ヒトと動物の「ヤバい関係」と「やさしい関係」――自然保護とは何か

「やさしさ」とは何か?

 

住田 なるほど。それではいよいよ生徒役の方に登場をいただいて、本の感想や質問などを先生にぶつけていただきたいと思います。今回の生徒役の中では一番ご専門が近いかなと思います、アサイさんからいかがでしょうか。

 

アサイ 最初にこの本を拝読した時、「この本を手にしてくれた君はきっとやさしい心の持ち主なのだと思います」という序文を読んで、これは良い本だと思いました(笑)。

 

生き物関係の仕事をしていて、多少なりとも一般の人よりは多く持ち得た知識を、ちょっとだけ興味のある人やあまり興味のない人にどう伝えればいいのか、ということを常に考えて個人のブログを書いています。どんな語り口がいいのかと最近考えていたんですが、まさに、この序章をお手本にすればよかったと思いました。

 

序章では、交通事故にあったタヌキを知った女子中学生と、タヌキの交通事故を減らすにはどうすればいいかと考える会話から始まり、野生動物との関わり方について話題がふくらんでいきます。印象深かったのは、「対策にはお金がかかりますが、自動車によって便利な生活をすることができるようになったのですから、その豊かさの一部を野生動物のため使うことは十分にできるはずです」という一文。モータリゼーションで豊かになった中で、タヌキ/生き物との関係にも目を向けること、これが人間としての責任の取り方なんだ、そう考えればいいんだと。

 

高槻 私は「やさしい」という言葉がしばしば誤って使われているところがあると思っているんです。たとえば私は大学では厳しいと言われているんだけれど、ぜんぜん厳しくなくて、やさしいんですよ(笑)。世間一般では、いい加減な子供を放っておくのがやさしいと言われたりするんですが、これは大いなる間違いです。

 

うちの学生でも、動物とじゃれあって遊ぶことが動物への「やさしさ」だと感じているフシがあるわけです。けがをしたら治してあげるとか、殺すことは良くないとか。しかし、本当の「やさしさ」とは何かを考えてみてほしい。たとえば道路を建設するときに、本当にこれが社会や動物にとっていい計画なのか、ともう一度検討してみること。現実としてモータリゼーション社会が存在しているのであれば、動物に一方的に迷惑をかけることをどこかで配慮するとか、そういう大きな視野を持つことが本来の「やさしさ」なのではないでしょうか。本の最初に「君はやさしい心の持ち主なんでしょう」と書いたのは、本当に「やさしい」とはどういうことなのかを中学生くらいの子供たちに問いかけたかったからなんです。

 

アサイ よくわかります。この本で取り上げられている、アライグマのような外来種のペットや、アメリカのイエローストーン国立公園での、人間によって一度撲滅させられてしまったオオカミを再導入したプロジェクトにおいては、動物との関わり方を考える際、どうしても「責任」という言葉が付きまとってくるという点があると思います。「人間が責任をとるべきだ」という言い方をするけれど、気持ちとしての「やさしさ」から何かしてあげる、というものではなくて、あるべき姿に向かって何らかのアクションをするということが重要で、そこでどうするのが「やさしさ」なのか、「責任」の取り方なのか、ということについてもこの本を通じて考えさせられました。

 

高槻 そうですね。何が「やさしさ」かについて都市生活者は思い違いをしている。べたべたするのがやさしさではない。そういう感じですね。

 

 

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「自然」から疎外された現代人?

 

宮澤 この本の中にも出てきた長野県信濃町のアファンの森で行われた自然保護の体験に参加したことがあります。高槻先生とも研究に関連して親交があると伺った、作家のC・W・ニコルさんが、山を買って、里山の保全を考える活動をしているんです。

 

そのとき、20人弱くらいの参加者で、アテンドの方の案内で夜に懐中電灯を持たず、白い服を着て森の中を歩くナイト・ウォークという体験をしました。闇のなか、音から川や風の流れが分かったりします。そして、森の中で黙って止まるんです。今、ここで凶暴な動物が来たらやられるな、といった怖さや、普段感じないような自分の中にある野生を感じました。

 

そして、食べられるかもしれないという恐怖の経験から、現代の人間が食物連鎖から切り離された存在となっていることに、強く違和感を覚えたんです。

 

高槻 森の中で日常生活では感じていない恐怖を感じた、そして人間が食の連鎖から切り離されているように感じる。自然の中の人間の位置を考えると、都市生活者は変になっているんじゃないか、ということですね。

 

でも実は人間は、食物連鎖の中からは外れてはいないんですよ。外れているような感覚を持たされているだけで。動物や植物を食べて繋がっていることは、昔からまったく変わっていないし、これから変わるということもあり得ないわけです。ただ、現代では、狩りや採集をして、それを処理して、調理をして、食器に盛り付けて、そして食べるという昔から食のシステムの、その端っこしか今は見えなくなっているんですね。

 

子供の頃からスーパーで切り身の肉を買ってくることに慣れていたら、食事のときに、動物の体を食べているという感覚を持つことができないでしょう。人間は野生の姿に戻ることはできないけれど、失ってはいけないベースラインはあったはずです。

 

宮澤 私は、現代の人々が調理することもできなくなっているという点にも問題を感じて料理教室をやっているんです。築地に行って、知らない旬の魚を買ってきて、さばき方を調べながら調理をする。お皿に乗ったきれいなソースのかかったおいしい魚ではなく、切り身にする前の魚の構造がどうなっているのかを知ることが重要だと思うんです。暗闇の森を歩くような強烈な原始的な経験がすぐにできなくとも、料理などを通じてひとつひとつ戻っていくことができると思うんですね。

 

高槻 そういう体験を通して魚の種類の違いを知ることもできますね。私は動物の体を開いて、その共通性に驚きます。魚と哺乳類は、分類学でいうと相当離れているんだけれど、構造は基本的に同じです。哺乳類であろうがカエルであろうが鳥だろうが、胃袋があって腸があって肺があって……、という共通性にこそ驚くところがあります。

 

以前、宮城県の金華山という島でシカの研究をしていたとき、対岸の牡鹿半島に泊まって調査したことがあります。夜、泊まったところの漁師さんと話していたら、シカが島から半島の方へと泳いでいくことがあると教えてくれたんです。どうするんですか? と聞いたら「捕まえて食うんだ」と。解剖できるんですか、と聞いたら「魚と同じだよ」と言うんです(笑)。見た目は違うけれど、基本は同じなんですよ。

 

それから毎年夏にはモンゴルに調査に行くんですが、モンゴルでは家畜の中で人が暮らしているから、モンゴルの子供というのは、牛でも馬でも羊でも子供はお母さんのおっぱいを飲むということは同じだということが分かるし、交尾も見ることになります。家畜を見ながら、生き物の原理のようなものを体得し、人間も違いはないんだということを知る。ああいう日常の中で得られている、偏見も傲慢さもない感覚というのを都市で暮らしている人間は完全に失っていると思います。

 

 

11.7.16シカクジラの背+

 

 

印象や価値観はどこからくるのか?

 

菅野 ここまでお話を伺ってちょっと思ったので、突然ですが割り込んでいいですか。

 

住田 どうぞどうぞ(笑)。

 

菅野 例えば、動物の肉が切り身になっているように、世の中で色んなプロセスが見えなくなっていてやばいだろうというお話ですが、そりゃやばいだろ、と思います。その一方で、私も科学者ですけど、科学というのはそのやばさの最たるもので、先人たちの蓄積の上に成り立っていて、これまでに分っていることを前提として、先に進んでいる。つまり、現代の科学者で教科書に載っているような知識や技術の原理の全てを自分の目で確認して先に進んできた人はいないんですね。ブラックボックス化されてから、先に進んでいるわけです。

 

我々がこうやって話していることも、様々な技術が発達して、知識を本やネットで得られるようになって、昔のことを振り返ることが出来るようになっているからこそ、「昔はこうで、それを失った現代人がやばい」と思えるわけです。

 

住田 現在を相対的な視点からみることで、 「ヤバい」と感じる、 というわけですね。

 

菅野 はい。最近知った『銀の匙』という漫画・アニメがあります。主人公が、北海道の都市部にある受験進学校から、なぜか農業高校に進学するというお話です。同級生にとっては、生き物を殺して食べて、それが当たり前という世界。命をいただいている、という感覚はもちろんあるんですけど、それが当たり前という世界なんです。それにビビっちゃう、あるいはいちいち違和感を持つ主人公という(やばい)存在によって、他の登場人物や読者が本当の命の大切さについて考えさせられる、という構造になっています。現代人は、その主人公みたいな状態で、昔を振り返るからこそ、その大切さが味わえ、意識できているのじゃないかと思います。自覚的に。

 

今と昔というのは、時を越えた立場の違いですが、現代における様々な立場の違いを越えて世界の在り方を考えていこうというのが、このSYNAPSEというプロジェクトの趣旨であって、それは「切り取る」というメディア的な行為でもあります。今、ただ中にいるとわからないことを、客観視する、あるいは違う立場から見て、理解するという行為です。次のお二人はメディア関係の方なので、どのように切り取られるのか、楽しみです。

 

住田 では、まず服部さん、いかがですか?

 

服部 今回のイベントのお話があったとき、講師は、シカの研究をされる中で、増え過ぎたシカを殺して減らした方が良いと仰っている方だと住田さんから聞いて、なるほどと思ったんです。

 

ちょうどその頃、ある写真家の方とやりとりをしていて、彼が北海道でシカの猟師さんたちを何年も追いかけているシリーズにまつわる話を聞いたんです。彼のことを報道カメラマンだと思った地元の猟師さんは怒って撮影を止めたそうです。しかし、「これは芸術です」と答えると、彼らは「撮っていいよ」と承諾してくれたというんです。つまり、報道の中では「狩り」そのものが動物を殺すというネガティブな印象で描かれることが多いことを彼らは知っているんです。なぜそういうネガティブな視点、心理が出てきてしまうんでしょうか。

 

先ほど食の話が出ましたが、以前『いのちの食べ方』という映画を見てベジタリアンになった、という人がいました。牛の屠殺現場なんかもたくさん出てくる映画で、もちろんショッキングだったんですが、むしろ私は屠殺の現場に行って見てみたい、と思ったんです。お肉も食べたい、と。「いのち」の現場に携わっている人をネガティブな心理で捉えられるようなことが無いようにしたいと思ったんです。このような人間の心理をどう捉えられるのか先生にお聞きしたいです。

 

高槻 間違ったやさしさが優先して、動物を殺すのが一切悪いという声が大きい。これは、正面から死を見ないようにさせられている結果ですね。多勢に無勢な状況下で、ハンターは悪者にされるから、報道には出すな、出るな、ということになってしまうわけです。

 

服部さんが屠場を見たいと思ったことについてですが、現実に何がなされているのかを知った上で肉を食べるべきで、屠場を見たい、というのは健全な心の持ちようだと思いますよ。

 

モンゴルでは、昨日まで飼っていた羊を殺して食べるわけですよ。彼らは動物のことをすごく愛しているんですね。名前をつけて、体調も気づかっていて、弱っているものにはケアをする。でも殺すんです。彼らの言葉の中に、「昨日までの羊は今日の肉」というのがあって、殺した後には肉になる。羊は草を食べる、草は地面から栄養をもらっている、地面が自分を生かしているという実感を持って毎日を過ごしている。でも私たちは、自分を生かしているのがお金だという実感になってしまっている。

 

先ほど菅野さんが言われたような、科学の発達、経済の発達、システムの発達、情報伝達の発達については、それらがあって現在があるわけですけど、プロセスを知らないといけない。だからこそ歴史を学ばなくてはいけないと思うんです。本来人間が持っているもの、今自分たちがそこから随分離れていることを、子供たちにできるかぎりいい形で学ばせる配慮を大人はしないといけないし、自分自身の勉強としても、自分に教えることが必要だろうと思います。

 

服部 私は幼いころから猫を飼っていたのですが、その猫はデパートから買ってきたもので、今実家にいる猫もペットショップから買った猫なんです。うちの親は保護団体から猫を引き取るということを全く知らなかった。

 

最近実家で昔のネコが亡くなって新たに飼うことになりました。その頃にはilove.catで福島のシェルターで取材をしたり、そこで引き取ったネコと暮らしていたこともあり、実家には、保護活動や福島に誰にも飼われずにいるネコがたくさんいること、そして次の猫はそうしたところから引き取ったらどうかと提案したんです。しかし、そういう考えは無いと、理解してもらえず、結局実家ではペットショップから買ったネコを飼っています。

 

なんで理解してもらえないんだろうと思った時に思い出したのが、中学生ぐらいの頃、古着が好きで買って帰ったら、汚いと言われた体験です。古着をファッションで着ているんだということは理解しているんだけど、やっぱり新しくて綺麗なものがいいという価値観を持った世代の人たちなのかなあと。古着と猫はもちろん一緒ではないですが、その辺りの価値観は変えられないなあ、と。どうやったら、そう思い込んでいる人たちに少し考えが変えられるように伝えられるだろうか。どういう風に言えばいいんでしょうか。

 

高槻 この本で書いたのは、売れ残った動物が処分されるという無用の殺生を生み出す、商品としてペットを売るというシステムもまた、本来の人と動物の在り方とは違っているんじゃないかということでした。私は、 ペットは専門ではないので、もともとそういう印象を持っていたというより、書きながらそういう考えに至ったんです。

 

世界的に、犬は本来経るべき親と過ごす成長過程を考慮して、生後8週間過ぎないと売れないことになっています。しかし日本では6週間で売っていた。法律の改正が試みられたのですが、業者からものすごい抵抗があった。要するに6週間だと売れるけど、8週間だとかわいくないから売れなくなると。で、7週間に決まったということらしいです。命を「かわいい」という商品価値に置き換えて、犬の心の発達を無視する――ここにも人間側のおごりがある。かわいいおもちゃを買う、バッグを買うのと同じ感覚で、命を買うということは良くないのではないかという直観が、私にはあります。

 

服部さんの話の、古着と猫のアナロジーはちょっと違うかなあと思いますが、福島であの事故が起きたとき、人の生活や健康が最優先だったことが間違っていたとは思いませんが、それによって家畜やペットが路頭に迷うことがあったということを本の中で言いたかった。つまり、安楽死ができなかった、と。そもそも、その土地に人が住めなくなったということの意味を総括していないですよね。そして、人がいなくなるときにペットをどうすべきかということについて社会が何も考えてこなかった。

 

そういう中であの事故の犠牲者としてのネコを引き取ってあげれば、そのネコにとってもいいし、ネコを飼いたいという人の気持ちも満たされるのに、ペットショップで買ってしまう。この場合は、せっかくペットを飼うなら、大きくなってしまったものではなくて幼いうちから飼いたい、ということかもしれませんが、一般的な保護活動をしているところからもらうなら、子猫もいるし、一概にそういう話ではなくなる。こうなると、そもそも、人がペットを飼うとはどういうことか、という大きな問題になってくるので、私には答えられないですね。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.278 

・山本貴光+吉川浩満「人間とは衝動に流されるものである」
・熊坂元大「培養肉――クリーンミートあるいは現代のプロメテウス的産物」
・伊藤隆太「進化政治学と政治学の科学的発展――社会科学の進化論的パラダイムシフト」
・鈴木公啓「ひとはなぜ装うのか?」
・平井和也「新型コロナウイルスの世界経済への影響」
・石川義正「ミソジニーの「あがない」──現代日本「動物」文学案内(3)」