続・STAP細胞が映し出すもの――「科学」と「社会」の関係

論文の発表は出発点に過ぎない

 

一方、論文の査読者に対して、画像の不審を指摘する人々からは、画像のチェックを怠ったなどとして、責任を問う声も聞こえるが、論文中のロジックの正当性、それを導くデータの過不足、これまでの科学的な常識と著しく矛盾がないことなどを確認することは査読者が担う責務である。だが、通常は画像の修正等までは想定しない。修正によってしか実現しない画像であれば、前記の「再現性」という障壁につきあたるからだ。

 

査読者がデータの真贋までを疑わなければならない、とするのは酷な話であろう。

 

また、論文に掲載した細胞や遺伝子配列などのサンプルについては、一部例外もあるが、道義的には他の研究室からのリクエストに応じて提供することが望ましいとされている。もちろん守秘義務の契約を結ぶなどの手続き等を結んだ上でのことになるが、必要以上にサンプル提供を拒んだりすれば、研究の質やその研究者の信頼性を損なうことになる。

 

つまるところ、画像の操作の疑義があろうがなかろうが、同一細胞での追試を待つ/行う、他の細胞での再現を待つ/行う、そして私が前稿でも記したようにヒトの細胞での再現を待つ/行う。それが生命科学の態度である。追試実験は、必ずしも簡単にいくものではない。現在、インターネット上では短期間、少数例の追試が報告されているようだが、言語化されていない手技上の要因(流派、などということもある)のみならず、用いる試薬のメーカーやロットによっても結果は変わる。限られた情報を根拠に毀誉褒貶を行うことは、少なくとも「科学」の側が取るべき態度ではない

 

かつて造血幹細胞が、本来の能力である血液細胞を造るという能力を超えて、肝臓の細胞へと変化し肝疾患の修復を行うという報告もなされたことがあるが、3年をかけた検証の結果、それは肝臓の細胞と融合し分裂する能力を供与しているということが明らかとなり、造血幹細胞の「多能性」については否定された、という例もある(Lagasse, E. et al. Purified hematopoietic stem cells can differentiate into hepatocytes in vivo. Nature Med. 6, 1229–1234 (2000)、Wang, X. et al. Cell fusion is the principal source of bone-marrow-derived hepatocytes. Nature. 422, 897-901 (2003))。

 

結局のところ、論文の発表というのはゴールではなく、出発点にすぎない。その論文の成果が、いくらやっても再現不可能であれば、その成果は棄却され、過去にあった様々な学説、論文と同じように無縁仏として忘れられていく。いくら論文内部のロジックが正しくとも、それは科学的な「事実」にはならないのである。そのようにして、「科学」の知識は積み重ねられてきた。

 

 

社会が要求する科学者の倫理

 

ここまでは、「科学」の側から見た像を述べてきた。では、もう一方の「社会」という観点ではどうだろうか。

 

昔も今も、研究にお金がかかるのは避けることができない。16世紀の知りたがり屋の道楽者、natural philosophistたちがパトロンによる支援で研究を行っていた時代でも、道義上パトロンに対して「うそをつかない」というくらいの規範はあっただろう。現在においての研究のパトロンといえば、とりもなおさず公的な財源である。日本においては、国の予算なしではその活動を行うことは不可能だ。そうしたことを考えれば、研究費を申請することに際しての不正は許されない。研究者の倫理というのは、そういうものと考えるのがシンプルだ。

 

しかし、「科学」というシステムが、例えば科学研究費補助金などの形で予算配分権を委任されている、という状況から考えると、社会が研究者に期待する倫理観は、「科学者」、「研究者」が社会からプロフェッションとして見做せるかどうか、という問題につながっているのではないか。

 

古典的な例ではあるが、1964年に、ミラーソン(G.Millerson)は多様な「プロフェッション」についての概念を統合していくつかの要件をまとめているが、その中で「倫理綱領によって、プロフェッションへの忠誠が保たれること」という概念を示している。簡単に言えば、自らのコミュニティが定めた綱領に沿って行動しているか、ということであり、自律可能な集団であるかが、プロフェッションとして受容される大きな要素といえるだろう。

 

近年の日本においては、2003年に日本学術会議の「学術と社会常置委員会」によって「科学における不正行為とその防止について」という報告書が出されており、その中で「科学者の職業倫理(科学者倫理)」について論じられているし、文部科学省は2006年に「研究活動の不正行為への対応のガイドライン」を定めている。

 

だがその後も研究の不正とみなされる事案はいくつもメディアを賑わわせてきた。東京大学の細胞生物学・分子生物学研究にしぼっても、2005年に日本RNA学会が論文12件の疑義を大学に通報し、2006年に4本について再現性・信頼性がないとの調査結果が報告された件、2012年に日本分子生物学会が、「論文不正問題に関する早急な情報開示の要望書」を発表してタンパク質のシグナル伝達などをめぐる論文に不正の疑いがあると申し入れ、2013年に42本の論文が撤回されるという件などが知られている。

 

これらの件は、論文執筆者本人による問題というよりは、画像操作などの不正を見抜くことができなかったことなどによる管理責任を問われるものであった。彼らはすでに学術的に大きな成果を挙げていたために大人数の研究室を主宰し、研究テーマにおける方針の検討や助言、執筆された論文におけるロジックのチェックなどはもちろん行っていたであろう。しかし、すべての論文のすべての画像に対して、行き届いた確認は行っていなかったのだろう。

 

もちろん日常的に、生の実験結果や実験ノートを前に討議を行っていれば、こうした事件は生じなかったはずである。研究室主宰者がそれをし得なくとも、直接の実験指導を行う人間にそのことを厳に課しておけば、やはり起こらないはずだった。そうした意味で、査読者が負う責任とは異なり、大人数であったから画像は性善説で見た、ということは免責理由とはなりえない。このあたりは、研究への関与・役割が明確でない、あるいはほとんど関与が認められない儀礼的に共著者として名前を連ねる「ギフトオーサーシップ」という慣行の問題とも関連するが、「総インパクトファクター争い」「本数争い」という加熱した状況をも映し出す。

 

 

「責任」を負うのは誰か

 

また企業と複数の大学が関与した臨床研究データの偽造などが行われ、この問題は厚生労働省が刑事事件として告発をするなど、もはやコミュニティ内部にとどまらない状態となりつつある。こうした例を受け、2014年2月3日にはこのガイドラインの見直しについて、審議のまとめが行われた。(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/gijyutu/021/houkoku/1343910.htm

 

その概要においては、こうした見直しが行われる背景に「研究活動の不正行為の防止が研究者個人の責任に委ねられている傾向にあったことを踏まえ、今後は国による支援等も行い、各研究機関が責任を持って不正行為に対応できるようにすることが必要」と明記し、これまで通り「研究者自らの規律や大学等の各研究機関、研究者コミュニティの自律に基づく自浄作用として対応すべきであるとの基本姿勢」を保持するとしつつも、「各研究機関が責任を持って不正行為の防止に関わるよう、組織としての管理責任の明確化や不正行為の事前防止を図る取組の推進を促す」ために、「研究機関に対して国による適切な支援を行う」としている。

 

ガイドラインに新しく盛り込まれる行政の役割は、

 

 

・各研究機関における調査体制への支援(各研究機関において十分な調査を行える体制にない場合は、日本学術会議等と連携し、専門家の選定・派遣等を検討)

・研究倫理教育プログラムの開発への支援

・新たなガイドラインに基づく各研究機関の履行状況調査の実施

・各研究機関に対する措置の発動(間接経費の削減)

 

 

とあり、要するに、研究者が持っている倫理規範では信用ならないために、教育の段階から行政が介入する、という姿勢が明確となっている。

 

もう一つ着目すべきは、研究者「個人」から「機関」へ、ということが明確にされている点である。先に、「科学」のシステムのうちでは、その論文が再現不可能であればその事実は棄却され忘れられる、と書いた。これを逆手に取れば、棄却されるまでの間は、行われたかもしれない不正行為にとっては執行猶予のようなものであり、その期間が終わることで、その研究者は「科学」というシステムから罰せられた。提示した説が大きければ大きいほど、その「罰」は大きかっただろう。

 

しかし、もはやそうした時間的な余裕は研究者には与えられていない。インターネットにおけるコンテンツが多岐にわたる今日、「科学」というシステムにおいてその説がどのように検証されていくのか、例えばいち早く科学的なディスカッションを可能にしたPubPeer(https://pubpeer.com/)や、“Knoepfler Lab Stem Cell Blog”(http://www.ipscell.com/stap-new-data/)のように、その過程が可視化され、社会に広まりつつあることはよいことである。

 

一方で、その結果かつてゲーテが「悪魔的速度­」―veloziferisch―(石原あえか訳)と称したせっかちさが、追試の時間の短縮を急き立てる。そして、それに飽きたらない誰かからの通報、申し入れがあれば、機関は自らの信用を維持するために速やかに犯人探しと証拠探しを行い、研究者は「社会からの」制裁を受けることになるのだ。

 

論文を掲載した雑誌も、「インパクトファクター」という形で自らの雑誌が評価され、それが「商売」にも影響する以上、論文の質の確保が課せられるという意味においては機関と同様である。投稿規定に反する論文を調査し、なんらかの対応をすることは、「科学」の内側との問題というよりは、社会からの要請なのである。

 

今回の理化学研究所の対応において、「論文への疑義の対応は個人の問題であって、機関が引き受けるべきことではない」とする意見も散見されたが、文部省所管の「独立行政法人」という形である以上、前述のガイドラインに「文部科学省及び同省所 管の独立行政法人の競争的資金を活用した研究活動の不正行為」と明示されている以上、個人の対応に委ねるというわけには、もはやいかないのである。

 

なにより、「科学」の外側に住むひとたちは、それを認めてくれるのだろうか。国の研究者倫理ガイドラインの見直しの状況を見る時、残念ながら社会はもはや研究者を「プロフェッション」とみなしてはおらず、自律に委ねることをよしとしてはいない、と考えたほうがよい。「研究資金を使わせてもらうにあたっての信義則を破った」、というだけではなく、「科学」というシステムが社会から与えられたの自律性の危機という、もっと深刻な問題威を孕んでいると考えるべきである。

 

 

 

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