対話と当事者性の罠――ネットワーク型サイエンスコミュニケーションへ

2. 受け取ることのモデル: 理解するとはどういうことか

 

このセクションではサイエンスコミュニケーションの学術的・理論的背景についてお話をします。サイエンスコミュニケーションの中心的な理論の一つに「受け取ることのモデル」というものがあります。ここでは、その理論を中心に話しを進めます。

 

僕も所属していた大学院の副専攻の教科書『科学コミュニケーション論』[*3]の著者のお一人である藤垣裕子先生の本文中の表現をおかりして、まずは理解をするとはどういうことかを考えてみます。

 

理解をすることの特徴の一つに、「個人が保有する情報量が増える」ことが挙げられます。これは、情報科学的には本質的変化の一つでしょう。しかし、人が何かを本当に理解するということは、単純に情報量が増えることではなく、「血肉化する」「腑に落ちる」と表現されるようなことだと思います。つまり個人が保有する知識・情報のネットワークの中に、あらたな情報を位置づけてネットワークを再構築するということです。ネットワークというのは、個々人の出自とか、趣味、職業、地域性などを含んだ「文脈」です。現代のサイエンスコミュニケーションは、この文脈を見落とした、権威から市民に一方的に与えられるカタチで行われたコミュニケーションへの反省からはじまります。

 

そのような一方向の情報の伝搬、もしくは行政の姿勢の実例は沢山ありますが、例えば、イギリスにおける狂牛病(BSE)問題などが教科書ではよく取り上げられます。他にも、さまざまな科学技術政策(例えば原発など)に対し、市民から反発があった際に、それを鎮めるための措置として、市民に科学を理解してもらう必要性があり、さまざまな対策が講じられました。そのとき、市民は科学的知識が欠如しているだけで、「容器」の中に科学知識を沢山注ぎ込めば、科学を理解し、好意的になるだろうという、非常に希望的観測のもとでのコミュニケーションが試みられました。これを「欠如モデル」といいます。しかし、それは失敗に終ります。

 

その後、市民はそれぞれ固有の文脈を持っており、その文脈を伝え手側が知った上で、双方向のコミュニケーションを取らなければ、科学の理解増進は難しいとして、次に「文脈モデル」というモデルが提唱されます。

 

ここでは、あたかも伝え手は科学の側で受け手は市民であるかのように書いていますが、これら双方向的モデルでは、情報の受け手が常に入れ替わる可能性も内包します。込み入った議論は省きますが、この2つの双方向的なモデルは、文化人類学でいうところの「ローカル・ナレッジ」とか「土着の知」の重要性を前提にしていると思ってもらって問題ないと思います。

 

いわゆるポストモダンの時代に唱えられた文化相対主義では、例えば先進国や近代化・工業化されたものだけが「優れている」という画一的な価値基準ではなく、地域特有の文化や知にはそれぞれ固有の価値があるとされています。それと同じように、科学が関係し社会的判断が必要な場面においても、科学の専門家の意見だけが正しいのではなく、一般市民が持つさまざまな価値基準や経験則も有用であり重要である、というものです。

 

 

3. 歴史的背景から生まれた伝えるためのカタチ・サイエンスカフェ

 

このような背景から、文脈モデル的な双方向コミュニケーションが重視され、それを体現するフォーマットとして、サイエンスカフェが広く採用されている、というのが、今日までのおおまかなサイエンスコミュニケーション、もしくはその理論的背景を成す科学技術社会論(STS)の流れであると、僕は理解しています。

 

話を子育ての科学のサイエンスカフェに戻してみます。この、双方向性や文脈理解の観点から考えると、今回のサイエンスカフェは、非常に上手く目的を達成しており「理想的なサイエンスカフェ」と言われるものになっているように思います。子育てという明確な文脈を、参加者と主催者、もしくはゲストスピーカーが共有していることによって、その子育てという共通点を介して、ふだんあまり科学者と出会わないような参加者が科学者と出会うという「新たな出会い」、そしてお互いが持つ知識体系・文脈を「伝え合う」・「広め合う」ということが可能になっています。

 

つまり、科学者だけが知識を伝え広めるのではなく、科学者の側であるわれわれもお母さん方の文脈を受け取ることが出来た、ということです。この「共通点がある」ということは、「当事者性をシェアできている」こと、と言い換えることが出来ると思います。実際、僕自身、今回のサイエンスカフェを楽しめたのは、年齢的に結婚や出産・子育て問題について「当事者性」を持って、深い関心があり、参加者のお母さん方と対話をしてみたいという欲求があったからです。そのシェアが出来ていれば、サイエンスカフェは「サロン」として、情報交換や相互理解、共通の意識を持った仲間の形成にとても効果的なのです。

 

また、形式的な面でもその理想と言われるものを満たしています。サイエンスカフェでは、話題提供者である科学者だけでなく、参加者どうしが意見を交換し、話題提供者もフラットな関係で議論に参加することが好ましいとされますので(さらに、熟議が好ましいとされる雰囲気も感じています)、そのフラットさを保つため、ときに、PowerPointなどのプレゼンツールやプロジェクターを使うことを良しとしない風潮さえもあります。なぜならプレゼンテーションとは一方向に情報が流れるもの、欠如モデル的なものと捉えられるからです[*4]。また、この状態を実現するためには少人数が好ましいとされています。実際には、100名を越えるイベントでもサイエンスカフェと言われるものがあり、私の経験でも30-50人規模のものも多いと思います。

 

今回は、プロジェクターを用いず、少人数で行われ、会話の方向も双方向でした。きっと他にもpeek projectさんのような明確なニーズに応える活動は増えていると思いますので、こういった活動をもっと多くの人々知って欲しいしと思いますし、足を運んで頂ければと思います。

 

ところで、先ほどから、「きっと」「思います」と、多少自信なさげに言っているのは、冒頭に申し上げた通り、僕は今回が久々のサイエンスカフェへの参加で、すっかり最近の動向に疎くなってしまったからです。というのも、実は、ある頃からサイエンスカフェに対して苦手意識を持つようになっていたのです。それは、伝えるという行為の現場において、ここで「重要である」言った「当事者性」が持つポジティブな面とネガティブな面、その二面性に起因します。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.277 

・坂口緑「生涯学習論にたどり着くまで──人はいかにして市民になるのか」
・平井和也「ジョージ・フロイド殺害事件から考える米国の人種差別問題」
・野村浩子「日本の女性リーダーたち」
・安達智史「「特殊」を通じて「普遍」を実現する現代イギリスの若者ムスリム」
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