定数配分訴訟と「選良」の限界 

具体的な判決の評価

 

さて、上記のように考えてくると結局、対象選挙区のみを考えるのであれ全体を考えるのであれ、「無効」という判断をすることは決して良い結果に結び付かないだろうと予測されることになる。すでに述べたように(1)定数配分が「違憲状態」にあり、(2)制度改正に必要な合理的な期間を逸脱して「違憲」になりそうなのだが、(3)結論としては「無効」を出せないとすれば、その中間をどうにかして埋める必要が出てくるだろう。それが「事情判決」の法理、つまり結果として生じる混乱が非常に大きいためにやむを得ず違憲性の宣告にとどめるという《いつもの手段》になるわけだ。冒頭でこの問題が「ほとんど組み上がったパズル」だと言ったのは、そういうことである。

 

今回の一連の判決をこれに照らして考えると、(2)の点で一歩踏み出して「合理的な期間」だと判断した(「違憲状態」の指摘にとどめた)のが3月14日の名古屋高裁判決と18日の福岡高裁判決、(3)の方向に踏み出して無効判断をしたのが25日の広島高裁判決と26日の同岡山支部判決ということになるだろう。

 

このうち前者においては、国会が「0増5減」案など一定の改革に取り組んだことがその一つの根拠となっている。名古屋高裁はまた、「ねじれ国会」状況では国会における合意形成が難しく、制度改正などに相当の期間が必要になることにも加えて言及している。

 

これに対して原告団は「ねじれ国会」は憲法上いつでも起き得る事態なのにそれを理由として立法の不作為が認められるのはおかしいという趣旨の批判を加えており、それはその通りなのだが、ねじれが発生すると脱出困難になるような両院の対称性が強い議会制度自体が憲法によって立法府に課せられた制約なので、それが機能しない責任を立法府のみに追わせることも適切ではなかろうと思われる。また、いずれにせよ結論としては選挙を有効とするので「違憲状態」と「違憲」の差は立法府に対するメッセージ性のみだから大した差ではないと考えることもできるだろう。

 

では(3)で踏み出した両判決についてはどうだろうか。たしかに、「違憲状態」の判示にとどめたり「違憲」だが事情判決により有効とするような判決に比べれば、司法府としてのメッセージは強いものを送ることができるだろう。しかしただちに岡山2区の選挙を無効とする岡山支部判決がうっかりそのまま確定してしまった場合、あるいは選挙制度改革関連法が施行されてから1年となる今年11月27日をもって広島1区・2区の選挙を無効とする広島高裁判決が確定したがそれまでに抜本的法改正が間に合わなかった場合、どうすればいいのだろうか。

 

すでに見た通り、現在の制度を前提とするかぎり対応としては対象選挙区の再選挙しか考えられないが、有権者数が大きく変わるわけもなく、定数も変わらないのだから違憲状態が自動的に再現されるということになるよりない。違憲無効を宣告した判決内容が本当に実現したら憲法違反の事態を生じさせるわけで、判決としては異常なものだと評価できるだろう。

 

さらに言えば、3月25日の広島高裁判決で将来から無効とされた広島1区(314,600人・1.54倍、以下有権者数は2012年12月16日現在)と広島2区(392,877人・1.92倍)、3月26日の広島高裁岡山支部判決でただちに無効とされた岡山2区(288,235人・1.41倍)はいずれももっとも有権者の少ない高知3区(204,196人)を基準として2倍以内にとどまっている選挙区である。これらのみ、あるいは一連の訴訟で対象となった31選挙区をすべて無効・再選挙としても、全体としての格差問題が解決しないことは言うまでもない。

 

 

無責任な訴訟、無責任な裁判所

 

広島高裁判決が出た際、まさか無効判断までが出るとは思っていなかった原告団が「勝訴」の垂れ幕を用意しなかったというエピソードが、複数の新聞であたかも微笑ましいものであるかのように紹介されていた。しかしこのことが示唆しているのは原告団自身に勝つ気がなかったこと、勝った場合の法的な解決策がない以上勝てるはずがないと思っていたことではないだろうか。仮に、訴訟を通じて定数配分を実質的に修正することを少しでも考えていたのならばもっとも有権者の多い千葉4区(497,350人)をまっさきに対象にすべきだろうが、そのような訴訟は提起されていない。

 

要するにこの訴訟は「一票の価値が不平等である」という事態を訴訟という道具を用いてアピールし、可能ならば裁判所にも正当な主張だと認定させ、そのことをもって立法府にしかるべき立法措置を実現させることを狙った「政策形成訴訟」の一種である。そのため、本当に勝ったらどうするか、この特定の訴訟方式によって勝つことが問題の解決に結び付くかといったこと、要するに《後始末の付け方》についてはまったく考慮されていないということになるだろう。

 

だとすれば、そんな訴訟を起こした方も無責任なら正面から肯定した裁判所は輪をかけて無責任だということにはならないだろうか。両高裁判決は「画期的」だとあちらこちらのメディアが評価しているが、画期的に思えるアイディアの大半はすでに思い付かれたが使いものにならなかった陳腐なものだという箴言を想起すべきだろうと思われる。

 

 

将来効判決

 

付言すれば、すでに述べた通り広島高裁判決が今年11月27日をもって無効の効果が生じるという「将来効判決」を下している点、また岡山支部判決が無効の効果は選挙時に遡らないとしている点の評価も相当に難しい。公職選挙法205条5項を見ると、比例代表区の場合にかぎっては、無効判決があっても再選挙の結果が新たに告示されるまでは従来の当選人決定が有効だと定められている。逆に考えれば、小選挙区の場合には無効判決によりただちに当選の効力=議員資格が失われると解釈するのが自然だからである。

 

将来効判決という考え方自体は、やはり一票の格差をめぐる1985年の最高裁判決で示されたものである(最高裁判決昭和60年7月17日)。裁判官4名による補足意見は、定数是正訴訟があくまで公職選挙法204条に定める選挙無効訴訟の形式を借りたものに過ぎない(だから205条の内容に拘束されない)と指摘した上で、その独自の性格から判決として下すべき内容についても別個に考える必要がある、だから「憲法によつて司法権にゆだねられた範囲内において、右訴訟を認めた目的と必要に即して、裁判所がこれを定めることができるものと考えられる」と主張している。「選挙を無効とするがその効果は一定期間経過後に始めて発生する」という将来効判決は、これらの前提に立って「できないわけのものではない」とされたのだ。

 

だがそれは、逆に言えば将来効判決を正面から認めた実定法上の根拠がないことを自白しているということでもある。しかも補足意見という先例性の認められない部分において「できないわけのものではない」と主張されたのみであり、判例上「できる」と確定しているわけでもない。

 

この問題に関する立法府の怠慢と、それに対する司法府の苛立ちを考えれば《できないわけではないので、やってみました》と言いたくなる気持ちもよく理解できる。しかし他方、日本国憲法41条の定めるように国会が「国の唯一の立法機関」なのであって、法律上に明確な定めのない制度を司法府が勝手に発明してしまっていいものか、それは立法権の不当な侵奪にあたるのではないかという疑問は禁じ得ない。

 

念のために言うと、おそらくは一般的なイメージと違い、日本の裁判所は実質的な立法に踏み込むことをそれほど躊躇してはいない(とさらっと言うと実定法学者には怒られるかもしれないが)。サラ金に関する過払い金返還訴訟においては判例を通じて返還範囲を次々と拡大していったし、中古ゲーム販売事件においては著作権法上明文の根拠がない頒布権の消尽を、解釈によって認めている。古くは整理解雇の四要件についても、判例により形成された基準だと言うことができる。

 

だがこれらは第一に、いずれも形式的にはあくまでも既存の法令の解釈として行なわれたものであり、裁判所が自由に法形成していると正面からが謳われたわけではない。第二に、あくまで私的な権利の領域に関する問題であり、民主政の本質的なプロセスに影響を与えているわけではない。三権分立という理念の下、人民が支持する立法府が制定した法令を司法府が現実へと適用するというのが民主政の基本的なモデルだと考えられるところ、定数是正訴訟における将来効判決という今回の対応はその制約から大きく踏み出してしまっているのではないだろうか。

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.272 

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