安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること

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リン・ギルダーデール事件

 

DPPのガイドラインが出る1年前に判決が出た興味深い事件がある。08年12月に、慢性疲労症候群(ME)で17歳の時から寝たきりだったリン・ギルダーデールを、14年間つきっきりで介護してきた元看護士の母親ケイが殺害した。殺害方法は、砕いたモルヒネの錠剤を空気と一緒に血管に注入する、というもの。ケイは逮捕時にリンについて「死んでいるわけではないけど、まともに生きているとも言えない状態だった」と語り、本人が絶望して死にたいと望んだけど自力では死ねなかったので、やむなく殺害したのだと主張。自殺幇助の罪状のみを認めた。

 

しかし、慈悲殺と自殺幇助は違う。両者を分けるのは決定的な行為を本人が行うかどうかにある。そのためスイスのディグニタスですら、毒物を混ぜた飲み物のストローを口元にまでは持っていくが飲ませることはしない。飲ませてしまうと自殺幇助ではなく殺害行為になるからだ。ギルダーデール事件では、母親が決定的な行為を行っている。

が、当時の英国は、先に述べたデビー・パーディ訴訟の行方を巡って、合法化議論が一種の狂騒状態にまで加熱していた時期だった。英国世論はケイ・ギルダーデールの14年間もの介護という献身に感動し、涙し、娘を殺害した行為に拍手と賛辞を送った。逮捕・起訴した検察局には「母の愛を裁くな」と、非難の嵐が巻き起こった。そして09年1月、裁判官までが「こんなに献身的で愛情深い母親を起訴したのがそもそもの間違い」と検察を批判し、事実上の無罪放免としたのである。

 

英国で家族介護者による自殺幇助事件が不起訴になるたびに、家族介護は密室だ、ということを考える。英国のガイドラインは、相手への思いやりからすることで自分が直接的な利益を得るのでないなら、自殺幇助の証拠はあっても起訴することは公益に当たらないとして、これまですべて不起訴にしている。最近では、警察が早々と捜査を打ち切っているという情報もある。しかし、それで本当に殺人や慈悲殺と自殺幇助とを区別できるのか、という疑問が私にはずっとある。

 

ギルダーデール事件の際に一人のME患者の女性が新聞に投稿し、以下のように書いた。「障害のある人が死ぬのを身内が手伝っても刑罰を受けなかったこの事件は、我々の社会のダブル・スタンダードの、さらなる1例です。つまり、患者自身の苦痛よりも、病人のケアをしている人のほうに同情が集まる。もしも自殺希望の身障のない人に行われた犯罪だったとしたら、それは間違いなく殺人とされたはずです。自分で身を守るすべを持たない弱者をケアしている人たちに向かって、この事件は誤ったメッセージを送ります。『介護者が助けてほしいといっても、その願いは無視されますよ、でもね、もしも、どうにもできなくなって自殺を手伝うのだったら、同情をもって迎えてあげますよ』と」

 

私はギルダーデール事件には、アシュリー事件と全く同じ構図が隠れていると思う。どちらも、障害のない人に行われれば違法行為になることが、障害のある人だというだけで親の愛の名のもとに許容され、そればかりか賛美までされてしまった。その背景として、障害のある人を障害のない人よりも価値の低い存在とみなす価値意識が社会に共有され始めている、という現実があるようにも思う。

 

もう一つの共通点は、アシュリー事件の議論の中にもギルダーデール事件の議論の中にも、「社会にできることはなかったのか」と問うてみる視点、「社会で支える」という視点がまったく欠けていることだ。その意味で、この2つの象徴的な事件では、重症障害児・者本人たちと一緒に、実は介護者である親や家族も同時に、社会から見捨てられているのだと思う。「自己決定権」や「自己選択」という名のもとに、実は「自己責任」の中に個々の家族が冷酷に投げ捨てられ、そこに置き去りにされ、見捨てられようとしているのではないだろうか。

 

親が介護しやすいように障害児の体に無用な医療で手を加えたり、それを小児科医が提唱するような社会ではなく、どんなに重症障害のある子どもも一人の子供として尊重され、尊厳を認められて、ありのままの姿で成長し生きていくことを許される社会、人生途上で障害を負い絶望する人に「もう生きるに値しない人生だね」と共感して死なせてあげるのではなく、その人が生きる希望を取り戻すための支援を考える社会、家族介護者が介護しきれなくなったら殺してもOKにされていくような社会ではなく、支援を受けながら風通しの良い介護ができる社会へと、社会がどう変わるべきかが本当は問題なのではないだろうか。

 

 

介護者もまた支援を必要としている

 

アシュリー事件を追いかけ始めてしばらくした頃に、仕事の関係で英国の介護者支援制度について知り、時々調べるようになった。英国には介護される人のニーズとは別に、介護者自身のニーズをアセスメントする責任を自治体に負わせた介護者法がある。日本ではまだ「介護者支援」という言葉そのものが馴染みが薄く、「支援」というと要介護状態の人への支援でイメージが止まってしまっているけれど、介護を担っている人も生身の人間なのだ。どんなに深い愛情があっても、どんなに壮絶な努力をしても、生身の人間にできること、耐えられることには限界がある。介護者もまた支援を必要としている。私は、アシュリー事件もギルダーデール事件も「介護者支援」という視点から改めて考えると、まったく違う様相で見えてくるものがあるのではないか、という気がしている。

 

日本でも2010年にケアラー連盟という市民団体が立ちあげられた。去年、日本ケアラー連盟として社団法人となり、介護者支援法の制定を求めて活動を始めている。私も加えていただき、昨年度、北海道の栗山町が日本で初めての介護者手帳を作った際に、ちょっとだけお手伝いをした。手帳の表紙には「大切な人を介護している、あなたも大切なひとりです」と書いた。

 

「アシュリー療法」やギルダーデール事件が許容されてしまう国々が向かっているのは、決して誰も幸せになることのない社会のように思えてならない。それは「自己責任」の中へと「障害者や高齢者や介護者が」棄て去られる社会ではなく、「障害者や高齢者や介護者から」棄て去られていく社会、ではないのか。その先にできていく人の世とは、一体どのような場所なのか。

 

尊厳死の法制化を拙速に決める前に、本当に「安楽死や自殺幇助を合法化した国ではおぞましいことは起こっていない」のかどうか、これらの国々で起こっている出来事についてきちんと知り、「起動安楽死チーム」や「安楽死後臓器提供」が既に現実となっている国々が一体どこへ向かおうとしているのか、しっかりと見極めるべきだろう。まだまだ知るべきこと、考えるべきことは沢山あるのではないだろうか。

 

 

 

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vol.269 

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