朝日新聞慰安婦問題とメディアの誤報リスクマネジメント

「リスク」としての誤報

 

メディアやジャーナリズムは、民主主義や表現の自由など、私たちの社会の中できわめて重要とされる価値を守ることに直結している。したがって、報道機関の活動は、たとえ商業メディアとして情報発信を商売としていても、一般のビジネス活動とは異なる、端的にいえばより高い価値をもち、一般のビジネスのように商業性にとらわれてはならないという理想を掲げたより高尚なものであるべきである。そしてそうした重要な仕事を担うジャーナリストは単に高度な専門職というだけでなくいわば聖職であり、したがって他の業種よりも高い倫理や自律の精神が要求される。そういう考え方が、メディアやジャーナリズムを語る際についてまわる。少なくとも部外者たる私にはそうみえる。

 

しかし、商業メディアによるジャーナリズムがそれ自体ビジネス活動であることはいうまでもない。だとすれば誤報の問題は、ジャーナリズムのあるべき論であると同時に、メディア企業が販売する「商品」としての記事コンテンツの品質に関するリスクマネジメントの問題であるはずである。何度繰り返しても止むことのない誤報の連鎖(繰り返すがこれは朝日新聞に限らない)は、志や倫理でどうにかなる問題ではないし、コストをかけるにも限界があるのは当然のことだ。

 

それは、コンビニエンスストアのアルバイト従業員がふざけて商品陳列用の冷蔵庫の中に入って遊んだりするリスクや、一流ホテルのレストランのシェフが車海老と称してブラックタイガーを使ったりするリスクに対して、企業がどのように対処するかという問題と、その本質において大きくはちがわない。むしろ、そうした観点からみることが、より有効な対策を考えるために必要なのではないか。

 

実際、リスクマネジメントの観点からみると、誤報問題はややちがった姿をみせる。たとえば、リスクマネジメントの世界でよくいわれる「ハインリッヒの法則」をとりあげてみよう。これはもともと労働災害の分野でいわれていた「1つの重大災害があるときにはその裏に30件の軽災害があり、さらにその裏には300件の災害寸前の状況(いわゆる「ヒヤリ体験」)がある、とする経験則であり、労働災害に限らず、多くのリスクについて似た現象がみられることが知られている。

 

ではということで、試しに朝日新聞と読売新聞のデータベースで、誤報の件数を調べてみた。といっても一件一件見ていくわけにはいかないので、実際に彼ら自身が誤報として認めたものを拾っていく。誤報が正されるとき、単純な事実(たいていは固有名詞など)の誤りについては「訂正」、より重大なものについては「おわび」が書き加えられることに着目し、これらのキーワードでヒットする件数を拾ってみたわけだ。過去20年間について調べてみたら、結果は次のようになった。

 

 

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件数がきわめて似通っていることは興味深いが、それはともかく、両社に同じ傾向がみられることがはっきりわかる。会社の名声に大きな傷がつくような大きな誤報はこれまで数えるほどしかなくとも、「おわび」を余儀なくされる程度の誤報は毎年数十件起きており、さらにそれより軽微な「訂正」「修正記事」といった対応を要する誤報は毎年数百件起きている(会社が認めていない件もあるだろうから、それらを含めるともっと多いかもしれない)。件数やその比にちがいはあるが、ハインリッヒの法則とよく似た事故の階層構造が誤報にもみられるということだ。

 

リスクマネジメントにおいてハインリッヒの法則のような経験則が注目されるのは、比較的軽微な事故や事故寸前の状況を把握し、それらが起きる原因を取り除くような活動を日常的に行うことが、より大きな事故を防ぐことにつながると考えられるからだ。事故の原因の中にはその規模の大小にかかわらない共通要因が含まれるというだけでなく、めったに起きない大きな事故のリスクを、日々起きる小さな事故やその寸前の現象を把握することによって可視化するという意味合いもある。

 

もちろん事情がちがう部分はあろうが、同じようなことが誤報にもいえるのではないか。小さな誤報に注意を払い、それらが起きる構造を把握する。心がけや倫理に頼るのではなく、誤報を防ぐためのしくみや体制を作り、それを定期的に見直しながら運用するPDCAサイクルを構築する。一般メーカーがふつうに行っているこうした取り組みが、メディア企業の現場でどれだけ行われているだろうか。

 

誤報を「あってはならないもの」とする考え方、個人の心がけや倫理の問題とみる考え方からは、こうしたアプローチは出てこない。誤報をタブー視するあまり、実際に発生したらどうするかを真剣に検討してこなかったメディアは、原発事故などありえないと考え、起きた際どうするかを深く考えてこなかった電力会社や政府とよく似ている。同様に、誤報リスクへの対応を現場に任せきりであったメディアは、店舗での混乱を無視して体制を整備せずただ1人で店舗を回すよう指示するばかりであったファストフードチェーンと本質的に変わらない。

 

 

メディア環境の変化

 

企業のリスクマネジメントは、事故などが起きる前だけのものではない。実際に事故が起きれば、緊急時対応、業務継続や企業活動の正常化、風評被害への対応など、事後の一連の対応をも含む。こうした事後対応の分野でメディア企業がしばしばみせる醜態もまた、他業種の企業と大きな差はない。企業組織が人間で構成される以上、そこに働く組織の力学も似通っているから、似通ったことが起きるのはむしろ当然といえる。それを個々の企業体質や個人の資質の問題に帰するのは不毛な議論だ。典型的には以下のようなパターンだ。

 

 

(1)自らの誤りは認めたくない

逃れられなくなるまで誤りとは認めない。

過ちが大きければ大きいほど容易には認めない。

批判を受けても握りつぶせると思えば無視する。

 

(2)誤りと認める範囲は必要最小限にしたい

指摘された部分のみ対応し、そうでない限り黙っている。

可能な限り範囲を小さく限定し、新たな材料が出てきたらそのときはそのとき。

正当化できる部分はできるだけ正当化する。謝罪する際も、批判されている対象そのものではなく「世間をお騒がせしたこと」に対して謝罪する、悪いことをしたとは思わないが「もし傷つけたのであれば」と仮定条件をつけて謝罪するなどの対応をとる。

 

(3)逃れられなくなったら一転して全面的にひれ伏す

責任者を辞めさせて幕引きをはかる。有効とみれば土下座する。

必要なら第三者組織を立ち上げる。穏当な案が出るよう人選で配慮する。

ひたすら頭を下げて人々の関心が薄れるのを待つ。

 

たとえば、今回の朝日新聞の慰安婦報道問題でも、当初の検証記事に謝罪のことばがないとして批判を浴びた際、同社社長が社員に対し次のようなメールを送った、と週刊文春が報じている。これは上でいえば(2)の段階に属するだろう。(1)の段階で32年間ひっぱったものの抗しきれなくなっての対応である。そしてさらに批判を浴びた今、(3)に移行したわけだ。

 

 

「朝日新聞 木村伊量社長のメール公開」

(週刊文春web2014年9月3日)

http://shukan.bunshun.jp/articles/-/4325

 

「慰安婦報道検証記事」の余波で揺れる朝日新聞の木村伊量社長(60)が全社員向けに綴ったメールの内容が明らかになった。

(中略)

《「慰安婦問題を世界に広げた諸悪の根源は朝日新聞」といった誤った情報をまき散らし、反朝日キャンペーンを繰り広げる勢力に断じて屈するわけにはいきません》などと記されている。

 

 

こうした対応が繰り返されてきた理由のひとつは、このような対応がこれまである程度有効だったということもあろう。しかし、インターネットとソーシャルメディアの発達により、状況は変わりつつある。ポイントは、情報の検証がそれ以前より圧倒的に容易になり、誤報を隠したり、握りつぶしたりすることが以前より難しくなったということだ。上記の朝日新聞の社内メールの例にみるように、内部情報の漏洩もしばしば起きる。そして、電子媒体が日常的に使われるようになったために、コミュニケーションの多くが記録に残され、事後検証可能なものとなってきているのだ。

 

ネットには、個々の問題について、記者よりも詳しい人、時間をかけて調べられる人が数多くいる。事実と異なる記述、誤解を招く記述は必ず比較され、検証され、糾弾される。少なくともクォリティペーパーを自負する新聞は、目立つ見出しのみで人々の下衆な関心を煽り手に取らせさえすれば目的を達する一部のマスメディアやネットにごまんとあるバイラルメディアのような書き逃げは許されない。そうした外部の目に応えようとしない態度が、ネットで「マスゴミ」などと呼ばれる状況を作り出している一因であることをそろそろ認識すべきだろう。

 

 

誤報リスクマネジメントの体制

 

こうした中で、メディア企業が誤報リスクを低減するために重要なポイントは何であろうか。

 

誤報自体が発生するプロセスには個別性の高い部分もあるだろうが、少なくとも、誤報が発生した後の対応については、ある程度共通化された知見がある。情報を隠すことなく、外部の検証にさらし、必要な対応をタイムリーに行っていくこと、一連のプロセスへの経営トップのコミットメントを可視化することなどだ。今回の朝日新聞の一件でも、少なくともコラム掲載拒否問題に関して、朝日新聞の記者たちがツイッター上などで会社の方針に異を唱えたことは、事態をいい方向に進めることにつながったように思われる。

 

 

池上彰氏コラム掲載拒否 30人超の朝日記者がツイッターで異議

(楊井人文-Yahoo!ニュース個人2014年9月5日)

http://bylines.news.yahoo.co.jp/yanaihitofumi/20140905-00038867/

 

朝日「池上連載」掲載対応巡り「社内反乱」 現役記者から「はらわた煮えくりかえる」

(J-Castニュース2014年9月3日)

http://www.j-cast.com/2014/09/03214898.html

 

 

こうしたツイッター記者たちは、社会に開いた窓として、朝日新聞社内に社会の声を伝え、また朝日新聞社外に社内でも異論があることを伝えた。ネット炎上の多くが、その原因となった要素より、その後の対応の悪さ、あるいは対応の不在によって起きることを考えれば、こうした情報の風穴を作り、日頃からネットユーザーたちと交流を行っておくことは、今後のメディア企業のリスクマネジメントにとっても、大きな意味があるだろう。

 

報道内容に疑問が持たれた際の検証がなかなか行われないことは、情報流通の速度が爆発的に速まった現在、メディア企業にとってかつてないほどの大きなリスク要因となりうる。その意味では、新聞業界の場合、現在は会社ごとに設置され、会社の求めに応じ会社に対して助言などを行う第三者機関を、業界共通の、一般に開かれた組織にするというのはありうる考え方なのではないか。放送業界では、放送倫理・番組向上機構(BPO)がある。似たような組織を作り、一般からの意見を受け付け、かつ受け付けた意見自体をタイムリーに可視化していくようにしてはどうかということだ。

 

こうした組織を持つことは、誤報の検証を行うこと以外の面でも意義がある。BPOのウェブサイトを見ると、この組織が何を目的とするかが示されている。

 

 

BPOとは

http://www.bpo.gr.jp/?page_id=912

 

放送における言論・表現の自由を確保しつつ、視聴者の基本的人権を擁護するため、放送への苦情や放送倫理の問題に対応する、第三者の機関です。

主に、視聴者などから問題があると指摘された番組・放送を検証して、放送界全体、あるいは特定の局に意見や見解を伝え、一般にも公表し、放送界の自律と放送の質の向上を促します。

 

 

つまりBPOは、視聴者の権利保護とともに、「放送における言論・表現の自由を確保」することを目的としている。こうした組織を作り、業界の自浄作用を高めることで、放送局の表現活動への介入を防ぐことに大きな意義があるということだ。新聞業界も同じだろう。誤報は、それが権力に関係するものであった場合などには、権力の介入を招くリスクをもはらむ。その意味で、特定の会社に偏らず、外部に開かれた第三者機関は、そうした圧力に対する防波堤として、個々のメディア企業にとって、リスクマネジメントの重要なツールの1つとなるのではないか。

 

ただ、第三者機関だけで充分な検証が行われるとは限らない。こうした組織の調査能力には限界があり、膨大なメディア活動を広範にカバーすることは難しいからだ。その意味で、報道内容の検証は、第一義的にはやはり他のメディアによって行われるべきではないか。複数メディアによる相互検証は、現在も行われてはいるだろうが、必ずしも充分とはいえず、また行われるとしても、不必要にスキャンダラスな取り扱いをするなど、いわば「馬糞の投げ合い」のような罵倒合戦に陥っていることが少なくない。歴史的経緯や業界の体質が関係しているのかもしれないが、これは業界全体にとって、あまりいいことではない。建設的な議論で互いの報道の品質を高め合うことは、報道を業とする企業がその社会的責任の一環として果たすべき仕事であるように思われる。そういうところにこそ企業倫理やら個人の心がけやらを発揮すべきであろう。

 

最後にもう1点、リスクマネジメントの観点から挙げるとすれば、真相究明と責任追及を切り離すことが必要である。これは、たとえば航空機事故など専門性の高い領域での事故対応では一般的に行われる対応だ。誤報においても、すぐに誰が悪い、誰の責任だといった議論が先行しがちだが、そうした議論が必要となる局面はあるにせよ、まずは事実の解明を優先することが重要だ。警察のような強制権限のない領域では、この2つを混同すれば必ず事実の隠蔽や歪曲が発生する。誤報がより重大なものであればあるほど、そこで何が起きたかの検証は重要であり、したがって、責任追及はいったん切り離しておかなければならない。その意味でも、個別の会社から離れた第三者機関の存在意義は大きい。

 

誤報はどのメディアにも起きうる。どんなに注意しても必ず起きることを前提として、どうやってその発生確率を減らすか、起きてしまったらどのように対処すればダメージを減らせるかを考える必要がある。そのためには、精神論に頼らずしくみを整備し、定期的に見直していくマネジメントサイクルを運用していくこと、外部の目によるチェックを常に受けていくことが重要である。そうしたリスクマネジメント発想が、信頼を失ったメディアの再生には必要なのではないだろうか。

 

 

参考文献

 

小野秀雄(1947)『新聞原論』東京堂.

萩野弘巳(1998)「誤報とミスリードの諸相」『東海大学教養学部紀要』29, 57-68.

 

サムネイル「Leftwing newspaper.」MIKI Yoshihito

https://flic.kr/p/6e4FNg

 

 

 

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