2014.09.18

朝日新聞慰安婦問題とメディアの誤報リスクマネジメント

山口浩 ファィナンス / 経営学

社会 #吉田調書#朝日新聞

2つの「吉田」問題

このところ、朝日新聞への批判が強まっている。きっかけとなったのは、いわゆる従軍慰安婦問題に関するいわゆる「吉田証言」と、福島第一原子力発電所事故に関するいわゆる「吉田調書」に関し、朝日新聞の不適切な報道が相次いで明らかとなったことだ。

社内外の批判を受け、とうとう社長が謝罪、「再生に向けておおよその道筋をつけた上で、すみやかに進退について決断」、つまり時期をみて辞任する意向を表明する事態となった。

いまや以前からいるアンチ朝日勢力だけでなく、ニュートラルな、あるいは考え方が近いとされる人々からも、そして社内からも批判の声が上がるという袋叩きの状況だが、もともと影響力のないメディアにこれほどの批判が寄せられることはふつうないわけで、この苦境はある意味、その存在感の大きさの裏返しでもある。もちろん、これまでのやり方に問題があったことは明らかであるから、それを考えなおす機会にしてもらいたい。

これらの問題自体に関する論考はすでに数多く出されている。本稿では、そうした個別の問題から少し離れ、より一般的なメディアの誤報問題について、リスクマネジメントの観点から考えてみることにする。

「みなさまに深くおわびします 朝日新聞社社長」

(朝日新聞2014年9月12日)

http://digital.asahi.com/articles/ASG9C6V5QG9CUHMC00L.html

批判の経緯をふりかえる

とはいえ、とっかかりとして、今回批判を受けている問題について、簡単に整理しておく。

今回の一連の発端は今年8月、従軍慰安婦問題に関し、軍による強制連行を自ら行ったとして朝日新聞がかつて報じた男性の証言(いわゆる吉田証言)には根拠がなかった、とした同紙の報道だ。

「特集ページ:慰安婦問題を考える」

(朝日新聞)
http://www.asahi.com/topics/ianfumondaiwokangaeru/

朝日新聞自身が検証しそう報じたわけだが、吉田証言については早い時期に他社メディアから疑問の声があがっていた。なぜ当初きちんと裏付け取材を行わなかったのか、検証を行うまでになぜ32年もかかったのかなどについて、批判が数多く寄せられているのも当然だろう。

「慰安婦報道 朝日の責任問う声」

(読売新聞2014年8月6日)

http://www.yomiuri.co.jp/feature/ianfu/20140812-OYT8T50165.html

「朝日新聞「慰安婦問題を考える」を検証する 随所に自己正当化と責任転嫁」

(産経新聞2014年8月8日)

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140808/plc14080808320011-n1.htm

さらに、この問題を追及する週刊誌の広告掲載を拒否したり、この問題を指摘した朝日新聞の人気コラム「池上彰の新聞ななめ読み」の掲載を拒み、著者の池上彰氏が連載をやめると公表した件(その後内外の批判を受けて朝日新聞が謝罪しコラムは掲載された)などでは、言論抑圧ではないかとの批判も受け、自ら火に油を注いだかたちとなった。

「朝日新聞、文春・新潮の広告掲載拒否 「『反省』ない」「部数がドーン!」に反発」

(J-CASTニュース2014年8月28日)

http://www.j-cast.com/2014/08/28214336.html

「週刊新潮の広告、「売国」「誤報」黒塗りで掲載へ 朝日新聞」

(産経新聞2014年9月3日)

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/140903/ent14090322290016-n1.htm

「池上彰氏、朝日新聞に連載中止申し入れ 慰安婦記事の掲載断られ」

(日本経済新聞2014年9月3日)

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG0300N_T00C14A9CR0000/

「(池上彰の新聞ななめ読み)慰安婦報道検証 訂正、遅きに失したのでは」

(朝日新聞2014年9月4日)

http://digital.asahi.com/articles/DA3S11332230.html

「<お知らせ>池上さんコラム、掲載します」

(朝日新聞2014年9月4日)

http://digital.asahi.com/articles/DA3S11332384.html

「池上彰さんの連載について おわびし、説明します」
(朝日新聞2014年9月6日)
http://digital.asahi.com/articles/ASG956K76G95ULZU019.html

タイミングがいいのか悪いのか、朝日新聞は今年5月の、福島第一原子力発電所事故に関して政府事故調査委員会が行った当時の吉田所長の調書、いわゆる「吉田調書」に関するスクープ記事についても、記事の取り消しを迫られた。これは朝日新聞が、政府が非公開とした調書の内容をいち早く報じたものだったが、朝日の報道後、産経、読売など各紙が追随するかのように吉田調書の内容を報じるとともに、朝日の報道内容に疑問を呈していた。こうした動きを受け、政府も吉田調書そのものを公開するに至った。朝日新聞は、政府の公表とほぼ同時に記事取り消しを発表していることからみて、後ろめたい部分があることをあらかじめ知っていたのだろう。

「「吉田調書」 福島原発事故、吉田昌郎所長が語ったもの」

(朝日新聞2014年5月)

http://www.asahi.com/special/yoshida_report/

「福島第一事故『吉田調書』、『全面撤退』明確に否定」

(産経新聞2014年8月18日)

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140818/plc14081805000001-n1.htm

「福島第一事故吉田調書 『全面撤退』強く否定」「朝日報道 吉田調書と食い違い」

(読売新聞2014年8月30日)

http://www.yomiuri.co.jp/politics/20140829-OYT1T50151.html

http://www.yomiuri.co.jp/feature/chosho/20140901-OYT8T50372.html

「政府、吉田調書を公開 菅元首相・枝野氏ら18人分も」

(朝日新聞2014年9月11日)

http://digital.asahi.com/articles/ASG9C63PYG9CUTFK00Y.html

「吉田調書「命令違反」報道、記事取り消し謝罪 朝日新聞」

(朝日新聞2014年9月12日)

http://digital.asahi.com/articles/ASG9C7344G9CULZU00P.html

こうした一連の流れが、朝日新聞に対する信頼を大きく傷つけたことはまちがいない。報道内容の信頼性は、報道機関としては生命線であろう。2つの「吉田」問題は、実際に週刊誌がいうような「部数がドーン!」という状況であるかどうかはともかくとして、単に報道に問題があったというだけではなく、会社経営にとっても大きな危機であるはずだ。社長が辞任することにどれほどの意味があるかはさておき、一般的な企業であれば即座に辞任してもおかしくないくらいの大失敗であるとはいえる。

今後、少なくとも吉田調書問題については、朝日新聞社が設けている常設の第三者機関「報道と人権委員会」が審議することになるらしい。慰安婦問題については、これとは別に社外の弁護士や歴史学者、ジャーナリストら有識者に依頼して第三者委員会を作りそこで検討するらしい。なぜ分けたのかはわからないが、特殊な問題であるということだろうか。

「「報道と人権委員会」、吉田調書をめぐる朝日新聞社報道を審理へ」

(朝日新聞2014年9月12日)

http://digital.asahi.com/articles/DA3S11346554.html

朝日新聞 報道と人権委員会

http://www.asahi.com/shimbun/csr/2012/topic3/topic3b.html

この機に乗じて朝日新聞批判をここぞと展開する向きが同業他社を含めて少なくないが、これらの問題そのものについてここで論じようとは思わない(慰安婦問題については別途、自分のブログで書いた)。慰安婦問題や原発事故に関する朝日新聞の報道自体やその後の対応については、既に多くの論者によるさまざまな論考が出されているが、より根本的には、これら個別の案件を超えた構造上の問題こそが重要ではないかと思われる。ジャーナリズム論は専門外だが、ここでは、朝日新聞や特定の問題に限定せず、こうした「誤報」(あるいは批判を受ける情報発信一般)をメディアにとってのリスク要因ととらえ、リスクマネジメントの観点からこの問題について考えてみたい。

誤報やごまかしはどのメディアにもある

朝日新聞に問題を限定しないのは、いうまでもないことだが、こうした誤報や見苦しいごまかしが、他社にもごくふつうにみられるからだ。

新聞の誤報については、2012年に弁護士等の有志が立ち上げた一般社団法人日本報道検証機構という組織があり、誤報検証サイト『GoHoo』が開設されている。これがすべての誤報を網羅しているというわけではなかろうが、これをみる限り、誤報が朝日新聞に限った話ではないということはよくわかる。

誤報検証サイト『GoHoo』

http://gohoo.org/

 

graph2

もちろん、ひとことで「誤報」といっても、さまざまなものがある。その「悪質度」や影響の大きさもいろいろだろう。今回の朝日新聞の慰安婦報道の場合は、国際関係にも影響を及ぼした可能性があるから、特大級といってもいいだろうが、他社の誤報もなかなかのものだ。せっかくなのでいくつか例を挙げよう。

たとえば今回(というか以前から)朝日新聞批判の急先鋒となっている産経新聞については、記憶に新しいところでは2012年、陸上自衛隊が東京23区で行った統合防災演習で、自衛隊側からの要請を11区が拒否したと報じ、11の区すべてから「事実無根」との抗議を受け謝罪した件がある。その前年には中国の前主席である江沢民氏が死去したというこれまた大きな誤報を流した。

「統合防災演習 東京23区に庁舎立ち入り要請 11区が自衛隊拒否」

(産経新聞2012年7月23日)

「江沢民前中国主席死去 84歳 改革開放路線を推進」

(産経新聞2011年7月7日 大阪夕刊)

いずれも誤報の方向性がいかにも産経らしいという感があるが、個人的により印象深いものとして、2005年4月15日、フジサンケイグループ主催の「地球環境大賞」授賞式の模様を伝える記事で、秋篠宮殿下のお言葉を改変したケースを挙げたい。面白いので少し引用する。

「地球環境大賞授賞式 「あかり社会 大きく変わる」松下電工・畑中社長」
(産経新聞2005年4月15日東京版朝刊)

本日、第14回地球環境大賞の授賞式にあたり、今年も、皆さまとお会いすることができ、大変うれしく思います。また今年から、フジサンケイグループが一体となってこの顕彰制度を主催することになり、「環境」と「経済」が両立する持続可能な社会の実現に向けて、ますますその役割を深めていくことを希望します。 近年、地球環境問題は、・・・

これが産経新聞の報じた秋篠宮殿下のお言葉だが、一見して「おや」と思う人も多いだろう。皇室が公式の発言として一企業の名を挙げてほめるようなことをするとは考えにくい。実際のお言葉はこうだった。

本日、「第14回地球環境大賞」の贈賞式にあたり、今年もまた皆様とお会いすることができ、大変うれしく思います。 近年、地球環境問題は、・・・

つまり産経新聞は、「フジサンケイグループが一体となって~希望します」のくだりを勝手に挿入した。自グループの宣伝のためにお言葉を改変、産経の記事によくあるような強いことばを使えば「捏造」したのだ。当然、意図的なものだろう。こんな露骨なことをやって気づかれないと思ったこと自体不思議だが、案の定すぐばれ、翌日産経新聞は以下の通りおわびと訂正を行った。

十五日付1面の「地球環境大賞授賞式」の記事中、秋篠宮殿下のお言葉の中に、引用の誤りがありました。謹んでおわびし、全文を取り消します。

「引用の誤り」だそうだ。一応謝罪のことばは入っているが、これを「誤り」というのはそれこそ日本語の「誤り」というものだろう。当然、「謝罪」も「引用の誤り」に対するものであって、皇室のお言葉の捏造(皇室大好きな産経的にはあまりに畏れ多い不敬の振る舞いではないだろうか)に対する謝罪ではない。

また読売新聞でいえば、1989年8月17日夕刊1面トップで報じた、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の容疑者のアジトが発見されたとして事実と異なる「アジト」のようすを地図や図解入りで詳細に報じた誤報や、2009年11月から2012年10月にかけて報じられ、2012年10月17日に同社社長が謝罪するに至った、iPS細胞の作製や臨床応用に関する誤報などが有名だ。いずれも不十分な取材や思い込みによる誤報だ。

「宮崎のアジト発見 3幼女殺害の物証を多数押収 小峰峠の廃屋」

(読売新聞1989年8月17日東京版夕刊)

「肝臓がん細胞からiPS作製 米大の日本人研究員ら」

(読売新聞2010年2月24日東京版朝刊)

また、今回朝日新聞が謝罪するきっかけとなった、福島原発事故の政府事故調査委員会がまとめた調書からは、事故当時、海水注入が一時中断されたことが菅首相(当時)の意向を受けたものとした読売新聞の報道も誤りであったことが裏付けられた。当時、朝日新聞はこの読売報道が事実と異なると指摘していたが、読売新聞は現在に至るまでこれについて何らの対応も行っていないようだ。

「首相意向で海水注入中断 福島第一 震災翌日、55分間」

(読売新聞2011年5月21日東京朝刊)

東電から淡水から海水への注入に切り替える方針について事前報告を受けた菅首相は、内閣府の原子力安全委員会の班目春樹委員長に「海水を注入した場合、再臨界の危険はないか」と質問した。班目氏が「あり得る」と返答したため、首相は同12日午後6時に原子力安全委と経済産業省原子力安全・保安院に対し、海水注入による再臨界の可能性について詳しく検討するよう指示。(中略)
首相が海水注入について懸念を表明したことを踏まえ、東電は海水注入から約20分後の午後7時25分にいったん注入を中止。(中略)その結果、海水注入は約55分間、中断されたという。

「枝野官房長官「海水注入中断は東電の判断」 福島第一原発事故」

(朝日新聞2011年5月23日朝刊)

枝野幸男官房長官は22日、東京電力福島第一原発1号機で震災翌日の3月12日にいったん始めた原子炉への海水注入が一時中断された問題について「東電がやっていることを(政権側が)止めたようなことは一度も承知していない」と語り、海水注入の中断は東電側の自主的な判断との認識を示した。

「福島第一原発 海水注入巡り指揮混乱」

(NHK NEWSWEB 2014年9月12日)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140912/k10014546541000.html

東京電力から官邸に派遣されていた当時の武黒一郎フェローは、吉田元所長に直接電話し、官邸ではまだ海水注入は了解していないとして中断するよう指示し、吉田元所長は、原子炉の状況を考えて、みずからの判断で注入を継続し、本店には中断したと事実と異なる報告をしています。

(中略)

これに対し当時、官邸にいた細野元総理大臣補佐官は「実は止めたんじゃないかとか、情報が官邸に入っていたのではないかということに関しては、これは断言できます。みんな海水は入っていないと思っていました」と話し、海水の注入が始まっていたことは東京電力から知らされていなかったと証言しています。

また、朝日新聞が誤報とともに批判を受けている、週刊誌の新聞広告に対する拒否や黒塗りについても、読売新聞は、たとえば週刊新潮2012年10月11日号の広告を掲載するにあたって、同社系列であるプロ野球チームの監督を務める人物の名を、そのスキャンダルを報じた記事の見出しから削除したりしている。下掲記事にある「言論の自由」に関していえば、同紙の記者で所属を明かしたツイッターアカウントを一時期から見かけなくなった点も気になる。

「原監督が週刊新潮にでた自称愛人を告訴」

(NAVERまとめ2012年10月3日)
http://matome.naver.jp/odai/2134924540782085501

https://pbs.twimg.com/media/BwrIQGWCMAAh8qv.jpg:large

「朝日だけでなく読売も文春も!マスゴミの“自社批判”掲載拒否の歴史」
(LITERA2014年9月6日)
http://lite-ra.com/i/2014/09/post-437-entry.html

「はっきりいって、読売は朝日より自社批判への検閲が厳しい。批判どころか。渡辺会長の“ナベツネ”という言葉を使っただけでもNGをくらいます。読売は今回の池上彰の問題のような、原稿の掲載拒否トラブルもしょっちゅう起こしていますし、朝日と比べものにならないくらい言論の自由はない」(週刊誌関係者)

雑誌ももちろん例外ではない。雑誌、特に独自取材に基づくスクープ記事を多く掲載する週刊誌の世界では、記事に関して名誉毀損等で訴えられることはいわば日常茶飯事だ。出版社はそうしたリスクをコストとしていわば織り込み済みでビジネスをしているわけだが、ここ数年、高額賠償を命ずる判決が相次いで出ており、大きな負担になっているという。これらは誤報によるもの以外も含むが、訴訟の多くを占める名誉毀損において真実性の証明が争点となることが多いことから、誤報のリスクは新聞以上といえるだろう。そして彼らは、そうした誤報が少なからず存在することに対して「これからも臆することなく堂々と報じていきたい、との決意を新たにする」と言明し、むしろ開き直っているのである。

「一連の「名誉毀損判決」に対する私たちの見解」

(社団法人日本雑誌協会2009年4月20日)

http://www.j-magazine.or.jp/opinion_003.html

…雑誌ジャーナリズムのあり方をめぐって、懲罰的ともいえる判断が続出する背景には何があるのでしょうか。これまで出版社、とりわけ週刊誌・月刊誌は、なにものにもとらわれない自由な言論を標榜するジャーナリズムとして、政治家・官僚・財界人などから距離を置き、タブーを恐れず報道してきました。公人や著名人の疑惑や不正、人格を疑うような行為に対しても、敢然と取材をし、真相を読者に伝える、そこにこそ雑誌メディアの存在理由があると信じます。

「集中連載・週刊誌サミット:裁判だけではない……写真週刊誌を追い込む脅威とは?」

(BusinessMedia誠2009年5月26日)

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0905/26/news005.html

「雑誌を殺す裁判所 名誉毀損訴訟という「言論弾圧」」
(選択 2011年3月号)

http://www.sentaku.co.jp/category/culture/post-1537.php

他にも例はいろいろあるがきりがないので以下省略する。いうまでもないが、朝日を擁護するため、あるいは産経や読売を非難するために挙げたのではない。そもそもどの会社がいい悪いという話ではないのだ。今回朝日新聞が批判されているような誤報は、もちろん朝日新聞の責任であり、その影響も大きいが、少なくとも朝日新聞にしか起こりえない話ではない。程度の差、あるいは多少の個別性はあるにせよ、メディアは概ねこの点に関し共通のリスクに直面し、同じ課題を抱えている。朝日新聞だけを批判していても埒が明かないことは確かだ。

今回の慰安婦報道問題を受けて、一部の論者は、「朝日新聞は廃刊せよ」といった過激な主張をしている。誤報そのものやその後の対応に批判されるべき点があるのは事実だが、上の例からわかる通り、どのメディアにも誤報はつきものである以上、誤報のたびにメディアをつぶしていたのでは、日本からメディアがなくなってしまう。そうした極論は単に「そのくらい慰安婦問題は他の問題と比べて重要だ」もしくは「朝日新聞が嫌いだ」といった価値判断あるいは趣味嗜好を表明したものでしかない。

誤報はどのメディアにも起こりうるし、実際起きてきた。今後も起きるだろう。これまでに慰安婦報道に関して朝日新聞が行った検証は充分とはいいがたく、今後も検証が必要であろうとは思うが、より構造的な問題に着目する必要がある。

誤報問題の構造

こうした誤報はなぜ起きるのか、どのようにすれば防げるのかは、メディアの当事者にとって重要な関心事項のはずである。しかしその割には、必ずしも有効な対策がとられているとはいいがたい状況が、今に至るまで続いている。大きな問題が起きるたびに謝罪なり釈明なりが行われ、検証と反省と「二度と再び」の誓いが続くが、しばらくすればまた同じことが繰り返される。過去に学んでいないといいたくなるが、それはやや的外れというものだろう。問題があるとわかっていながら繰り返されるということは、そこに個々の個人や企業の資質や体質を超えた構造上の要因があるとみるべきだ。

誤報についての研究は、少なくとも国内においては、業界関係者による経験談ベースのものや、科学コミュニケーションやリスクコミュニケーションなど特定の文脈を前提としたものなどを除いて、あまり進んでいるとはいえない。誤報が生まれるプロセスを解明するためには、取材現場や編集の現場で実際に何が起きているかを広く深く知らなければならないからかもしれない。

古典的な研究、たとえば小野(1947)では、誤報の原因として、「不十分な調査」「不十分な理解」「予想記事または憶測記事の作製」「雰囲気の影響」「一方的取材」「不確実性の粉飾」などを挙げている。また、萩野(1998)は、「ニュース・ヴァリューを即断しなければならないこと」「逸脱的状況に注目することの恣意性」「主題提示のインパクトが全体の印象を支配すること」「象徴として取り上げられた事象が誇大に受け取られること」「センチメンタリズムの過剰」「大衆の潜在意識的願望への迎合」「叙述の「合理化」によるもう一つの真実の成立」「問題の所在を明らかにしこれをイッシューにする危険」など、メディア単体というより、社会との関係の中から誤報が生まれることに注目している。

これらは誤報が起きるメカニズムを概括的にとらえたものといえようが、こうしたメカニズムがあることを前提として、これにどう対応するかについて、深く掘り下げられているようにはみえない。あまたある論考も、その多くは個別メディアあるいは全体としてのメディアをただ糾弾する、あるいはメディアに関わる個人や企業の資質や心構え、職業倫理や経営姿勢を問うにとどまる。確かに、こうした問題は対処が難しいものではあるが、どうしてこのようになってしまうのだろうか。

ジャーナリズム論は専門ではないが、1ついえることがある。この分野の論考の多くが、誤報を「メディア」や「ジャーナリズム」の範疇でのみとらえているようにみえることだ。

「リスク」としての誤報

メディアやジャーナリズムは、民主主義や表現の自由など、私たちの社会の中できわめて重要とされる価値を守ることに直結している。したがって、報道機関の活動は、たとえ商業メディアとして情報発信を商売としていても、一般のビジネス活動とは異なる、端的にいえばより高い価値をもち、一般のビジネスのように商業性にとらわれてはならないという理想を掲げたより高尚なものであるべきである。そしてそうした重要な仕事を担うジャーナリストは単に高度な専門職というだけでなくいわば聖職であり、したがって他の業種よりも高い倫理や自律の精神が要求される。そういう考え方が、メディアやジャーナリズムを語る際についてまわる。少なくとも部外者たる私にはそうみえる。

しかし、商業メディアによるジャーナリズムがそれ自体ビジネス活動であることはいうまでもない。だとすれば誤報の問題は、ジャーナリズムのあるべき論であると同時に、メディア企業が販売する「商品」としての記事コンテンツの品質に関するリスクマネジメントの問題であるはずである。何度繰り返しても止むことのない誤報の連鎖(繰り返すがこれは朝日新聞に限らない)は、志や倫理でどうにかなる問題ではないし、コストをかけるにも限界があるのは当然のことだ。

それは、コンビニエンスストアのアルバイト従業員がふざけて商品陳列用の冷蔵庫の中に入って遊んだりするリスクや、一流ホテルのレストランのシェフが車海老と称してブラックタイガーを使ったりするリスクに対して、企業がどのように対処するかという問題と、その本質において大きくはちがわない。むしろ、そうした観点からみることが、より有効な対策を考えるために必要なのではないか。

実際、リスクマネジメントの観点からみると、誤報問題はややちがった姿をみせる。たとえば、リスクマネジメントの世界でよくいわれる「ハインリッヒの法則」をとりあげてみよう。これはもともと労働災害の分野でいわれていた「1つの重大災害があるときにはその裏に30件の軽災害があり、さらにその裏には300件の災害寸前の状況(いわゆる「ヒヤリ体験」)がある、とする経験則であり、労働災害に限らず、多くのリスクについて似た現象がみられることが知られている。

ではということで、試しに朝日新聞と読売新聞のデータベースで、誤報の件数を調べてみた。といっても一件一件見ていくわけにはいかないので、実際に彼ら自身が誤報として認めたものを拾っていく。誤報が正されるとき、単純な事実(たいていは固有名詞など)の誤りについては「訂正」、より重大なものについては「おわび」が書き加えられることに着目し、これらのキーワードでヒットする件数を拾ってみたわけだ。過去20年間について調べてみたら、結果は次のようになった。

graph

件数がきわめて似通っていることは興味深いが、それはともかく、両社に同じ傾向がみられることがはっきりわかる。会社の名声に大きな傷がつくような大きな誤報はこれまで数えるほどしかなくとも、「おわび」を余儀なくされる程度の誤報は毎年数十件起きており、さらにそれより軽微な「訂正」「修正記事」といった対応を要する誤報は毎年数百件起きている(会社が認めていない件もあるだろうから、それらを含めるともっと多いかもしれない)。件数やその比にちがいはあるが、ハインリッヒの法則とよく似た事故の階層構造が誤報にもみられるということだ。

リスクマネジメントにおいてハインリッヒの法則のような経験則が注目されるのは、比較的軽微な事故や事故寸前の状況を把握し、それらが起きる原因を取り除くような活動を日常的に行うことが、より大きな事故を防ぐことにつながると考えられるからだ。事故の原因の中にはその規模の大小にかかわらない共通要因が含まれるというだけでなく、めったに起きない大きな事故のリスクを、日々起きる小さな事故やその寸前の現象を把握することによって可視化するという意味合いもある。

もちろん事情がちがう部分はあろうが、同じようなことが誤報にもいえるのではないか。小さな誤報に注意を払い、それらが起きる構造を把握する。心がけや倫理に頼るのではなく、誤報を防ぐためのしくみや体制を作り、それを定期的に見直しながら運用するPDCAサイクルを構築する。一般メーカーがふつうに行っているこうした取り組みが、メディア企業の現場でどれだけ行われているだろうか。

誤報を「あってはならないもの」とする考え方、個人の心がけや倫理の問題とみる考え方からは、こうしたアプローチは出てこない。誤報をタブー視するあまり、実際に発生したらどうするかを真剣に検討してこなかったメディアは、原発事故などありえないと考え、起きた際どうするかを深く考えてこなかった電力会社や政府とよく似ている。同様に、誤報リスクへの対応を現場に任せきりであったメディアは、店舗での混乱を無視して体制を整備せずただ1人で店舗を回すよう指示するばかりであったファストフードチェーンと本質的に変わらない。

メディア環境の変化

企業のリスクマネジメントは、事故などが起きる前だけのものではない。実際に事故が起きれば、緊急時対応、業務継続や企業活動の正常化、風評被害への対応など、事後の一連の対応をも含む。こうした事後対応の分野でメディア企業がしばしばみせる醜態もまた、他業種の企業と大きな差はない。企業組織が人間で構成される以上、そこに働く組織の力学も似通っているから、似通ったことが起きるのはむしろ当然といえる。それを個々の企業体質や個人の資質の問題に帰するのは不毛な議論だ。典型的には以下のようなパターンだ。

(1)自らの誤りは認めたくない

逃れられなくなるまで誤りとは認めない。

過ちが大きければ大きいほど容易には認めない。

批判を受けても握りつぶせると思えば無視する。

(2)誤りと認める範囲は必要最小限にしたい

指摘された部分のみ対応し、そうでない限り黙っている。

可能な限り範囲を小さく限定し、新たな材料が出てきたらそのときはそのとき。

正当化できる部分はできるだけ正当化する。謝罪する際も、批判されている対象そのものではなく「世間をお騒がせしたこと」に対して謝罪する、悪いことをしたとは思わないが「もし傷つけたのであれば」と仮定条件をつけて謝罪するなどの対応をとる。

(3)逃れられなくなったら一転して全面的にひれ伏す

責任者を辞めさせて幕引きをはかる。有効とみれば土下座する。

必要なら第三者組織を立ち上げる。穏当な案が出るよう人選で配慮する。

ひたすら頭を下げて人々の関心が薄れるのを待つ。

たとえば、今回の朝日新聞の慰安婦報道問題でも、当初の検証記事に謝罪のことばがないとして批判を浴びた際、同社社長が社員に対し次のようなメールを送った、と週刊文春が報じている。これは上でいえば(2)の段階に属するだろう。(1)の段階で32年間ひっぱったものの抗しきれなくなっての対応である。そしてさらに批判を浴びた今、(3)に移行したわけだ。

「朝日新聞 木村伊量社長のメール公開」

(週刊文春web2014年9月3日)

http://shukan.bunshun.jp/articles/-/4325

「慰安婦報道検証記事」の余波で揺れる朝日新聞の木村伊量社長(60)が全社員向けに綴ったメールの内容が明らかになった。

(中略)

《「慰安婦問題を世界に広げた諸悪の根源は朝日新聞」といった誤った情報をまき散らし、反朝日キャンペーンを繰り広げる勢力に断じて屈するわけにはいきません》などと記されている。

こうした対応が繰り返されてきた理由のひとつは、このような対応がこれまである程度有効だったということもあろう。しかし、インターネットとソーシャルメディアの発達により、状況は変わりつつある。ポイントは、情報の検証がそれ以前より圧倒的に容易になり、誤報を隠したり、握りつぶしたりすることが以前より難しくなったということだ。上記の朝日新聞の社内メールの例にみるように、内部情報の漏洩もしばしば起きる。そして、電子媒体が日常的に使われるようになったために、コミュニケーションの多くが記録に残され、事後検証可能なものとなってきているのだ。

ネットには、個々の問題について、記者よりも詳しい人、時間をかけて調べられる人が数多くいる。事実と異なる記述、誤解を招く記述は必ず比較され、検証され、糾弾される。少なくともクォリティペーパーを自負する新聞は、目立つ見出しのみで人々の下衆な関心を煽り手に取らせさえすれば目的を達する一部のマスメディアやネットにごまんとあるバイラルメディアのような書き逃げは許されない。そうした外部の目に応えようとしない態度が、ネットで「マスゴミ」などと呼ばれる状況を作り出している一因であることをそろそろ認識すべきだろう。

誤報リスクマネジメントの体制

こうした中で、メディア企業が誤報リスクを低減するために重要なポイントは何であろうか。

誤報自体が発生するプロセスには個別性の高い部分もあるだろうが、少なくとも、誤報が発生した後の対応については、ある程度共通化された知見がある。情報を隠すことなく、外部の検証にさらし、必要な対応をタイムリーに行っていくこと、一連のプロセスへの経営トップのコミットメントを可視化することなどだ。今回の朝日新聞の一件でも、少なくともコラム掲載拒否問題に関して、朝日新聞の記者たちがツイッター上などで会社の方針に異を唱えたことは、事態をいい方向に進めることにつながったように思われる。

池上彰氏コラム掲載拒否 30人超の朝日記者がツイッターで異議

(楊井人文-Yahoo!ニュース個人2014年9月5日)

http://bylines.news.yahoo.co.jp/yanaihitofumi/20140905-00038867/

朝日「池上連載」掲載対応巡り「社内反乱」 現役記者から「はらわた煮えくりかえる」

(J-Castニュース2014年9月3日)

http://www.j-cast.com/2014/09/03214898.html

こうしたツイッター記者たちは、社会に開いた窓として、朝日新聞社内に社会の声を伝え、また朝日新聞社外に社内でも異論があることを伝えた。ネット炎上の多くが、その原因となった要素より、その後の対応の悪さ、あるいは対応の不在によって起きることを考えれば、こうした情報の風穴を作り、日頃からネットユーザーたちと交流を行っておくことは、今後のメディア企業のリスクマネジメントにとっても、大きな意味があるだろう。

報道内容に疑問が持たれた際の検証がなかなか行われないことは、情報流通の速度が爆発的に速まった現在、メディア企業にとってかつてないほどの大きなリスク要因となりうる。その意味では、新聞業界の場合、現在は会社ごとに設置され、会社の求めに応じ会社に対して助言などを行う第三者機関を、業界共通の、一般に開かれた組織にするというのはありうる考え方なのではないか。放送業界では、放送倫理・番組向上機構(BPO)がある。似たような組織を作り、一般からの意見を受け付け、かつ受け付けた意見自体をタイムリーに可視化していくようにしてはどうかということだ。

こうした組織を持つことは、誤報の検証を行うこと以外の面でも意義がある。BPOのウェブサイトを見ると、この組織が何を目的とするかが示されている。

BPOとは

http://www.bpo.gr.jp/?page_id=912

放送における言論・表現の自由を確保しつつ、視聴者の基本的人権を擁護するため、放送への苦情や放送倫理の問題に対応する、第三者の機関です。

主に、視聴者などから問題があると指摘された番組・放送を検証して、放送界全体、あるいは特定の局に意見や見解を伝え、一般にも公表し、放送界の自律と放送の質の向上を促します。

つまりBPOは、視聴者の権利保護とともに、「放送における言論・表現の自由を確保」することを目的としている。こうした組織を作り、業界の自浄作用を高めることで、放送局の表現活動への介入を防ぐことに大きな意義があるということだ。新聞業界も同じだろう。誤報は、それが権力に関係するものであった場合などには、権力の介入を招くリスクをもはらむ。その意味で、特定の会社に偏らず、外部に開かれた第三者機関は、そうした圧力に対する防波堤として、個々のメディア企業にとって、リスクマネジメントの重要なツールの1つとなるのではないか。

ただ、第三者機関だけで充分な検証が行われるとは限らない。こうした組織の調査能力には限界があり、膨大なメディア活動を広範にカバーすることは難しいからだ。その意味で、報道内容の検証は、第一義的にはやはり他のメディアによって行われるべきではないか。複数メディアによる相互検証は、現在も行われてはいるだろうが、必ずしも充分とはいえず、また行われるとしても、不必要にスキャンダラスな取り扱いをするなど、いわば「馬糞の投げ合い」のような罵倒合戦に陥っていることが少なくない。歴史的経緯や業界の体質が関係しているのかもしれないが、これは業界全体にとって、あまりいいことではない。建設的な議論で互いの報道の品質を高め合うことは、報道を業とする企業がその社会的責任の一環として果たすべき仕事であるように思われる。そういうところにこそ企業倫理やら個人の心がけやらを発揮すべきであろう。

最後にもう1点、リスクマネジメントの観点から挙げるとすれば、真相究明と責任追及を切り離すことが必要である。これは、たとえば航空機事故など専門性の高い領域での事故対応では一般的に行われる対応だ。誤報においても、すぐに誰が悪い、誰の責任だといった議論が先行しがちだが、そうした議論が必要となる局面はあるにせよ、まずは事実の解明を優先することが重要だ。警察のような強制権限のない領域では、この2つを混同すれば必ず事実の隠蔽や歪曲が発生する。誤報がより重大なものであればあるほど、そこで何が起きたかの検証は重要であり、したがって、責任追及はいったん切り離しておかなければならない。その意味でも、個別の会社から離れた第三者機関の存在意義は大きい。

誤報はどのメディアにも起きうる。どんなに注意しても必ず起きることを前提として、どうやってその発生確率を減らすか、起きてしまったらどのように対処すればダメージを減らせるかを考える必要がある。そのためには、精神論に頼らずしくみを整備し、定期的に見直していくマネジメントサイクルを運用していくこと、外部の目によるチェックを常に受けていくことが重要である。そうしたリスクマネジメント発想が、信頼を失ったメディアの再生には必要なのではないだろうか。

参考文献

小野秀雄(1947)『新聞原論』東京堂.

萩野弘巳(1998)「誤報とミスリードの諸相」『東海大学教養学部紀要』29, 57-68.

サムネイル「Leftwing newspaper.」MIKI Yoshihito

https://flic.kr/p/6e4FNg

プロフィール

山口浩ファィナンス / 経営学

1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。

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