2020.12.09

不測の未来と政治の時間性――ホッブズとトゥキュディデスの視点

梅田百合香 政治思想史、社会思想史

政治

はじめに

 

2020年、新型コロナウィルス感染拡大に伴い、各国政府が入国制限やロックダウン(都市封鎖)に踏み切った。世界保健機構(WHO)は「パンデミック」を宣言し、各国で移動の自由という国民の基本的な権利が制限された。

グローバリゼーションが深化しつつあるなかであっても、非常事態となると、やはりリヴァイアサン(国家)が前面に出てきて強制力を発動する。入国制限という措置は、人々に国境という地理的境界を可視化し、国家の権限の及ぶ範囲を現実のものとして人々に実感させ、自覚化を促した。

『リヴァイアサン』(1651年)の著者であるトマス・ホッブズ(1588-1679)も、国家の役割は人民の安全を確保することであると明言している。国家の存在理由が人民の福祉(salus populi)である以上、今後どうなるかわからないという不測の事態において、国民を守るために各国政府が強く厳しい措置を取るのは当然であるともいえる。

ホッブズはかつて古代ギリシアの歴史家トゥキュディデスのことを、「過去の行為を知ることを通じて、現在においては慎慮を持って、未来に向かっては先見の明を持って振る舞うように、人々を導き、そのように可能ならしめる…かつて存在するなかで最も政治的な歴史家」と賞賛した(Thucydides 1989, xxi-xxii)。

政治とは本質的に未来に効果を及ぼそうとする時間的な行為である。この小論では、トゥキュディデスを愛好し、自身の政治学によって「未来に向かって先見の明を持って(providently)振る舞うように」人々を導くことを志向したホッブズの、その時間的な政治のイメージを簡単に紹介したい。

トゥキュディデスの人間本性論

ヨーロッパでは14世紀のペストの大流行がよく知られているが、ホッブズの時代にもペストが大流行した。疫病流行は不穏な政治・社会情勢を引き起こす。ホッブズの出版デビュー作はトゥキュディデスの『戦史』の英訳(1629年)であるが、そのなかでもアテナイにおける疫病流行とその悲惨な顛末が描かれている。

ペロポネソス戦争が始まって一年目が過ぎた頃、アテナイで疫病が流行った。金持ちも貧乏人も善人も悪人も平等に襲われ、悲惨な死を遂げた。疫病による災禍があまりに圧倒的なため、人々はいつ死ぬかわからないと絶望と自暴自棄に追い込まれ、刹那的な快楽に走り、神々への信仰も法を守ろうという遵法意識も失うに至った。こうして社会にかつてない無法状態が生み出されていった(Thucydides 1989, II. 47-53)。

トゥキュディデスによれば、戦争や内乱、疫病蔓延による無法状態という極限状況は、生命の維持や満足した生活に必要なものを奪うため、その暴力的な事態が弱肉強食を説く教師のごとく、人間の情念をただ目の前の安全か危険かの一点に釘付けにする。この安危存亡という究極の状況においては、人間の情念の同一の性質が露わになり、人間本性の同一性が明らかとなる。

例えば、内乱においては正々堂々たる対決より虚を衝いた先制攻撃のほうがより安全であり、欺いて勝利するほうが知恵の戦いでも勝利したこととなってより満足感を得る。無力な善人であるより、狡猾な悪人であるほうが自慢となる。これらの原因は、貪欲と名誉欲から来る支配欲と党派心による熱狂であるが、それはまさに極限状況において露出する人間の本性であって、こうした状況下で法則的に現れる人間の同一な性分なのである(Thucydides 1989, III. 82)。

ホッブズはトゥキュディデスの人間本性に関するこの観点を受容しつつ、のちに自身の哲学的探究のなかで人間の情念の法則性をつかみ、自然状態論を含む人間論として理論化した。そして、戦争・内乱による惨禍を回避し抑止するための政治学を哲学(科学)の一部門として構築していくことになる。

政治的な教育

ホッブズはトゥキュディデスの『戦史』を翻訳した理由を、献辞と序文で次のように述べている。「その著作は高貴な方々にとって役に立つ指針となることを含み、かつ重大な行動において采配を振ることを可能にするものだからです」(Thucydides 1989, xx)。「この歴史は充分な分別と教養を持ったすべての人々によって、たいそうな利益を伴って読まれるだろうと私は思い(そうした人々のために、そのことはトゥキュディデスによって当初から意図されていました)、それが受け入れられる望みがないわけではありませんので、ついに私の労作を公刊することにしました」(Thucydides 1989, xxiv)。

ホッブズから見るに、『戦史』は、当時のイングランドで政治的および国家的行為に現在または将来において携わる人々を教育する指南書としてふさわしい作品であった。ホッブズはやはりのちに、自著『リヴァイアサン』が公的に教えられ、それを主権者が保護することを期待する旨をその書のなかで謳っている(Leviathan, Ch. 31, 574)。ホッブズにとって、『戦史』や『リヴァイアサン』の読者対象は主として政治に直接間接に関わる教養のある人々であって、その目的は政治的教育であった。

さて、「高貴な方々」や「充分な分別と教養を持ったすべての人々」のうち、「重大な行動において采配を振ること」を職務とする人々の筆頭は、主権者である。ホッブズの時代、主権者になり得るのは国王か議会であった。

英訳『戦史』の約20年後の作品である『リヴァイアサン』では、読者は主権者の権利と臣民の義務を学ぶ。主権者が国王であれば、議会議員たちは自らの領分を充分に認識し、臣民としての義務を厳密に学ぶ必要がある。主権者が議会であれば、国民を一人格として統合する主権合議体としての権利をいかに行使すべきか、個々の議会議員は学ばねばならない。結果、内乱の勝利者は議会軍であった。

ホッブズは、一方で亡命宮廷のチャールズ2世に子牛皮紙装丁の手書きの『リヴァイアサン』を献呈するが、他方で共和政イングランドに帰国し、平穏に研究生活を続けた。権力を担う特定の人々についてではなく、権力の座について抽象的に論じていると自負するホッブズにとって、この行為は矛盾したものではなかったのであろう(Leviathan, The Epistle Dedicatory, 4)。

ホッブズは、主権者となる人もしくは人々に、「国民全体を統治すべき人は、自分自身のなかに、あれこれの個々の人間のことではなく、人類を読み取らなければならない」が、『リヴァイアサン』を読めばそれもさほど難しいことではないと説く(Leviathan, Intro. , 20)。ホッブズからすれば、主権者が国王であれ議会であれ、主権者となったからには、「人民の福祉」を全うしてもらわねばならないのであり、その方法を政治学の指南書である本書が教えるというのである。

 

人民の安全の確保のための将来への配慮

ではここで、冒頭の「人民の福祉」の議論に立ち返ろう。『リヴァイアサン』では、主権者の第一義的な職務は、人民の福祉、言い換えれば「人民の安全の確保」であり、それは自然法によって神に対し義務づけられているとされる。

この「人民の安全の確保」とは、単なる生命維持だけを意味するわけではなく、国家の構成員である各人が国家になんら危害を加えることなく合法的な勤労により獲得した、満足した生活に必要なあらゆるものを保障することを意味する(Leviathan, Ch. 30, 520)。この勤労により蓄積された臣民たる個々の構成員の富と財産が国家の力となるのだから(Leviathan, Intro. , 16)、国民の安全の確保すなわち正当な勤労の結果としての満足した生活を保護することは、主権者の最優先の課題となる。

政治的判断の誤りから惨禍はもたらされうる。安全か危険かという不穏な状態において不平を鳴らす人々に対応するためには、主権者はまずは彼らを侵害から守ることに配慮する必要があるが、むしろそれ以上に、公衆の教育と個々人がそれぞれ自分の事情に適用できる優れた法の制定と執行によって、全般的な将来への配慮(providence)を施すことが職務であるとホッブズは説く(Leviathan, Ch. 30, 520)。

ホッブズはここで「将来への配慮」または「先見の明」という意味を持つprovidenceという語を使っている。つまり、長期的な視点に立ち、未来における結果と効果を冷静に計算し、公衆の教育と法により、人民一人一人の安全の確保に当たるよう論じているのである。なお、先に引用した『戦史』の「読者への序文」でも「先見の明を持って(providently)」という同様の語が用いられている。

不測の未来と政治の時間性

トゥキュディデスは、人間本性の同一性から、ペロポネソス戦争と同じような戦争や内乱が将来また起こりうると予見した。それゆえ、ペロポネソス戦争の原因や各戦局における政治的駆け引きと決断の可否を吟味し、未熟な判断を未来に繰り返さないよう、歴史を政治的に分析する書を著し、後生のために残した。この政治的歴史書の意義を理解できる分別と教養を持った将来の読者にこれを活用することを託したのである(Thucydides 1989, I. 22)。ホッブズから見れば、トゥキュディデス自身が「将来への配慮」を施した政治的歴史家であり、政治とは、公衆教育と法の制定・執行による「将来への配慮」にほかならなかった。

政治は不測の未来に備えて、過去・現在・未来という時間軸で検討し、予測し、決断する行為である。政治とは時間的な営みであり、すぐに結果が出るものとその効果に時間がかかるものがある。現時点での政策決定が未来に効果を及ぼし、それが今度は未来における政策決定の足場を構成することになる。ホッブズの自然状態論も抽象的、観念的、静態的な理論のように捉えられがちであるが、そうではない。ホッブズの政治学は運動論を基礎にした時間の概念が要となっている。

ホッブズは自然状態論において、「人々が共通権力なしに生きているとき(during the time men live without a common Power)」、その状態は戦争と呼ばれる状態であり、「戦争の本性においては、天候の本性におけるのと同じく、時間(Time)の概念が考慮されるべきである」と述べている(Leviathan, Ch. 13, 192)。

また、共通権力を樹立する基礎となる信約の定義では、次のように論じられている。「契約者の一方が自分側では契約されたものを引き渡し、契約相手に一定期間後に(at some determinate time after)彼の側で履行するよう任せ、その間は(in the mean time)信託されるという場合もある。この場合、この契約は、一方の側にとって協定あるいは信約と呼ばれる」(Leviathan, Ch. 14, 204)。このように、信約そのものが一定の時間の経過を含む概念と考えられている。

自然状態=戦争状態論も国家を形成する契約論も時間的な行為として理論化されており、人間の予見能力に基づいて結果を予測したときの情念(欲求と嫌悪、希望と恐怖)および熟慮における最後の欲求である意志に基礎を置いている。これを前提に、「過去と未来の真実について探究」するとき、論理的推論の最も適切な方法である幾何学的論証方法の助けを借りれば、人は正しく判断を下すことができるのである(Leviathan, Ch. 7, 98)。

なお、本稿では触れないが、過去・現在・未来という時間軸で世界を時間的に捉えるホッブズの観点は、現在において神の王国は存在しないという彼の宗教論にも関わっている(梅田2005)。

 

歴史と科学

『リヴァイアサン』でホッブズは、知識を事実についての知識と科学としての知識(語の定義と三段論法による論理的推論から導出される知識)の二種類に分ける。前者は実際の見聞に基づく絶対的知識あり、後者は幾何学の論証のような条件的知識である。そして、事実についての記録が歴史と呼ばれ、科学の記録が哲学書と呼ばれる(Leviathan, Ch. 9, 124)。すなわち、トゥキュディデスの『戦史』は前者に属し、幾何学的論証方法に基づくホッブズの政治学は後者ということになる。

この分類に先立って、ホッブズは、過去の事例の考察や経験に基づく思考である慎慮(Prudence)と、研究と勤勉により獲得される能力である推論(Reason)とを峻別する。経験は動物でも持つが、推論は後天的に努力して勉強することで初めて得られる人間に固有の能力である。推論には言葉と幾何学的な論証方法が必須であり、人々は教育と訓練によってこれを身につけていく(Leviathan, Ch. 3, 42, 44、Ch. 5, 72, 76)。

ホッブズは慎慮を無用だと言っているのではなく、確実性において、慎慮は科学による学知に劣り、学知は明白に証明できる事柄では絶対確実であることを強調しているのである。慎慮も学知もともに有用であるが、生得的な能力である慎慮が経験値を高めればそれに比例して自然に深められるのと異なり、学知は教育と訓練の場と制度および学習者自身の勤勉な努力を必要とするため、主権者は学知修得のための公衆教育の制度化を意識的に配慮しなければならない。ホッブズからすれば、戦争や内乱の抑止のためには、公衆教育として、今こそ科学的な政治学である『リヴァイアサン』が大学で教えられるべきであるというわけである。

歴史と科学(哲学)は以上のような観点から区別されている。『リヴァイアサン』執筆時点でのホッブズは、明らかに科学(哲学)のほうに肩入れしているように見える。しかし、1666年以降、ホッブズ自身、イングランド内戦の原因を探究した歴史『ビヒモス』を執筆したり(1682年に死後出版)(山田2014, 372)、トゥキュディデスの『戦史』の翻訳修正版第二版を最晩年の1676年に出版したりしているように(山田2007, 211-212)、過去の自分の翻訳作品を否定したわけでもなく、歴史の執筆を拒否したわけでもなかった。

ホッブズは、イングランド内戦の原因や王党派と議会派の政治的駆け引きと決断の可否を吟味し、トゥキュディデスと同様、未熟な判断を未来に繰り返さないよう、歴史を政治的に分析する書を著したのである。トゥキュディデスは晩年までホッブズのなかに住み続けていた。

 

トゥキュディデスとホッブズの「政治」像

先述した『リヴァイアサン』における歴史と科学(哲学)とを区別する叙述のなかで、ホッブズは、歴史をさらに、鉱物・植物・動物・地理等の歴史を扱う自然史(Natural History)と「諸国家における人間の自発的な行為に関する歴史」を扱う政治史(Civil History)とに分類している(Leviathan, Ch. 9, 124)。トゥキュディデスの『戦史』と後の『ビヒモス』が後者に分類されることは明らかである。

Civil HistoryのCivilは多義的で非常に日本語に訳しにくい用語であるが、『リヴァイアサン』の副題は「教会的かつ政治的国家(A Commonwealth Ecclesiastical and Civil)の質量、形相および力」となっており、ここでもCivilが使われている。一般的には「市民の」と訳されるが、筆者はここではいずれも「政治(的)」と訳した。トゥキュディデスもホッブズも、方法論の違いはあれ、政治の担い手は国民の全般的な将来への配慮を職務とし、未来に惨禍をもたらすような誤った政治的判断をしないよう自身の歴史ないし政治学から学ぶことを期待した。

彼らは、政治が本質的に未来に効果を及ぼす時間的な行為であることを共有しており、トゥキュディデスとホッブズの間には、不測の未来に取り組み、生命の維持や満足した生活に必要なものを保護することに配慮するべき「政治」像が通底しているのである。 

引用文献

※邦訳は参照したが、訳文に関しては一部改めた箇所がある。

・Thucydides, The Peloponnesian War, the complete Hobbes translation, with notes and a new introduction by David Grene, University of Chicago Press, 1989. トゥーキュディデース『戦史』(上・中・下、久保正彰訳)、岩波文庫、1966-1967年。トゥキュディデス『歴史1』(藤縄謙三訳)、京都大学学術出版会、2000年。トゥキュディデス『歴史2』(城江良和訳)、京都大学学術出版会、2003年。山田園子解説・翻訳「トマス・ホッブズ『トゥーキュディデースの生涯と歴史』(上)」『広島法学』第31巻第2号、2007年、211-228頁、同「トマス・ホッブズ『トゥーキュディデースの生涯と歴史』(下)」『広島法学』第31巻第3号、2008年、33-49頁。

・Thomas Hobbes, Leviathan [1651, 1668], ed. Noel Malcolm, 3 vols., The Clarendon Edition of the Works of Thomas Hobbes, Clarendon Press, 2012. ホッブズ『リヴァイアサン』(一―四、水田洋訳)、岩波文庫、1954-1992年。

・梅田百合香『ホッブズ 政治と宗教―『リヴァイアサン』再考』名古屋大学出版会、2005年。

・ホッブズ『ビヒモス』(山田園子訳)、岩波文庫、2014年。

プロフィール

梅田百合香政治思想史、社会思想史

桃山学院大学経済学部教授。名古屋大学大学院法学研究科博士課程修了、博士(法学)。専門は政治思想史、社会思想史。著書に、『ホッブズ 政治と宗教―『リヴァイアサン』再考』(名古屋大学出版会、2005年)、『甦るリヴァイアサン』(講談社、2010年)など。

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