「ガラパゴス化」する慰安婦論争 ―― なぜに日本の議論は受入れられないか

韓国人は慰安婦の存在を知らなかったか

 

どうしてこんなことが起こったのだろうか。この点について、日韓両国の一部では「当時の韓国人は慰安婦について知らなかったのだ」という理解がある。ここで問題になるのは「知らなかった」というのが何を意味しているか、ということであろう。

 

結論からいえば、もし当時の韓国人が慰安婦の「存在」それ自体を知らなかったのか、といえば、さすがにその議論には無理がある。たとえば、1965年の日韓条約にいたるまでの外交交渉において、日韓両国は慰安婦が現地に残してきた「残置財産」について議論したことがある。つまり、当時の韓国政府は慰安婦の存在をちゃんと知っていたわけである。

 

そして、そのことは日韓条約のもっとも重要な基礎をなすことになった、「金・大平メモ」の韓国側当事者である金鍾泌の後の発言からも確認することができる。朝日新聞による慰安婦問題への「軍の関与」が報道された92年1月、金鍾泌は韓国メディアに対して次のように述べている。「請求権交渉当時、挺身隊問題(註・この時点の韓国においては、挺身隊と慰安婦は混同されて理解されている)は、韓日両国のどこにも資料がなく、実態把握が不可能であり、どうすることもできなかった」。つまり、金鍾泌は慰安婦の存在自体は知っていたが、資料不足により「実態把握」が困難であり、それゆえ、交渉のテーブルにあげることができなかった、と述べていることになる。

 

興味深いことに、このような金鍾泌の発言は、当時の韓国の新聞から激しく非難されている。たとえば、この点についてある新聞は「彼の年齢の韓国人なら挺身隊について知らない人間があろうはずはない」と社説にて断言している。つまり、当時の韓国メディアにとって、金鍾泌のような「戦前派」の人間が慰安婦の存在について、その詳細を知っていることは、「常識」に属していたわけである。

 

同じことはメディアの側についてもいえるはずだ。金鍾泌が外交交渉を行っていた60年代初頭の韓国では、メディアのみならず、学界や財界、さらに市民団体においても、「戦前派」の人物が主要なポストを占めていた。にもかかわらず、当時の韓国では誰も慰安婦問題を日韓交渉において取り上げるべきだ、とは主張しなかった。金鍾泌の問題は、当時の韓国社会全体に通じる問題だったのである。

 

 

慰安婦紛争の大前提

 

とはいえ、このような事実を掲げた目的は、当時の韓国社会における慰安婦問題に対する姿勢を非難することではない。問題は、なぜに80年代頃までの韓国人が、慰安婦の存在そのものは知っていたにもかかわらず、これを日韓間における重要な問題の一つとして提起しなかったのか、ということである。背景にあったのは、韓国においては長らく、慰安婦の存在自体が一種のタブーであり、おおやけに議論することが難しい状況が存在したことであったろう。だからこそ、80年代までの日韓両国のあいだでは、慰安婦問題をめぐる紛争は存在しなかった、ということになる。

 

この問題は少し理論的に考えれば、次のように整理できる。そもそも慰安婦問題のように、ある特定の事象にかかわる複数の国家の見解の相違が、国際紛争の原因となるには二つの要素が必要である。一つはこの問題にかかわる関係者あるいは関係国の認識が異なること、そしてもう一つはその認識の違いが重要である、という理解が存在することである。これを慰安婦問題に対して当てはめるなら、たとえ日韓両国のあいだで、慰安婦問題に対する認識の違いが存在しても、誰もその違いに重要性を見出さなければ、両国間で紛争が生じる余地はない。

 

実際、80年代までの日韓両国のあいだでは、慰安婦問題をめぐる紛争は存在しなかった。すでに指摘したように、韓国側においてこの問題が重要だ、という認識が存在しなかったからである。そして、このことは逆に、慰安婦問題の重要性がどのようにして見出されて行ったかを見れば、慰安婦問題にかかわる紛争が本来どのような性質のものであるかを理解することができる、ということを意味している。今日の韓国の人々が、慰安婦問題を重要なものとみなしているのは明らかである。だからこそ、彼らがこの問題のどこをどのような理由で問題視するようになったかを知ることはきわめて重要である。

 

それでは、韓国の人々は慰安婦問題の重要性をどのように見出し、意味づけしていったのか。指摘すべきは、ほとんど誰も韓国において注目してこなかった慰安婦問題を「再発見」し、この問題の重要さを見出して行ったのが、女性学研究者をはじめとする女性運動家たちだったということである。この点については、この問題が発見されていった80年代後半の状況を説明する必要がある。

 

80年代後半の韓国は依然、圧倒的な男性優位の社会であり、女性運動は大きな力をもっていなかった。同時にこの時期は、全斗煥政権に対する民主化運動が激しさを増していく時期であり、このなかでさまざまな社会運動が活性化していった。当時の韓国の女性運動家たちは、このなかで自らの運動に新たな意味をもたせるべく、試行錯誤することになる。

 

このなかで彼女らが見出したのは、当時の韓国において全盛をきわめていた「買春観光」に他ならなかった。全斗煥政権は、88年に予定されていたソウル五輪の開催を大きな目標の一つとしており、冷戦の最前線に位置する分断国家である韓国においてこれを実現するための方案として、当時の韓国政府は、海外からの観光客を誘致して、自国の存在をPRすることを試みた。主要なターゲットは、バブル景気に沸く隣国日本であり、結果として、多くの日本人が韓国を訪れた。

 

韓流ブームの到来する遥か以前のことである。当時の日本人がこの国を訪問する理由がドラマやアイドルの影響であるはずもなく、また90年代のようにグルメやショッピングでさえその目的ではなかった。彼らの最大の目的は「買春」であったのである。いわゆる、「キーセン観光」の時代である。

 

韓国の女性運動はこの「キーセン観光」に着目した。もちろん、それは売買春が女性の人権にかかわる問題であるからである。だが、この「買い手」が日本人であったことにより、彼女らの問題提起は、すぐに韓国のナショナリズムと結びついた。かつて自らを支配した日本人が、自国の「邪悪な支配層」と結託して、朝鮮半島に大挙再上陸し、札束をちらつかせて韓国女性たちを食い物にする。彼女らによってそう理解された当時の現実は、容易に日韓間に存在する「過去」の問題と結びついた。

 

つまり、「キーセン観光」のもと抑圧される女性たちの姿は、植民地期の慰安婦たちの再来、だと理解されたわけである。こうして「過去」は「現在」との結びつきを見出され、「現在」に繋がる重要な問題として議論されていくことになる。

 

重要なのは、このような「出自」をもつ慰安婦問題は、韓国においては国家対国家の問題というよりは、女性対男性、より正確には、男性中心社会における「組織的暴力」により抑圧される者と、抑圧する者のあいだの問題だと、出発時点から位置づけられていたことである。だからこそ、彼女らの運動の矛先は、日本に対してと同時に、韓国社会に対しても向けられた。いうまでもなく、その主要な成果の一つが、盧武鉉政権下の売買春の非合法化であり、また政府内での女性家族部の設置に他ならなかった。だからこそ、今日、韓国政府内において慰安婦問題を担当するのは、教育問題を担当する文教部ではなく、この女性家族部になっている。

 

異なる表現を使えば、韓国における慰安婦問題の認識の特徴は、それが「過去」にかかわる「歴史認識問題」である以上に、「現在」にかかわる「女性問題」としての性格をゆうしていることにある。この点を理解すること無くして、韓国政府や韓国社会のこの問題に対する姿勢を理解することはできない。

 

 

強制連行という「逸脱」

 

とはいえこのように述べると、違和感をもつ人々もいるであろう。すなわち、慰安婦問題における最大の焦点は、慰安婦の動員過程における「強制連行」の有無であり、ゆえに典型的な「歴史認識問題」の一つなのではないか、と。確かにわが国でよく議論になる河野談話のポイントが「強制連行」の有無にあることは明らかであり、日本における慰安婦問題に対する関心はここに集中している感がある。

 

この点についても、慰安婦問題の歴史的展開過程が重要である。慰安婦問題が日韓両国政府間で本格的な争点となったのは、1992年1月、よく知られている「軍関与を示す資料発見」にかかわる朝日新聞の報道以降のことである。この問題にいたるまでには一つの重要な前段階が存在した。それには、さらに1年遡って、91年頃の状況を理解しなければならない。

 

たとえば、朝日新聞報道のちょうど1年前の91年1月、当時の海部首相が韓国を訪問している。このとき、海部をソウルで迎えたのは、戦時下における労働者等の「強制連行」を糾弾する声であり、そのことは当時の韓国における「歴史認識問題」への関心の中心が慰安婦問題ではなく、労働者等の「強制連行」問題にあったことを意味していた。より正確にいうなら、多くの韓国人にとって、この時点では慰安婦問題は単独の問題というよりは、より大きな植民地期の「強制連行」問題の一部として理解されていたのである。

 

慰安婦問題にかかわる韓国の運動団体も、この状況を前提として、自らの運動を展開していくことになった。この時点で彼女らが主張したのは、慰安婦問題こそが、植民地期の「強制連行」問題のなかでももっとも醜悪な事例であり、これを訴えることこそが他の「強制連行」問題の解決にも有益である、ということだった。だからこそ、「この時期」の慰安婦にかかわる運動は、慰安婦がどのようにして動員されたのかを中心として展開された。

 

このなかで金学順が元慰安婦としては最初にカミングアウトすることにより、法廷闘争が開始され、慰安婦問題は急速に注目を集めていった。前述の朝日新聞の報道は正にこのようななか行われ、日韓両国の世論は蜂の巣を突いたような状態になった。結果、報道の直後に行われた日韓首脳会談で、当時の宮沢首相が盧泰愚大統領にわずか20数分間に8回も謝罪する、という首脳会談としては異例の事態も出現した。

 

その後、韓国の政府や世論、そして恐らく当時の宮沢政権も期待した「慰安婦の強制連行を示す政府文書」が発見されなかったことにより、状況はさらに混迷を深めていくことになる。当時の日本では、五五年体制の終焉に向けた自民党の分裂が同時展開されており、国内外同時に進行するパニックに近い大混乱のなかで、翌年8月の河野談話がなされる、という流れである。ちなみに河野談話が出されるのは、宮沢がすでに下野を表明した後、細川護煕による新政権が成立するわずか5日前のことである。河野談話は完全に「死に体」の内閣によって出されたのである(この辺りについては、『究』(ミネルヴァ書房)の拙連載をお読みいただければ幸いである http://www.minervashobo.co.jp/search/g3010.html)。

 

このような河野談話前後の慰安婦問題の展開は、多分にその直前に注目を浴びていた労働者等の「強制連行」問題に引きずられたものであり、慰安婦問題をめぐる問題の焦点が、そこにしか存在しないことを意味しなかった。事実、90年代後半に入り、慰安婦問題をはじめとする一連の「強制連行」にかかわる日本国内での訴訟のほとんどが敗訴に終わると、運動団体はふたたび方向転換を模索し始めることとなる。ときあたかも韓国では、金大中、盧武鉉とあいついで進歩陣営に属する大統領が出現する時期に当たっており、ここで彼女らはもう一度、自らの原点である「女性の人権問題」としての慰安婦問題へと回帰することになった。

 

そこでは慰安婦の「強制連行」は主要な争点の一つへと後退し、あわせて慰安所における劣悪な待遇や、廃業の自由、さらには日本敗戦後の帰国時の困難や未払い賃金等の問題が取り上げられた。このなかでは、慰安所の運営や設置といった慰安婦にかかわるさまざまなかたちでの軍の関与に加えて、軍政実施者としての軍の責任などが取り上げられ、多方面から日本政府の責任が追及されるかたちになっている。

 

重要なことは、仮に元慰安婦や運動団体が慰安婦問題における日本政府の責任を立証しようとする場合においても、その筋道がいくつか存在する、ということであり、実際、韓国の運動団体は複数の方法を同時に試みている。にもかかわらず、日本国内ではあたかも時間が93年の河野談話の段階で止まったかの様な議論が続いている。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.276 

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