計算する知性といかにつきあうか――将棋電王戦からみる人間とコンピュータの近未来

▶シノドスの電子メールマガジン「αシノドス」

https://synodos.jp/a-synodos

▶真の教養を身に着ける「シノドス・サークル」

https://synodos.jp/article/20937

第四局: 仲間想いのおっさん

 

棋士側の一勝二敗で迎えた第4局、コンピュータ将棋選手権二位のPuellaαとベテラン塚田泰明九段(48)の戦いは稀にみる泥試合となった。

 

プロ棋戦でも頻繁に現れる相矢倉の定跡型に進んだ本局、先手Puellaαの鋭い攻めに防戦一方となった後手塚田は飛車を犠牲にして入玉(敵陣三段目以内に王を進めて安全にすること)を試みる。事前に貸し出されたPuellaαの前バージョンとの対局を通して、塚田はこのソフトが自ら入玉を試みないことを発見しており、自分だけが入玉し、安全を確保してから相手玉に攻めかかることを狙っていた。

 

だが塚田の目論見はもろくも崩れる。Puellaαは古いバージョンとは違って入玉に対応するプログラムを備えていたのだ。相手の入玉を抑える準備を全くしていなかった塚田陣を先手玉はするすると切り裂き、あっさりと入玉を決めた。双方の王が入玉して詰みがなくなると、大駒(飛車角)を五点、王と大駒を除いた小駒を一点として双方の駒を数え、より点の多い方が勝利する点数勝負となる。

 

入玉するために大駒を犠牲にした塚田の持ち点はPuellaαに遠く及ばない。棋士同士の対局であればすぐにでも後手が投了しそうな状況にも関わらず、「団体戦で負け越すわけにはいかない」という強い想いを秘めていた塚田はあきらめずに相手の大駒を追いまわす。通常の将棋とは似て非なるものとなった盤面を前にして、解説を務めた木村一基八段をはじめ見守る多くの棋士が辟易し、塚田の潔い投了を望んだ。河口俊彦元七段は、立会人の神谷広志七段(塚田と同年にプロデビュー)が陣取る控室の様子を次のように振りかえる。

 

 

塚田君が投げないものだから、指すたびに惨めになって行く。神谷は「ああひどい」と引っくり返った。私が「対局室に行って、対局を止めたらどう」と神谷君に言った。起き上った神谷君は「256手まで指す、という規定があります」と言ったが、顔は辛そうだ。さらに私が「立会人が止めた例もあるよ」と言うと、先崎君も、彼らしくない穏やかな口調で、ストップを促した。神谷君はうつむき「規定は規定です」と動かない[*7]。

 

 

だが局面は予想外の展開を見せる。入玉を確定させたPuellaαが「と金」作りを優先させる手を指し始めたのである。歩を成って「と金」にすることは通常の将棋では有効だが、全ての小駒に一点の価値しかないこの状況では意味がない。Puellaαは入玉には対応していたが、通常の評価関数と点数勝負の関連づけに不備があったのだ。相手の大駒を追い詰め、指をおりながら必死に点数を数える塚田に対して、黙々と歩を成るPuellaα。互いの目指すゴールがすれ違うまま延々と80手ほどの応酬が続き、もはや何を見ているのかわからなくなった解説会場や生中継サイトの将棋ファンから奇妙な哄笑が湧きおこるなか、塚田が基準となる24点を獲得し、双方の同意のもと立会人が引き分け(持将棋)の裁定を下した。

 

 

引き分け成立直前のニコニコ生放送中継画面

引き分け成立直前のニコニコ生放送中継画面

 

 

将棋界では、互いの技術を駆使してギリギリの攻防を繰り広げわずかな差で勝負が決まる対局が「良い将棋」と考えられている。だからこそ、プロの基準から見て挽回できない大差がついた場合は即座に潔く投了すべきだとされる。団体戦にかける想いのために見込みのない点数勝負を投げずに戦った塚田は、こうした将棋観からすれば「惨め」であり、棋士失格と言われても仕方がない。だが、もはや棋士と言うよりただの「仲間想いのおっさん」としてソフトに対峙し、想定外の状況が次々と現れるなか最善を尽くして引き分けに持ち込んだ塚田の姿は、観戦した多くの人々の心を動かした。電王戦全五局を通して、技術はともかく「何度でもリセットされうるゲームを戦いぬく精神」をもっとも強く発揮してみせたのは、実はこの「仲間想いのおっさん」だったのかもしれない。

 

これまで人間が独占していた相互行為の場に知能機械が参入していくことは、単に既存の行為のあり方が疑われるだけでなく、それを支えてきた倫理(~すべき)が疑われる契機ともなる。見守る棋士たちが塚田の「惨め」な姿に耐えられなくなっていったように、既存の価値基準の動揺には激しい痛みが伴う。だが、図らずも棋士の領分を踏みこえながら戦いぬいた塚田の姿は、自明の前提が崩れていく痛みの只中でこそ人間的な倫理に守られてきた領域の外で生きぬく道筋が開けることを示しているのではないだろうか。言い換えればそれは、世界を形式的な論理によって捉える「計算する知性」と世界を線状の物語によって捉える「人間的な知性」のはざまで、朦朧とする頭と思うように動かない身体を抱えながら何かを掴みとっていく「病人の知性」が育まれることの可能性である。

 

[*7] 河口俊彦「第二回将棋電王戦 第4局 電王戦記」p5。http://news.nicovideo.jp/watch/nw588820

 

 

1 2 3 4 5
シノドス国際社会動向研究所

vol.268 

・植原亮「エンハンスメント論争の行きつくところ――BMIから徳へ?それとも?」

・出井康博「留学生という名の単純労働者」

・堀内進之介「学び直しの5冊〈現代社会〉」
・有馬斉「患者が望まない延命治療を行うことは正当化できないパターナリズムか――『死ぬ権利はあるか』出版に寄せて」
・穂鷹知美「移動の自由がもたらす不自由――東ヨーロッパを揺り動かす移住・移民問題」
・多賀太「男性の「ケア」参加はジェンダー平等実現の決め手となるか」
・吉永明弘「ローカルな視点からの環境論」