再生医療研究とマスメディア 

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8月17日付の朝刊各紙には奈良先端科学技術大学院大・中島欽一教授らの記事が掲載された。その内容は、人為的に脊髄に損傷を与えたマウスに、神経幹細胞(神経細胞をつくるもととなる細胞)を移植し、てんかんの治療薬として知られる「バルプロ酸ナトリウム」(以下バルプロ酸)を投与することで、運動機能を回復させることができたというものだ。

 

 

バルプロ酸ナトリウム投与の効果

 

脊髄にある神経細胞は、脳と身体各所を結んでおり、いわば糸電話の糸のような役割を果たしている。これが損傷されれば手足が不自由になるし、つなぎ直すことができれば運動機能が回復できる。今回の研究では、バルプロ酸が神経幹細胞の分化を促進し、損傷部位を修復させたということだ。

 

今回の成果は間違いなく、科学的にも臨床的にも非常に意味のあるものだ。

 

バルプロ酸ナトリウムなしでは、移植した神経幹細胞が神経細胞へと分化した効率が1%程度にとどまる。投与した場合の20%に比べれば非常に低い。中島教授らはこれまでに、試験管上ではバルプロ酸ナトリウムが神経幹細胞を、ニューロンへと特異的に分化させることを報告しており、今後の臨床応用に十分期待することができるだろう。

 

 

脊髄損傷治療の先行研究

 

しかし、である。今回のマスメディアの報道には違和感をもたざるを得ない。朝日新聞では「神経が損なわれるけがや、脳卒中などの治療法開発につながる成果」、東京新聞では「治療は困難とされてきた脊髄損傷の治療に向け、大きな前進」とある。

 

では、脊髄損傷治療の先行研究は、いったいどうなっているのだろう。

 

発表に先行すること約2週間。海外では以下のような記事が出ている。見出しはこうだ。

 

 

『Geron given FDA go-ahead for stem cells trial(FDAがGeronの幹細胞治験にゴーサイン』(Financial times, 2010年7月30日)。

 

 

Geronというアメリカのバイオベンチャー企業が、幹細胞を用いた臨床治験を出願し、それが認可されたという内容。これはずばり脊髄損傷の治験であり、しかもヒトES細胞を用いたものだったのである。

 

あれ、その記事は何か見覚えがあるよ、という読者もいらっしゃるかもしれない。

 

じつはGeron社はすでに2009年1月23日、FDA(アメリカ食品医薬品局)に治験開始を認められたという発表をしており、このときは日本でも大々的に報道がなされた。だが、安全性の懸念から、FDAからものいいがつき、一旦認可された治験が保留になっていた。それが安全性確認試験を追加実施し、安全性の要件を満たしたということで、ふたたび認可されたのだ。今回が正真正銘、そのスタートとなる。

 

 

再生医療報道における日本メディアのいびつさ

 

この治験の開始を日本の新聞はどう伝えたか。

 

自らの狭い視野によるもので恐縮だが、8月5日に日刊工業新聞のごく小さな記事で登場するまでのあいだ、どの紙面でもみかけることはなかった。

 

間違いなく人類初の「多能性幹細胞」を用いた臨床治験の開始が、このような扱いであったのは、どういう理由によるものだろうか。Geronのリリースからの数日間、日本国内で発信された再生医療関係の記事が、新聞紙上に登場していたにもかかわらず、である。

 

「再生医療」とつけばそれなりの紙面を割いている新聞各社が、1度発表された内容なので新規性がないと判断して掲載しなかったとしたら、残念なことだ。しかも、今回は対象となった疾患が脊髄損傷治療であり、すでに国外では治験のステージへと移行したものがあるにもかかわらず、どの媒体でもそれに触れていない。

 

このいびつさが、筆者に違和感を抱かせるのだ。

 

翻って、日本で懸命に研究がなされているiPS細胞による再生医療研究にあっては、まだ乗り越えていかなければならない壁は多い。そもそも、ヒトで樹立されてから、まだ3年にも満たない存在なのである。ここまで研究が進展していることこそむしろ驚異的なのであって、生物学的に未知の部分なぞ、数え上げればキリがない。

 

仮にES細胞での脊損治験成績が良好であり、臨床応用が可能な状況が現出した場合、マスメディアは日本の研究現場や政策立案者に対してどのような視線を向けるのだろうか。再生医療、iPS細胞ともてはやしておきながら、マスメディア自身は海外の研究の現状把握が希薄すぎはしまいか。少なくとも、iPS細胞以外の再生医療領域へと向ける視線が、あまりにもアンバランスではなかろうか。

 

そんな乖離した意識で再生医療研究をもてはやす現状をみると、いざ海外からES細胞による治療法が輸入される段になって手のひらを返し、政府の無為無策、研究者の怠惰を批判することになるのではないか、と危惧を抱かずにはいられない。官が悪い、学が悪いと礫を投げるだけが、マスメディアの仕事ではないはずだ。

 

 

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