

 

人々はすでにある土地建物や固定資本設備を借りるだけではない。丸ごと買うこともあるし、あるいはいまだない固定資本設備を作り上げることも多い。問題はそこで、プランやアイディアはあっても金が――財産がない場合にはどうするか? いうまでもなく人々はここで、不足する資金を借り入れる。しかし『政治の理論』で散々論じたように、同じ「貸借」という言葉を用いてはいても、元物の賃貸借と、果実の消費貸借とは、じつは互いに極めて異質である。やや長くなるが、説明しよう。

 

経済学的な思考は、売買、より正確に言えば同時交換を基準として取引を考える、だから「雇用」という売買とは異なるカテゴリーの取引を「労働力商品の売買」だなどと言ってしまえるのである。この考え方だと前者、元物、土地や資本財などのまとまった資産の貸借は「土地や資本財を、一定の時間決めで利用する権利の売買」とイメージされる。この「賃貸借と売買の間に本質的な相違はない」というイメージを支えるのが、ひとつには賃料と利用の交換が同時――とは言わないまでも時差が少ないことである。

 

土地や家でもよいが、もっと気楽に、レンタルビデオ屋でビデオ、現在ならDVDやBDを借りることを考えよう。(これらは少額だが個性も耐久性もあり、「元物」としての性格が強い。)我々はビデオ屋で普通事前にレンタル料を払い、ディスクを持ち帰る。この支払と受け取りの同時性が「売買」イメージの基となる。もちろんこれはディスクそのものの売買ではなく、ディスクの所有権は移転しない。定められた期間内に、その同じディスクが返却されねばならない。だが、その期間が過ぎるまでは、借り手はディスクを占有して、それを破壊したり毀損したりしない限りで、それを使用する権利を持つ。小難しく言うとここには双務的関係がある。貸しても借りても、互いに義務を負い合い、互いの権利を保証し合っている。

 

これが消費貸借の場合は異なる。隣の家から味噌や醤油を「借りる」のであれ、消費者ローンからお金を「借りる」のであれ、そこではじつはレンタルビデオや家を「借りる」のとは質的に異なることが起きている。そこで貸し借りされているものは個性のない種類物であり、なおかつ、使用すると消えてしまう、消費の対象である。ストックではなくフローだ。だから味噌や醤油であれ、お金であれ、それを「返す」ときには、レンタルビデオや家とは異なり、厳密に同一のものを「返す」のではない。同じ種類のものを同じ量、そしてしばしば利息をつけたして「返す」のである。

 

この場合貸し手は、貸した後ではもう貸したものに対する使用権はおろか、所有権も失ってしまっている。これはビデオや家の場合のような賃貸借とは根本的に異なる。そして借り手の方は、借りたものをただ単に占有し使用するのではない。使えばなくなってしまうものだから、借り手は借りたものを(消費するまでは)所有しているのである。(自由な処分権があり、そして普通は処分してしまう。)そう考えるしかない。しかしいうまでもなくそれで話は終わらずに、同じ種類のものを同量(以上)返す義務が生じる。いわばその義務と引き換えに、所有権が移転されたのである。

 

ここでは元物の賃貸借とは異なり、片務的な関係が生じている。借金の取り立ての場合を考えるならば、むろん債権者、貸し手は、返済期限が来るまでは取り立てを差し控える義務がある、と言ってよいかもしれないし、債務者、借り手はその間催促を受けない権利がある、と言えるかもしれない。しかし返済期限を過ぎてしまえばどうなるか? そこではもはや貸し手は一方的に借り手に対して返済を迫る権利を有し、特段の義務は負わない。一方借り手は、返済する義務だけを負い、貸し手に対して特段の権利を有さない。

 

むろん元物の賃貸借の場合にも、期限までに貸したものを返さない延滞が生じれば、貸し手は一方的に返却を迫る権利を有し、借り手は借りたものを占有する権利を失ってただ返却義務を負うだけになるだろう。ただこちらの場合には、借りたものを毀損していない限り、とりあえず返却すれば、借り手は最低限の義務は果たしたことになる。貸し手の方でも、「借りたものを返せ」以上のことは言えないし、言う必要もない。貸したものは貸している間も、相変わらず貸し手の所有の基にあることははっきりしている、つまり貸し手の領分と借り手の領分との間の線引きは明確である。

 

しかしながら消費貸借においては、この線引きが不明確になってしまうのである。消費貸借においては、貸したものは消費し、消滅する。だからこうした消費財となる種類物においては、占有と所有の区別がなされないことが多い。ではそうやって、借りたものがすっかり借り手の所有物となるから、借り手の立場が強くなるかというとそうではない。その反対である。線引きのあいまいさが、かえって際限のない貸し手による介入を生む。

 

賃貸借においては、貸し手としては何を取り戻せばよいかがはっきりしており、反対に言えばそれ以上のことを求めるのは越権の疑いが強くなり、貸し手の自制も、借り手の抵抗も強固となる。しかし消費貸借の場合には関係が不透明となる。貸したものは借り手の領分に埋没して、その意に反して取り返すことは難しい。逆に言えば、消費貸借が安定的に行われるためには、貸し手の側が借り手の私的な領分に介入して、強制的にふるまうという仕組みがあった方が望ましいことになる。

 

これは今風に言えば「モラルハザード」の問題だ。自然環境のせいであれ、借り手の能力や誠意にのせいであれ、借り手がきちんと返済してくれるかどうか不確実な状況においては、貸し手は何らかの手段で以て借り手が誠実に債務を履行してくれるよう、誘導する仕組みを作りがちである。貸し手は借り手に対してある程度一方的な権力者としてふるまう仕組みが確立しなければ、安心して貸出取引に乗り出せない。

 

こうした関係、信用取引を通じた支配関係は、歴史上きわめて一般的によく見られるものであることは言うまでもない。狭い意味での金融機関を介したもののみならず、農業における地主小作関係、製造業・商業における問屋制、下請制においても、信用取引は本質的な機能を果たし、そこで地主や問屋は信用を与えることによって小生産者たちをコントロールしている。

 

確認しておくが、共和主義のヴィジョンはこのような信用取引に潜む権力性を克服するためのオルタナティブな仕組みとして、そもそも信用取引に過度に依存せずに済む程度に、人々が十分な財産を以て自立すること、そのような存在として互いに対等となること、を求めるわけである。

 

しかしその代価として、自立できない人々は取引から排除される。それでは無産者はいつまでたっても浮かばれない。ここで大規模な再分配政策による平等化などが期待できないとなったら、無産者が有産者になるためには、やはり危険を承知で大規模な資金借り入れに頼らざるを得ない。その意味で、「リベラルな共和主義」構想においては、信用取引に内在する危険にもかかわらず、それを全面否定することはできない。

 

とはいえ、やはり信用取引は極めて危険な仕組みである。債務者は、うまくいけば完済後でも財産が十分に残り、有産者に成り上がることができる一方で、いつまでも返済が終わらずに、債権者に従属し続ける可能性も無視できない。というより、我々が知る小作制度の歴史とは、後者のケースがむしろ多いことを示唆するのではないか。また、信用取引の世界では有産者もまた完全に安泰というわけではなく、借財を返済し損ねてもともとの資産自体を利子によって食いつぶされ、零落する危険にさらされることになる。

 

金融システムは市民社会にとって、「諸刃の剣」であり内在的なリスクとして考えられねばならない。無産者を再分配や資産形成支援を通じて有産者に転化させるのみならず、有産者の無産者への転落を防ぐためのインフラストラクチャーが重要となる。これはいわゆるプロセス憲法理論の発想を、国家レベルでの参政権を中軸とするものから、市民社会レベルの市民的権利を中軸とするものへと延長し組み替える発想として考えていただいてもよい。

 

現代憲法学というか、近代立憲主義においては、民主政治に対する憲法的制約の中核に人権という原理がある、とはよく言われるが、この「人権」とはそもそも何か、については諸説ある。有力な考え方の方向性としては、ひとつには、人権原理を民主主義とは別物、別個のものと考え、立憲的制約を「人権保障の法的メカニズムが民主政治に対して外側からタガをはめる」ようなものだ、と理解する考え方がある。

 

そしてもうひとつは、人権を民主主義に外在的なもの、民主主義とは別個のものとしては考えず、民主政治の基本的な構成要素、ビルディング・ブロックとして考える、という発想に立ち、立憲的制約を、民主主義の自己破壊、民主的決定が結果的に自己の存立基盤を掘り崩し、自壊してしまうことがないように防ぐ仕組みである、と考える。いわゆるプロセス的憲法理論はこれにあたる。

 

前者の考え方は、ホッブズ、ロック流の古典的な社会契約理論と馴染みやすい。国家に対して市民社会が先行していて、市民社会の基本ルールとして人権を捉え、国家は市民社会に奉仕する機関として捉えられ、その作動範囲は市民社会の基本原理としての人権によって限界づけられる、というヴィジョンである。そこでの人権は言ってみれば政治以前、国家以前のものとして考えられており、どちらかと言えば私的な自由がより基層のレベルに位置付けられて、その上に政治的権利が上乗せされる、という結構だ。このイメージは権力分立論、司法権の独立論との相性も良い。

 

それに対してプロセス憲法理論などの後者では、人権は民主的機関としての国家を運営する基本ルールとして捉えられ、その中心はむしろ政治的権利の方になる。前者がともすれば司法優位の憲法観になるのに対して、こちらはあくまで立法、政治的決定中心の憲法観である。

 

それに対して「リベラルな共和主義」の提示する構想は、あえて国家中心か市民社会中心かと言えば、市民社会中心の発想をとるが、そこでの権利観はプロセス的である。市民社会のなかでの自由な市民の行動は、結果的に自己破壊的な、市民的自由を掘り崩し、市民社会の秩序を崩壊させるような結果にも結び付きかねない。具体的には、市場での競争の中で、一部の市民が財産を失って零落する、といったかたちで。

 

それゆえ市民社会は、人々の市民的権利が掘り崩されないようなセーフガードを必要とする。リベラルな共和主義においてはそれは生存権保障に加えて、ある程度の財産までをも人々に割り当てる再分配政策を含まざるを得ない。しかしその本旨は自由な市場の活動を制限することであるよりは、市場の自由が万人によって十分に享受できるための条件を整えるところにある。

 

またそこでは、司法手続、裁判というものについての考え方も特徴的なものとなる。すなわち裁判という仕組みが裁判官中心にではなく、訴訟当事者中心にとらえられる。陪審制度までを含みこめば一層明らかとなるが、そこでは訴訟は裁判官による意思決定ではなく、訴訟当事者同士の闘争と交渉、つまりは一種の合議として理解されるのである。

 

 

「人間改造」という人的投資

 

ここまで『不平等の闘い』と『政治の理論』の接続についてみてきたが、今度は『宇宙倫理学入門』との接続についても考えてみたい。

 

『不平等との闘い』では「成長が格差をなくす」という楽観論は肯定されなかったが、「格差の主因は成長率の差であり、社会全体での成長の持続なしには格差の縮小は難しい」とまでは論じられた。そのような格差の解消――とは言えぬまでも、格差が縮小し、(失業して飢えて死ぬという「ジェノサイド」なしに)無産者が存在しなくなり、誰もが有産者となるような社会の成立が、我々が『政治の理論』で提示した「リベラルな共和主義」が成り立つための前提条件の一つである。

 

しかしながら、際限ない経済成長が一体何を意味するのか、それははたして可能なのかどうか? という疑問は、ローマ・クラブ以降、『成長の限界』以降の我々にとって、どうしようもなく避けがたい問題である。

 

この問題についてはすでに、『経済学という教養』の文庫増補版の補章で簡単に論じてあるが、そこでの暫定的結論は、いまとなってみれば『不平等との闘い』の煮え切らないそれと非常に似通ったものであった。すなわち、「成長なくしては技術革新はなく、技術革新なくしては環境に対してそれほど破壊的ではない技術の開発もできない。『経済成長が環境を守る』とは到底言えないが、(生産性上昇という意味での)経済成長なしには、自然環境を守ることはじつは難しい」と。

 

純然たる理屈でいえば、経済成長と環境破壊との間に必然的な関係はない、とさえ言える。そもそも我々が経済成長に求めるものは、人間の効用が増加することであって、貨幣の量が増えることではないのはもちろん、人間一人が利用できるエネルギーや物資の量やバラエティが増えることそれ自体でもない。理屈でいえば、経済成長の尺度は貨幣ではなく、さりとて消費されるエネルギーの量でもなく、人間が享受する効用である。

 

しかしながら現在の経済学などにおいて支配的な考え方の下では、効用はひどく個人的なもので、同じ個人のレベルで「昨日より今日が幸せ」ということはできても、「AさんよりBさんの方が幸せ」ということは厳密にはできない(異なる個人間での効用は比較できない)、と普通されている。だから我々は公共政策では「効用」という尺度は用いず、「GDP」といったお金で換算した尺度を用いるのだが、それでも通常我々は、厳密な意味での貨幣ベースでの「名目GDP」ではなく、物価の変化を考慮した数字である「実質GDP」を用いることで、少しでも「効用」に近づこうとする。

 

それでも、人間が生物学的、物理学的な存在である限り、生物学、物理学の影響を受ける。それは当然に、一定の環境の中でのみ生存していける、という意味で自然環境の保全を求めるということでもあるが、また生物学的な代謝を行い、エネルギー、物質を消費せずしては存続できない、ということでもある。効用を生み出すにはどうしてもエネルギー・物質が必要である。その利用をどんどん効率的にすることはできるだろうが、ゼロにすることはできない。どこかで、物理学の法則が制限をかけてくるのではないだろうか? となれば、地球という物理学的に見て閉鎖性が強い有限の系の中での存続を前提とする限り、人間の社会にとって経済成長には、超長期的に見れば限界があるのではないか? 

 

『宇宙倫理学入門』は以上の難問に対して「宇宙というフロンティアがある!」という回答を提示したものでは全くない。この著作での暫定的回答は「少なくとも今までと同じ生物学的身体を備えたままでは、人間は宇宙、地球外の空間や他天体を生存圏とすることは極めて困難で割に合わないだろう」というものだ。むしろ問題はここでの「今までと同じ生物学的身体を備えたままでは」という但し書きにある。

 

古くは多くのSF作家たちが想像し、のちにはフリーマン・ダイソンをはじめとする科学者たちまでがまじめに検討の俎上に載せ始めたように、地球外の環境に適応可能なかたちに自己を改造した人間たち(もちろん人間だけではなく、改造人間の生存を支える改造生物からなる改造生態系も必要だが)ならば、地球外宇宙に植民していくことも可能なのではないか、と考えられる。

 

さらに言えばこの、改造人間の可能性は、何も宇宙進出、宇宙空間のためにのみ行われる、と考える必要はないのである。むしろ我々が想像すべきは、有限な地球環境の制約に適応すべく、より効率的な工業技術の開発に邁進する人々が、ついには人間の身体そのものの改造に乗り出し、より効率的にエネルギー・物質代謝を行い、より少ない資源で、より少ない地球環境への負荷で生存できる改造人間を作り出していく、という可能性であろう。

 

 

宇宙倫理学

 

 

さて、このような人間改造は、経済学的に見て――というと口幅ったいが、我々のここまでの考察とどのように接続されうるだろうか? 「持続的経済成長が追求された挙句に行きつく果て」として、外部環境の改造のみならず、内部環境――人間的自然そのものの開発、改造に乗り出す、という方向性は、じつはすでにある程度は踏み出されている、というべきだろう。生命倫理学のいうところの「ヒューマンエンハンスメント」とはそういうことである。

 

ここで考えてみよう。こうした人間改造にも、当然にコストがかかるし、リスクもある。コスト、リスクとそこから得られる利益が、様々な立場から勘案されつつ、ものごとは進んでいくだろう。その意味ではこれもまた、人間の経済活動の延長線上にある。経済学の観点からは教育が人的投資とみなされるように、こうした人間改造もまた投資行為に他ならない。

 

さてそう考えるならば、いろいろと興味深い――しかし現実の課題として全面化すれば相当に厄介な問題系が浮上してくる。我々が教育を投資と考えることに対してなにがしかのためらいを覚えるのは、何も古典的なヒューマニズムからのみ来るのではない。人的投資の結果としての人間の知識や能力を「人的資本」とみなすことが誤りだと言いたいわけではない。

 

しかし少し考えてみればわかるように、「人的資本」は所有の対象ではない。その「持ち主」の人間から切り離せるものではない。物的資本ならば、先に小作制や問屋制に触れたときに示唆したごとく、あるいは現代の「ファイナンス・リース」といった業態に見る如く、賃貸借で取引することができるが、人的資本は賃貸借することはできない。資金を消費貸借のかたちで借り入れるしかない。同じ消費貸借による物的資本購入の場合には、住宅ローンが典型的に示すように、返済が滞れば当の資本財を差し押さえれば、取引の行き詰まりは解消できる。しかしながら、人的資本の場合にはそうはいかない。差し押さえるべきものがそこにはない。むろん、奴隷制度を容認すれば話は別だが。

 

教育訓練が開示するこうした問題系は、よりテクノロジカルにあからさまな人間改造をめぐる取引においては、はるかに厄介で興味深い問題を引き起こさずにはいまい。

 

我々は『不平等との闘い』において、近年の経済学において、格差を引き起こす主因としては物的資本の格差以上に人的資本の格差が重要になってきているのでは、という見解が影響力を持つようになってきたことを見た。『21世紀の資本』にいたるトマ・ピケティの仕事は、そうした見解に対して「いや、物的資本も今なお重要である」と実証を踏まえて提起したところにあるが、もはや教育とは呼び難い、よりあからさまな「人間改造」という人的投資は、従来の人的資本と物的資本の区別――それさえもじつは十分に明確なものではないのだが――をあっさりと踏み越える問題領域を切り開いてしまうかもしれない。

 

 

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.276 

・橋本努「新型コロナウイルスとナッジ政策」
・三谷はるよ「市民活動をめぐる“3つの事実”――「ボランティア」とは誰なのか?」
・五十嵐泰正「『上野新論』――「都市の時代」が危機を迎えたなかで」
・倉橋耕平「メディア論の問いを磨く――言論を読み解く視座として」
・山田剛士「搾取される研究者たち」
・平井和也「コロナ情勢下における香港と台湾に対する中国の圧力」