ロボットになぜ「弱さ」が必要なの!?――ロボットと生き物らしさをめぐって

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あのロボットなに考えているんだろうね

 

――岡田さんのつくるロボットには、目が離せない不思議な魅力があります。私たちがロボットをみるとき、どのような気持ちが生まれるのでしょうか?

 

認知哲学者のダニエル・デネットによれば、ぼくらがなにか動きのある対象を見るときに、いくつかの構えのうちのいずれかをとっていると言われています。

 

ひとつは「物理的な構え」というもの。ここのペンがパタリと倒れた。その動作に対して、「あっ、疲れているのかな? それで横になったのかな?」とは思わない。重心が偏って、バランスを崩して倒れたと解釈するわけですよね。

 

そして、「設計的な構え」。時計がチクタク動いているのをみて、「これはうれしくて歌っているんだな」とは思いません。「だれかが設計したとおりに時を刻んでいる」という解釈する。

 

もうひとつは「志向的な構え」というもの。ASIMOの歩く姿をみているとき、おもわず「どこに向かおうとしているのか」と考えてしまう。なんらかの意図があって、それに合わせて合目的的に動いている、そんな解釈をするわけですね。

 

これまでの機械とロボットとの大きな違いというのは、わたしたちがその対象に対して「設計的な構え」ではなく、思わず「志向的な構え」をとってしまう点にある。普通の機械の動作をみても、誰かが設計したとおりに動いているだけと思うのですが、ASIMOの飄々としたふるまいには、自らの意志である目的にむかっているように感じるんですね。

 

ぼくたちの興味も、そこにあります。どうやったらロボットは人間に近付くのか?というより、どういう行動様式に対して人間はロボットに心を感じるのだろう?と考えていることが多いのです。

 

 

「弱い」は自然なことだ

 

『弱いロボット』(医学書院)を出版して間もないころ、シノドスの編集長の荻上さんがTBSラジオの「DigTagコラム・チキチキ塾」というコーナーで、この本を紹介していただいたことがあります。荻上さんは、「なにかとくに結論があるわけでもない、とても主張の弱い本です」というような話をされていた。その時に思ったのは、この本の主張の弱さがいろいろな人の勝手な解釈を引き出している、その意味では「弱い本」なんだと(笑)。

 

いろんな方々に書いていただいた書評を読んでみると、「あっ、そうそう、ぼくはこういうことを言いたかったんだ!」と自分で後から気づくことがある。読んでくださる方が新たな解釈をつけ加えてくれて、はじめて完結するような「弱い本」なのだと思ったわけです。

 

 

――「弱い本」ですか。「弱い文章」っていうのもあるのかもしれませんね。

 

文章の表現があまりに強すぎると「伝える人」とそれを「受けとる人」とが非対称になってしまう。でも、伝える側がちょっと抑え気味にしていると、そこに解釈する余地が生まれて、一緒になって意味づけしようとする。そうすると、その意味を支え合うよう対等な関係になれるんですね。

 

ぼくらのロボットでも、周りの人の参加するための余白って大切だなと思ってます。例えば、相手の目線を気にしながらオドオドと喋るような〈トーキング・アリー〉というロボット。一方的にどんどん話せばいいのだけれど、そういう自信もなくて、相手の目を気にしながら「あのね」「えーっとね」とたどたどしく話すものです。

 

 

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相手の注意が逸れたときは、「ねぇ、聞いてる?」と言いながら、相手の目線をこっちに引き戻そうとする。そうした関係では、そこに聞き手の参加する余地がうまれて、一緒になって言葉をつくっていく雰囲気になるんですね。

 

結果として言い淀みや言い直しの多い、非流暢な発話になってしまうんですけれど、それが「聞きにくい」ということもなくて、むしろ聞き手に対する配慮とか優しさが生まれてくる。伝えようとする意志も伝わってくるし、言いたいこともなんとなく伝わる。聞き手も、そこに参加できていることがうれしい。そんな喜びが生まれるんです。

 

たぶん文章も一緒で、「あーでもない、こーでもない」と言いながらだんだんと自分が伝えたいことに収束させていくような「弱い文章」があってもいいのかもしれません。それを読む人もその問題を共有しながら、「ああでもない、こうでもない」と読んでいくというのは結構需要なプロセスかもしれませんね。

 

 

――「弱い文章」すごく憧れますが、やっぱり相手にゆだねるのは勇気がいりますよね。

 

この『弱いロボット』の帯には、「ひとりでできないもん」って書かれているんですけれど、ふつうは「ひとりでできるもん」ですよね。

 

ぼくらって生まれてから今に至るまで、そして老いてからも、だれの手を借りることなく「ひとりでできること」を良しとするような文化の中で育ってきた。子どもを育てるときには、すこし手を焼きながら「はやくひとりでできるようになるんだよ」と願うし、一方で子どものほうも「もうひとりで靴下をはけるんだよ、すごいでしょ」って得意がっている。学校教育でも「テストはひとりで受けるものであり、だれの力も借りてもいけません!」という環境の中で人を育てている。ロボットも一緒で、ひとりの力でできる完璧なものを目指そうとしてきた。

 

でも、私たちの身体の備える不完結さということを考えるとどこか無理がでてくるんですよね。

 

生き物は自らの動きを周囲にゆだねながら、周囲と一緒に行為を形作っている。なにげなく歩く時も、その一歩を地面にゆだねながら、歩くという行為を作り上げている。「もうひとりで靴下をはけるんだよ!」と得意がっていた子どもも、壁に背にして、身体のバランスをとりつつ、靴下を履いていたりする。あるいは、相手に「おはよう」と挨拶をするときも、半ば相手にゆだねるようにして、挨拶という行為を作り上げているわけです。

 

 

――むしろ「弱い」ことこそ、自然で、人間らしいことなのだと。

 

今回のテーマである「ロボットになぜ「弱さ」が必要なのか」という問い。ぼくはいろんな理由があると思っています。

 

身体的なコミュニケーションを成り立たせるには、「関係として同型性」というものが大切だということを先ほどいったのですが、ロボットが自己完結したものだと、他との間でそもそもコミュニケーションは必要ない、というかコミュニケーションが生まれないんですね。人と人との間で共同性を生み出している動因というのは、お互いの備える不完結さ、すなわち「弱さ」なのではないかと思うんです。

 

一つの例として、お掃除ロボットですね。これも「弱いロボット」なんじゃないかと思っています。ひとりで勝手にお掃除をしてくれる便利なものですが、何日か一緒に生活してみると、彼らの弱さも気になってくる。椅子の入り組んでいるところで袋小路になるとか、ケーブルに巻きついてギブアップしてしまう、それと玄関などの段差に弱いとか。そんな弱さがわかってくると、スイッチを入れる前に、なにげなく椅子を並べ直し、ケーブルを整理している。すると、いつの間にか部屋も片付いていたりする。

 

この部屋を綺麗にしたのは誰なんだろうかと考えてみると、お掃除ロボットの力だけでもない。私ひとりで片付けたわけでもない。この「弱さ」がぼくたちに掃除に参加する余地を与えてくれた。ふつうの機械として考えたら、欠陥や欠点だった「弱さ」がぼくたちとの共同性を引き出しているわけです。

 

たぶん、完璧にお掃除できるロボットだったら、そういう共同性は生まれない。むしろ「お掃除をしてくれるロボット」と「お掃除をしてもらう人」という明確な役割が生まれる。すると途端に、「もっと静かにできないの? もっと早く終わらないの? この取りこぼしはどうなのよ!」と、このロボットに対する要求水準をあげてしまう。

 

お互いの役割の間に線を引いてしまうと、相手に対する要求水準をあげてしまうというのは、最近ではいろんなところで起こっているようなんです。教育現場だと、教える人と教えてもらう人。介護現場だと、介護する人と介護してもらう人。あるいは津波の被害にあうたび、この防潮堤をもっと高くせよという議論になる。「もっと、もっと」と相手に対する要求水準をあげてしまう。と、いろんなところが変に疲弊してしまうんですね。

 

そういう意味では、私たちに本源的に備わる「弱さ」が人と人との豊かな関係性を作り上げるためのカギになっているようなんです。

 

 

騙すロボット!?

 

――岡田さんがあるインタビュー(「頼りなさが生み出すもの 弱いロボットのちから」)の中で、「む〜をあまり外に出したくない」とおっしゃったあと、

 

“桜の咲く公園でひとりのおばあちゃんがぽつんと立っていたのです。そして、小さなぬいぐるみのロボットを抱っこしながら「きれいだねぇ、ねぇ、きれい、きれい」と桜を見ながら語りかけていたのです。その姿を見て、ロボット研究者として申し訳ないことをしてしまっているのではないかと、いたたまれない気持ちになってしまって。なにかとても痛々しいものを作っているのではないかと感じたのです。そのまま突き進んだら、「おばあちゃんをどう欺くか」という研究になってしまわないかと。”

 

と言われていて、非常に印象に残りました。「人間らしい」ロボットをつくろうとしている岡田さんが、ロボットに心を感じているおばあちゃんに申し訳なさを感じている。これはどういうことなのでしょうか。

 

まだまだ技術としては未熟だと思うんですね。「コミュニケーションロボット」と呼ばれているけれど、人とのコミュニケーションを目指しているということだけであって、まだ達成できているわけではない。まだ疎通しあう関係にはなっていない。あくまでスローガンであるとか、願望にすぎないわけです。

 

「志向的な構え」を引き出すという意味では、ロボットに心を感じてしまうこともある。けれども、「そこに心を感じること」と、「そこに心があること」の間にはまだ大きな開きがある。〈心あるロボット〉と感じつつも、実際のところは〈心ない振る舞い〉を平気でしてしまう。どう〈心あるロボット〉のように見せるかという技術は、どう人を欺くのかを考えているようなものかもしれない。そういうものを高齢者の方々にまだ使ってほしくないというところが本音なわけです。そうしたロボットで自分の心を癒したり、お喋りの相手にするのは悲しすぎると思う。

 

 

――岡田さんのロボットに囲まれて、一人老後を暮らせたらなんて素敵なんだろうと思っていたので、それは以外なお話でした。

 

複数のロボットを相手に会話を楽しんでいる状況だと、例の痛々しさというのは、いくぶんは和らぐんですね。それはロボットの世界にぼくらが入り込んでいる。それは遊びであり、仮象世界でのものになるんです。子どもが人形相手に遊ぶのと一緒です。

 

でも、ロボットと自分が1対1で関わろうとすると、けっこうきついと思います。1対1だと、現実の世界でのやり取りになってしまう。ロボットに優しく語りかけても、ぼくらの何十年かの人生経験に配慮したような応答を返してくれるわけではない。そういう意味で、ロボットはコミュニケーションの研究の道具としては面白いけれど、現実世界で人間を相手にするのは幼すぎるし拙すぎる。

 

現段階でぼくたちが提供できるのは、おばあちゃんや子どもが犬をみんなでかわいがるような形で、そのロボットを媒介にして、人間同士のコミュニケーションを引き出すような、そういう場を構成することくらい。そういう場面であれば、なんとか使えるものなのではないかと思っています。

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.268 

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