「もうひとつの沖縄戦後史」最終回――洞窟の生と死

     *  *  *

 

当時の沖縄の貧困層が、いったいどれくらい貧しかったのか。行政による総合的な実態調査もほとんど存在せず、その全貌を知ることは非常に難しい。

 

ただ、以下に引用するように、きわめて簡単に家族が崩壊し、子どもや老人たちが捨てられている状況をみると、たとえ域内総生産が年率10%もの割合で成長していたとしても、やはり沖縄社会のそこここに、深刻な貧しさが残っていたことは確かなようだ。

 

 

四姉妹へ保護の手/“ご飯さえあればいいの”

 

那覇署は那覇市三区○組○○○子ちゃん(一〇)ら四人姉弟を保護、児童相談所に引渡した。この四人姉弟は両親に見捨てられここ二月あまりその日その日の食事にもことかくというどん底暮し。上の二人は学校へもいけず下の二人は栄養失調気味、どうにかしてくれと近所の人から那覇署に連絡があったもの。警察にひきとられた幼い姉弟は、“ご飯があるんだったらお父ちゃん、お母ちゃんはいらない”といっていた。

[1958.11.25]

 

 

いまもあるオバ捨山/山羊小屋に住む母

“哀れな生れ…”と目頭おさえる

 

美里村松本区○班○○○○さんは今年九十六歳、六人の子供から、四人死んで残ったのは五男の△△(六二)と六女A子さん。△△の先妻は十九年もまえに二人のこどもをのこして病死、その後すぐ現在のS子さん(四六)を迎えた。S子さんとの間に四人のこどもができた。

 

ところが△△は大の酒飲み、他人の土地約千坪を借り、キビ、イモ、野菜を植えているが、朝から晩まで酒びたりで、人を雇って耕作させ、たまにしか畑仕事をしない状態。金は酒代に注ぎ込み、借金は雪だるま式にふえていった。S子さんの話では五百ドルはあるとのこと。酔うと、こどもたちやS子さんを殴ったりのし放題、S子さんは何回となく警察に保護を願出たという。またS子さんは別れようと実家の金武村に帰ると、△△が来て大暴れ、家財道具をこわすようである。二日も金武から帰ったS子さんを殴ったりしたのでコザ署に訴え出た。調べてみると△△の実母○○さんは昨年の九月ごろから、一枚のござを敷いてその上に寝起きしていた。足も悪く歩けない。そばには二頭の山羊がおり入口はウンとかがんではいれる位。戸ビラもなくて、冷たい風が吹き込み、○○さんは二枚の着物を身につけて、寒さをしのいできた。○○さんは「長男が生きておれば、こんなあわれはしないのに…」と、目頭をおさえた。

 

コザ署では△△を尊属遺棄の疑いで捕えた○○捜査課長、○○係長らが現場にとんで調べたが、食事(イモ)は与えていることなどから遺棄になるかどうか迷っていたが、○○さんを本家に入れることを△△に訓戒するものとみられる。

[1959.2.5]

 

 

すてられた三人の子…石川/お母ちゃん早く帰って

祖母がくず鉄拾って飢えしのぐ

 

児童福祉週間にそむき「三人の幼い子供を残して家出した母親」がいる。年老いた祖母が六日あさ石川社会福祉事務所に「この子らの母親を捜してください」と、泣きこんできた。

 

石川市五区○班○○○○さん(六九)がその人で、娘の△△△△さん(三二)が二か月前、中学校二年の長男○○君(一四)小学校五年生長女○○ちゃん(一二)、小校二年○○ちゃん(八才)の三人の子供を祖母のカミさんにあずけたまま家をとびだしまだ帰ってこない。このままではかわいい孫を育てることができないと、福祉司に実情を訴えている。○○さんは、福祉司のすすめで警察にも捜さく願いをだした。○○さんはこれまで精神病者の息子□□さん(二九)と生活扶助をうけているが、さらに三人の孫たちをあずけられてどうしようかと路頭に迷っている。□□さんは六年前北谷の軍作業で働いていたとき車から落ち頭を打って精神異常をきたし、さいきんでは狂暴性[ママ]をおび○○さんを殴るなど暴行している。このまま同居していたのでは、いつ子供たちを殴るかわからないというのでひそかに八区○班に孫をつれて隠れたが、息子が見つけておいかけてきた。母親さえ見つかれば早く引渡して子供たちも安心させたいと涙をこぼして語る○○さんは、五月五日の子供の日には三人の子供たちに遠足のおべんとうをつくってやるお金もなく、一日中スクラップや空かんをひろって二十五セントにかえ、カマボコや赤いご飯をたいておべんとうをつくった。

 

隣人の◎◎◎◎さん(四九)は、「子供たちが遠足というのでおいしいおべんとうをつくってあげようと○○さんが、老身にむちうって一日中スクラップ拾いをしているのを見ると気の毒でならない。息子がときたま暴れだすといつも逃げてきている」と語っている。

 

○○さんの話

 

はじめはすぐ帰ると思っていたが、二か月たってもまだ帰ってこないので恥をしのんで福祉事務所に訴えた。子供の日にはおかあさんがいてくれば…と○○[小2の孫]は母のことばかり話しています。新聞を見て早く帰ってきてくれればいいのに…

[1959.5.7]

※注 小2(8才)の孫の名前はアメリカ風のもの

 

 

父ちゃん早く帰って/二人の子置きざり

三か月も帰らぬ/“働きに”と出たまま

 

「お父ちゃんは山原に行って働いてくるから…」と子どもたちに言い残したまま三か月もたつというのに父親は帰ってこない。家主のコザ市山里区○班Bさん(二四)から、さる十日ごろ間借人コザ市山里区○班Aさん(三四)の捜索願いがコザ署に出されているが、いまだに消息はわからない。置きざりにされた長男Cちゃん(一三)小学四年と次男Dちゃん(九才)の二人は“お父さん早く家に帰ってきてちょうだい”と父親をさがし求めている。

 

Aさんの親子三人が、コザ市山里区○班Bさんの家に間借りしたのはさる四月下旬、Aさんは隣近所ともあまり口をきかなかったので、どこから引っこしてきたかわからないという。自動車の修理工をしていたということだが、さる八月ごろ家主になんのことづけもなしに子どもたちだけを置きざりにしたまま家をとびだしてしまった。しばらくしてCちゃん兄弟が「家のお父ちゃんはまだ帰ってこない…」と家主のBさんに泣きついてきて、はじめてAさんがいなくなっていることがわかった。Cちゃん兄弟は、隣近所の人たちがいろいろと世話をみる一方、あちこちと心あたりをさがしてみたが、Aさんの行く先はつかめず、Cちゃんらのおじさんにあたるというコザ市室川区○班Eさん(四六)に問い合わせてみたが、立ち寄ってない、心配した家主のBさんとEさんは、さっそく警察に捜索願いを出した。

 

Cちゃんらは、おじさんのEさんのところに引きとってもらうことにしたが、Eさんは八人家族で、それに家がせまいためあとしばらくCちゃんの間借り先で寝泊まりしてもらい食事や身のまわりはEさんがみることにした。現在Cちゃんら兄弟は、山里区の間借り先で二人で寝泊まりをして父親の帰るのを待っている。

 

Eさんの話

 

Cちゃんらの母親は、次男のDちゃんが生後六か月ごろAと離婚してその後の消息はわからない。Aが家をとびだしたということは子どもたちから聞いてはじめて知った。山原に行って働いてくるといっていたようだが、山原には親せきもなく心あたりはない。Aはふだんまじめな方で、あまり酒ものまなかった。四、五年前南大東から帰り那覇やコザで修理工をして働いていた。こんなことはいままでになかった。早く帰ってきてほしい。

[1961.11.22]

 

 

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戦後の沖縄社会には、行政権力の監視を逃れる「隙間」がそこらじゅうに存在していたが、少年や精神病者、あるいは貧者などの「他者」たちは、さらにそこからも排除され、山中、空き地、草原、洞窟、路上、そしてスラムの片隅などに居場所を見出していた(第4回め「子どもたちの叛乱」参照)。

 

ある人びとは洞窟に捨てられ、また自ら死を選んで洞窟にこもり、そして行き場を失って洞窟へと流れ着いた。次に引用する記事の、最初のふたつにある「波之上旭ガ丘」「波上北側崖下」は、現在の「波之上ビーチ」のことである。

 

那覇の西北の街外れに、「波之上ビーチ」という小さな、ほんとうに小さな海水浴場がある。国際通りからすぐに行けるビーチとして、観光客だけでなく、地元の若者でも賑わっている。ただ、このビーチの目の前には巨大な自動車道路が2本も通っていて、眺めは最悪だ。

 

だが、やはり那覇の身近なビーチとして、シーズンオフでも、そこを散歩する観光客や、ビーチバレーをする地元の高校生で、いつも賑やかである。

 

第2回めで、60年ごろのこの波之上ビーチがいかに汚く不衛生な場所だったという記事を取り上げた。もういちど引用しよう。

 

 

海面に浮かぶ汚物はタバコの箱、ビールビン、ぼう切れ、紙くず、竹切れなどで、チリ捨て場のようです。中には、ネコ、犬、ネズミなどの死骸も浮いていることもあるそうです。このような汚物は一度沖に流してもまた波によって海岸にうち上げられるのでやっかいです。また海水浴場で一番危険なものはビンのカケラ、空カンなどです。これによってケガをする人もいると、子どもたちは話していました。

 

名護高校H君の話/海はいいとしてもプールはひどいですよ、掃除をしているといっても中の水はにごってノリが浮いているのですからね、ちょっとプールでは泳ぐ気になれませんよ。汚物が多いのは右に泊港、左に那覇港があるためではないでしょうか。

(1960.7.14)

 

 

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現在の、眺めは悪いがおだやかで美しい波之上とは思えない風景である。

 

この波之上ビーチには、石灰質の岩でできた高台があって、その崖の上に、琉球八社のひとつに数えられる「波上宮」(なみのうえぐう)という小さな神社がある。沖縄では神社は珍しいが、いくつかある神社のなかではここはもっとも格式が高い。

 

そのあたりは、ビーチから急にそびえたつ岩山の崖がたくさんある。石灰岩のそうした岩山には、しばしば鍾乳洞のような洞穴ができていることがある。沖縄戦のときに住民が多数批難し、米軍と日本軍による虐殺や集団自決が起きたのも、多くはこのガマのなかだった。

 

戦地となった糸満や読谷、あるいは記事中に出てくる波之上に限らず、沖縄の海辺にはこうした洞窟が多数存在した。それらは戦時には住民たちの避難所となり、戦後には、社会から排除された人びとの避難所、あるいは「最期の場所」になっていたのである。【次ページにつづく】

 

 

 

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