「もうひとつの沖縄戦後史」最終回――洞窟の生と死

電子マガジン「αシノドス」にて10回にわたり連載していた「もうひとつの沖縄戦後史」が、最終回を迎えた。貧困、スラム、売春、犯罪……。1960年前後の「沖縄タイムス」の記事から、戦後沖縄の知られざる側面を鋭く切り取る。α-Synodos vol.160より最終回を転載。

 

     *  *  *

 

これまで、1960年前後の『沖縄タイムス』の記事を大量に引用・再構成し、リゾートや伝統文化や基地問題だけではない沖縄、貧困と暴力の沖縄、犯罪と売春の沖縄、スラムと経済成長の沖縄について描いてきた。この連載も今回でいちおうの最終回である。初回からここまでの話をざっとふりかえってみよう。

 

まず第1回めでは、同棲相手の女性を殺してその乳房を切り取ったという凄惨な事件を取り上げ、その背景にある戦後の沖縄社会の特質を描いた。

 

もうひとつの沖縄戦後史──「オッパイ殺人事件」と経済成長

 

この回では、たったひとつの事件の記事を取り上げたが、連載2回め以降では、それぞれのテーマに関する記事を大量に引用し、ただそれを並べるというスタイルで書いてきた。

 

第2回めは、那覇を中心に急激に拡大するスラムと、都市の不衛生の記事を引用した。スラムだけではなく沖縄のいたるところで大量の害虫が発生し、ゴミがあふれ、腐敗し、ドブ川は汚染され、学校の教室や映画館のシートからはノミやダニが発見された。飲食店は不潔で、ゴミ捨て場からは悪臭がただよい、ゴミを焼却する黒煙が周辺の住宅地を悩ましていた。そんななか、当時の西銘順治那覇市長(復帰後の沖縄県知事)がスラム対策にのり出し、現地を視察する。その直後、そのスラムで大火事が発生する。

 

第3回と第4回では、沖縄の子どもたちの「受難と抵抗」について語った。グロテスクな「胎児焼却場事件」の記事からはじまり、貧困と急激な都市化のなかでおきざりにされた子どもたちを描いた。放置された子どもたちは、あるときは盛り場の「ガム売り」になり、売春し、そして墓地や洞窟に自分たちだけの基地をつくって、窃盗や強盗や「桃色遊戯」をしながらたくましく生活していた。

 

戦後のベビーブームで爆発的に増えた若年層の犯罪や逸脱に対処するために、1960年になってようやく本格的な少年院が建設されたのだが、完成直後に暴動が発生し、40名以上の少年たちがいちどに脱走し、沖縄中に散らばって逃走してしまう。そしてそのうちのひとりは、強奪した車ごと崖下に転落して重体になる。まるで映画のようなこの脱走劇の顛末は、当時のタイムスでも詳しく報道されている。

 

第5回では、「ユタ」とイルカ漁を題材に、沖縄の近代化について考えた。戦後の「生活改善運動」のなかで、現在では伝統文化の一部としてよく紹介されているユタ(民間の巫女)は、前近代的な悪弊として批判の的になり、その廃絶すら叫ばれていた。一方で、現在はあまりおおっぴらに語られることのなくなった名護のイルカ漁の祝祭的な様子が大々的に新聞で報じられ、「湾内の海水はみるみるうちに鮮血に染まり」などと表現されていた。

 

第6回と7回のテーマは「沖縄の共同体」である。沖縄は地縁血縁のつながりの濃い、共同体的社会であるとよくいわれる。しかし、人のつながりの濃いところでは、また憎悪や怒りも増幅する。貧しい家族の母親が自らの9歳の娘をまな板に乗せ首を切り落とした事件の記事から始まり、日常的なつながりのなかで暴発する暴力を描いた。最後に、リンチ殺人をおこした村の青年会を「かばう」区長の談話を引用し、法よりも強い共同体の「論理」について議論した。

 

8回めは「売春と人身売買」、9回めは「売春街と『都市の生態系』」である。貧困と都市化によって、沖縄では兵相手だけでなく、地元社会に根付いたものとして売春がひろがっていた。戦後の沖縄では各地に盛り場と一体化した「売春街」が形成されていったのである。そしてそのいくつかはいまでも、「ディープな沖縄」として残っている。こうした「ディープなもの」が、どのような「生態系」のなかから発生したのかについて考えた。

 

さて、この最終回では、当時の沖縄社会を考えるうえでもっとも重要な「貧困」についての記事を列挙しよう。いつも通り、今回もまたかなりの長文になる。

 

 

     *  *  *

 

これまで何度も繰り返し書いているが、戦後の沖縄は空前の好景気で、いくらでも仕事があり、那覇の街は活気にわいていて、人びとは戦前には考えられなかったような消費生活を享受していた。

 

しかしまた同時に、そこには巨大な貧困があり、排除された人びとが、路上や海岸の洞窟、山中の小屋、そしてスラム街に吹き寄せられ、集まっていた。米民政府の統制のもとで、琉球政府による社会保障の整備も遅れていた。

 

当時の沖縄では(日本もそれほどかわりなかっただろうが)、社会保障の制度化はまったく進んでおらず、基本的には生活上の困難は、市民が自力でなんとかするほかなかった。公的なセーフティネットの不在は、おそらく人びとの直接の横のつながりを強めると同時に、市民のあいだに「自治の感覚」を育てることになっただろう。

 

沖縄人の規範として、社会学者の谷富夫は「家族主義」「相互主義(共同体主義)」「自力主義」をあげている。要するにそれは、自分で何とかしないといけない状況であり、お上には頼れない社会ということである。頼るべきものは、家族や地域の共同体か、あるいは完全な自力しかなかった。

 

悲惨な沖縄戦によっていちど社会全体が解体し、そのあと長年にわたる米軍支配のなかで、沖縄の生活は一方では捨て置かれ、また同時に、行政権力の監視から逃れていた。私たちの目にいま「沖縄的なもの」としてうつるさまざまな慣習や文化や規範、特に「共同体主義」と「自治の感覚」は、この時代に形成されたものなのかもしれない。

 

 

     *  *  *

 

沖縄の社会保障の貧しさは、以下の「精神病者」に関する新聞記事から窺い知ることができる。その記事の内容もだが、まずはその「文体」に注目すべきである。ここではあえて差別的な表現も含めて引用するが、精神障害に対するその偏見に満ちた表現は、そのまま当時の沖縄社会における「弱者」の扱われ方を表しているのである。

 

 

野放しの精神病者/増える病者の危害

非監置が何と八百人/精神衛生法案の調整急ぐ

 

社会局公衆衛生課では、このほど精神衛生法案をまとめたが、今月中に局内調整をおえ、さらに[米]民政府との調整をはかって、開会中の議会に立法勧告することになっている。沖縄では年々精神障害者がふえ、その業者から受ける危害も多くなっているといわれるが、その予防措置に対する法律がないため野放し状態になっている。精神衛生法の立法化は住民の要望であり、果たして議会を通過するかどうか注目される。

 

本土では[昭和]二十五年五月精神衛生法が制定され、この法律によって精神障害者に対する適正な医療保護がほどこされるとともに国民の精神的健康の保持と向上が図られている。ところが沖縄においては旧法である精神病者監置法が施行されているだけで、基本的な人権尊重の立場から何らの予防措置もなく無法状態となっている。このため精神病者はふえる一方で、治療可能の患者も悪化する傾向にあり、その精神病者から受ける危害が多くなっているようだ。現にさる一月上旬、那覇市安謝区で精神障害者が出刃包丁で傷を負わせたという殺人未遂事件や、中部で婦女子を襲い、暴れて手がつけられず、警察が保護留置したケースもあり、次第に目立っている。……沖縄には唯一の施設として[琉球]政府立金武精神病院があるが、そこでは治療可能の患者に限られており、悪化したものや治療見込みのない者は収容されておらず、これら精神病者のほとんどが野放しにされているというのが現状である。この不幸な精神障害者の保護対策のためにもまた沖縄全住民の精神的健康の保持と向上のためにも早急に精神衛生法を立法化してもらいたいとの声が強い。

[1959.2.13]

 

 

気違い天国?の沖縄/凶悪犯罪ふえる/カロニア号のお客もびっくり

 

沖縄は気違い天国? これはさる三日あさ那覇港に立ち寄った世界一周豪華客船カロニア号=三四、一八三トン=の一部乗客の目に映った沖縄の印象。とくに那覇の目抜き通り“国際通り”にたむろする精神異常者にはいやな思いをしたという。精神異常者の野放しはこれまでたびたびとりあげられながら改善されず現在にいたったもの。さいきんは異常者による凶悪事件もひんぴん、外来者に不潔感を与えるだけでなく治安をおびやかす存在になりつつあるようだ。

 

警察に出入りする精神異常者は近年ふえる一方。那覇署では、この三月間に三十五人保護した。一月に十二人の割。保護理由は、家族の願い出、無銭飲食かっぱらい、乱暴とさまざま、なかでも通行人や商売人に物を乞い断られると乱暴するという悪質な行為がふえる傾向。これなど精神異常者なるが故に刑事責任を免れたものでまともな人であれば刑法犯に問われるところ。警察ざたになった凶悪事件も多い。主なものを拾ってみると…

 

▽五七年二月四日、那覇市小禄A(三二)が、長男(六才)を近所の墓地に連れだしバンドで絞殺した。妻ににげられた失意と腹いせの犯行。▽五八年一月二日、三和村字真壁T(三二)が、近所の○○○○さん、○○○○さん方の住宅二むねに火をつけ、区民を騒がした。▽同八月二十一日、今帰仁村崎山Yは自宅に放火。瓦ぶき木造平家住宅=十三・二平方メートルを家財道具とも焼き、百ドルの損害。夫婦げんかの腹立ちが動機。▽同十一月二十二日、今帰仁村字天底I(五〇)が隣家の主婦(五二)を捕猪用のやりで刺し殺した。日ごろから仲が悪いのを思いつめ犯行に及んだもの。

 

ことしに入ってからは、二月下旬宜野湾村大山M(三一)が、小学校一年生の長男の頭をおので割り重傷をおわした。ちょっとした口論からおのをふりかざして妻をおいまわし仲に入った長男にまで乱暴したもの。

 

通行中いきなりいきなりなぐられたとか、店先を荒されたという事件にならぬ事件の訴えは後を絶たない。そればかりか精神異常者同士でところかまわずふざけるなど、風紀を乱すおそれもあるようだ。

 

こういう精神異常者の警察での保護は、酔払いなみに二十四時間、釈放すると他人に危害を加えるおそれのある場合は、判事の令状に基いてひきつづき五日間。その後は市町村長に引渡す仕組み。実際には、一日やっかいになって釈放。またまいもどる精神異常者に警察陣は泣かされ通し。いまのままだと惨事をくり返すおそれが多分にあるとみている。

[1959.4.7]

 

 

一読してわかるように、この記事からはまず、戦後の沖縄で、精神障害者に対する社会的ケアの手段がほとんど何もない状態だったことが明らかになる。そしてさらに、より重要なことは、貧困や社会的ストレスから暴発する暴力事件の多くが、「精神病」によるものであると解釈されていたことである。二つめの記事で列挙されている事例は、どれも、現在の目からみると精神障害とはまったく関連がないようにもみえる。

 

少年犯罪についての回などでも述べたが、当時の沖縄社会では、急激な経済成長と都市化がもたらすさまざまな社会問題が、「少年」や「精神病者」などの「他者」へと帰属させられていた。そうした「他者」的存在は、沖縄の社会から排除されていたのである。

 

 

隣り近所で助け合い/不遇な貧困者を見まもる

 

十九日ひる那覇署は、那覇市一区○班無職○○○○さん(四二)を生活無能力者として那覇市役所に連絡、生活扶助を申し入れた。同署の調べによると、○○さんは戦前熊本県から沖縄に転籍、この戦争で家族を失った一人暮らし、二年前失職していらい希望ガ丘の仮小屋に定住、市内の各パチンコ店をかけめぐってこぼれた玉をひろい集めて金にかえ、一日五円から十円のどん底暮らし、こういうみじめな生活がたたり身体は弱る一方、パチンコ店での玉拾いにもたえられずこのところのまずくわずで寝たっきり、近所の人が気づいたときは死をまつばかりの状態だったといわれ警察に訴出たもの。市の方で面倒をみるまでは付近の人がかわりばんこに世話するという。

[1958.8.20]

 

 

救済ことわって死ぬ/あばらや家暮しの○○さん

 

他人の世話になってまで生きる必要はない。ときっぱり市役所の生活扶助を拒み、死んだ孤独の老人がいる。さる五月三十日よる九時すぎ、栄養失調で死んだ那覇市六区○組○○○○さん(六三)がそれ。

 

那覇署の調べによると、○○さんは五五年のころから両足の自由がきなかくなり家で寝たっきり。その家も広さは三・三平方メートル足らず、軒は傾き屋根から月がさしこむというテント張りのあばら家。面倒を見る人もなく、近所の子どもたちに買物を頼み、食べ物はすべてナマのままといったひどい暮し。昨年からことしにかけ何回となく受持巡査から本署へ救護要請の申報[ママ]がだされた。ところが昨年末、那覇署からの連絡で実情調査にきた市役所吏員に○○さんはきっぱり救済を断ったという。「若いころに貯めた金がまだ幾分残っている。たとえ金は使いはたしても他人のやっかいになってまで生きのびようとは思わない」といって断った。その○○さんがさる三十日ぽっくり死んだ。死因は栄養失調による衰弱死。のまずくわずの生活がたたったものとみられている。救済をうけるのを○○さんがいやがってもこのままでは命にかかわる、と受持巡査から本署への何度目かの報告で市役所が救護にのりだした直後のことだったという。

[1959.6.5]

 

 

はじめの記事中にある「希望ヶ丘」は、現在の桜坂や壺屋、牧志に隣接する、静かな高台の公園である。いつも観光客で賑わう那覇の街のなかにある、この野良猫の楽園のような公園には、誰も知らない物語があったのだ。戦前に熊本から沖縄に移住したというのは、当時としては非常に稀なケースだっただろう。彼がどのような人生を送って希望ヶ丘のバラックに至り、そしてそのあごどのような人生を送ったかを知るすべはまったくない。

 

もちろん、琉球政府もただこのような状態を放置していたわけではなく、徐々にだが生活保護などの制度がつくられていったこともまた事実である。

 

 

暗い人生よさよなら/更生ものがたり二題

成功した生業・医療扶助

 

暗い日々を送っていた身体障害者が生活保護によって希望を見出し明るい人生へ再出発することになった。これはコザ福祉事務所石川市駐在が取扱った“更生ものがたり”二題である。

 

(その一)石川市三区○班○○○○さん(四三)は、十五才のとき製糖機に左手首をはさまれて不具の身になってしまった。事情があって長男(一五)、長女(一二)それに母の△△さん(七八)をつれて夫と別れているが、不幸にも△△さんは右目を失眼した。現金収入は全くなくなり、○○さんは、日雇いに出て毎日の生活を維持しつづけたが、長くは続かず、生活は、極度の困苦にさいなまされた。ニッチもサッチもいかなくなった○○さんは、五四年二月生活扶助をコザ福祉事務所からうけた。五七年六月に入ってからこんどは生業扶助費をもらい、生後二ヵ月の仔豚を飼い、生活の建て直しに励んだ長男の手助けをかり、また飼料は隣近所の残パンをもらいうけて育てあげた仔豚は、昨年十一月二百斤までに肥り、八千円で石川屠場に出し、更生の道を立派に切り開いてみた。今、二度目の仔豚を買い入れているが、○○さんは、豚を売り上げたとき早速“自分達はもう生活の目途がついたのでこれ迄の生活扶助は停止して下さい”と自ら断って来ている。コザ福祉事務所□□社会福祉主事は「最初義手によって更生させ様としたが使い慣れず、とうていだめだった。それで生業扶助で試みたところ○○さんの独力で生きようという真剣さが実って今度は見事に生活の見通しがついてやりがいがあったとよろこんでいる」と語っている。

 

(その二)○○○○さん(四六)=石川市山城区○班=は、幼少のころから目が悪かったが、五〇年二月ごろ完全失明状態にまでなって、自分自身再起不能とあきらめていた。この事情を知った△△主事は医療扶助の手続きをとってやり早速市内の専門医に診せに行かせた。視力は、まだ生きているとの診断で手術治療を施したところ、日に日に快方にむかい、1ヵ月後には、両眼とも完全にもとの健康な眼になって、これまで人手をかりて用足しに行っていたのが一人で何不自由なくトットとやることができるようになり、小踊りしてよろこんだ。その後○○さんは、山城、伊波部落で出来たお茶を市内に運び出し、帰りはうどんかんづめ、米など日曜食品を持ち帰ってこれを部落民に売るといった行商で生計をたてている。昨年春には、結婚してこれまでの無味乾燥な独身生活ともサヨウナラした。

○○さんは「治らないと思っていた眼が、立派に治って何不自由なく働けます」とよろこんでいる。

[1958.1.30]

 

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