「もうひとつの沖縄戦後史」最終回――洞窟の生と死

洞窟に忍びよる死の影/波之上/旭が丘で二人目の悲劇

 

二日未明五時ごろ、那覇市波之上旭ガ丘の洞窟住いをしている住所不定無職○○○○さん(二九)が病死した。

 

付近の話によると、○○さんは、三月程前から洞窟住い、その間肺結核を患って寝たっきり、紙屑拾いの収入で生計をたてている同居人、△△△△さん(五一)の世話になっていたもの。

 

これまで何度となく市役所や警察へ救護するよう連絡したが取合ってもらえずこの悲劇となった、と同居人の△△さんはなげく、こういうケースは前にもあった。□□□□さん(五六)といい、市役所が腰をあげ赤十字病院に入院手続きをとったときはすでに手遅れ、浮浪の精神異常者に見まもられて息を引き取ったという。行路病人の悲劇はこれで二度目とあって付近の人々は、社会問題として逆境にあえぐ薄幸な人々の救護強化を望んでいる。

 

同居人△△△△さんの話

 

これまで何度となく警察や市役所に連絡したが取合ってくれない、三週間程前やっと社会課の方がみえ赤十字病院で診断の結果、肺結核と分ったが収容施設がないとの理由で洞窟にもどってきた。何べんとなく無駄足を踏み苦労が報いられた、と思うとこの始末だ。なんとかならぬものか。

 

西武門[にしんじょう]交番の話

 

訴えのある度に本署を通じて市役所へ連絡している、決して見殺しにはしていない、とかく行路病人というのは市町村役所の主管だ、警察は実情を通報するのが職分、○○さんの場合も何度となく文書で報告した。

 

那覇市社会課長◎◎◎◎さんの話

 

○○さんのことは警察からの連絡で知った。早速係をおくり、三週間前診断もした。ところが収容施設がないため具志川村にいた妹に身柄を引渡した。話によるとその後二人とも勤め先を追い出され、真和志市三原にいる叔父の元に移ったと聞いていたがどうしてまた洞窟に戻ったのか分らない、○○君の場合は身寄りもいるのだから家族が面倒を見るべきだ、社会課で取扱う行路病人にも該当しない。だが私としてはできるだけの手はうった。

[1957.12.1]

 

 

救われたおばあさん/死の直前から

福祉事務所や市職員の世話で

 

那覇福祉事務所と那覇市役所の親身の世話で死線を脱して更生の道を見出した一老母の明るい話がある。

 

名護町宮城区○班○号○○○○さん(六〇)は生きる望みも失いまた持病の頭痛も高じてさる八月ごろ波上北側崖下の壕内二十五米奥で断食して死を待っていた。その月の二十六日にそれを知った那覇署から那覇市役所に連絡があり早速救急車で赤十字病院に入院させた。そのときは強度の栄養失調で骨と皮ばかり、言語障害を起しすでに死の直前だった。それから二ヵ月余の手厚い看護と那覇市役所と福祉事務所のあたたかい心づかいにすっかり元気をとり戻した○○さんは昭和八年ごろ離婚して若狭町の嫁ぎ先からでて不幸な人生がはじまった。戦後名護から那覇に来て転々とし、落着きのない生活をしていた。そうしているうちに生きる気力も失い人手をわずらわさないよう壕で死ぬことを決意したという。

 

入院するときに丸坊主にされた髪もいまはすこしのび顔色もよくなり、二ヵ月前のおばあさんとはどうしても思えないと係の市役所社会課の△△△△氏は語っている。市役所が繰返し支弁した費用はざっと百六十ドル。

 

○○さんは身寄りもいないので福祉事務所と相談して近く更生園[ママ。本来は「厚生園」]に送る準備を進めている。

 

○○さんの話 ひどい頭痛に六年前から悩まされていますが、こんな苦しい思いをするよりは一層[ママ]死んだ方がよいと壕の中で断食しました。だされたときはどうしていらないことをしてくれたかと腹立たしく思いましたが、元気になったいまでは生きてほんとによかったと市役所や福祉事務所の人びとに感謝しています。まだ少々頭は重いですが、更生園に行って静かに生活したいと考えています。

[1958.11.12]

 

 

岩穴の中で野宿生活/よるべのない○○じいさん

 

各家庭では今年もよいお盆を迎えようと、おそなえ物などに大わらわである。ところがここに、あたたかい家庭にも恵まれず、日々の食べ物にもありつけない放浪の生活を送っている孤独な老人がいる。那覇市楚辺俗称フチサー森の岩穴に住んでいる○○○○(七一)がその人。○○さんは那覇市西新町の生まれで、戦前ハシケの仕事をして人並みの生活をしていたという。六人兄弟(女二人)の四男であるが、二十一歳のころ両親を失い、兄弟も一人のこらず死んでしまった。妻は二年ほど前、病気でなくなり、ひとり娘もとついでしまった。それいらい一人ぼっちの生活がはじまった。戦後はライカム [琉球米軍司令部 (Ryukyu Command headquarters) ] でカーペンター(大工)をしたり、那覇市衛生課に働いていたが年をとるにつれて働けなくなった。最近まで石川市の妻の実家でほそぼそと暮していたが、さる三月謝刈に住んでいる娘をたずねて家をとび出した。ところが娘の家もすでに子供三人ができて精いっぱいの生活、○○さんの世話には手が回らない。○○さんは「私が世話になると負担が重くなる」とすぐ娘の家を飛び出た。それからが放浪のはじまりである。六月に現在住んでいる岩穴を見つけ、自分で板切れを集め床をしき雨もりの中で暮らすようになった。それまでは足にまかせてさすがいの野宿生活をしていた。今は鉄クズを集めてスクラップ屋に売ったり、貝を取って市場で売ったりして生活のカテにしている。そのかせぎは多いときで一日二、三十セント程度。

 

暴風雨とか体の調子の思わしくないときは、ミソを半斤位買ってきて水にうすめ、食べている。ひどいときはミソとなま水で十八日間を過ごしたそうだ。○○さんは、素直な人柄で隣り近所からのうけもよい。朝早く水をもらいに行くときは、にぎりめしをいただいたり、お茶にさそわれてよもやま話にふけるときもある。茶のみ話ではきまって昔の思い出を語っている。ただ寂しいのは三人の孫を見られないということで、謝刈までの往復二十六セントのバス賃がなくがまんしているという。

 

○○さんの話

 

私は年ではありますが、まだまだなんとかやって行けると思います。たよりになる身うちがなくて、仕方なく野宿生活をしている。娘も生活に追われているのでやっかいになりたくない。つらいこともあるが一人暮らしも楽しいものです。夜はローソク代がなくて暗いのが悩みです。

[1960.9.3]

 

 

○○さんに愛の手ぞくぞく/感謝の涙ぽろぽろ

婦人や少年、外人からも

 

よるべなく、岩穴の中で野宿生活をつづけている孤独な老人(既報)に同情が集まり、ぞくぞく贈り物が本社に届けられている。

 

三日あさ本紙朝刊で、那覇市楚辺通称フチサー森の岩穴に住んでいる○○○○さんに贈ってほしいと、一婦人から現金三ドルが届けられた。この婦人は名前を聞かれても「名のるほどのことは…」と、つげずに出ていった。本社では早速○○じいさんをたずね金を手渡したが、じいさんは「見知らぬ方からそのような大金をいただくとは…」涙を流して感激していた。またひるには自分のこづかいをためた金で買ったと、ローソク一袋と五十セントを届けた一少女、ソーメン、ソーセージ、ローソクを届けた無名の婦人、衣類と金二ドルを届けた楚辺二中前の△△△△さんなど、方々から同情が寄せられている。本社ではきょう四日あさ、これらの贈り物を○○さんに届ける。

 

なお三日ひる二時ごろ外人夫妻が○○さんをたずね、夏ものワイシャツ五枚、オーバー一枚、カン詰め、コンロ(小型)などを贈り、○○さんを勇気づけた。

[1960.9.4]

 

 

旅路の果てにほら穴暮し/三十年も“人間脱出”

厚生園に温かくひきとられる

 

美里村明道の俗称“山岳”で、戦前からこれまで約三十年も洞穴生活をつづけていた老人が、コザ福祉事務所のはからいで十六日、那覇市首里の厚生園にあたたかく迎えられた。ひとりぼっちで、だれにも迷惑をかけず、一般社会と没交渉で山に暮したこの老人は過去の生活について一切話そうとしない。「何が老人をそうさせたのだろうか……」

 

さる七月二十五日の十八号台風で、“山岳”に山くずれが起きたとき、この老人は落ちてきた石にうたれ、左足骨折の大ケガをした。通りがかりの農夫がみつけてコザ病院に入れ、行路病人として約三か月治療したが、戦前から“山岳”の洞穴に住んでいた、ということで、肝心の身元はサッパリわからない。何を聞いても「ハイ、イイエ」というだけで、要領をえなかった。世話したコザ福祉事務所や病院側でもいろいろ調べたがやはりダメ。

 

ところが、さる九日、キズもなおって元気になった本人が、はじめて自分の名前を名のり、勝連村平安名○○、○○○○さん(六四)とハッキリした。勝連村役所に問いあわせると、戸籍名簿にチャンと名があり、老人を知っているという部落民もいた。

 

いっぽう厚生園でも指導員の△△△△さんらが勝連まで出かけてしらべた。これらの結果をまとめると大体次の通りになる。

 

○○さんは幼いころ両親を失った。兄弟は四人いたが、兄は大阪でなくなり、妹の一人は幼死、もう一人の妹は消息が知れない。いま身寄りとしてはオイ(兄の子供)だけで、このオイとも音信不通。むこうは○○さんが死んだものと思い、一昨年大阪から帰郷したとき、○○さんの法事をすませたという。小学校四年まででて、十四、五歳までは日雇い仕事などをしていたらしい。その後盗みの疑いで刑務所へ入った。釈放されると、一たん平安名にかえったが、ある日プイと出ていったきり、行くえをくらました。美里村の四十代の人々が小学校時代に○○さんの姿を洞穴でみるようになったとのことで、部落民は○○さんを“山岳フラー” [フラーは「ばかもの」の意味] と呼んでいた。物乞いをしたり、部落民がもってきてくれる食べものなどで今日まで生きのびてきたようだ。

 

厚生園でも○○さんの口は重い。○○園長らが何か聞き出そうとしても本人は「ウーサイ」 [目上の人に対する丁寧な返事] と頭を深く下げるだけ。身のまわり品はコザ病院でくれた衣類とツエが一つ。オドオドした態度で人がきらいらしく、人の視線からすぐ目をそらす。そうかといって悪い印象はあたえない。厚生園でタオルをかえてやろうとしたら「キタないからさわらない方がいいでしょう」とことわったともいう。

 

○○さんにたいしてまわりの人たちはもっと早く救済の道を考えてやるべきではなかったか、という批判の声もあるが、いっぽうその過去について、つぎのように推理する関係者もいる。(1)○○さんはどうみても善良だ。過去三十年の山の生活で、女子どもにイラズラしたり、悪いことは一つもやってない。こういうことから若いころ盗みを働いた、ということは案外無実の罰ではなかったろうか(2)罰がはれて部落にかえったとき、村八分の扱いをうけたので、気の弱い本人はいたたまれなくなり、飛びだしたと思われる。あれやこれやで一種の恐怖症になり、山へ入ったのではないか。

[1961.11.18]

 

 

     *  *  *

 

さて、これで戦後の「もうひとつの沖縄」を描いてきたこの連載も終了である。繰り返しになるが、ここで紹介した『沖縄タイムス』の記事は、ほんとうにごく一部の断片的なものでしかなく、その取り上げ方も恣意的なものだが、それでも私たちがもつ沖縄のイメージのいくつかをくつがえすことはできたと思う。

 

     *  *  *

 

 

最後に、お知らせを。この連載は、戦後沖縄の経済成長や人口増加に関する概説、あらたな章、全体のまとめと解説などの書き下ろし部分を加えたうえで、共和国(という名前の出版社)から、来夏には刊行される予定です。

 

 

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街の人生

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作者岸 政彦

発行勁草書房

発売日2014年5月31日

カテゴリー単行本

ページ数306

ISBN4326653876

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