演じることにはすでに批評行為が含まれている

1960年代、「早稲田小劇場」で日本の演劇の潮流を変え、1976年に富山県利賀村に移ってからは、世界とダイレクトに結び合いながら活動してきた鈴木忠志氏。今夏に開催された第1回利賀アジア芸術祭には、国内のみならず世界各国から観客が訪れた。『シラノ・ド・ベルジュラック』のクライマックスで、夜の野外劇場を花火が彩る。『からたち日記由来』では、語りの力が、合掌造りの劇場につめかけた観客を異世界へと連れていく。はじめて訪れる者にとっては、こんな山深い村にこんな空間が?!と驚くような体験だ。幻想的な夜が明け、静けさを取り戻した利賀村で、「演劇と力」をめぐって話を聞いた。(聞き手・構成/島﨑今日子)

 

 

雪深い山奥の村に世界から人が集まる理由

 

―― 利賀村に来たのははじめてです。合掌造りの劇場も見られたし、来てよかったです。

 

今年の利賀アジア芸術祭には、18カ国から150人が参加したんです。俺の訓練(スズキ・トレーニング・メソッド、独自の俳優訓練法)を習うために、アルゼンチンやブラジル、スペインから来てる人もいて、外人だらけ。政治家や文化人も来て語りあっているが、その現場に若い連中が参加している。こんなとこ他にないんだよ、日本に。

 

 

―― 早稲田小劇場旗揚げ10年目の1976年に、稽古場の契約が切れたのを機にここ利賀村へ。世界から喝采を浴びたあとに、あえて東京から離れたこの土地に劇団の拠点を移されたのはなぜだったのでしょう?

 

俺の演劇を見てくれているのは外国の人のほうが多い。世界へ出たときに、この人たちに対抗するためには、ある演劇の質、水準を維持しないといけないと考えたんだ。スポーツ選手だって、強化合宿して質を高めるでしょ。東京にずっといたいという演劇人はダメだよ。

 

俺が芝居をやったのは、日本を変えたい、この現状を変えたい、自分が変わりたいと思ったからやってるわけだ。演劇をやってるつもりはなく、社会事業をやってるつもりなんだ。ここだって、今(演劇祭期間中)はにぎやかだけど、劇団員は稽古がなきゃ家族のいる東京とかに戻るし、実際ここに住んでる人はもう500人。しかも65歳以上が多数だから、何年後かに滅んでしまう。日本人が捨てちゃっているから、なんとかしなきゃいけない。今はそういう使命でやっている。

 

 

―― ブログには、何度も逃げ出しそうになったと書いてありますが。

 

気持ちはそうだよ。つらいんだよ。このへん、民家ないし、冬には雪が3メートル積もるから、毎朝、除雪しなきゃいけない。水道が凍ると、お湯を沸かして水道管にかけたり。身体の調子が悪いときなんかは耐えられないよ。女房と二人でしょ。こないだ、韓国で公演してたら、女房から「台風がきて、怖いよ」って電話がかかってきた(笑)。誰もいないし、熊が出るんだよ。

 

 

―― 立て看板ありました、熊に注意って。鈴木さんは、1970年代からスズキ・トレーニング・メソッドを創作し、世界中の大学で演技指導するなど、常々、「自分は日本の演劇界を向いてやってない」とおっしゃってます。

 

そうだよ。ここでは、優秀な演出家や劇団が作品を作ったり、世界と仲良くすることを、日本人がマネージしているんだよ。東大だって留学生を誘致するのに苦労する時代に、文化・芸術の領域でこんなことが起こってるのは奇跡的なことだ。SCOTの舞台では、アメリカ人でもドイツ人でも、母国語で主役を演じることができるんだ。今、イタリア人とアメリカ人の演出家が、30人の外国人にスズキ・トレーニング・メソッドを教えてるよ。

 

 

―― なぜスズキ・トレーニング・メソッドを作られたのか、世界の演劇人が共有できる共通言語が必要だったと理解しました。ただ舞台を見ると、緊張度の高いスズキ・トレーニング・メソッドに、役者が奉仕してるように見えてしまう。

 

当たり前だよ。スズキ・トレーニング・メソッドは世界的なインパクトを持っていて、みんな、鈴木忠志の理念や理想に共鳴するからここに来てるんだよ。「演技が似てる」と批判する批評家がいるが、違う演技をされたら困る。好き嫌いはあっていいよ。でも、能を見て「役者たちに個性がない」なんて言わないでしょ。「なんで宝塚はみな同じなのか」なんて言わないでしょ。

 

 

―― 鈴木さんが舞台芸術家と名乗っておられるわけは、そこにある?

 

そう、だからSUZUKI STYLEなんだよ。SUZUKI STYLEに興味がなきゃやらなきゃいい、見なきゃいいだけの話です。世界的には、一つのスタイルをきちっと持たない演劇は、説得力もないんだよ。

 

 

鈴木忠志氏

鈴木忠志氏

 

 

芸術家になりたかったし、それが健全な生き方だと思ってた

 

―― そういうスタイルがどう築かれていったかをお聞きしたいと思うのですが、ご実家は静岡県清水市の材木問屋ですね。四人きょうだいの次男坊で、家には西洋と東洋、戦前と戦後が混在していたとか。

 

神棚と仏壇がある変な家だった。父方のおじいさんは義太夫の師匠。姉貴は雑誌「世界」をとったりして岩波文化に憧れてた。戦後のあのころはみんな、ヨーロッパの進歩的なものに憧れていた。仏教や神道は封建時代の文化だっていってね。俺も小学生のときに正座させられてじいさんの義太夫を聞かされるんだけど、足をくずすと煙管でポカンと頭を叩かれた。ニッポンは嫌だと思ったよ。

 

 

―― そこが、鈴木さんの原点ですよね。

 

そう、分裂している。はははは、ま、単純化すればの話です。

 

 

―― 早くから演劇少年だったんですか。

 

芸術家に憧れていた。小学校、中学校のころは詩ばかり読んでいた。島崎藤村に萩原朔太郎。一方で、学校には行かず、みんなを集めては山に行って、木を切ってうちを作ったり。うん、そのころから親分をやっていた。

 

 

―― 中3のとき、単身東京へ。地方の素封家の子息として将来を期待されたから?

 

親とケンカばかりしていたから、先生たちがこの子は早くどこかへやったほうがいいという意見だったんだ。清水駅を汽車で出るときに、先生とクラスの生徒全員が駅で見送ってくれた。ちょっと珍しいことではあったのかな。まあ、俺がヘンな風に優秀だったってことはあるんじゃない(笑)。

 

 

―― その優秀な鈴木少年は東京で勉学に励まれたのでしょうか。

 

そんなわけないじゃないか(笑)。学校は嫌いなんだから。王子の飛鳥中学に入って、近くに下宿したんだけれど、まわりは東大や早稲田や慶應の大学生ばかり。「お前も一緒にこい」と、下北沢の飲み屋とかいろんなところへ連れていかれた。

 

高校は都立北園高校に行ったけど、同級生はみんな東京都民だから、孤独なもんなんだよ。授業にも出ないでずっと図書館で片っ端から本を読んでいた。フロベール、モーパッサン、ボードレール、ランボー。今だってそのときの知識で生きてるようなもの。代返がバレて、退学処分になりそうになったこともある。チェーホフの小説を読んだらおもしろくて、次に戯曲を読んだんだけど、そうしたら、わかんないんだよ。はっきりしたストーリーがないから。この難解な戯曲をどういうふうに演(や)るんだろうと興味を持ち、演劇博物館があって、演劇が盛んだという早稲田へ入ったんだ。

 

 

―― 東大を目指してたんじゃないんですか。

 

遊んでいたいんだから、大学なんか行きたくはないんだよ。芸術家になりたかったし、それが健全な生き方だって俺は思ってた。早稲田を落ちれば遊んでればいいと思ったよ。みんな、二股三股かけて受験するけど、浪人してまで大学に入る、そういうふうに、何かの準備のために人生を使うのはダメだと思っていたよね。

 

 

―― 名言です。では、なぜ政治経済学部へ。

 

文学部に入ると親が心配するから、しょうがなかった。義太夫のおじいさんが芸者狂いするのを見てるから、息子が文学や芝居やるなんてもうとんでもない、ふつうに一流企業に入ってほしいわけ。親を安心させるための方便というか、親孝行。そこは、俺は偉いんだよ。でも政治経済の授業には出ないで、卒業までの6年間、芝居ばかりやっていた。【次ページにつづく】

 

 

合掌造りの劇場、「新利賀山房」

合掌造りの劇場、「新利賀山房」

 

内部は、三方から囲み見ることのできる、能舞台に近いつくりになっている。『リア王』の一場面

内部は、三方から囲み見ることのできる、能舞台に近いつくりになっている。『リア王』の一場面

 

 

 

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