「異質性の祭典」としてのオリンピック――共生社会とナショナリズム論の動向

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「多文化主義の失敗」とリベラル・ナショナリズム

 

ここで、民族をめぐる近年の政治理論の動向へとしばらく視線を移してみたい。この分野では、1990年代以降ウィル・キムリッカらの業績を中心に、多文化主義の立場から問題が提起されてきた(キムリッカ『多文化時代の市民権』晃洋書房、原書は1995年、など)。それまでの個人主義的なモデルでは解決できない民族や文化集団の間の不平等にどのように対処していくか、が問われたのである。すでにカナダなどで二言語主義政策など多文化型の政策が実践されており、また冷戦終結後にユーゴスラヴィアでの民族紛争が激化したことなどもあって、多文化主義の理論研究は現実的な緊急性を持つものでもあった。

 

ところが、先に述べたロンドン同時爆破テロの後、多文化主義は失敗したのではないか、という批判が表面化してくる。多文化主義は社会の一体感を破壊した上、各文化を孤立させ集団間の対立を深めてしまい、その結果がテロにつながった、というのである。

 

2010年にドイツのメルケル首相が、続いて2011年にはイギリスのキャメロン首相が、相次いで「多文化主義の失敗」に言及した。そしてキャメロン首相は、テロを招くような「過激主義のイデオロギー」に立ち向かうために、「あらゆる人に開かれている、共有されたナショナルなアイデンティティー(shared national identity that is open to everyone)」が必要だと述べるに至る(PM’s speech at Munich Security Conference)。

 

多文化主義は、アイデンティティーの多様性を積極的に承認し、育んでいくことを主要な課題としていた。だが、共有された唯一の国民的アイデンティティーが強調されるとなれば、大きな方向転換となる。

 

確かに、ここで言う「ナショナルなアイデンティティー」は、血統にしばられることなく「開かれている」とされる。アイデンティティー形成のプロセスに少数民族や文化集団の参加も想定されるので、排外主義や目に見えた差別と一応は切り離される。そのため、こうした立場は、単なるナショナリズムとは異なり、「リベラルなナショナリズム」と呼ばれる。やや古いが、「ナショナリティという観念は人々の集団の自覚的な創造行為であって、それぞれの集団はみずからの社会的・政治的環境を理解するためにこの観念を練り上げ改変してきたのであるが、その際私たちもまたこうした過程に加わっている」というミラーの言葉を、定義の一例として挙げてもよいだろう(デイヴィッド・ミラー『ナショナリティについて』風行社、11頁。強調は早川)。

 

とはいえ、たとえば消滅の瀬戸際にまで追い込まれた民族集団へナショナル・アイデンティティー形成作業への参加を呼び掛けることにどれほどリアリティーがあるかを考えれば、多文化主義からの撤退は明らかである。

 

 

日本の共生論の位置

 

こうした多文化主義見直しの動向に照らし合わせた時、日本の状況はややねじれた位置にあるように思われる。先に記したように、日本でもこの間多文化共生の試みが継続されてきた。直近では特に、今後の人口減少を視野に入れて、移民の受け入れ促進の可否にまで議論が及ぶことも多い。

 

しかし他方で、以前に別途論じたように(ヘイト・スピーチと「自由」の意味)、日本では多文化主義の問題提起が必ずしも十分に受け取られてこなかったきらいがある。日本における多文化共生は、多様な文化の平等と共存をめざす潮流がある一方で、事実上の多文化化のみを受動的に承認し、あらかじめ存在するナショナルな「日本文化」を前提としたままで他の文化を受け入れようとする風潮も強かった。そのため、そもそもナショナルな文化や多様な文化がそれぞれどのような意味を持ち、今後どのように受け継がれていくかについて、議論の場が形成されてこなかったのではないだろうか。

 

たとえば外国人労働者は、日系外国人にしても実習生にしても、文化形成の一部を担う「住民」としてではなく、単なる「労働力」として受け入れられているというケースも見られた(宮島、前掲書、第7章、および田中宏『在日外国人 第三版』岩波新書、第8章)。もし「労働力」が、グローバル経済の動向次第で出入をコントロールされるだけの存在ならば、それはあくまでも「お客様」扱いであり、観光客が一定期間後に帰っていくのと大差はない。

 

前節で見たように、リベラル・ナショナリズムの登場は、多文化主義が失敗したという判断を論拠としていた。そのため、多文化受容の積極性には歯止めがかけられている。たとえば言語政策について、ミラーは、多様な言語を平等に扱うのではなく、ナショナルな言語を決定しそれを全市民が学べるようにするべきだと主張する(前掲書、336頁)。だが、民族や文化の多様性にどのように向き合うかという多文化主義の問題提起を一度はくぐり抜けてきているだけに、リベラル・ナショナリズムはナショナルな文化自体の変化の可能性を認め、しかもその変化の方向を人々の議論によって意図的にコントロールしていこうとするものでもあった。文化は政治的・社会的な作為の結果として生まれてくる可塑的なものとされているのである。したがって、リベラル・ナショナリズムは、多文化主義に対して反動的でありながらも、その反動自体を抑制する論理を内包することになる。

 

これに対して、日本の多文化共生は、多文化と銘打っているにもかかわらず、多文化主義を批判するリベラル・ナショナリズムよりも文化の受容に対して否定的であり得る、という一面を持つ。どれほど外国人人口や民族的多様性が増加しようとも、ナショナルな文化そのものの建設的な見直しが可能とされない限り、多様な文化はナショナルな文化と分断された「お客様」にとどまってしまうからである。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.269 

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