2017.10.20
国際人道法に則する憲法を
選挙戦も大詰めを迎えつつある。各党がさまざまな公約を掲げる中、自民党は当初安倍首相が宣言した通り、9条への自衛隊の明記を公約に加えた。争点となっていた「交戦権の削除」は見送られたかたちだが、果たしてその妥当性は?東京外国語大学教授、伊勢崎賢治氏に伺った。(聞き手・構成/増田穂)
国際的に禁止される自衛以外の戦力
――今回の総選挙、自民党が9条に自衛隊を明記することを公約にしました。伊勢崎先生のご感想はいかがですか。
「自衛隊明記」を推進しているのは安倍さんですよね。これは基本的に今までの解釈改憲そのままです。9条はそのまま残して、自衛隊だけプラスで付ける、というもの。自衛隊に関しては国民が支持をしていますからね。まあ、国民の総意をそのまま形にする。ただそれだけです。
ぼくが安倍加憲を批判する理由は、英語の原文で見たときの9条2項との矛盾です。世界は英語原文で理解するのですから、英文での整合性を同時に考えなくてはなりません。安倍加憲を英語にすると日本人が今まで積み上げてきた解釈改憲の矛盾が明確に露呈してしまいます。
9条、特に2項は、そもそも欠陥条項です。第二次世界大戦が終結して、国連が設立され、国連憲章が採択されて以来、自衛以外の戦力を持つこと、自衛以外で戦力を行使することは禁止されています。あの戦争以後、政治的な問題や外交上の問題を解決するために武力の行使はやってはならないことになっていて、それは全加盟国に“ほぼ”厳格に守られています。時々変なことをするのは決まってアメリカですが。
――つまり、9条で規制されているようなことはそもそも国際法で規制されていると。
そうです。今日の世界で、武力を使っていいのは例外的に自衛と、国連として一丸となって何かを行う時だけです。それ以外での武力の行使は許されていません。
自衛権には、個別的自衛権と集団的自衛権の2種類があります。アメリカの戦争に巻き込まれることを懸念して、日本では集団的自衛権の方に問題があるようなイメージが抱かれていますが、実は、より危険なのは個別的自衛権の方です。何故なら、武力行使の決断を、一人でとってしまうから。集団的自衛権であれば、仲間がいますよね。自分が攻撃されても、仲間が攻撃されていなければ、その仲間が報復攻撃を「思いとどまらせる」可能性もあるのです。
これを徹底しているのが戦後のドイツです。ドイツは戦前戦中の反省で、自らの判断で行う個別的自衛権を集団的自衛権で完全に封じました。NATOや国連による判断以外の武力の行使を一切しないとしたのです。
今起きている戦争と言われる武力衝突は、全て自衛戦争。しかも個別的自衛権が発端になっているものがほとんどです。9.11後のテロとの戦いは、アメリカの個別的自衛権でした。フランスも、パリでの襲撃事件の報復、つまり自衛として、シリアに空爆を行っています。
――では、戦争を避けるためには個別的自衛権を効果的に抑制していかなければならない。
それだけで戦争が全て防げるわけではありませんが、そこはひとつ重要な要素でしょうね。さらに、日本人は集団的自衛権と集団防衛を混同しているところがあります。この区別が難しい。概念的には非常に明快なのですが、概念的であるがゆえに現実では不正利用されてしまうことがあるんです。
――集団的自衛権と集団防衛ですか。
集団的自衛権に関しても集団防衛にしても、行使されるには参加国の間で「契り」がなければなりません。契約ですね。集団的自衛権の行使が許される場合の契りというのは、参加国が誰の目から見ても一心同体な状況でなければならないんです。例えばぼくと増田さんが非常に緊密なお友達であるとしましょう。最初にぼくが攻撃されたら、次は自動的に増田さんが狙われる、という状況。増田さんが次に狙われるという状況が誰の目から見ても明らかであれば、国連憲章によって集団的自衛権の行使が許されています。
一方で、集団防衛は同盟を基礎にしています。同盟はまさに「契り」なのですが、この場合、攻撃を受けた場合の契りの関係性は、誰の目にも明らかではありません。例えば増田さんが北海道にいて、ぼくが東京にいて、電話で、仲間として一緒に行動することを約束する。これは勝手な契約で、第三者は知ったこっちゃありません。なぜぼくが攻撃されたら、必ずその次は増田さんなのか、明確な状況にない。したがって、集団的自衛権は許可されません。
それでも、ぼくと増田さんは一緒に行動する約束をしています。その約束に基づいて一緒に報復攻撃をするのが集団防衛です。ただし、集団防衛を行使する場合は、国連安全保障理事会の許可が必要です。そして国連安全保障理事会が彼らの代わりに何かやると決めた場合には、その集団防衛を止めなければなりません。NATOや日米同盟はこの集団防衛の契りに基づいています。
――つまり、アメリカと自衛隊が「同盟」として行動を共にするためには国連の許可が必要で、自動的に集団的自衛権が発動するわけではなないということですね。
そうです。集団防衛と集団的自衛権の大きな違いは、発動させる際、集団的自衛権は国連の許可を取らなくてもいい点にあります。個別的自衛権も集団的自衛権も、国家に固有の権利だからです。しかし、固有というからには、発動するには本当に緊密な関係が必要です。もう絶対に、間違いなく、ぼくが攻撃されたら増田さんも攻撃される。それが絶対的である。概念上、その要件が満たされない限り、行使は許されないんです。
しかし現実にはこの理論が同盟も含むと拡大解釈されて、国連決議なしに発動させられることが多いのです。一番典型的な例は9.11後のアフガン戦争です。アメリカが狙われて、個別的自衛権で報復しました。その後、イスラム過激主義の脅威にさらされていると自認している欧州各国つまりNATOが、 次は確実に誰もが狙われるとし同盟として集団防衛を発動させました。理論上、これを実行するには国連安全保障委員会の許可が必要ですが、国際世論は、これは明確に集団的自衛権の要件を満たすと考えたようです。それくらい9.11の世界に与えた衝撃は大きかったのです。NATOの決断と“ほぼ”同時に国連安全保障理事会でテロ対策を国際的な課題と位置付ける議論が進められ、最終的にテロ対策としての武力の行使が国連により容認されました。国連の集団安全保障の発動です。
複雑でしょう。ただ、繰り返しますが、集団的自衛権と集団防衛は概念的には全く別のものです。集団防衛は勝手な「契り」で、集団的自衛権は誰の目にも明らかなお友達、というわけです。
――しかし同盟があると当然参加国の関係は緊密になりますから、「誰の目にも明らか」のラインが曖昧になって、集団的自衛権と集団防衛の境界も曖昧になってしまう気がします。
そうです。日米同盟に関しても、もし米軍が日本に駐留していなければ、誰も集団的自衛権の要件が満たされるとは考えないはずです。そもそも日本とアメリカは何千キロも離れているのですから。しかしまるで占領下のような地位協定を結び、米軍の駐留を許している状態では、日本とアメリカが一心同体、というか、アメリカそのものであることは誰の目にもあきらかです。この場合、集団的自衛権が発動できる。
そういうわけで、曖昧な状況になってしまっているんですよ。本当はしっかりした概念的違いがあって、その理論で説明がつくように国防論を組み立てなければならないのですが。
戦争犯罪を裁けない日本
――公約に自衛隊の明記が入れられたことに関してはいかがですか。
追加3項で自衛隊の存在を明記して、9条1項2項は変えない、ということですよね。これまでもずっと指摘していますが、これでは憲法の「法理」が崩れてしまいます。
自衛隊は国際的には戦力です。だからこそ、戦力として規制されなければなりません。この戦力としての規制が、国際法、特に戦時国際法、もしくは国際人道法と呼ばれる法体系の中に記されているのです。
国際人道法は、交戦におけるルールです。これから逸脱した行為はWar Crime、戦争犯罪になります。国際社会では、変化する現代の戦争に適応するように、日夜何が戦争犯罪であるべきかが議論され、定義されていっています。しかし、国際社会にできることはここまでです。違反者に対し誰が処罰を与えるのか、その問題が残っています。人類はまだ、国際的に強制力のある司法制度をもっていません。
したがって、合意された国際人道法での違反行為を一義的に審理する責任は各国が負うことになります。これは、法治国家として国際社会の中でやってゆくための義務でもあります。具体的には、国際人道法の違反者を国内で裁くということです。軍隊を持つ国、つまり日本以外の主権がある国は、みな、戦争犯罪を想定した国内法廷を持っています。これがいわゆる軍法です。法治国家として1番重要な責任です。
しかし日本場合は、戦前の名残があって、軍法と聞くと引いてしまうんですよね。戦争をしないので、戦争犯罪も起きません、という論法で軍法の必要性を否定してきました。しかし一方で世界でも抜きんでた戦力を持っている。もう日本は世界五指の軍事大国です。矛盾していますよね。そしてこの矛盾を誰も指摘してこなかったんです。
――なぜ誰も指摘して来なかったのでしょうか。
理由は2つあります。一つ目は、そもそも軍隊を持っていながら軍事法廷を持っていないということ自体が、常識を逸脱し過ぎてあり得ないことだからです。誰もそんなことあるわけないと思っている。アメリカの軍人ですらこのことをちゃんと意識しているのはごく僅かです。僕はアメリカ軍、特に陸軍の幹部に知人が多いですから、話すと、えっ、と目が点になる感じで、今更ながら、驚かれます。ですから他の国の人間は疑う由もないでしょうね。
二つ目の理由としては、外国人にとって、知っていたとしても指摘するような問題ではないんですよ。
――こんなに重要な問題にもかかわらず、ですか。
「平和時」の地位協定としては無比の従属性の下、そもそも日本は軍事的に独立した国だとは思われていないのです。何かあってもアメリカがどうにかするのだろう、と。
――それでも国家としてアメリカとは別な以上、有事の際には日本が独自に裁かなければならないですよね。
もちろんです。北朝鮮だって軍法をもっています。それもソ連型の厳しい軍法です。我々にはそれがありません。
――やはり交戦権がないせいで、戦争を起こる前提として考えられず、法の整備が遅れている側面があるのでしょうか。
アメリカが交戦権を取ったんですよね。そもそも国際法上自衛ができない国なんてありません。コスタリカだって永世中立国だって自衛はします。コスタリカには常備軍はありませんが、有事の際には人民軍として蜂起できるようになっていて、その際戦争犯罪が起これば裁けるようになっています。
そもそも「交戦権」という言い方が古いです。交戦権は英語でRight of Belligerencyと言いますが、この言葉が非常に古典的な言葉なんです。BelligerencyとかBelligerent(交戦国)といった言葉は、現在の国際法の議論にはほとんど出てきません。
国際人道法では何が交戦主体なのか、交戦資格を持つのか、規定があります。そして規定された主体は、国際人道法が定めるルールを順守しなければならない。国家には交戦資格があります。つまり自衛の権利です。そして自衛の際に守るべきルール、それが国際人道法なのです。
したがって、「交戦権」はやはりちょっとニュアンスが違うんですよね。Belligerentは現代では国際人道法を順守する主体と考えられるわけで、Right of Belligerencyは正確には「交戦主体になる権利」「交戦状態に入る権利」もしくは「ルールに則って交戦していれば戦争犯罪に問われない権利」と訳されるべきでしょう。
交戦状態に入る権利をなくすということは、自衛をしないということです。竹やりで戦おうがジェット機で戦おうが、その中の違反行為を定めるのがそのルールで、それが統制する空間が「交戦」ですので、その中に入らないということは、とにかく「歯向かわないこと」を意味します。
同時に、国際法では、常備軍がなくても、竹槍だけでも、国家の持つ打撃力を、そのルール、国際人道法に則って統制する力を有するものが国家という考え方をしますので、この力のないものを国家とは呼びません。そう考えると、Right of Belligerencyの放棄を憲法に書き込ませたアメリカの意図が明確に読み取れます。当時のルールでも、アメリカがそのまま占領を続けることは併合、侵略であるとみなし厳禁していました。だからアメリカは最初から、占領を永続的な「駐留」に変え、日本を国家にする気がなかったのだと。
これは、100以上もあると言われるアメリカが各国と締結する地位協定を比較研究すると、より鮮明に見てきます。近著ですが『主権なき平和国家:地位協定の国際比較から見る日本の姿』(集英社クリエイティブ)を布施祐仁さんと共に書きました。
日本と同じように敗戦国のドイツやイタリアなどの「平和時」の国々との地位協定で、横田空域に象徴される米軍基地の管理、米軍の訓練の管理に、受け入れ国側の主権がないのは、日米地位協定だけです。それが50年以上も「変わらない」のは日米地位協定だけです。
これに加え、「使わせない」「通過させない」「金を出さない」という国際法が「中立」に要求する要件を日本は何も満たしていないのです。アメリカが戦争の当事者になっても日本はそうじゃないという法理上の根拠は何もないのです。繰り返しますが、世界で最も従属的な地位協定の下では、なおさらアメリカからの軍事的主権の独立はないのです。
この「擬似占領」状態を変えない限り、憲法論議だけで「非戦」をしてもしょうがない。だから、憲法論議と日米地位協定は、同時にするべきなのです。自衛隊の法的な地位をめぐる9条論議とアメリカからの軍事的主権の回復は、車の両輪なのです。切っても切り離せない。
法理を失う安倍加憲
――伊勢崎先生はご自身も改憲案を提案されていますね。どのような内容なのですか。
2項をそのまま削除して、「日本は自衛権を国連憲章51条に規定された、国際法上規定された国際的な個別的自衛権を行使する」という新しいものに置き換えるものです。要は、日本の領内に限って、自衛権を行使するのです。その場合、それは国際人道法で統制されるべき「交戦」になるわけですから、国際人道法の違反、つまり戦争犯罪を起こすという前提に立った国内法を整備する必要があります。
繰り返しますが、「交戦権」という表現がもうおかしいんですよ。権利としての戦争は、もうありません。戦争する権利は国際的にすでに否定されています。死語なんです。9条2項はそれを否定していますが、死語の否定で国家の実力組織を統制できるわけがありません。ですから、まずこの「交戦権」を現代の戦争のルールに即して考え、9条2項を書き換えなければなりません。
自衛隊は国際法上の戦力なのに、日本人が戦力ではないと自分で自分に言い聞かせているだけです。戦力じゃないから、戦力が犯す国際人道法違反を想定できない。ただ、それだけなのです。自らの「戦力」に責任が持つのが国家主権ですが、日本はそれを「自らへの御呪い」だけで放棄しちゃっている。
一方で自衛隊は、国際人道法に則る戦力だからこそ現地の刑法からの免責を定める地位協定を北アフリカの小国ジブチと結んで、現在も駐留しているのですよ。日本国内で米軍機の墜落が相次ぎ、日米地位協定の問題が最近また浮上していますが、なぜ日本人は、それと同じ事故が自衛隊によって異国で引き起こされるという可能性をスルーしてしまうのでしょうか?
――自民党内でも防衛関係に携わる方からは交戦権に関する部分を削除する必要性が指摘されています。一方で安倍さんは自衛隊を明記する加憲にこだわっていますよね。改憲に反対する民意にかなり気を配った提案なイメージがあります。
ある意味安倍さんはポピュリズムに乗っただけの話ですよね。結果として完全に憲法の「法理」を破壊しようとしている。
――破壊ですか。
9条2項で否定されている自衛隊の存在を、同じ憲法の13条で正当化する一部の護憲派憲法学者のように日本が今まで実行してきた「解釈改憲」の矛盾の集積を、それを正すことなくただ加憲で明文化することですから。現実と法の間にある程度のギャップがあることは当然です。特に憲法は頻繁に変えるものではありませんから、時代背景などにより当然ギャップは出てきます。問題はそのギャップをどこまで許容するかです。ギャップが限界まできたら、改憲は必要です。アメリカでの奴隷解放も女性の公民権も、そうやって実現してきました。改憲自体をタブー化するのは間違いです。
先ほどから指摘しているように、9条2項は、そこで使われている語彙からして「欠陥条項」です。これは正さなければなりません。ここに加えて、解釈改憲の矛盾の象徴である自衛隊を明記しては、法理の破壊になってしまいます。
この法理の破壊は英文で見るとわかりやすい。憲法の英語原文で戦力は「Forces」ですが、それを保持しないと言いながら、加憲条項で自衛隊「Self-Defense Forces」を持つ、ということになってしまいます。Self-Defenseだから「戦力」のForcesとは違うと「解釈」してきたのですが、前述のようにそもそも国連憲章の下、国家が保持できるForcesはもう自衛、つまりSelf-Defenseのためにしかないんですよ。だから、Self-Defense Forcesは、当たり前に「戦力」のForcesなのです。自衛隊が行動する現場は、PKOやジブチなどの完全に国外、もしくは、尖閣諸島など国内か国外が係争している場所ですから、日本人がどう言い張ろうと「戦力」です。
――伊勢崎先生は以前からこの問題を指摘されていますが、安倍さんは自衛隊の明記にこだわっていますね。
「9条で否定されている自衛隊を13条で復活」する護憲派憲法学者の言説は末期的な「解釈」の完全破壊ですが、安倍加憲は「法理」の完全破壊です。
――安倍加憲、具体的にはどのように記載されると予想されていますか。
まあ実際は、加憲条項に自衛隊という言葉をそのまま載せるのではなく、「自衛のための戦力を持つ云々……」みたいになるんじゃないかと思います。
――自衛隊の存在はそれで完全に肯定されたことになるのでしょうか。
国際法的にはなりません。国際法的に重要なのは9条2項ではなく76条の方、国際人道法が違反行為とする戦争犯罪に対応する国内法廷を持つか持たないかという点です。この76条が特別法廷を持つことを禁止しているので、軍事法廷が持てないんです。重要なのはここです。ここが解消されなければ国際法的には問題を抱えたままになります。
完全に矛盾をなくすためには、9条2項と同時にこの76条にも手が加えられなければならない。ぼくは研究者だから、この矛盾が100%解消される方法を提案しています。それには、9条2項を完全削除し軍事裁判所設置のために76条改定が考えられます。
もしくは、個別的自衛権の行使はそれが“必要最小限度”であっても国際人道法上の立派な「交戦」であることを認識した上で、日本の個別的自衛権により更に厳格な縛りをかけるべく、76条改定に加え、新しい9条2項として、「日本の領海領空領土内に限定した迎撃力(interception forces)をもつ」+「その行使は国際人道法に則った特別法で厳格に統制される」とすることも考えられます。
以上は、法理的な矛盾を100%解消するための提案です。
しかし、「政局」における妥協点という話になると別でしょう。9条に手をつけるのはハレーションが大きすぎてリベラルがまとまらないから無理ということであれば、76条だけでもどうにかするべきです。100%じゃなくても、40%ぐらいの解消。でも現状の「解釈改憲」よりずっとましです。
在日米軍機の事故は突然です。ジブチでの自衛隊によるそれも「突然」です。こういう軍事的な事故は、それ自体が外交上の大問題になりますが、日本の場合は、それに加えて「法の空白」の問題があるのです。「想定外」は、原発事故で、懲りているはずです。
問題は、9条2項を維持しながら、76条の議論だけで、どこまで“持つか”です。ただ安倍加憲より、ずっと現実的で、マシなのです。100%の解決ではありませんが。
今の立憲民主党は、そうやって議論を進めていけばいいのではないでしょうか。「軍法を作る」という議論のプレゼンではなく、「国際人道法違反に対応する国内法を整備する」というプレゼンです。そうすれば、まとまるのではないかと期待しています。僕の周りの護憲派の憲法学者を含めた研究者も、護憲派と呼ばれる政党も政治家も、9条2項の矛盾は認めていますからね。ただ、安倍政権下の改憲はどうかということで、ポジショントークしているだけです。
――安倍さんの改憲案ではいけない、ということでしょうか。
安倍政権下で改憲の議論をすること自体が、敵に塩を送ること、という論旨です。まあ、理解できなくもありません。しかし一方で、憲法論議を護憲側から発議するわけにはいかないというタブー感が、解釈改憲の矛盾をここまで許して来たのです。そもそも、解釈改憲の矛盾を突くと護憲派に、お前は改憲派だと攻撃されるのって、やっぱりおかしいと思う。
リベラルなりの道筋を示せ
――現在の改憲議論について、一般の方に伝えたいことはありますか。
改憲に賛成しているからといって、安保法制に賛成しているとは限らない、ということが肝だと思います。実際そういう議員さんは多いですよ。みんな憲法の矛盾には気づいています。ぼくは自衛隊を戦力と認め、しっかり規制した上で、日本から一歩も出さなければいいと思っています。
今の自衛隊の反撃の規制は警察比例の原則に基づいています。つまり、犯人と警察官がいたら、警察官は銃を持っている。犯人は持っていない。その前提で、犯人が警察官に挑んできたら、警察官はどのように対応するかという前提です。警察比例では、相手の暴力度に対応、つまり比例した反撃をします。9条が解釈されてきた必要最小限の反撃とはこういうことです。
一方で、国際人道法上の「交戦」における比例は攻撃対象の暴力度ではありません。反撃において民間人をどれだけ犠牲にせずに済むかということです。戦争の際は民間人の犠牲がでます。もちろんそれがゼロで済むに超したことはありませんが、現実はそうはいきません。要は、最低限の民間人の犠牲に抑える、それが国際人道法で定められている比例です。
警察比例は国内法です。それを海外に持ち出すということは通常あり得ないことなのですが、自衛隊はそれが成り立つ前提でPKOにも派遣されています。でも、南スーダンでは現地の武装組織が戦車まで持ってるんですよ。自衛隊は持っていない。警察比例もなにもない。警察比例に基づいた必要最小限の自衛は、法理上、国内しか成り立たないのです。
――最近では国際貢献の一環としての自衛隊派遣の必要性も指摘されていますが。
PKOへの貢献は武装した部隊派遣だけとは限りません。出すなら文民警察を出せばいい。もしくは非武装の自衛隊を監視団として送り出すこともできます。近頃は先進国も部隊派遣はしていません。だから出さなくたって怒られませんよ。
――政治家や研究者は矛盾に気づいているけれども、なかなか世論が9条改憲には向かわない現状、どうお感じですか。
メディアの責任ですね。もっと日本人のジャーナリストが現場に行って、国際情勢を伝えるべきだと思います。行かないでしょう、日本は。そういう危ない海外に行くのはフリーばかりです。しかしフリーはお金がありませんから、仕事を求めてあちこち転々とします。でも、個々の紛争の根源的な問題知るために本当に必要なのは定点観測です。南スーダンだったら南スーダンに張り付いて情報を伝えていかなければならないんです。現地に根付いた報道ができる大手こそ、責任をもって情報を発信するべきです。せめて普通の先進国並みにね。
とはいえメディアも客商売ですから、それを欲する視聴者がいなければ何もできません。堂々巡りになってしまいますが、そういうところをどうにかしないといけないでしょう。実際に自衛隊を巻き込む事故があれば、日本もみんな目覚めると思いますが、事故があってからでは遅いんです。事故は、必ず、「政治利用」されますから。
ジブチは今、本当に危ない状態です。自衛隊は戦力としてジブチ政府と地位協定を結んでいます。自衛隊が起こした軍事的な過失は全て現地政府から免責されています。それはジブチ政府が、何か起こったら日本がちゃんと裁いてくれると思っているからです。ところがどうですか、軍事法廷がない。ジブチ政府は、これ、知らないですよ。まさかそんなことあるわけないと思っていますから。
――単純に、これだけ大きな矛盾を抱えてどう自衛隊は運営されているんだろう、と思えてくるのですが……。
一重に、現場に送られた自衛隊員の功績です。世界中のどの軍隊を見ても、自衛隊のように精鋭が集まっている軍事組織はありません。軍隊はどの国でも社会の掃き溜めです。読み書きもできないような人たちが最後の手段で入隊します。中には学校に行くために入隊するような人もいますが、ほとんどがごろつきです。軍隊というのは社会の中で一番底辺の職能集団なんですよ。
自衛隊は全く違います。競争率もとても高い。今は一般から自衛隊に入るだけでも一苦労です。ましてや曹、つまり定年まで自衛隊として働ける階級ですが、それになるための試験は非常に難しい。自衛隊くらい優れた軍事職能集団はいません。だから事故がおきないんです。自衛隊員が理性をもって自制しているから、これまで9条の矛盾が「事故化」しなかったのです。
9条を護ってきたのは護憲派ではありません。現場に送られた自衛隊員なのです。護憲派は、解釈改憲の末現場で顕在化する矛盾をスルーし、日本国内だけで条文護憲を叫ぶだけの集団にしか過ぎません。
――これまで自衛隊が不用意な行為で事故を起こさなかったからこそ、9条が守られてきた。良くも悪くもそのせいで9条の問題が表面化して来なかった側面もあるかと思います。
今まではそうですね。これからはわかりません。ジブチでは、みんないつISが来るかとビクビクしているというのに、安倍さんはISをけしかけるような発言をしているし、いつ何が起こるかわかりません。
それに安保法制です。安保法制は蓋然性の面では憲法が変わらなければなにもできません。安保法制は確かに日本人の心情的な面で、集団的自衛権に反対してきた大きな壁を一つ越える出来事でした。
問題は安保法制の持つメッセージ性です。安保法制は自衛隊にもっと撃つように政治的な圧力をかけています。しかし撃ってしまったら、それは今までのように、国家がその審理の責任を負えず、その隊員に故意犯罪として責任を押し付けることになります。国家として責任を取れないのに、隊員に撃てと言っている。こんな不条理なことはありません。この一点で、僕は安保法制に反対して来ました。
本当に、リベラル側が覚醒して真剣に9条2項と国際法が国家に要求するものとの乖離の議論をしなければならないと思います。これから目を背けず、安倍加憲や自民党改憲案との違いを「非戦」に基づき明確に示す、積極的な護憲的改憲案を提示しなければなりません。
――リベラルとして有権者にどんな道筋を示せるのか、今後の政策にも注目したいです。伊勢崎先生、お忙しいところありがとうございました。
プロフィール
伊勢崎賢治
1957年東京都生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了。東京外国語大学大学院「平和構築・紛争予防講座」担当教授。国際NGOでスラムの住民運動を組織した後、アフリカで開発援助に携わる。国連PKO上級幹部として東ティモール、シエラレオネの、日本政府特別代表としてアフガニスタンの武装解除を指揮。著書に『インドスラム・レポート』(明石書店)、『東チモール県知事日記』(藤原書店)、『武装解除』(講談社現代新書)、『伊勢崎賢治の平和構築ゼミ』(大月書店)、『アフガン戦争を憲法9条と非武装自衛隊で終わらせる』(かもがわ出版)、『紛争屋の外交論』(NHK出版新書)など。新刊に『「国防軍」 私の懸念』(かもがわ出版、柳澤協二、小池清彦との共著)、『テロリストは日本の「何」を見ているのか』(幻冬舎)、『新国防論 9条もアメリカも日本を守れない』(毎日新聞出版)、『本当の戦争の話をしよう:世界の「対立」を仕切る』(