対話と当事者性の罠――ネットワーク型サイエンスコミュニケーションへ

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4. 伝えるためのカタチは、もっと多様であるべきではないのか?

 

では、なぜ僕がサイエンスカフェを好きでなくなったのか、その理由を思い出してみようと思います。

 

第一に、これは性格の問題とも言えますが、自分が一参加者になったときに、いきなり知らない人と語り合うことが前提のイベントというものは、どうも居心地が悪くてたまらなかったんです。今回は、再三申し上げているように、僕に結婚や子育て問題、女性の社会進出や職場復帰などの問題に当事者性や関心がありました。例えば、それは、そういう年齢であるというプライベートな理由、雌雄間コミュニケーションや仔育ての研究に携わっているという理由によります。もし、それがなかったら、このイベントは僕にとって参加のハードルが非常に高いもの、もしくは関心がないものになります。ですが、このプロジェクトに関して言えば、それでいいのです。なぜなら、目的からして伝えるべき対象が明確で、実際に子育て世代にリーチしている(ターゲットを集客出来ている)からです。そして、語り合う環境というニーズ・需要が確実にあるからです。

 

僕が当時(2007-2010年くらい)、サイエンスカフェやサイエンスコミュニケーションの「空気感」に対して抱いていた疑問は、「科学と社会」「科学者と市民」といった二項対立的な考え方で、漠然と「一般市民」というターゲットを想定していた点です。これは、先に挙げた「文脈モデル」の出自、つまり科学者や行政と「一般市民」の間の対立や齟齬を解消しようとする過程で生まれたという経緯からしても、ある程度は仕方のないことです。

 

このような対立は歴史的にしばしば見られ、ローカル・ナレッジが文化人類学で取り上げられた背景にも、「土着の知vsテクノロジー」・「発展途上国vs先進国」といった二項対立があります。そしてその対立するどちらか一方が、権威的立場にあるという非対称性が存在します。さらに、このような対立は政治的・思想的姿勢ともあいまって、純粋な科学技術の問題ではなくなっていきます。なんらかの科学技術政策の意思決定場面では、単純に技術的課題解決の話だけではなく、思想信条の問題として複雑化していきます。そのため、対立を解消するための民主的過程として、熟議が必要になりますが、そのような熟議に参加したいと思う人々は、問題となる課題を推進することに、賛成にせよ反対にせよ、当事者性や高い関心を前提として持ち合わせていることになります。

 

熟議型のワークショップやサイエンスカフェは、こういった前提・問題意識を共有しているが、しかし、話し合いや和解が必要な人々には、向いているように思います。問題意識を明確に持っている人たちがいるということは、その人たちにとって、すでに何らかの問題が顕在化しているが故に当事者となっており、一刻も早い話し合いが必要となるからです。この枠組みを更に広い「一般市民」の層にも広げ、双方向コミュニケーションを実現していくことが、現代における平時のサイエンスコミュニケーションと言うことができると思います。

 

これは、歴史的事実としてしょうがないところではあるものの、このような構図を保持したまま、現代のサイエンスコミュニケーションは、一般市民との対話を重視したコミュニケーションを図るようになったと言えます。しかし、僕には、コミュニケーションをするべき対象を「一般市民」という名前でしか捉えられていないように思える状況が、文脈を読むことの重要性を説くサイエンスコミュニケーションとしては、説得力の無い姿勢に思えてしょうがないのでした。なんだか顔の見えない、没個性化した存在として、一般市民を捉えているように思えました。

 

市民とはさまざまな背景を持つ不均一な集団です。だとすれば、何か新商品を開発する際に、マーケティングをして、ターゲットを搾り、それに適した広告戦略を練り、販路を切り開くといったような、一般社会や市場でなされているような分析がなければ、情報は届かないはずなのです。さらに、サイエンスカフェは文脈モデルの名の下に双方向な熟議を前提としています。それは、僕でなくともイベントとしてハードルが高いのです。

 

自分が休日に何をしているかを考えてみて欲しいのですが、たとえ科学以外の分野だとしても、好んで熟議型のイベント参加をするでしょうか。トークショーや講演会を聴きに行くことはあると思いますが、基本的には、主役であるゲストの話を聴きに行くのであって、お客さんと話したくていくのではありません。休日にゆっくり話すなど、通常、友人としかしません。

 

どうも、サイエンスコミュニケーションのイベントというのは、お客さんに対して「そうあるべき」という想いが主催者の側に強くあり過ぎる。自分がスキルを磨きたい分野であれば、セミナー講師や参加者含め、沢山話をして名刺を配り、人脈を作りたいと思う人もいるでしょう。しかし、そのような行為の背景には、強い当事者性があるはずです。その段階に至るには、いくつもの過程があるはずなのです。本を読むように1人で向き合うようなことや、講演会をただ聴きにいって勉強する。美術館や博物館、映画館に1人で、もしくは友人や恋人と赴き、作品を眺める。お料理教室やヨガに通う。われわれの日常の趣味、鑑賞、思索というものはさまざまな密度やレイヤーで構成され、人々は、自分に合ったものを自然と選び取っているはずです。

 

しかし、サイエンスコミュニケーションのあり方は、そのような日常と比べると、非日常的と言わざるを得ないほどに、コミットメントを求めている。そのハードルの高さで、ターゲットを明確に絞ることも、広報戦略を練ることもなく、「サイエンス」と名の付いたイベントをするとどうなるか。僕には、それが、もともと科学好きの人が集まっているコミュニティにしか見えなくなってしまったのです。

 

科学と一般市民の間の非対称性を解消するべく生まれたサイエンスコミュニケーションは、しかし、伝え手となるコミュニティを形成した一方で、「一般市民」の中に潜在的に存在するニーズの掘り起こしが出来ていない。そのため、需給の非対称性が生じていると僕は思いました。現代のサイエンスコミュニケーションにおいて、双方向性を重視することが、手法面でドグマ化し、むしろ、科学と市民の間の双方向的なコミュニケーションが実現されていないようにしか思えないのです。

 

そもそも、欠如モデル批判というものも、一方向の情報伝達が人々の科学知識を上昇させること自体を否定するものではないのです[*5]。どのレベルでのコミュニケーションを成立させたいか、それによって「方法論を選択すべきである」という(だけの)話だと思うのですが、それが双方向性至上主義を生んでしまった節があるのではないかと。

 

僕の感じていることを簡単に表すと、次のような感じです

 

 

・科学にまつわるなんらかのイベントをしようとする

→広報戦略をしていないのでそもそも意識が高い層にしか届かない

→意識の高い集団内での双方向コミュニケーションが高まる

→外からはレベルが高くて入り込めない or そもそも存在に気付かない

→特定の集団の中で独自の進化を遂げる(他の集団とは違う言語を持つようになる)。

 

 

もっと、内容にしても、やり方にしても、媒体の使い方にしても、さまざまなカタチが存在するべきなのではないか。でなければ、人々が「ふと手に取りたくなる」ようなモノと認識されない、気付かれないのではないか、と。共感を得るためには当事者性のシェアは重要になりますが、一方で、強すぎる当事者性は、近付き難さや排他性すら帯びることがある。情報へのアクセシビリティとアーカイブ、つまり、見せ方(魅せ方)への配慮が、サイエンスコミュニケーションには無さ過ぎるのではないか。

 

そう直感した僕は、先のインタビューでも紹介させてもらったイベントを開催し、参加者にアンケートを行いました。僕のこの調査は極めて小規模なものですが、他の調査でも類似した考察がなされていますので、そちらを紹介させてもらいたいと思います。西條ら[*6]による2009年の調査報告では、人々の関心度を4つのクラスターに分類した上で、科学イベントによく参加する層の特徴について考察しています。

 

この調査ではアンケートの回答の結果から回答者を4つの層(クラスター)に分類しました。結論だけを簡単にまとめると、科学イベントに訪れる多くの層は、「ものごと全般に興味がある層(クラスター1)」と「科学好きな層(クラスター2)でした。前者は、社会参加意識は高く、後者は低い。また、どちらの層も知識量が多い、というような結果です。ちなみに、クラスター2の7割は男性でした。注目すべきは、クラスター3で、この層はもっとも人数の多い層でした。科学は苦手とするが社会に対する意識は高く、知識量は中程度。7割が女性です。科学に苦手意識はあるものの「もっと知りたい」と答える人も多いという結果でした。クラスター4は、今回の調査では関心のある領域が特定されなかった層です。

 

このことからも、現状では科学イベントに参加している層はそもそも高関心層であり、裾野を広げるためには低関心層で、かつ、全体の中でも母数の多い3番目のクラスターを取り込むストラテジーが当面は重要なのではないかと思います。われわれは、さまざまなエンターテイメントがあふれる日常で、このような層の目に留まりさまざまな情報から選び取ってもらうようなアプローチをしなければいけないはずなのです。

 

 

5. 枠を越えられない問題 –科学コミュニケーションだけではない問題

 

3月末、僕は訳あって、京都にいました。目的の一つは、SYNAPSEの良き理解者で私と同い年の気鋭のクリエイティブディレクター/プランナーの松倉早星さん(Ovaqe http://ovq.jp/ – top)とお会いすることです。その日、松倉さんから電通のクリエイティブディレクターでコピーライターの並河進さんを紹介して頂き、並河さんが行っていた対談を書籍にまとめた『Communication Shift』[*7]を頂きました。松倉さんも対談相手の1人です。並河さんは、資本主義の論理以外で、広告というものが社会のために新たに出来るコミュニケーションのカタチを目指して、さまざまな社会活動や事業を社会に広める取り組みをされているソーシャル・プロジェクトの専門家・実践家です。その本の ”広告のスキルで「通訳」する” という章で、あるNPOの取り組みを支援した際の感想としてこのように記してあります。

 

 

「なにせ想いが強過ぎて、最初から最後まで、児童労働の話ししかしない。でも、それでは児童労働に関心がない人は振り向いてくれない。」

 

 

これはまさに、上述の文脈モデルやサイエンスコミュニケーションコミュニティ内で起きている問題と同じことが、他の分野でも起きていると考えられます。

 

実は、サイエンスコミュニケーションと似たような構造は他の分野にも山のようにあるのです。NPOのミッションは、政府のセーフティネットや政策から漏れてしまっている解決すべき社会的な課題を民間の人的資源で解決していくことだと思います。そこには「社会に知られていない重要な課題を、人々に伝えて解決していく」という、サイエンスコミュニケーションとパラレルな構造・ミッションがあります。

 

さらに、同じように、その活動自体を知ってもらえていないという現状があるように思えます。並河さんはその問題を”広告のスキルで「通訳」する”ことで解決しようとなさっています。科学を社会に伝えるための人材、もしくは職能を「サイエンスコミュニケーター」とか「科学技術インタープリター」などと呼びますが、サイエンスコミュニケーションに必要な機能も、この「通訳」にあります。もしくは訳しただけでは意味が伝わらないため、背景文化も含めた解説もセットにする編集的手法も求められるはずです。

 

何かを伝える際には、なんらかの媒体が必要になります。アカデミアの中ではそれが論文です。しかし、社会に伝える際には、書籍、テレビ、web、広告といった媒体に合わせた形でコミュニケーションをしないといけません。そもそも「言葉」自体すら、媒体と考えることもできます。われわれは、目的やターゲットに合わせ、媒体・フォーマットを選んでコミュニケーションをデザインしなければなりません。しかし、その術を知らない、もしくは必要性を理解出来ていないコミュニティが非常に多いように思います。SYNAPSEが発足の当初から編集者やデザイナーと一緒に活動を始めたのは、アカデミアの人間が持ち合わせていない、コミュニケーションのデザインをするスキルが必要だったからです。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.269 

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