「お任せ」の政治から脱却するために――革新自治体という経験から学べること

松下圭一と市民の政治参加

 

――引用には「住民自治」という言葉がありますが、この言葉からは革新自治体の理論的指導者といわれる松下圭一を連想します。

 

松下圭一氏は日本における大衆社会論の旗手であり、日本の政治学史に名を残す知の巨人です。その思想の全貌を私が把握しているとは到底言えません。革新自治体との関連について、私なりの解釈を述べたいと思います。

 

松下氏には、戦後の民主化や高度経済成長によって日本社会に大きな変化があったという理解があったと思われます。

 

松下氏によれば、かつての日本の民衆は権力者に理不尽な行いをされても黙って耐えるだけで反抗せず、権力者に取り入ることばかり考えている受動的な存在でした。ところが戦後の民主化と生活・教育水準の向上によって、自分で社会情勢を判断し、自分の意見を堂々と述べる人間に、日本人は生まれ変わったと考えました。松下氏はこれを日本社会が先進国化した証と考えました。

 

 

――いわゆる「市民」になるほど、日本人も成熟してきたということですね。

 

ところが、当時の革新政党の理論は後進国(20世紀初頭のロシア)を前提とする理論(講座派マルクス主義)と、中進国(20世紀初頭のドイツ)を前提とする理論(労農派マルクス主義)しかなく、先進国社会に対応した理論はないと松下氏は考えました。そこで、松下氏自身が社会党のイデオローグとなって、先進国革命理論を構築しようとします。ですが、松下氏は社会党内の権力闘争に敗れてしまいます。

 

そこで、革新首長に接近し、革新自治体において市民の政治参加を促し、市民自ら自治体行政に参加し、市民自ら行政の在り方を決めていく仕組みをつくり出そうとしました。しかし、松下氏が旗を振った市民参加は、一部の自治体で市民が首長に要望を伝えたり(横浜市など)、一部の有識者が市民代表として都市計画の立案に参加したりする(武蔵野市など)というかたちでしか実現しませんでした。

 

 

――お話を聞いていると、住民の間で政策への意識が高まったというよりも、改革を叫ぶ首長に喝采を送ったという感じですものね。

 

大多数の市民の意識は首長にすべてお任せして、選挙の後は政治の内容には無関心という段階から進歩しませんでした。松下氏は1970年代後半にそのような日本人の意識を、水戸黄門が訪れるまで悪代官の暴政に耐えるだけで自らは解決しようとしない江戸時代の庶民に例え、晩年になっても日本の政治は「《中進国》状況にとどまる」と評しました。

 

自身が想定した先進国段階(市民自ら政治に参加し、政治のあり方を自ら決定する)に日本社会は到達しなかったという絶望が、松下氏にはあったと思われます。

 

 

社会党はなぜ社会民主主義政党になれなかったのか?

 

――素朴な質問なのですが、自治体での革新の勢いは、なぜ国政まで及ばなかったのでしょうか? 革新政党が政権を奪えなかったのはなぜなのでしょうか?

 

首長ポストは1つしかありませんから、首長選挙では革新政党や中道政党が1人の候補者に相乗りするのは容易でした。しかし、国会議員選挙では多くの選挙区で候補者の住み分けや選挙協力をしなければなりません。しかし、これは困難でした。

 

社会党右派には共産党へのアレルギーがあり、左派には民社党へのアレルギーがありました。さらに社会党は極端に党員が少なく、得票の多くは労組票と浮動票でしたから、党が他党候補者への投票を呼び掛けても十分な効果をあげることができませんでした。

 

これでは他党候補とのバーターはなかなか成立しません。その結果、各選挙区で革新政党や中道政党の候補が乱立して票を奪い合い、自民党の候補が漁夫の利を占めるという事態が続出したのです。

 

 

――あわせてお聞きしたいのですが、革新自治体の躍進から、福祉に対しては一定以上の支持があることが明らかだったと思うのですが、社会党が社会民主主義政党に脱皮できなかったのはなぜなのでしょうか?

 

社会党において社会民主主義というのは、長くイメージの悪い言葉でした。それはなぜかということを知るには、社会党の歴史を知る必要があります。

 

1945年に社会党が結党されたとき、社会党には右派・中間派・左派の三派が存在しました。右派は戦前に中国との戦争に賛成したものの、大政翼賛会の参加には反対し、戦時中は弾圧されました。中間派は、中国との戦争も大政翼賛会の参加も積極的に支持しました。左派は戦争に一貫して反対した政治家や、戦後、社会党に参加した政治家から構成されていましたが、結党当初は少数派でした。

 

中間派は戦争責任を問われ、GHQによって幹部の多くが公職から追放されたため、結党当初の社会党では右派が主導権を握りますが、汚職の疑いをかけられ、1949年の総選挙で大敗します。

 

1951年にサンフランシスコ講和条約の賛否をめぐって社会党は分裂し、社会党は左右両派に分かれます。公職追放を解かれた中間派の幹部は右派に参加しますが、もともと少数派だった左派が労組の支援を受けて大きく議席を伸ばし、1955年に再統一した際には左派が主導権を握ります。

 

 

――戦前、軍部に妥協した右派・中間派と、戦争に一貫して反対していた左派という対抗関係だったわけですね。

 

そうです。1960年、右派の一部が社会党を離党して民社党を結成します。社会民主主義は右派と中間派が主張し、民社党も社会民主主義と同義の民主社会主義を唱えましたので、社会民主主義には「戦前に軍部と協力して戦争や大政翼賛会に賛成した」「戦後は社会党を裏切って民社党を結成した」というイメージが社会党内に残ることになりました。

 

 

――なるほど、たんに資本主義体制と妥協した修正主義というだけでなく、社会民主主義にはそのようなダークなイメージがつきまとっていたんですか。

 

そうしたなかで、社会党が社会民主主義的な政党を目指すというのは困難でした。社会党内ではもっとも中道政党との連携に熱心で、一時は松下氏の後ろ盾となって新しい理念の構築に邁進した江田三郎氏ですら、死ぬまで「社会主義者」と自称したくらいです。

 

 

「社会主義者」江田三郎

 

――江田三郎とはどのような政治家だったのでしょうか?

 

江田氏は戦前において、すでに農民運動の指導者として有名な存在でした。戦後は社会党内で左派に属しますが、農地改革によって農民が土地を手に入れると、農民が次第に保守化して農民運動が衰退していくのを目の当たりにし、早い段階で社会党の現状に危機感を持ちました。

 

1950年代、江田氏は党組織改革の責任者となり、いい加減だった組織運営をある程度近代的なものにすることに成功します。さらに江田氏は従来の左派の理論(労農派マルクス主義)が時代遅れになっていると考え、イタリア共産党の構造改革論(資本主義の社会的構造を漸進的に改革していけば平和的に社会主義に到達するという考え方)を党の路線に取り入れようとします。

 

しかし、構造改革論は左派の反発を招き、さらにライバルであった佐々木更三氏との権力闘争にも敗北します。そこで、江田氏は1970年代に入ると中道政党との連携を提唱し、新党結成も視野に入れます。しかし、労組から十分な支持を得られず、さらに社会党を割ることを江田氏自身が決断できなかったこともあり、結局は1977年に1人で離党し、その直後に死去することになります。

 

 

――「江田ヴィジョン」では、「アメリカの平均した生活水準の高さ」「ソ連の徹底した生活保障」「イギリスの議会制民主主義」「日本国憲法の平和主義」を打ち出しましたよね。これが共有されれば、社会党は健全な社会民主主義政党になれたのにと思います。

 

先ほど述べたように、江田氏は死ぬまで社会主義者を自称しますが、社会主義の定義を「目の前に存在する矛盾や不合理を解決すること」とあえてあいまいにすることによって、時代状況に合った社会主義のあり方を模索し続けました。

 

しかし、そのような江田氏の姿勢は党内からは、戦前に軍部に妥協した右派・中間派と同じと見られたのではないでしょうか。江田氏自身は松下氏と同じように、高度経済成長によって日本社会が根本から歴史的な大変革を遂げているという認識を持っていたと思います。しかし、社会党内で江田氏の認識が共有されなかったことが、江田氏が最後まで社会党内で孤立した原因だと思います。

 

 

「革新自治体の時代」の終焉

 

――「革新自治体の時代」はなぜ終焉したのでしょうか?

 

首長選挙で革新政党が勝利するためには、中道政党(とくに公明党)との協力が不可欠でした。ところが、中道政党とどのように連携していくのか、明確な指針を革新政党が最後まで打ち出すことができなかったのが最大の原因でしょう。

 

もともと都市部の新住民を支持基盤とする公明党と共産党は、支持基盤が重なるゆえに関係が良くないので、革新政党と公明党が協力関係を長期的に構築するというのはかなり困難だったのです。

 

それでも、1974年に作家の松本清張氏の仲介で創共協定が結ばれ、公明党と共産党の橋渡しの努力が一部の支持者によっておこなわれます。しかし、公明党はこの協定を受け入れず、両党の歴史的和解は実現しませんでした。社会・公明・民社の三党で連携の枠組みを作り、その後、共産党の協力を取り付けるという方法もあったと思いますが、社会党左派には民社党アレルギーが強く、これも困難でした。

 

 

――住民運動によるバックアップはなかったのでしょうか?

 

住民運動との関係で言うならば、結局、住民は何かに反対したり、何かを要求したりするときには盛り上がるけれども、自分たちで政策を立案して、自分たちでそれを実現するための道筋をつくるのが苦手なままでした。革新首長にまかせっきりというかたちになってしまい、革新首長を支える力になり得なかったということです。こうした住民運動の特徴は現在の脱原発運動などにも受け継がれていると思います。

 

 

――革新自治体の経験は、日本社会にどのような影響を残したのでしょうか? 

 

革新自治体で導入された環境政策・福祉政策・情報公開制度などは、その後の地方自治体や国の政策にも引き継がれました。また、松下氏が提唱したシビルミニマムという考え方も、後の地方自治体や国の政策に引き継がれたと思います。シビルミニマムというのは、住民が生活するうえで最低限度必要な社会資本の程度を数字で表し、現在の充足率はどれだけで、あとどれだけの整備が必要か目で見える形で表すことです。

 

一方で、革新自治体とはどのような存在で、そこからどのような教訓を導けるのかといった議論はなおざりにされてきたように思われます。それは革新派が「革新自治体はうまくやっていたが、自治省が革新自治体バッシングをおこなったためにつぶれてしまった」、保守派が「革新自治体は公務員の厚遇や社会福祉に金を使いすぎ、財政破綻を起こして自滅した」という神話を信じ込み、まったく検証しないまま今日まで来たからです。

 

革新自治体や社会党の研究をしている私の個人的な見解ですが、革新自治体や社会党を評価している人たちの方が、革新自治体や社会党の歴史を再検討することに無関心でいるように思えてなりません。

 

 

――革新自治体という経験に、いま学ぶべきことはなんでしょうか?

 

中進国から先進国へとキャッチアップすることに躍起となっていた高度経済成長期の日本において、軽視されがちであった環境政策や社会福祉政策に力を入れ、国もそれを追随せざるを得ないような状況をつくり上げたことは、革新自治体の成果として誇ってよいと思います。

 

そして、それは各地で市民運動を起こし、革新首長誕生の機運を作り上げた当時の人々の成果でもあります。しかし、指導力のありそうな人物を自分たちのリーダーに選び、そのリーダーの指導力に喝采を送るだけで、自分たちは問題の解決のために何もしようとしないという日本人の体質は、革新自治体の時代からいささかも進歩していないのではないでしょうか。

 

美濃部氏のような革新首長が退陣した後、石原慎太郎東京都知事・小泉純一郎首相・橋下徹大阪市長、そして小池百合子東京都知事といった個性的なリーダーが、地方政治や国政の場に次々と登場しました。しかし、こうしたリーダーが登場したとき、人々はその指導力に期待し、リーダーは自らの指導力を誇示するために敵を作り上げて対立してみせ、人々はそれが何を意味するのか理解しないまま、リーダーに喝采を送り続けるというパターンを繰り返してきました。

 

しかし、そろそろ私たちは「指導力のあるリーダーにすべてを委ねれば、何事もうまくいく」という考え方を捨て、自分たちがどのような政治を望んでいるのか、そうした政治を実現するために自分が何を為すべきかを、自分の頭で考えるようにするべきではないでしょうか。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

シノドスをサポートしてくれませんか?

 

シノドスはみなさまのサポートを必要としています。ぜひファンクラブ「SYNODOS SOCIAL」へのご参加をご検討ください。

⇒ https://camp-fire.jp/projects/view/14015

 

 

無題

 

シノドスが発行する電子マガジン

 

・人文・社会科学から自然科学、カルチャーまで、各界の気鋭にじっくりインタビュー
・報道等で耳にする気になるテーマをやさしく解説
・専門家たちが提言「こうすれば●●は今よりもっとよくなるはず!」

・人類の英知を知り、学ぶ「知の巨人たち」
・初学者のためのブックリスト「学びなおしの5冊」

……etc.

https://synodos.jp/a-synodos

 

 

1 2
シノドス国際社会動向研究所

vol.252 日本政治の行方

・橋本努「なぜリベラルは嫌われるのか?(1)」
・鈴木崇弘「こうすれば日本の政治はもっとよくなる! 政治の政策能力向上のために「変える」べきこと」
・中野雅至「日本の官僚はエリートなのか?」
・大槻奈巳「職業のあり方を、ジェンダーの視点から考える」