生きづらいのは進化論のせいですか?

進化論って、適者生存のこと?  進化論のせいで生きづらくなっていないですか? 絶滅から生命の歴史を考える『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』著者である吉川浩満さんに、私たちの「進化論」と科学的な「進化論」との違いについてお話を伺った(聞き手・構成/山本菜々子)

 

 

進化論のせいで生きづらい?

 

――進化論は、ずっと温めていた企画なので、実現できてとても嬉しいです。今日は『理不尽な進化』著者の吉川さんに色々と話を伺いたいと思います。

 

よろしくお願いします。パフェ頼んでもいいですか。

 

 

――どうぞ、どうぞ。

 

ありがとうございます。いただきます。

 

山本さん(註:インタビュアー)がくださった企画要旨のメールに、「生きづらいのは進化論のせいだ!」とあったのが印象的でした。半分ご冗談なのかもしれませんが、おっしゃることはよくわかります。そのあたりから始めましょうか。

 

 

――「弱肉強食」「適者生存」みたいな言葉を聞くと、日々がむしゃらに頑張らないといけないような気がしてきて、つらくなります。

 

そうですよね。社会に流通している進化論風の考え方に触れて、生きづらさを感じる人がいるのはよくわかります。

 

特にビジネス書や処世術の本なんかには、そうした弱肉強食的な価値観がよく見られます。社会は生き残りをかけたサバイバルゲームだ、ライバルとの競争に負けたら滅びるしかない、そのためには進化していかなければならない、というような。人の劣等感や優越感を刺激して競争へと駆り立てようとする論法ですね。これに違和感を覚えるのは山本さんだけではないと思います。私もそうです。

 

反対に元気になる人もいます。先日、進化論について本を書いたと知人に言ったら、「やっぱ進化論いいっすよね」と返ってきました。話を聞くと、今の世の中は弱者や無能が優遇されすぎている、本当に優れた者が生きづらい社会だ、弱者や負け犬の救済は一切不要、生活保護も打ち切るべき等々と熱っぽく語る。彼は、こうした弱肉強食の真理を教えてくれるのが進化論だと思っていて、だから「進化論いいっすよね」となるのですね。軽いめまいを覚えましたが。

 

そんなこんなで、詳しく学んだことはなくとも、また賛否にかかわらず、私たちは進化論をなんとなくわかったような気になっている。弱肉強食の世界の中で、適応して生き残る者と適応できずに死んでいく者がいる、といった認識ですね。勝ち組/負け組とかモテ/非モテのような言葉もそうした文脈で語られています。

 

ところで、そもそもこれは本当に進化論なのか。実際のところ、日常生活で流通している進化論と、専門家が研究している進化論とでは、かなり違います。専門家の世界では進化論は有用な科学理論として存在していますが、その一方で、私たち素人はその内容をよく理解しないまま、いいように語っているのです。

 

 

「進化論」は「ダーウィニズム」ではない?

 

――では、この社会にある「進化論」はいったいどこからやってきたのでしょうか。全部、私たちの科学的知識の無さや誤解から生まれたものなのですか?

 

社会に流通している通俗的な進化論が、科学理論としての進化論を誤解していることはたしかですが、まったくのデタラメというわけでもありません。ちゃんとした出自があるにはあります。

 

それは、科学史家のあいだで「発展的進化論」と呼ばれる、ダーウィン以前の進化論です。有名なのはフランスの博物学者ラマルク。キリンの首が長いのは、先祖のキリンが高所の葉っぱを食べるために努力をつづけたからだ、という話を聞いたことがあるでしょう。ラマルクは、生物の進化には目標があると主張しました。また、生物には目標の達成度に応じて優劣の序列がある。ラマルクにとって進化とは前進であり発展なのです。

 

その後、イギリスの思想家ハーバート・スペンサーがラマルクの進化論を発展・拡張させて、世界中で大ブームになりました。彼は、宇宙のあらゆる物事が進化すると考えました。彼に言わせれば、人間の社会も古代国家や未開社会から近代的な国家へと進化していく。その過程において、「適者生存」──この言葉を考案したのもスペンサーです──の競争が行われるのです。

 

このようにしてスペンサーは、ラマルクの発展的進化論と当時の資本主義先進国を席巻していた自由競争主義を接続し、上昇志向の近代人にぴったりの「進化論」を仕立てあげました。

 

 

――ということは、私たちが考える「進化論」はスペンサーのものであると。

 

そうです。ラマルクの発展的進化論を人間社会に適用したスペンサーの思想です。歴史の教科書などで「社会ダーウィニズム」と呼ばれますが、だから本当のところはこの思想はダーウィニズムではありません。正しくは社会ラマルク主義、あるいはスペンサー主義と呼ばれるべきものです。学問の世界ではすでに否定されています。

 

いま学問の世界で認められているのはダーウィン由来の進化論です。これは生物の進化にいっさいの目的や目標を認めません。生物の進化を左右するのは目的や目標ではなく、偶然です。進化は単なる結果でしかなく、それ自体ではよいものでもわるいものでもありません。だから生物間に優劣の序列もありません。進化の目的や生物の序列といった発展的な考えと手を切った進化論です。

 

つまり、私たちの社会にはふたつの進化論が共存しているということになります。学問としての進化論と、一般人の世界像としての進化論。前者はダーウィンが発祥ですが、後者はスペンサーによってつくられたものなのです。

 

現在、「ダーウィニズム」という言葉が「進化論」の同義語のように使われているために、たとえば「進化論のせいで生きづらい」と思うとき、元凶はダーウィンにあるように感じるかもしれません。でもそれは濡れ衣です。

 

 

――社会にも進化論を当てはめることに問題があるのでしょうか。

 

そこは微妙なところで、これには「問題がある」というより「問題があった」とお答えするのがよいかもしれません。20世紀半ばまで世界を席巻した元祖「社会ダーウィニズム」は、科学的に間違っているだけでなく、植民地主義や人種差別を正当化するひどい代物でした。その意味では明らかに問題があった。

 

でも、本来ダーウィニズムは、進化の目的や生物の序列を認めないわけですから、そのような含意をもつことはありません。実際、現在では生物学だけでなく、人間の社会や心理を扱う学問──心理学や経済学、社会学など──にもどんどん採り入れられています。

 

アメリカの哲学者ダニエル・デネットは、ダーウィニズムを「万能酸」と呼びました。万能酸とは、どんなものでも侵食してしまう空想上の液体のことです。つまり、ダーウィニズムは本来、生物だけでなく社会にも人間にも、また製品やサーヴィスといったものにも適用できる万物理論です。そして、科学理論だけでなく思想や宗教といった人間のあらゆる精神的活動に影響を与えずにはいません。私もデネットに賛成です。ただ、その適用の仕方には注意しなければならないということです。

 

 

進化論という「お守り」

 

――私たち一般人が漠然とイメージしている進化論と専門家が研究している科学的な進化論とは別物だということはわかりました。でも、どうして別物になってしまうのでしょうか。

 

その理由は、根本仮説である自然淘汰説の独特の性質にあると思います。

 

「適者生存」という言葉がありますね。これは自然淘汰説を言い換える言葉としてスペンサーによって考案され、ダーウィン本人にも採用されたスローガンです。この言葉は社会ダーウィニズムによって濫用されたせいで現在ではあまり好んで用いられないのですが、それ自体としては自然淘汰説の中心アイデアを明快に伝える優れたキャッチフレーズです。

 

その中心アイデアとは、「適者」は「生存(繁殖)」によってのみ定義される、というものです。適者とは単に生き延びて子孫を残した者を指すのであって、私たちが「弱肉強食」や「優勝劣敗」のイメージで想定するような強さや能力とは関係がない。ただ、生きのびて子孫を残すことができる者を「適者」とみなしているだけなのです。

 

ところが私たちは、「生存する者を適者とする」をひっくり返して、「適者は生存する」という自然法則のようなものとして適者生存のアイデアを用いています。

 

 

――法則じゃない?

 

はい。適者生存の原理は、「適者は生存する」という法則ではありません。「生存する者を適者と呼ぶ」という約束事であり、そこから仮説をつくりだすための前提です。

 

たとえばケプラーの法則は、実験や観察によって真偽を検証することができます。でも、適者生存の原理は、真偽を検証できるようなものではありません。「結婚していない人を独身者と呼ぶ」と同じように、適者の意味を定義しているにすぎないのです。これを前提として、科学的に生物の有様を説明する仮説を立てるわけです。

 

私の好きな言葉に、「進化論は計算しないとわからない」というものがあります(星野力さんによるもので、同名の本も出版されています)。学問的な進化論は、この基準を前提として仮説を立て、計算したり調査をしたりしてようやく成立するものです。

 

つまり私たちは前提と結論を取り違えているのです。【次ページにつづく】

 

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vol.277 

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